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──目が、覚めた。ここは、どこだろうか。
ぼんやりしたまま顔を少しだけ横へ向けると、すぐ横にカーテンがあった。その裾を掴んで少し捲ると、大きな窓があった。そこから月光が部屋の中に差し込んでいる。

起き上がろうと手に力を入れると、一瞬痛みが走る。視線を向けると、両方の手首に包帯が巻かれていた。それからようやくベッド横にある椅子に気づいては、座ったまま眠っているココちゃんを見る。
……そっか、私、助かったんだ。
それから急についさっきまでの出来事を思い出してしまって、全身に鳥肌が立つ。自由になった手で頬を擦ってみても舐められる感触が残っているし、皮膚に触れるまとわりつくような手も忘れることができない。すぐにシャワーを浴びたいが、疲れているココちゃんを起こしたくはない。

「……」

身体がまだ火照っている。……外へ行けば治まるだろうか。
ゆっくり両足をベッドの横に降ろしてから、ココちゃんに毛布をかける。それから足音を立てないように気をつけながら、痛む足を無理やり動かして部屋を出た。患者用に用意されていたサンダルを引きずる音だけが、誰もいない静かな廊下で聞こえている。
非常灯を頼りに壁をつたって外へ出た。
──その先。

「……わあ」

憩いの場として設けられている外テラス。冷え切った、しかしどこまでも澄んでいる冬の空気を胸いっぱいに吸ってから白い息を吐いては手すりに向かってゆっくり歩く。
目の前に広がる湖の水面には、大きな月が映し出されている。とても、綺麗だ。
野生のポケモンたちも寝静まっているのか、音という音は何も無い。

「…………」

手すりに両手をそっと置いてから寄り掛かる。そうして何も考えず、ただぼんやりと月を見上げたり湖を眺めていた。……いったい私は、何がしたいんだろうか。

「──……ひより?」

ふ、と。誰かに名前を呼ばれた。それに驚き肩を飛び上がらせてから振り返ると、なぜかグレアが立っていた。とても驚いているように見える。

「どうしてこんな時間にこんなところにいるんだ!?まだ寝ていないとダメだろう!?」

慌てて駆け寄ってくるや否や、今度は険しい表情で私に言う。……やっぱり、彼は私が思っている以上に表情が豊かなようだ。

「そうなんだけど……、なんとなく外に出たくなっちゃって」
「それでも、この格好では今度は風邪をひいて寝込むことになるぞ」
「、うーん……」


確かに、普通ならこんな薄着で冬の外には出られない。が、今の私は普通ではない。思うに、きっとまだ飲まされた薬が体内に残っているからまだ体が火照っているんだろう。……なんとなく恥ずかしいから、グレアには言えないけど。

「まだここにいるつもりか?」
「……そうだね」

答えた直後、肩に上着をかけられた。咄嗟に落ちないように上着を手で掴みながらそっと視線をあげると、彼は私から少し距離を置いて同じように手すりに寄りかかる。

「……グレア、」
「ここにいるつもりなら、嫌でもそれを着て大人しくしていろ」
「でも、それじゃあグレアが寒いでしょう?私は大丈夫だよ」
「俺も大丈夫だから気にするな」

薄い長袖の服だけで、何が大丈夫なものか。絶対に寒いに決まっている。それに、わずかに袖口から白いガーゼが見えているのも気になっていた。……グレアだって怪我をしているのに、また私のことばかり気にしている。あなたのことを忘れてしまった私のことなんて、放っておいてくれていいのに。

「……やっぱり返すよ」
「いいから、着ていろ」

脱ぎかけた上着が再び身体に覆い被さる。私が上着から手を離さないのをしっかり見ているようで、彼の手も離れずに鋭い視線を私に向けていた。……睨みでは勝てそうもない。仕方なく、渋々袖に腕を通す。
……上着を借りたはいいものの、大きすぎて手が全然出てこない。丈もワンピースにできそうなぐらい長く、なんだか変な感じだ。

「──……あったかい」

上着に残っていた温かさに小さく笑うと、グレアも少しだけ微笑んでからまた距離を開ける。……思い返せば、私のところへグレアが一番に駆け寄ってきてくれていた。だからこうして、気遣って距離を開けてくれているのだろうか。

「…………」

何を話すでもない。ただ、無言の時間が流れる。
グレアは私に何があったのか聞くこともなく、ただ、寄り添ってくれている。私がここにいる限り、彼もずっとここにいてくれるのだろう。なんとなく、そう思う。

「…………、?」

ポロッと。突然、雫が手の甲に落ちる。はじめは自分自身でもなんだか分からなかったが、熱い目元とぼやける視界でやっとそれが自分の涙なのだと分かった。それからはもう、止まらない。気づかれないように俯きながら必死に両手で拭ってみても、一向に止まる気配がない。なんで、どうして、。

「──……ひより、」
「だっ、大丈夫!ごめん、気にしないで、」

どうして、どうして。突然泣き出すなんてどうかしている。両手で見えないから分からないけれど、きっとグレアもびっくりしているに違いない。これでまた心配をかけたくはない。気にされたくない。なんとかして止め、

