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静まり返る部屋。
殿がいなくなった今、ココちゃんの鋭い眼差しは美玖さんへ向けられていた。

「……美玖。どういうことかしら」
「オ、オレにも何がなんだか……」

気まずさからなのか、ココちゃんの視線から逃げに逃げていた美玖さんが「殿とちょっと話してきます」と言ってから足早に居間を出る。それを見送り、未だ睨みを利かせるココちゃんを宥めつつ、とりあえずその場に座る。気づけば、いつの間にかお茶も冷めてしまっていた。

「……まさか殿に反対されるとは思ってなかったよ」
「わたしたちがどこへ行こうと殿には関係ないじゃない。制限されるなんてまっぴらごめんよ」

言葉を吐き捨て両手をテーブルに突いてガタンと音を立てると、立ちあがって私の手を握るココちゃん。

「道ならわたしが分かるわ。殿なんて放っておいて、早く行きましょう」

そういうと、私の手を引いては居間を出る。それから私たちの部屋に戻って何をするのかと思うと、ココちゃんがバッグに次から次へと物を詰め込み始めた。

……あの殿様のことだ。素直に言葉に出来ないだけで、きっと何か考えや思うことがあるから反対したのだろう。
もしかすると、私たちを心配して反対したのかもしれない。そう思ったけれど、今までの私への態度等を考えると本当に心配してくれているのかは微妙なところだ。

「さ、ひより、行きましょう。」
「えっ?!コ、ココちゃん!?

あまりの準備の速さに驚きながらも、なんだかんだと流されては、もう玄関まで来てしまっている。
私も本当はこのまま飛び出して、ココちゃんと一緒にウバメの森へ行きたい。でも、。

「待って、ココちゃん。……やっぱり勝手に出て行くのは駄目だよ」
「……すぐ戻ってくれば大丈夫よ」

私に背を向けたまま靴を履くココちゃんを黙って見つめる。……私の記憶の手がかりになるかもしれないとは言え、ここまで急いで行かなくても……。

「ココちゃん。急がなくても祠は無くならないし、殿と美玖さんに勝てばちゃんと行けるんだよ?」

ふと、私の言葉にココちゃんの動きがぴたり止まって、ゆっくりと振り返る。その顔には、なぜか困惑の色が浮かんでいた。
……どうしてそんな顔をしているのか。ひとり困りながらココちゃんを見つめ返していると、彼女は何かを諦めたように目線を斜めに一度大きく息を吸った。それから時間をかけながらゆっくり吐き出してから、そっと顔を上げては私を見る。

「……ごめんなさい。わたし、逃げようとしていたの」

手首に手を当て、未だに残る赤紫色の跡を隠すようにぎゅっと握る。……そうか。ココちゃんはチルタリスの姿になるのが嫌なんだ。

「ひよりの力になりたい。けど、」
「……人間の姿のままは、だめ?」
「えっ……!?」

つい最近のことだ。ウツギ博士から、ポケモンは擬人化した姿のままでもある程度の技は出せると聞いた。それに身体能力も変わらないということも。

「でもそれじゃあ、」

勝ち目がないじゃないの。、心配そうに呟くココちゃんの手を握る。それでも私は嫌なことを無理やりやらせたくはない。しかしちゃんと戦って認められてから外出したい。

「大丈夫だよ!いざとなったら私が出る、」
「それはダメよ!絶対ダメ!ひよりはわたしに指示を出していればいいの!」

とんでもない、という表情で私を睨むココちゃんと何となく目を合わせているのが気まずくなって目線を横へ逸らす。と、握っていた手にそっと力が込められる。

「もし、負けてしまったらどうするの?」
「それはそうなった時に考えよう。何事もどうなるかなんて、やってみなくちゃ分からないよ」

同じぐらい力を込めて握り返すと、ココちゃんは目を丸くしてから笑みを溢してはゆっくりと頷いてみせた。

「……それもそうね。やるだけやってみましょうか」

──そうして私たちは、立ちあがって足を進める。
向かう先はもちろん、殿の部屋。


「殿、」
「フン。やっと来たか」

私たちが襖を開けるや否や、殿は広げていた扇子をパチンと閉じて立ち上がる。そうして、先に殿の部屋に居た美玖さんの声も無視して、私たちの横をスッと通り過ぎては足早に部屋を出て行ってしまった。
迷いなく長い廊下を歩いて行き、ひとり外へ出てゆく殿の背をしっかりと目に焼き付ける。

