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再び目を開けたとき、すでに外は明るくなっていた。閉められていたカーテンも両端に寄せられていて、外からの光が部屋に差し込んでいる。外は快晴で太陽の光がとても暖かい。

「……っひより!」
「ココちゃん、おは、」

おはよう。言い終わる前に思い切り顔面が豊乳に覆われ言葉が途切れた。ぎゅう、と抱きしめられながら必死に酸素を取り入れられる隙間を探すけど……ない、ない!息が吸えない!

「ココちゃんっ……くるしい……!」
「ああっ、ごめんなさい!」

ふう、と息を吸ってココちゃんに視線を向ければ、綺麗な顔を歪めて私を見ていた。……ああ、そうだ。理由はなんであれ、私はまたココちゃんと美玖さんに心配をかけてしまったのだ。視線をそっと下に向け、両手を絡ませながら口を開く。

「ココちゃん、……ごめんなさ、」
「おかえりなさい、ひより」
「!、……ただいま、ココちゃん」

ゆっくり伸ばされた腕に身をゆだね、細い首筋に顔を埋める。ぽんぽんと背中に規則正しく刻まれるリズムと、その優しい声色に鼻の奥がツンとした。
きっとココちゃんが誰よりも私のことを分かってくれているはずだ。どうすることもできずにじわじわと犯される恐怖、そして迫りくる絶望感。私の気持ちを分かった上で、今こうして何も言わずに抱きしめてくれている。すごく嬉しくて、安心する。

「……ココちゃんがいてくれて、本当によかった」
「わたしも、ひよりがいてくれて本当によかったわ」

しみじみ言うとなんだか可笑しくて、体を離して顔を見合わせながら一緒に笑っていると、ふと、扉をノックする音が聞こえた。それにココちゃんが「どうぞ」と答えると、美玖さんがやってきた。そうして私と目が合うや否や、早足でこちらへ歩いてきて、……そして途中で立ち止まる。

「ひより、体調は!?気分は悪くない……!?」
「大丈夫、です」
「そっか、よかった、……」
「なので美玖さん、もっとこちらに来ていただいてもいいですか?」
「……ああ、うん」

頷いていたが、それからもなかなか距離は縮まらない。

「美玖。ひよりからこっちに来て、と言っているのよ。そんな慎重にならなくても大丈夫」
「そっか、そうですね。……はい」

ココちゃんの言葉で、やっと美玖さんがベッド脇に置いてある椅子に座る。……もしかして、私のことを思って距離をとっていてくれたのか。私があの夜にされたことを踏まえて異性なりの配慮をしてくれたのだろう。

「ごめんなさい、心配おかけしました。でもほら、大丈夫です!美玖さんにもちゃんと触れるので!」

膝の上に置かれていた美玖さんの手を握ってから、ハッとした。毎日欠かさず行ってきた異性に慣れるための第一歩、握手練習もここ数日はお休みしていた。なのに、急に私が手を握ってしまっては美玖さんもびっくりしてしまうはず。……なんだけど、。

「うん、ひよりが大丈夫そうで本当によかったよ。オレももっと早く助けに行けたらよかったんだけど、」
「美玖さん、あの……私、手を、握ってるのですが……」

私の言葉に美玖さんがぴたり動きを止める。それからゆっくり視線を動かし、私の手を握ったまま目線の高さに持ち上げた。そうして再び固まりながらも、驚いた表情のまま瞬きを繰り返す。これはもしかして、もしかすると……!?

「平気、かもしれない……!」
「っやりましたね、美玖さん!よかったですね!」
「よかったのかな……」

これで一歩前進だ!さて次はどうしようかと考える前に、なぜ突然平気になったのか不思議に思った。少なくても数日前まではやっと数十秒は大丈夫という感じだったはずなのに。

「なにかきっかけでもあったんですか?」
「そういえば、今思い返すとひよりがいない間は美玖と手を繋いだまま移動してたこともあったかも」
「なっ、なんですと!?」
「そっ、それには訳があってだな……!」

私が何を想像しているのか分かったようで、美玖さんが顔を赤くしながら首を左右に振っていた。

「あのな、ひよりがいなくなったときの心音さんは相当余裕がなかったんだよ」
「否定はしないわ。だってあまり記憶がないもの。もう、ひよりのことが心配で心配で……!」
「ココちゃん……」
「目を離すとすぐに全速力で走っていってしまうものだから、心音さんまで事件に巻き込まれたら、と思ったら心配だったんだ」
「なるほど」

頷いてみせると、美玖さんがほっと息を吐いていた。誤解が解けた安心感からだろうか。

「それにしても、よく繋いだまま歩いていられましたね!美玖さん、すごいです!」
「かなり頑張ったよ、かなり」
「まあ、良かったじゃない。結果オーライよ」
「……」

顔を真っ赤にして手を繋ぐ美玖さんと、そんなことにはお構いなしに突っ走るココちゃんの姿が容易に想像できてしまって、思わずにやけてしまった。
それから三人で雑談をして、しばらく経った後。
コンコン、と控え目に小さくノック音が聞こえてくる。今度は私が「どうぞ」と返事をすると、ゆっくり扉が開いた。
──そうして入ってきたのはグレアと、それから、。

