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カンカンカンッ……包丁の音が良く聞こえる。
リズム感よく響くそれと、ぼんやり飛び交う声で目が覚めた。慌てて時計を眺めてから、自分が寝坊したわけではないと分かって息を吐いた。
隣に敷かれた布団では未だヒノがぐっすり眠っている。毛布をかけ直してから背を伸ばし、宙を見る。
──……とうとう、この日が来てしまったか。



「あ、おはよー美玖くん。……おお、寝癖の付いてる美玖くんなんてレアだね!」
「ロロさん、おはようございます。今朝は寝坊をしてしまったみたいで」
「おはよう美玖。俺たちが早く起きただけだから気にしないでくれ。それに美玖は寝坊なんかしないだろう」

少し背伸びをしながらオレの髪を弄るロロさんに苦笑いしつつ、グレアの先、こちらにやってくる足音を聞く。揺れるエプロンに、いつのことだったか、オレとお揃いのものを買ってきて嬉しそうに笑っていた姿を思い出す。

「グレちゃんたちは知らないけど、美玖さんだって寝坊したことあるんだよ。……ね、美玖さん!」

──……そして今。
変わらず笑顔を見せる彼女にオレまでつられてしまうのだ。

「おはようございます、美玖さん」
「おはよう、ひより。良い朝だね」
「──……はい!」

すでに朝食の数々が色鮮やかにテーブルを彩ってる。……それを眺めていたら、何だか急に寂しくなってきてしまった。
──いや、オレの勘違いかもしれない。だってまだ、彼らからも、ひよりからも何も言われていない。……でも、。

「ほら美玖くん、先に身支度を整えておいで。寝癖も直さないと、ね?」
「そ、そうですね。そうします」

ロロさんに言われて再び襖に手をかけたとき。不意に服の裾が引っ張られた。後ろを振り向くと、ひよりがそれを掴んでいる。離して落ちて、元の場所に戻る腕。

「美玖さん。……私たち、今日イッシュに戻ります」

固い決意が込められた瞳と言葉に、一度言葉を失ってから絞り出すように呟く。"突然だなあ"、なんて。……そんな言葉しか返せないまま、ひよりに背を向け洗面台へとのろのろ歩いていた。
ひよりがここに来た理由、そしてイッシュ地方に戻らなければならない理由は、以前から聞いていた。だからこそ、止められない。
止めたい気持ちは、……あるけれど。

「やっぱり今日、だったんだ……」

流れる水に手を浸しながら、ふと顔を上げてみた。鏡に映る自分の顔から目を逸らしてから周りを見る。……昨晩までずっとここに置いてあった花柄のコップが消えている。ピンク色の歯ブラシも、可愛らしい柄のタオルももうここには無い。
この家にひよりが来てから周りの物がどんどん色付いていたのは、持ち物の影響だったのか。再び色を失う周りを見てから、いや違う。と頭の中で否定する。
色は確かに無くなった。けれど彼女が作ってくれたここは、きっとこの先もこの家に残るだろう。

「──……寂しく、なるなあ……っ」

本当の兄のように慕ってくれたひよりが、もう、明日からいなくなる。
一気に現実味を帯びる事実が、ひどく切なくて苦しい。





「──……乃くん、陽乃乃くん」
「…………うーん……」

僕を揺らす手に起こされて、まだ眠たい瞼を持ち上げる。クスリと聞こえる優しい笑い声と、僕の顔にかかっている髪をゆっくり掬い上げる指先。それが気持ちよくてその手に縋り、再び目を閉じるとまた身体を揺らされる。

「陽乃乃くん、おはよう!」
「ひよりおねえちゃん……もうちょっと寝かせてよお……」
「いいのかなあ。今寝たら、私が陽乃乃くんの分のご飯も食べちゃうけど……」
「ああっ!ひどいよ、ひよりお姉ちゃん!」

慌てて飛び起きると楽し気な笑みを浮かべるひよりお姉ちゃんに僕は頬を膨らませた。
……それより、いつもは僕がお姉ちゃんのことを起こしているのに、今日は一体どうしたんだろう。
不思議に思って時計を見れば、いつも僕が起きる時間だ。それに今日はひよりお姉ちゃんにもうご飯の匂いが付いている。

「あのね、陽乃乃くんに話しがあるんだ」
「僕に?なあに?」

昨日のうちに用意しておいた服に手を伸ばしながらパジャマのボタンを外していく。
今日はひよりお姉ちゃんたちと何をしようか。特訓、お買いもの……あ、このまま殿の家にいるのなら今日の夜ご飯は僕も一緒に作りたいなあ。
……そう思っていたけれど。

