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ぶらり。力なく垂れ下がる右手の先は生温かい。
焦点を無理やり合わせて、ぼたぼたと血が零れてゆく目前にある腕を見た。赤く染められてゆくその腕に触れようとすれば、指先が触れる前に着物で全て隠されてしまう。

「何をしておるのかと思えば」

ひとつため息をつく。それから殿は腰を抜かしたままの男と興味本位でちらほら集まる野次馬を眺めた。その視線につられて周りを改めて把握し、わたしは一体何をやっていたのかと脱力する。
膝をついて、現在進行形で作られている血だまりを見た。上から足されてゆく赤に水面が揺れる。きれい。ぼんやりしながら自分の右手を見る。きたない。……汚い。

「見世物ではない。散れ」

赤い瞳が刃となって周りを牽制すると、石のように固まる野次馬たち。しかしそれも一瞬で、ハッとしたように身体を飛び上がらせると顔を背けて再びそれぞれの場所へと歩み始めた。止まっていた世界が、わたしたちの空間だけを残して再び動き始める。

「心音、行くぞ」

顔をあげると目の前に手が差し出されていた。視線は合わせられず、黙ってその手を握り立ち上がる。それから少しだけ離れて男の元へ向かう。
からん、ころんと背後に鳴る下駄の音。……ああ、やっぱり心地良い音。

「……す、鈴歌、」
「違うわ。わたしは"心音"。もう、あなたの玩具ではないの」
「ぼくはそんな、!」
「"そんなつもりはなかった"とでも言うつもりかしら。……ふざけないでよ」

今のわたしはもう、何もできずに何も言えずにただ泣いてたわたしじゃない。
無様に地面に寝っ転がる男に馬乗りになり、胸倉を思い切り掴むと「ヒィ」なんて情けない声を出す。
どうせまた襲われるとでも思っているんだろう。そんなことをしたら、折角身体を張って止めてくれた殿の行為が無駄になってしまうじゃない。そんなことも分からないなんて、本当に馬鹿な人。

「"愛してる"、さぞ便利な言葉だったでしょうね。……もう二度と使わないで」

投げ捨てるように彼を放ち、背を向けた。
どうしてアイツがここにいたのか、何を思って再びわたしを手持ちポケモンとしようとしたのかなんて、もうどうでもいい。全てをここに捨てたから、もうどうだっていいのだ。

「強がるのも大概にしたほうが良いぞ」

わたしが来るのを待っていたのか、暢気にそういうと再び彼も歩き出す。

「それは殿も同じでしょう」
「わっちを誰だと思っているのだ。これぐらい何ともないわ」

そんなわけがない。わたしは全力で引き裂いた。彼の後ろを歩きながらそっとその腕を見ると、やはりまだ血は止まっていないようで着物を紅く染め上げてしまっていた。
……仕方なく、腕を掴んで引っ張りながら小路に入っては立ち止まり振り返る。

「……腕、見せなさいよ」
「何ともないと言っているだろう」
「いいから」

渋々差し出されたその腕を水平に伸ばして着物の袖を捲る。……自分でやったことだけど、想像以上に傷が深い。とにかく今は止血しないといけない。姉さんたちからもらった白いリボン……使っても、いいよね。

「……ッ」
「ほら、やっぱり痛いんじゃない」
「たわけ、主のやり方が乱暴なだけだ!」

わざときつく巻き付けてから手を離し、何となくこの状況がいたたまれなくて顔を伏せる。

「あの男と主は恋仲だったのかや」
「……そうだと思っていたのはわたしだけよ」
「うむ。詳しいことは分からぬが、主はあやつのせいで不快な思いをした。そうであろう」

こくん。黙って頷く。不快どころではない。言葉に表すことができないぐらい嫌な思いをした。

「ならば、そんな奴のために主が手を傷め、汚す必要はない。……が、少しばかり遅れてはしまったな」
「……」
「まあ、あやつの穢れた血ではなくわっちの美麗な血に触れたのだ。光栄に思うが良いぞ」
「……なにそれ」

