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適当に夕飯を済ませてシャワーを浴びる。
……最近、この街では物騒な事件が多発しているらしい。ロロがそう言っていた。だからなのか、外は異様に静かだった。

「……」

──……また、悩む。
ロロに、そして他の仲間にひよりが見つかったと伝えるべきか否か。そしてひよりを再びイッシュ地方へ連れ戻すべきか否か。何が正しくて、何が間違っているのかすら分からない。

「俺は……どうすればいいんだろうな」

もちろん答えは返ってこない。ずっと繰り返される自問自答。
排水溝へ流れているお湯を眺めながら、またひとりため息を吐いた。





タオルを頭に乗せたまま、お湯が沸騰するのを待っていた時。……遠くから慌しい音が聞こえてきた。そにれ一旦火を止め、素早くその場に身を屈める。それから慎重に入口の扉の横まで屈んだまま移動し、外の様子を窺う。
……車が止まる音がした。乱暴に開けられた車のドアは少し間をあけてから再び乱暴に閉められる。何かを引き摺るような音も聞こえる。それはゆっくりと、しかし確実にこの家へと向かってきている。

「──い、……おい、居るんだろう!運ぶの手伝ってくれ!」

その声には聞き覚えがあり、そっと窓から外を覗くとロロを肩に抱える男の姿が見えた。それを見てから慌てて外に飛び出し駆け寄ると、息を切らした男はロロを投げつける勢いで俺に渡す。ロロは意識がないのか、俺が抱えてもびくともしない。

「全く、勝手にぶっ倒れやがって重いったらありゃしない!」
「もしかしてお前が"先輩"とやらか」
「もしかしなくてもそうだ。ほら、この馬鹿猫を早く中に連れていけ!」
「あ、ああ……」

手伝えと言ったのは誰なのか。ロロは全て俺に任せて、先輩とやらは首だの肩だの音を鳴らしながら回し続けている。
とりあえず急いで家の中へと戻り、ロロのコートを脱がせてからベッドへと押し込める。今日は帰ってこないと言っていたのに一体これはどうしたことか。再びやかんに火をつけてから、先輩とやらをソファに座らせ事の経緯を聞きだした。

「"ひより"って名前を聞いた瞬間、急に目の色変わってさ。なぜだか分からんがやる気になるし、本当によく分からない奴だよ」
「ひより……!?」
「なんだ、お前も知ってるのか?誰なんだよその"ひより"って子は。アイドルか何かなのか?」

先輩とやらは手渡したマグカップを片手で掴んで、冷ますように湯気に息を吹きかける。それからズズッと吸い込むと、まだ熱かったようで眉間に皺を寄せながら舌を出した。
俺はそんな姿を遠目で眺めながら、いや違うだろう。と頭の中で必死に否定を繰り返す。
……ひよりは殿や美玖、それに心音と言った相棒と一緒に洞窟で平和に暮らしているはずだ。ここにいるはずがないし、いたとしても国際警察と関わることなんてないはずだ。そう思いつつも思わず頬を伝う汗と、先輩とやらの次の答えに緊張が走る。

「え?どんな奴らだったかって?……ぺらぺら喋るものじゃないが、まあいいだろう。水色の髪をした女性と、青い髪の男性だったな。確か女性の方は"心音さん"って呼ばれていて、」
「──……嘘、だろう……、」
「あ?なんだって?」

膝から崩れ落ちるところを何とか踏ん張り、シンクに手を付き目元を摘まむ。暢気に再び冷ます作業を始める目の前の男はもう眼中にも入らない。
……どうして、どうしてこの街に来ているんだ。しかもひよりがいなくなっただって?ああ、もう訳が分からない。

「そんじゃ、俺はまだ仕事が残ってるから帰るぞ。ロロが起きたら"一日だけ休みくれてやる"って言っておいてくれ。それからコーヒー、ありがとな」
「……ああ」

なんとか声を絞り出しては、去ってゆく彼の背を見送った。
ロロはああ見えて聡い。もしかすると、もうひよりのことを知ってしまったかもしれない。いやそれよりも、ひよりがいなくなったとはいったいどういうことなのか。……気になることは山ほどあるが、とにかく今はロロが起きなければ何も話は進まない。
ふと、時計に目をやれば深夜三時になろうとしていた。こんな状況では寝るに寝れないが、形だけでもそうしなければ。
今はまだ、何も知らない俺を装う必要がある。





──……夢を見た。
眩しいぐらいに彼女は笑って「大丈夫だよ」と俺の頬を撫でる。それがとても心地良くて目を細めた。瞬間。全てが闇に飲みこまれ、彼女の姿は跡形も無く消える。それを追いかけ必死に走れば、何かにつまづき地面に転ぶ。起きあがる。見る。
そこにあったのは、血に染まるブレスレットを付けた、青白く冷たくなった、あの、……──


「ロロ!」
「……ッ!」

うす暗い見慣れた部屋にぼんやりと浮かぶのは、これまた見慣れた顔だった。肩で息をしながらその顔を見れば、眉間に皺を刻む勢いの必死な形相をしている。それにへらりと笑ってみせると「笑うな」と低音が刺さる。

「……かなりうなされていたようだが」
「ああ、ごめん。大丈夫だから気にしないで」
「何が大丈夫だ、馬鹿猫」

スッと持ち上げられた彼の手首には、俺の手が爪を立てんばかりにしがみ付いている。じわりと汗ばむ手は嫌に冷え切っていて、しかも小刻みに震えていた。……こんな姿を見られるなんて、冗談じゃない。
急いで離そうとするも右手は全く動かず、慌てて左手で自身の指をほぐしていく。

