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「キミって、本当にお馬鹿さん」
「…………」

苦しそうに肩で息をする彼は、とうとう俯いて髪で視界を閉ざす。
──あれから今に至るまで、何度同じことを繰り返してきたのだろうか。もう数える気力すらなかった。立ち上がっては倒され、踏ん張っては転がされ。しかし、彼は膝をつく度すぐに立ち上がり、鋭い眼光で睨み返しては抵抗を繰り返してきた。

それが今。初めて下を向き、大木の根本に寄り掛かりながら座り込んでいる。
これが何を意味しているのか。……当然"彼"は分かっていた。
なぜならば、ずっとこの時を待っていたからだ。

「はあ。やっと、やっと退屈な時間が終わるよ。キミ、弱いくせにしぶといんだもんなあ」

氷で出来たナイフを両手に構え、座ったままの彼に向かって投げ放つ。
先ほどまでは避けられていたナイフが、全て綺麗にその身体に刺さってゆく。それがまた楽しくて、"彼"はクスクス笑いながら期待を一層膨らませる。
やっと屈服させた達成感に溺れる手前、足取り軽く彼の元へ向かう"彼"。

「ねえ見てよ、ワタクシたちの血も赤色なんだよ!」
「…………」
「ほら、もうワタクシたちは抜け殻なんかじゃないんだよ。記憶、感情、感覚、力。もう少しでぜーんぶ元通りさ。……っあはは!こんなにも嬉しいこと、今までにあった?ないよね?ねえ?」

蒼白い腕を貫通したナイフを掴み、そのまま右左へと回転させる。その度に肉が斬れる音、行き場を失った血液がぐちゃぐちゃに掻き回されて泡沫になる音が耳を刺激する。ナイフを通して自身の身体へと伝わる。
──それはまるで新しい玩具を手にした子どものように、彼は恍惚の表情を浮かべては飽きるまでそれを何度も繰り返していた。

「痛いよね、苦しいよね。もう嫌でしょう?そうでしょう?」

血の海に佇む"彼"が、真っ赤に染まったその手で彼の青白い手を掬いあげた。
そうしてその爪の間に刃先を差し込み、焦らすように力を加えて斜めへと持ちあげる。根の部分だけ付いたまま反り上がる爪からぷくりと血が出る姿が、"彼"の目にはとても面白く映っている。続いて二枚、三枚と同じように剥がしてゆく。

「ほら、泣けよ。喚け、叫べ!」

どこまで痛めつければ彼は泣き叫び、自身に許しを乞うのか。
彼はただ、それが知りたいだけだった。

「…………」

──しかし、彼は呻き声すらあげてはくれない。
そんな姿に次第に好奇心も薄れてきて、"彼は"つまらなそうに彼の首に手をかけると、力任せに押し倒す。そうして空いている片手でナイフを握り、切っ先を喉の端にぷつりと刺した。
……灰色の髪が流れ、二人の視線がぶつかった。
瞬間、"彼"はやっと分かってニヤリと笑みを浮かべた。

「ああ、そっか。声を出したくても出せないのかあ。あは、あはは。肺も喉もワタクシがぐちゃぐちゃにしちゃったんだった」
「"今頃気付いたのか。これだから馬鹿は困るぜ"」

彼が血を吐きながら口だけを動かしては煽るように笑みを浮かべる。
それに"彼"は僅かに笑みを消してから、ナイフを首に刺す。

「……まあ、何と言われようと、どうでもいいけど。それにこれから楽しいことがたくさんあるからね!」

そういうと刺したナイフを思い切り引き抜きながら立ち上がり、顔に付いた返り血を手の甲で拭いながら"彼"は彼を見下ろしては、ひとり嬉しそうに笑う。

「キミもおやすみ、おやすみだよ」
「…………──、」

ぱきん。……氷塊が、血の海に現れた。
瞬間。その空間が弾け散った。それを眺めながら、"彼"は喜びと感動で身体を震え上がらせる。彼の精神を飲み込んだ瞬間。

「やっと、……っやっと!ワタクシだけの身体を手に入れた!嬉しい、嬉しい!あは、あはは!!」

誰もいない、森の中。
歓喜の声はどこまでも響く。どこまでも、どこまでも。





精神世界だからといって、全く痛みがないわけではなかった。
むしろ、普通に肉体へ攻撃されるよりも激しい痛みが走っていた。しかも、ここでは"死"という概念がない。精神が壊れなければ、首を切り落とされようが心臓を刺されようが、しばらくすればまた元通りになっていた。
だからこそ、ここまで何度も足掻き続けていたわけだが。

(……おっさんに捕まってから、ろくなことがひとつもねえ)

走馬灯のように、つい最近の過去がふっと脳裏に浮かぶ。
──彼が思い出したのは、船内でのことだった。
暗い部屋に閉じ込められ、力を抑える鎖を巻かれた。妙な電波で精神的にも脆くされ、もう散々だった。

(一年、──……いや、二年、か。
 …………もう、いいか)

一瞬の諦めが、終わりへの時間を急激に早める。
ガラガラと何かが崩れて行くのが自分でも分かっていた。止めようがない崩壊への道が続く。


"キューたん、何してるの?"
"……ごめんなさい、気付けなくて"
"仲間だもん。もちろん、"

「…………」

最期に見る顔が自分自身だなんて反吐が出る。

(そういえば、──助けに来るって、言っていたよな)

ぼんやりと、彼女の言葉を思い出していた。霞んでいく視界に、フッと彼女の顔を思い出しては自分自身に呆れて笑ってしまう。

「キミもおやすみ、おやすみだよ」
「…………──、」

急激に冷えていく身体と消えていく痛みに、ついに終わりを感じた。
パキパキと氷に全身が覆われていく。……落ちていく、消えていく。

(…………)

最期でも。
信じることはできないが、期待ぐらいはさせてくれ。


──助けてくれよ、なあ、ひより。



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