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立ち止まってから振り返り、二人をじっと見つめる。
……冗談を、言っているのだろうか。どうもそうには思えないが、聞こえた言葉は冗談にしか聞こえなかった。
襖に手は添えたまま、渋々もう一度訊ねてみる。

「……ええと。どういうことでしょうか」
「どうもこうも、主には帰る場所があるのかや?」
「?、もちろんあります」
「──……ほう」

この殿様は何を仰っているんだ。私にはちゃんと帰る家もあるし家族もいる。
今度こそ襖を開けると長い廊下が左右に伸びていた。玄関はどこかと聞いてみれば、真っ先に美玖さんが立ち上がった。しかしそれを押し止め、殿がゆっくり私のところへやってくる。

「本当に、主には帰る場所があるんだな?」
「あります」
「言ったな。であれば好きに去るが良い」

面白そうに緩ませている口元を真っ赤な扇子で隠しながら、最後は突き放されるような言葉に思わずドキリとしてしまった。……なぜ、そんなことを聞いてくるのだろう。訳が分からず、またその表情の意味も分からず。不審に思いつつも、もう私はこれで正式に自宅へ帰ることができる。

「お世話になりました」

頭を下げ、挨拶として言葉を残す。そうして履きなれた靴を履き、ガラガラと横開きの扉を開いて外へ出た。
──……カツン。聞きなれない、音。

「──……えっ、」

今、聞こえたのは……自分の足音だったのだ。驚きながら恐る恐る足を動かし、またさらに驚く。
家の周りが、……岩肌と底が見えない黒い水に囲まれている。つまり、私が歩ける道が無い。ここから出るにはこの不気味な水に飛び込んで泳いでいくしかないのか。いやでも先はどこまでも黒く塗りつぶされていて全く見えない。果たしてこの先にはちゃんと陸地があるのかすら分からない。

「なにこれ……」

どこからか雫が落ちる音が聞こえた。なんだここは。洞窟?い、いやいや、近所にこんな場所なんて無い。……ならばここは、一体どこなんだ。

「…………」

また振り返り、開けっ放しの扉の向こう。扇子をひらひらとさせ暢気に私を眺めている殿と、お付きのように後ろに控えながらどこかソワソワしたようすを見せる美玖さんの姿を見る。
……殿を前に言いきってしまった手前、またあの家の中へ戻ることはできない。外へ出て、やっと殿の質問の意味が分かったのだ。……というかあの人、知っていながらどうして教えてくれなかったのか。容姿はいいのに意地が悪い。

「どうした。早く帰るが良い」

ニヤニヤ。扇子を顎のあたりに添えながら、お殿様は面白そうに私を見ている。
………よし。こうなったら、腹を括るしかない。もういい!自分自身でどうにかする!!
そうして手早く靴と靴下、上着を脱いで簡単に手首と足首を回す。泳ぎに自信は……ない。最後に泳いだのは、確か中学生ぐらいのときだっただろうか。つまり、数年前に泳いだっきりということである。……だ、大丈夫。きっと大丈夫だ!クロールぐらいは出来る……はず!!
そうして家の前にある手すりをゆっくり跨いで浅く座り、真っ黒い水を見てから。──……息を大きく吸い込んで、振り返って二人を見る。

「……っお世話になりました!」
「っひよりさん待って!そこは……っ!」

視線を戻す手前、美玖さんが殿を押し退け走ってくる姿が見えた。が、時すでに遅し。すでに足にぐっと力を入れて、水面目がけて飛び込んでいた。
そこは、の続きは何なのか。すごく気になるところだけれど、着水してしまった私にはもう必死に手足を動かすことしかできない。そう、何も考えられず、ひたすらに水面上を目指して。



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