「はじめまして、ひよりちゃん」
「……はじめ、まして、」

目の前。まっすぐ私のところへやってきた彼は、黒い手袋を外すと私に手を差し出しながら笑みを浮かべる。……随分と整った顔立ちをしている。思わずわずかに緊張しながらその手をそっと握り返した。色鮮やかな髪色もだいぶ見慣れたはずだけれど、紫色の髪はなかなか見かけない。だからなのか、私の目にはより一層艶やかに映る。

「俺はロロ。今は国際警察に所属してるよ」
「──……あっ!あの時は助けてくださってありがとうございました……っ!」
「……ううん、気にしないで。それが俺の仕事だしね」

目を細めて微笑む彼を見る。殿に負けず劣らず整った顔なのに、前髪がそれを隠すように長く伸びていた。そしてそれよりも真っ先に目に留まるのは、色鮮やかな瞳だ。……見たことのない、色をしている。

「あの、」
「どうしたの?」
「突然こんなこというのは失礼かもしれませんが、……ロロさんの瞳、不思議な色ですね」

わずかに彼の目が見開いて、スッと一度視線を逸らされた。それも一瞬のことで、すぐに私に戻ってきてはゆるりと弧を描く。困ったように、笑みを浮かべている。

「そう、かな。……うん、ちょっと、……かなり、変かもしれない」
「いえ!、変ではなくて……なんというか、宝石のようでとても綺麗な瞳だなあと……思って……」

驚いたように私を見ているロロさんに、やっと私もハッとする。初対面の人に何を言っているんだと、他に何かもっといい例えはなかったのかと悔やんでももう遅い。
……なんだかとても恥ずかしくなってきて少し視線を逸らしてからそっとロロさんを見上げてみた。私に気づくと彼はぎこちなく笑みを浮かべながら片手で前髪を弄り、その瞳をさらに隠す。

「変なことを言ってごめんなさい……」
「いや、その……ごめん、少し席を外させてもらうよ」
「え、あ、……はい」

ひらりと素早く体を翻し、足早に部屋を出て行くロロさんを見送る。それはあまりにも不自然で、どうにも気になって仕方がない。

「わ、私……もしかしてロロさんの気に障るようなこと言ってしまったのでは……、」

どうしようと青ざめながらようやく出た言葉に、部屋の隅にいたグレアがなぜかくすりと笑っていた。それに素早く視線を向ければ「気にするな」と一言、笑いを含んだ声を返される。気にするなと言われると余計気になってしまうんだけど……。

「ロロは、ひよりの言葉が嬉しかったんだよ」
「……え?」
「今頃廊下で緩みっぱなしの顔をどうにかしようと頑張っているんじゃないのか」

抑えるようにクツクツと笑うグレアが信じられず、何度も瞬きを繰り返す。
あんな恥ずかしい例えが嬉しいものかと首をひねる間もなく、再び開かれた扉からロロさんがゆっくり戻ってきた。目元は更に前髪で隠され、口元は綺麗な手で覆い隠されている。

「……あの、」
「ごめん、今はあんまり見ないでほしいな」
「自分でも気持ち悪いぐらい顔が緩んでいるからだろう?」

少しだけ顔をあげたロロさんがキッ!とグレアを睨みつけてから、窓際へと移動する。図星、……だったの?
そんな彼からグレアは目線を外すと、そっと美玖さんの隣にやってきてから体を屈めて私と目線の高さを合わせる。

「ひより、その……大丈夫、か?」
「……うん、大丈夫。ありがとう」

それでもなお心配そうに見てくるグレアの手を握ると、身体をびくりと飛び上がらせては青い瞳を見開いていた。角張った片手を両手で包み込んで、感謝を込めながらぎゅうと握る。……なんとなく懐かしく感じるのは、忘れてしまったはずの記憶がわずかでも残っているからなんだろうか。

「そ、そろそろ離してほしいんだが、」
「!、ごめんなさい……!」
「……いや、……」

慌てて手を離して毛布の下へ戻すと、なんとなく視線を浴びているような気がしてそのまま毛布を口元まで手繰り寄せた。……この空気、だれかどうにかしてーっ!!

「……ひよりの相棒はわたしなんだから」

横からココちゃんに引き寄せられては抱きしめられる。それにホッとしたのも束の間、目線を上げるとココちゃんがグレアへ敵意剥きだしの睨みをきかせているではないか。対する彼はまさにタジタジというところ。

「それよりひより、グレアにガツンと言ってやりなさい!そのために追いかけてきたんでしょう!?」
「っそうだよ、そうだった!」

色々あったせいでついうっかりしていたけれど、ようやく私が旅に出た目的を達成できる。
"ひとりで行かないでくれ"と私に言ったのはグレアなのに、どうしてグレアはひとりで出て行ってしまったのか。なぜ何も話してくれず、そのまま消えてしまったのか。