「ひより、やっぱり戦うのは……」
「いいえ、美玖さん。ココちゃんと一緒に決めたんです」

後ろ、未だ困り顔の美玖さんにそう答えると、彼は一度肩を落として視線を下へ向けた。

「……殿の手前、手加減は出来ないよ」
「そんなの必要ないわ」

美玖さんの言葉に被せる勢いで、ココちゃんが堂々と答える。それからすぐ、「行くわよ」とココちゃんが私の手を引き玄関までふたり揃って歩き出す。
ついで、足音がもうひとつ増えたことに振り返ってみれば、美玖さんも渋々私たちの後からついてきていた。美玖さん以外、すでに戦うという意志を示しているのだ。きっと乗らざるを得ないのだろう。

「……いいか、ひより。戦うのはオレで殿が指示を出すんだ。とにかくひよりは焦らず、心音さんにしっかり指示を出すんだぞ」
「……はい。ありがとうございます」

扉を開けると外の景色がいつもと違って、ほんの少し明るく見えた。……それもそうだ。だって──あの底も見えない黒い水が無いんだもの。なぜ。驚きながらも水がすっかり無くなった空間を眺めては瞬きを繰り返す。
今まで全く気付かなかったけれど、どうやら底まで降りる階段があったらしい。手すりに触るとまだ濡れていて、つい先ほどまで、ここまで水があったことが伺える。

「ねえ、水はどうなったのよ?」
「ああ、それでしたら……」
「わっちが消した」

早くしろ。、言葉にはしないものの、殿の表情からそう言っているように思える。

「消したって、どういうことですか?」
「消したものは消した。わっちは主の戯言を聞くほど暇ではないのだぞ」

そう言われてしまっては黙るしかない。
いつもよりさらに近寄りがたい雰囲気の殿の横を通りすぎて、ココちゃんと一緒に反対側へ立った。バトルをするには十分すぎる広さだ。茶色の肌が剥き出しの地面はまだぬかるんでいて、うっかり滑って転んでしまいそうな気もする。

「……よろしく、お願いします」

初バトルの相手が殿とは、なんと手に余るんだろう。
あの威圧感と鋭い雰囲気に、戦う前から私がやられてしまいそうだ。少し離れた先、カメックスの姿に戻る美玖さんを見つつ、手を心臓の位置にそっと添えては自分自身を落ち着かせる。

「……なんだ。心音はその姿のままで美玖と戦うのかや?」
「ええ、そうよ」
「そうか。……ふむ。──……わっちらも甘く見られたものだな、なあ、美玖よ?」
『…………』

殿の言葉の後、いきなり乾いた音が鳴ったかと思ったら、殿が勢いよく扇子を閉じた音だった。そうして扇子を着物の袖の中へ放り投げると、腕をそっと下へ降ろしてみせる。
遠い洞窟の入口からの風がここまで吹いてきたのか、殿の着物と金色の髪が悠々と揺られていた。

「……良いだろう。その考え、悔い改めさせてやる」

……これはもしや、……もしか、しなくても。
後ろを恐る恐る振り返る美玖さんを見ていても分かるけれど、……どうやら私は殿を本気で怒らせてしまったようだ。しかも荒々しい怒りではない。冷く、静かな怒りだ。

「……み、美玖が戦う方でよかったわ……」

そっと呟くココちゃんの言葉に激しく頷きながら、思わず恐怖で震える身体を誤魔化した。
戦う方が美玖さんであっても、殿が敵であることに変わりはない。私はとにかく、美玖さんに言われたとおり落ち着いて指示を出すことに専念しよう。

「では、はじめるとするか」

にやり。静かに殿が笑みを浮かべた。



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