「──イッシュ地方に、戻る……?……きょう……?」
「ほんと、突然すぎるよね。ごめんなさい。……でも、戻らないといけないんだ。私の大切な人を助けに行かないと」
「み、美玖さんと心音お姉ちゃんは、……」
「二人ももう、知っている」
「そっ……か…………」

僕だって知らなかったわけじゃない。ちゃんとひよりお姉ちゃんから、いつかはイッシュ地方に戻るということは聞いていた。それでも僕はお姉ちゃんといれば何かが変わる、そう思って着いてきた。……だから、前から覚悟は出来ていたはずなんだ。

「……ひよりお姉ちゃん、僕のご飯、ちゃんと残しておいてね」
「……うん。向こうで陽乃乃くんのこと待ってるよ」

俯いたまま閉まる襖の音を聞く。
……ただひよりお姉ちゃんから聞いただけ。まだお姉ちゃんはここにいるし僕のボールもちゃんと持ってくれている。なのにあと数時間後にはいなくなってしまうなんて、実感が湧かない。

「ひより、お姉ちゃんは……僕のトレーナーだ……なのに、いなくなるなんて、っ、……!」
「……陽乃乃、」
「!、……心音、おねえちゃん……」

──いつの間にいたんだろう、全然気がつかなかった。
布団の上で拳を握りしめていると、心音お姉ちゃんがすぐ隣に座って僕の手に手を重ねる。ハッとして顔を上げると、困ったように笑っていた。その顔が、どうにも見ていられなくて。

「っ心音お姉ちゃんはこれでいいの!?」
「陽乃乃……」
「ひよりお姉ちゃん、いなくなっちゃうのに、!僕たちも一緒に連れていってもらおうよ、ね!?」

心音お姉ちゃんに縋るように言っても、やっぱりお姉ちゃんは困ったように笑みを浮かべているだけだ。それから、ゆっくり口を開いて言う。

「……わたしだって、本当はひよりの傍にずっといたいわ」
「っそれなら!」
「でも、陽乃乃も先日のジム戦見たでしょう。あのグレアたちですら手こずる相手なのよ。……わたしたちが行っても、きっと足手まといになるだけよ」
「……でも、でもっ……!でもお……っ!」

……僕はまだ、子どもだもん。心音お姉ちゃんのように、我慢なんかできない。
涙で揺れる視界に映る心音お姉ちゃんは変わらずずっと笑ったままで、それがもっと僕の口を滑らせてしまう。いっそ心音お姉ちゃんも僕みたいに泣き喚いてくれたらいいのに。そしたらひよりお姉ちゃんだって、"やっぱりずっとここにいる"って言ってくれるかもしれないのに。

「ぼくっ、僕、まだひよりお姉ちゃんと旅がしたい……!もっと、もっと色んなことしたいのに、!」
「──陽乃乃も、はっきり自分の思っていることを言えるようになったのね。ちゃんと成長してるわ」

ふと、腕が伸びてきたと思ったら気付いたときには思い切り抱きしめられていた。一瞬止まった涙が、心音お姉ちゃんの温かさと優しい声色でまた溢れてしまう。

「ひよりだって、きっとまだ陽乃乃と旅をしたいと強く思ってる」
「……」
「けれど、それも出来ないぐらいひよりの大切な人が危ないのよ。もしもひよりがその人を失ったのなら、どうなってしまうと思う?」
「……っ」
「──わたしは、ひよりの悲しむ顔は見たくない」

陽乃乃だって同じでしょう?、心音お姉ちゃんの言葉に何度も何度も頷いた。
僕はまだ子どもだ。……でも、もう。我慢も出来ないで、泣き叫ぶような子どもでもない。

「うん……僕、我慢する。ちゃんと出来るよ、……頑張るよ」
「やっぱり陽乃乃は良い子ね」

身体を離して涙を拭っていると、僕の頭を撫でる心音お姉ちゃんにまたしても頬を膨らませた。だって、子ども扱いするんだもん。……でも、やっぱり撫でられるのは嬉しくて、すぐに緩む僕の口。

「陽乃乃に良い事、教えてあげるわ」
「……良い事?」
「ええ、とっても、良い事!」

内緒話のように僕の耳元で話した後、満面の笑みを浮かべる心音お姉ちゃんに思わず目を丸くした。

「──ほら陽乃乃、早く着替えてご飯食べに行きましょう!みんな、待ってるわ」
「……うんっ!」

……ひよりお姉ちゃんは僕のトレーナーだ。それは絶対、変わらない。そう、絶対に、変わらない。
──待っていてね、お姉ちゃん。いつか僕が、もっと大人になって強くなったら。
必ず、会いにいくからね。



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