ははは、なんて笑い声を聞きながら悪態しかつけない自分に嫌気がさす。気を遣ってくれていることは分かっているのに。何度詫びても、詫びきれない。けど。
唇を噛みしめて、やっとのことで声を出す。

「……アイツにわたしと同じように傷跡を残して、それを見るたびにわたしを思い出して苦しめばいいなって思ったの。……本当に、ごめんなさい」
「何を謝ることがある。これは主の愛、なのだろう?」
「いっ、いつからあの場にいたのよ!?」
「さあて、何時からであろうな」

恥ずかしすぎて、余裕ぶった笑みを見せる殿を下から睨み上げることしかできない。
……ふと、殿が傷近くにもう片方の手を添えるのを見た。顔をあげると視線がぶつかり、長い睫毛が優しく下がる。

「一生残るような愛を刻まれたのならば、それはわっちにとって嬉しい限りだ」
「…………馬鹿じゃないの」
「はは、惚れても良いぞ?」

楽し気に笑みを浮かべる姿に慌てて背を向ける。……誰が惚れるか。
──ぽつり、水滴が手に当たる。それに顔をあげて空を見上げると、ひとつふたつと雨粒が顔にも当たった。次々に雫が落ちてきて、乾いたコンクリートを灰色に塗りつぶしてゆく。

「降ってきたな。ポケモンセンターにでも行くとするか」
「……わたしはここで、」
「何を言っておる。主も行くのだぞ。どうせ些細なことで諍いを起こしたのだろう?きっとあやつから謝ってくるに違いない。主は堂々としていればよいではないか」
「……違うの」
「違う?」

わたしの腕を引いていた殿が立ち止まる。

「わたし、……自分の手でボールを壊して出てきてしまったの。だからもう、戻れないわ……」
「……」

シャッターの閉められた店の前。屋根の下で雨の音に、大通りにいる人々の声がぼんやりと混じっている。それを聞きながら、離された腕をそっと下に降ろす。

「何故、主は自分のボールを壊したのだ。ひよりが嫌になったのか?」
「まさか!わたしがひよりのことを嫌いになるわけないじゃない!」
「なら何故?」
「……ひよりのことを信じることが出来なくなってしまったから、……」

彼女には、わたしよりも頼れる相棒がいる。
……わたしなんて、居ても居なくてもどちらでもいい存在だ。寧ろわたしはグレアに突っ掛かってしまうぶん、ひよりにとっては邪魔、……かもしれない。そう思った。

「──捨てられるのはもう嫌。大好きな人から捨てられるのは、もう、嫌なの」
「捨てられる前に、自ら捨てたというわけだな」
「……そのほうが傷つかないで済むから」

……ふと、殿が大通りのほうへと目を向けた。釣られてわたしも視線を向けるが、相変わらず灰色の空とは真逆の色とりどりの傘が動いている街並みがそこにある。

「心音。主は自身しか見えておらぬ、たわけ者だ。もしもひよりが主を信じていたならどうする?今度は主が裏切った立場になっておるのだぞ」

そういうと、殿が雨降る外へと歩み出る。

「そして裏切られてもなお、ひよりは未だに主のことを信じているとするならば。……主は、どうするのだ?」

金色の髪が筋の通った鼻先に雫を落とす。それを見てから、何となくわたしもゆっくり雨天の下へ歩み出ては静かに大通りが映る隙間を見つめていた。
──瞬間、見慣れた姿がそこを横切った。慌てて細道を駆け抜け角の壁から大通りを見てはその姿をはっきりと捉える。

「ひより……!?」

息を切らせて辺りを忙しく見渡しては、泣きそうな表情で水たまりも気にせず踏んでゆく。服が肌に張り付き、髪も濡れてあらゆるところから雨粒を滴らせていた。
……もしかしたら。

一度振り返って殿を見ると、顎を使ってわたしを促す。それに無言で頷いてから、再び駆けだす彼女の後を追って走り出した。



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