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旅に出よう。そう決めたのはいいものの、目の前に立ちはだかる大きな壁をぶち破っていかなければならない。
一日出かけるだけでもそれはもう大変な苦労をしたというのに、今度は旅をしたいとあのお殿様に言ったら何をさせられるだろうか。殺す勢いでかかってこい、とか本気で言われそうだから怖いところだ。

そうして悶々としながら眠りにつき、翌朝重たい足を引き摺るように動かして殿の部屋へ向かった。さきほど朝食を終えたばかりだから確実に起きているはずなのに、襖の前で何度呼んでもうんともすんとも言わない。聞こえているのに聞こえていないフリをしているのは確かだろう。

「……どうしよっか」
「入りましょう」

即答だった。勢いよく襖を開けると颯爽と中へ入るココちゃんに度肝を抜かれる。……こうなってしまっては私ももう後には引けない。覚悟を決め、私も早足でココちゃんの後に続いて殿のもとへと歩みを進める。

「全く、あれほど騒がずとも聞こえているというのに」

欠伸をしながら座椅子にふんぞり返る殿の前。いつもならこの時点で機嫌を損ねているのに、今日は気だるそうに扇子をひらひらと動かしているだけ。飛んでくるであろう扇子に備えて構えていたのに、何だか拍子抜けだ。

「聞こえているなら返事ぐらいしなさいよ」
「面倒だ」

返事をするのも面倒だというのか、このお殿様は。……いやしかし、今日はお願いにやってきたのだ。ここはいつも以上に下手に出なければ。
殿を睨むココちゃんをなだめつつ手前で正座をすると、殿は扇子を閉じて懐に仕舞っていた。この様子だと、もう勘付いているのかも。

「殿、私、」
「"勝手にどこへでも行くが良い"、と言ったはずだが」

頬杖をつきながら退屈そうな表情を浮かべる。……てっきり前のように猛反対をされるかと思っていたのに。

「なら明日にでも出ましょう、ひより」
「そ、そうだね!」

殿があっさりしているならば好都合だ。
私たちはできるだけ急がなければならない。グレアに早く追いつけるよう、実は反対されても行けるようにすでに旅支度は大方できている。前回のこともあるし殿には申し訳ないという気持ちも、もちろん少しはある。だけど、これだけは譲れない。

そうしてココちゃんが笑顔でさっと立ちあがり、私に手を差し伸べる。それを握って立ちあがると、ふと、ギシリと座椅子の軋む音が鳴る。

「まだわっちは行って良いとは一言も言ってないぞ、小娘共」
「は、はい?」
「話は最後まで聞くものだ、たわけ」

……一番話を聞かない人に言われても。なんて思いながらも、ココちゃんと顔を見合わせてから再び畳の上へ静かに座る。何を言われるのだろう。そわそわしている私の様子を、殿は楽しそうに見ている。本当に性格が悪い。

「なんだ、男に二言はないぞ。勝手に旅をすればよい。うるさいのがいなくなって清々する」
「なら、どうして今、」
「わっちから主らに良いものをやろうと思ったのだが……そうか、いらぬのか。そうかそうか。ならばよい、もう行け」

そういうと、殿はわざとらしく表情を残念そうな表情を作りながら私たちからそっと顔をそむけてみせる。
以前、ほんの少しだけ聞いた話。殿もトレーナーと仲間と旅をしながらジムを巡っていたらしい。……その殿が良いものというものならば、きっと旅で大変役立つようなものに違いない。いや、そうではなくても貰えるものは貰っておきたい。
ということで。

「いります……!是非、頂きます!」

思惑通り、といったように端正な顔が妖しくにやりと歪み、それを隠すようにゆるりと扇子が動く。……私、間違えたかな。若干笑顔を引きつらせながら、「少し待っていろ」と部屋から出ていく殿の背を見送る。あの妖しい笑みも気になるけれど、一体何がもらえるのだろうか。

──それからほんの少し経った後。
遠のいた足音が再び近づいてきて、襖がサッと開いた。……この時、増えた足音には気付いていたけれど……まさか、これが渡されるものだとは全く思ってもみなかった。
だって。

「わっちからの祝いの品だ。喜んで受け取るが良い」
「…………はい?」

私たちの目の前に放り出された、エプロン姿の美玖さん。
そう、彼こそが殿からの"祝いの品"だったのだ。





事情を聞いて、ようやくこれがどのような状況なのか理解した。
……掃除の途中で突然殿がやってきたと思ったら、オレの手首にリボンを巻いて「来い」というから何かと思えば……。
ひよりたちにリボンを見せながら「洒落ているであろう?」なんてニヤニヤしているこの殿様は、本当にどうしようもない。