「何があった?」
「…………別に、」
「──……"ひより"」
「ッ!」

俯いていた顔を勢いよくあげると、グレちゃんが手首をぷらぷらと動かしながら睨むように俺を見ている。
……ああそうか。俺が現場でぶっ倒れてしまったから、きっと先輩がここまで運んでくれたんだ。そのときに今日のこともグレちゃんに話したに違いない。しかし、どこまで話したのかが問題だ。まさか事件についてまでは……いや、失敗した。俺自身のミスだ。事件については少しだけ俺が話してしまっていたじゃないか。

「突然いなくなった"ひより"というトレーナーと連続監禁事件。……この二つに、何か関係があるのか?」

当然の如く、その質問を投げかけてくる。そうしてまた、俺はあの真っ白い手のことを思いだしては気分が悪くなって、咄嗟に口元を押さえる。と、グレちゃんが「冗談じゃない」と急いで席を立ってどこからともなく袋を持ってきた。有難いが、戻す前に吐き気は治まってくれたから使うことはなさそうだ。

「…………あの、さ」

ああ、もう話してもいいだろうか。とてもじゃないけど俺だけでは抱えきれないし、これはグレちゃんや他の仲間にも関係することだ。事件について詳しく話すことは禁忌に近いが、このままでは俺の身が持たない。
……そうして一度息を吸い込んでから、ゆっくり重たい口を開く。

「……グレちゃんの言うとおり、"ひより"って子の消え方がその事件の被害者の消え方と似てるんだよね」
「……やっぱり、そうか……」
「それでね、落ち着いて聞いてほしいんだけど、」

その事件、今では連続監禁快楽殺人事件ってなってるんだよ。、そう俺が告げると、目の前の彼はなぜかひどく驚いた様子を見せながら絶句する。
ちなみに事件の名前が変わったのは今日からだ。現場検証をしているときに、いつの間にかそう呼ばれていた。

「今日、その現場検証に行って来たんだ。まあ、酷い有様だったよ。俺は見慣れてるっていうのもあれだけど、現場の状態を見るぐらいは平気だったんだ。……でも、さ。ひとつ、……気になるものを見ちゃって、」

二度とグレちゃんの前で醜態を晒したくはない。だからそっと毛布でまた震え出す両腕を隠す。そんな俺に気づいているだろうに、彼は拳を強く握ったまま身動きひとつしない。緊張の面持ちで、俺を見ている。

「何を、みたんだ」
「…………手」
「手?」
「白くて細くて、冷たい手。それが……その手に、ひよりちゃんが、ティーからもらった、……ブレスレット、付けてて、それで、っ」

治まったはずの吐き気に再び襲われ、気持ち悪さと一緒に熱いものが逆流してきた。手元にあった袋を苦し紛れに手繰り寄せては、そこへ我慢していたもの全て吐き出す。唾液も胃液も、感情も、涙も。
……ああもう嫌だ。これを醜態と言わずなんと言おうか。苦しくて生理的に溢れた涙は、いつの間にやら背中をさすっていた手に気付いた瞬間、なぜかさらに溢れるし、これを止める方法が分からない。逃げ出したいほど絶望して、絶対に上げられない顔を乱暴に腕で拭う。

「……嫌なことを思い出させて、悪かった」
「…………」
「ロロ、ひとつ教えてやる。それはひよりではない。だから安心しろ」
「──……え、」

思わず上げそうになった顔を抑えて、少し浮かせるだけに留める。随分と長くなった前髪が目の前でふわりと揺れるのを見ながら内心ひどく混乱していた。
なぜ、どうしてひよりちゃんじゃないと言い切れる?君は見ていないのに、どうしてそう言い切れるんだ。

「いいか、もしもそれがひよりなら真っ先にマシロさんが気付いて連絡をくれるはずだ。ひよりはまだポケモンの言葉を理解できているし、少なからずマシロさんの力が残っているのは確かだ。それが突然消えれば、マシロさんだって気付くだろう」
「──……そっか、マシロさん、……そうか……」
「これで少しは楽になったか?」
「…………まあね」

フッと小さく笑みを見せるグレちゃんを前髪の間から見て、心底腹が立った。しかしそれ以上にそこまで頭が回らなかった自分自身が腹立たしい。
きっと俺が見たのは、似ているブレスレットだっただけなのかもしれない。突然出てきた"ひより"という名前と事件を勝手に強く結び付け、そこから先走って最悪の結果に結び付けてしまっていたのだ。片手で前髪を少し掻きあげ、くしゃりと握る。

「……ところで。どうしてここまで食いついてくるわけ?俺が心配っていうだけじゃないでしょう」
「…………」

分からないとでも思ったのか、俺の質問に一度びくりと体を揺らしてから視線を不自然に逸らす目の前の彼を見る。

「"ひより"という名前が出て、気になっただけだ。まだ見つかっていないんだろう?」
「うん、そうだよ。確かに俺も気になってはいるけれど、……まさか、本当にひよりちゃんの可能性があるって?」
「……分からないが、確かめてみないとなんとなく落ち着かない。だからロロもやる気になっているんだと思ったんだが」

なんとなくどこか引っかかるものの、今は頭が働かない。グレちゃんの言葉に頷いてみせてから、今日のことを思い出した。
……"ひより"というトレーナーを探していた彼女たちのためにも、絶対に見つけ出さなければ。あの悲惨な景色の一部とならないように、絶対に、見つけてみせる。



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