「……怖かったよな」
「……え……、」
「怖くても、ひとりで戦っていたんだろう。……よく、頑張ったな」
「──……っ」

なんてことない、言葉なのに。
一気に感情が溢れて、手で口を覆っても嗚咽が零れて静かな冬の夜に響いてしまう。

「……こわかった、……っ本当に、こわかった……!私もう、逃げられないかと、おもって、それで、っ」

震える声としゃくり泣きで自分でも何を言っているのかわからないのに言葉は止まらずどんどん出てくる。俯いたまま、私の言葉に打たれる相槌を聞くたびに目からは大粒の涙がぼろぼろ零れ続けていた。

「っごめん、ごめんね。いま、どうにかするから、」
「どうにもしなくていい。泣くことは何も悪くない」
「……っ、……」
「気が済むまで泣いていいんだ。……泣かせてしまった責任があるからな、俺も最後まで付き合おう」

困ったように微笑む姿に、まだじわりと袖に涙が滲む。
……そんなこと言われたら、その言葉に甘えてしまう。それでもいいというように、彼はずっと隣にいた。
言葉通り私が泣き止むまで、ずっと。





「でも……私が嫌なんだけど……」

貸した上着を「洗って返すよ」と言われたから「別にそのままでいい」と断ると、ひよりは赤くなった目を細めてなんとも言えない表情を浮かべていた。
しかし、俺はこの場でどうしても上着を回収しなくてはならない。……ずっと寝ているはずのひよりのところに俺の上着があったとなると、まず確実に心音が黙っていないだろう。警戒されたままであるし、厄介事はできるだけ起こしたくはない。

「そろそろ病室に戻ったほうがいい。心音が起きてお前がいなかったら心配させてしまうだろう?」
「そ、そうだね……!」

突然ハッとしたように目を見開くと、上着を俺に渡してサンダルを引きずる。まだ足が痛むのか。そう思うと、ついひよりの手を掴みそうになってしまい慌てて伸ばした腕を途中で止める。

「グレアは戻らないの?」

数歩先のひよりが振り返って小首を傾げる。……俺も戻りたいところだが、まだ戻れない。彼女の質問に首を縦に振ってみせると、「グレアも早く戻らないと風邪ひくよ」と目を細める。
……ラッキーは、ひよりの精神面の心配を口にしていたが、今のひよりを見る限り深刻な影響はないようにも思う。もしかしたらイッシュ地方で旅をしているときに培ったものはそのまま残っているのかもしれない。……もしもそうなら、いいのだが。

「──……あの、」
「どうしたんだ」
「ええと、……みっともないところをお見せしてごめんなさい。でも、おかげでだいぶ楽になったよ。ありがとう、グレア」

はにかみながらそういうと、今度は眉間に皺を寄せてから「また明日、いなくなってたら本当に怒るからね」と俺に釘を刺してから、病室へゆっくり戻っていく姿を見送る。
……やはり、俺は間違っていたらしい。まさか俺を追いかけてくるとは思ってもみなかった。が、よくよくひよりの性格を考えてみればあり得ないことでもない。再会したとき、まるでひよりではないように感じてしまったからなのか、そこまで考えが及ばなかった。……本当に、困ったご主人様だ。

「全く、本当に困ったシマシマくんだねえ」
「盗み聞きなんて良い趣味を持っているな、馬鹿猫」

足音ひとつ立てずに建物の影からスッと出てくる姿は、まるでゴーストタイプのようだ。いつから聞かれていたのか分からない。それほどまでに気配がなかった。

「"グレア"、だってさ。……ひよりちゃん、本当に何も覚えていないんだね」
「……ああ」

ロロがつい先ほどまでひよりがいたところまで歩いてくると、手すりに両腕を伸ばしたまま寄りかかっては湖に視線を向ける。

「なんか俺だけ"グレちゃん"って呼ぶのも嫌なんだけど」
「同意だな。俺も嫌だ」
「でももう呼び慣れちゃっているし、今更変えられないなあ」

そう言いながら体の向きを変え、手すりに背を預けていた。長い前髪を揺らして白い息を吐きながらこちらへ視線を向ける。

「何が"大丈夫"だよ。本当はものすごく寒いでしょう。俺の上着、貸してあげようか?」
「いらない」

あからさまに面白がっているロロを横目に腕を少し擦った。……そろそろ戻るか。

「ひよりちゃんが泣いているとき、……俺、思わず飛び出しそうになっちゃったよ。抱きしめてあげられたら、よかったんだけどなあ……ま、今の俺ではそんなこと出来ないけど」

そう言って隻眼を伏せるロロ。……それは俺も同じだ。
ひよりにとって今の俺は、ただの知り合いだ。洞窟にいたときは踏ん切りが付けられなくて手を伸ばしてしまっていたが、今はきちんと区切りをつけている。以前のように触れてはいけない。それは分かっているが、。

「……あー、明日が怖いなあ」
「なら、ひよりに会うのはやめておくか?」

少し間を開けてから、ロロが首を左右に振る。弱音を吐くなんて、よほど明日が不安なのだろう。

「何も覚えていなくても、ひよりであることに変わりはない。きっとまた、ロロと初めて会ったときと同じことを言うだろう」
「そう、……だといいな」

そうして呟くように答えたロロを残して、先にテラスを後にした。
明日また、ひよりに会える。嬉しい反面、ロロと同じく不安が募る。……何を聞かれても大丈夫なように、今のうちに考えておこう。



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