「……悪いけど、少し殿と話をさせてくれないかな」
「もちろんです……!」

気を遣って足早に部屋から出ていくひよりと心音さんを見送ってから、殿を座椅子に座らせ、その正面で正座する。彼女たちの驚く反応を見れたことが嬉しかったのか、未だ扇子で口元を隠しているが目が笑っているから丸わかりだ。

「殿、どういうことですか?」
「なんだ、気に食わぬのかや?」
「当たり前です!」

何事もないように答える殿の手前、膝の上に置いた拳にほんの少しだけ力を込める。
──ひよりと心音さんと、一緒に旅をする。それが嫌なわけでは決してないし、むしろ今の生活よりも楽しい世界が広がっているのは明らかだ。
……でも、オレも彼女たちと共に旅に出てしまえば、この広い家には殿一人だけになってしまう。本人はそれでも全然構わないんだろうけれど、オレが納得できない。
今までずっと一緒にいたのに、何もこんなにあっさりと手放そうとしなくてもいいのではないか。そう、思ってしまう。

「殿が心配です。一人で生活していけるかどうか……」
「馬鹿にするなよ。わっちだってやるときはやるのだ」
「……どうですかね」

今現在の殿の生活についても不安だらけで仕方がない。家事全般はオレが全てやっているし、オレがこの家からいなくなったらすぐゴミ屋敷になりそうで怖いという理由もある。夜型である殿の体調も心配だ。
……と、色々理由を付けてはいるけれど、オレ自身も本当の理由は分かっている。

「……正直に言いましょう。オレは殿と離れたくありません」
「……なんだ、突然気色が悪いな。美玖に言われても嬉しくもなんともない」
「真面目に聞いてください」

あからさまに顔を歪めながらオレを横目で見る。殿がどう捉えているかは置いておこう。
──殿は、オレにとって特別で大切な存在だ。ひよりを想っていた彼のように、オレも殿を護りたい。実際のところ、殿はオレが護る必要もないぐらい強い。ならば今のように家事など他の面で役に立ちたい。オレを拾ってくれて、ここまで育ててくれた恩返しをしたい。ただそれだけなのに。

「これはオレの勝手な思い込みですが、……殿を、実の親のように思っています。だからなのか、……今は突然見放されたみたいで悲しいです」
「……ふん、わっちにはこんなでかい息子などいらぬ。娘ならまだしも……」
「殿!オレは真面目に、!」
「美玖」

突然呼ばれた名前に言葉が途切れる。扇子の上から覗く赤い瞳は今や弧を描いていない。ただ真っ直ぐにオレを見ている。……そうして殿が立ち上がり、オレの真横で立ち止まったかと思えば。……何を考えているのか、手の平をオレの頭に乗せては優しく撫でる。

「と、殿……?」
「良いか、一度しか言わぬぞ。よく聞け」

伸びた腕越しに殿の横顔が見えて口を閉ざす。殿に頭を撫でられたのなんて、カメールの時以来じゃないか、とぼんやり思った。昔はとても嬉しかったものだけれど、今は気恥ずかしさのほうが上回る。

「──……不本意ではあるが、美玖やひより、心音のことはわっちも家族のように思っている」
「…………」
「だからこそ、本当は小娘共だけで旅なんぞに行かせたくはない。……また、あやつと同じように失うのが怖いのだ」

オレの頭に手を乗せたのは、少しでも自身の顔を隠すためだったのだと今気が付いた。……いや、それよりも殿の本音に驚きを隠せない。いつになく素直な殿が心配になってきた。

「それにな、わっちが共に行こうにも、この美しすぎる外見だと別の危害に晒されるであろう?」
「それ以前に、多分ひよりたちから拒否されるのではないかと」

──……ひゅん、と耳元で風を切る音が聞こえたのは一瞬。
もう何千、何万回とやられていたら、神速の扇子も受け止められるようにはなるものだ。片手で扇子を握りしめると、殿は目を細めて微笑む。

「だから、わっちの代わりに小娘共を護るように、美玖、主を共に行かせるのだ」
「……はい」
「……主を見放したわけではない。信頼しているからこそ任せるのだ。……これぐらい言われなくても察しろ、たわけ」

直後、頭に衝撃が走る。……油断していた。扇子の二段構えは回避できなかった。容赦なく頭に降り落ちた扇子は、すでに殿の口元で綺麗な扇型を作っている。それを憎くも思いつつ、もうしばらく無いんだなと思うと少し寂しくも思う。

「良いか美玖。恩に報いたいなら、死ぬ気で小娘共を護れよ」
「もちろんです」
「もしも一人でも欠けて帰ってきたなら……どうなるか分かるな?」
「はい、分かっています」

最後にそっと、オレの頭を撫でると殿も部屋を出て行った。そうしてひとり、広い部屋に残されたオレの手には赤い扇子が残っている。

「……よし」

殿がいつも肌身離さず持っていた扇子を握りながら立ち上がる。
──さて、オレも旅へ出る準備をしないとな。



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