「今日は絶対に逃がさないんだから」
「…………」

気まずそうに逸らされる視線を見ながら、ベッドの横にある椅子を指さし座るように促した。
そうして渋々座った彼は、ひたすら私とココちゃんからの視線から逃げていたのであった。





「いやあ、しかしすごい質問攻めだったね」
「他人事だと思って笑いやがって」
「だって他人事だもの」
「……」

まさに質問の嵐だった。質問というよりも、もはや尋問に近いものを感じた。俺がきちんろ答えるまで絶対に逃がさないと言っていたが、運よく検診の時間に入ったおかげで曖昧にしたまま病室から逃げだすことができ、今に至る。ひよりは大層不満げな表情を浮かべていたから、検診が終わったらまた尋問されるかもしれない。

「このまま隠し通すつもり?」
「……できればそうしたい」

泣かないように必死に強がる笑顔を見ているよりも、素直に笑ったり泣いたり怒ったりすることができる今のひよりを見られるほうがずっと良い。
たとえ俺たちと過ごした日々を忘れたままだとしても、ひよりが幸せなら、……ずっとこのまま、思い出さずにいてほしいとさえ思う。

「それで、ひよりと"はじめまして"の挨拶をした感想は?」
「あー……」

ロロがわずかに気まずそうに前髪で目を隠す。

「……正直に言うと、……まあ、寂しいよね」
「会うのが怖いといっていたのは?」
「グレちゃんも意地が悪いねえ」

ひらりと身を翻して窓際に行くと、壁に背を当て眼帯の上に指先をそっと添えていた。眼帯の下は、左とは色が違う瞳だ。今日は片目のみだが、もしも両目を見られたときの反応を未だに恐れているのだろう。
これ以上は追及せず、ただロロの姿を静観していた。

「俺も、ひよりちゃんに本当のことを話さないっていうのは賛成だよ。でもやっぱり置いて行くのは間違ってる。どんなに距離を置こうと、一緒にいるべきだと思う」
「つまり、ひよりの手持ちポケモンに戻るということか?」
「もちろん。俺は最初からそのつもりだけど」

空いているほうの手を差し出され、バッグからロロのボールを取り出してはその手に置く。久方ぶりに自身のボールを手にしたロロは、しばらくそれを眺めたあとにしっかりと握りしめて壁から離れた。そうして扉へ向かって歩き出す。

「今も昔も、俺はひよりちゃんのポケモンだ。マスターの元に帰るよ」
「しかし、ひよりは何も覚えていないんだぞ」
「だから何?また一から始めればいいだけの話でしょう」
「……」

確かに、そうだけど。
……不意に。横を通り過ぎるはずだったロロに手首を掴まれた。顔をあげるとロロが無言で俺を見ている。試しに腕を動かしてみたが、強く握られていて振り払うことはできない。

「なんだよ」
「なんだよって、グレちゃんも俺と一緒にひよりちゃんのところへ帰るんだよ」
「は、……?」
「グレちゃんのことだ。ひとりでは帰れないでしょう?」

馬鹿にしたような言い方だが……悔しいことに図星ではある。
一度自分から離れてしまったし、何よりどうやってひよりの元へ帰ればいいのか分からなかった。その点ロロはこういう性格だ。いともたやすく戻ってしまうだろう。

「…………俺は、」
「また離れて行くつもり?同じことを繰り返すの?」
「そ、それは……、」
「素直に戻りたいって言いなよ」

そういうとロロは手を離して、俺に向かって自身のモンスターボールを投げてきた。宙で掴んでから手中にあるボールを見つめる。……トレーナーとポケモンを繋ぐ、唯一目に見える絆。

「…………」

確かに、俺は間違えていた。正直、できるならば、……もう一度だけ、傍で彼女を守りたい。しかし、果たして今のひよりはボールを受け取ってくれるだろうか。これまでの関係を思い返すと、拒否される可能性のほうが高く感じてしまうのだが。

「怖いでしょう?」
「……ああ」

仕返しとでもいうように、楽しそうにそういうロロに素直に頷く。他の誰でもない、ひよりに拒絶されるとなると……今から覚悟を決めておかなければ。

「でもさ。……ひよりちゃんは俺たちが認めて、信じている子でしょう。きっと大丈夫だって」

ぎこちなく微笑むロロを見て、ハッとした。それはまるで自分にも言い聞かせるかのような声色で、ああ、そうだと気付く。……目の前にいるコイツだって、俺と立場は同じだ。平然を装っているものの、中身は不安で満ち溢れているに違いない。
そう思うと、怖さもわずかに軽減する。痛み分けをする予定はないが、正直、……自分以外にも誰かがいるというのは、心強い。例えそれがロロであっても、だ。

「お前のその性格、ときどき羨ましくなる」
「まあ、おすすめはしないけどね」

──……それじゃあ、行こうか。
ロロの言葉に頷いて、ふたり揃って部屋を出た。廊下を歩いて階段をのぼれば、すぐにひよりがいる病室についてしまう。
そうして無言で歩みを進める。覚悟を決めるには少々時間が足りない気もするが、……ここまで来たら、もう後には引けない。

では、いざ。



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