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水圧で全身が圧迫され続ける中。一度沈んだ身体を上へ上へ、早くこの暗い水中から出ようと手足を動かしては見る者の、なぜか一向に水面から顔を出すことができない。

(そんなに深く潜った?)

ちゃんと自分は上へ進んでいるのかすら分からない。どうしよう、早く顔を出して息を吸わないと。でも水面が見えない、暗いままだ。なんで、どうして。酸素を求め続けている身体が勝手に激しく動いてしまう。ドッドッ、心臓の音が妙に大きく聞こえる水中。……酸素が、足りない。

「……ごほっ、!」

酸素が欲しいあまり、まだ水中なのに口を開いてしまった。途端、容赦なく水が体内に流れ込んできて一気に動きが止まる。──……ごぽごぽと嫌な水泡の音と一緒に、意識が遠のいてゆく。
……家に帰りたかっただけなのに、溺死とか、そんなのって、。

瞬間。

「っかはっ!」

急に身体が浮いて、水飛沫の音が聞こえた。瞬間、酸素と追加で水も体内に入ってきて思い切り咽る。いくら咳をしてもずっと身体の中に水があるようで気持ちが悪いし、鼻も物凄く痛い。そのまましばらくゲホゲホと咽せて咳き込んで、荒い呼吸を整えていると。

『あなたという人は……!』
「っはあ、……そ、……その声は、……美玖……さん……?」
『大人しくしていてくださいね』

下から聞こえた声に、ずぶ濡れのまま手元を見る。……そういえば、私今、何に乗っているんだろう。髪の毛先から滴り落ちる雫は私の手が置いてある茶色の何かの色を濃くしている。……これは、……一体、。

「…………え、なに、どういう、……っええ!?」
『どうしましたか?』
「ど、っえ!?美玖さ、……っえ!?カメックス!?」
『はい、そうです』
「?!!?!?」

聞いてほしい。なんと、今、私が乗っかっているのは、……かの有名なゲームに出てくるあのカメックス。ポケモンの、カメックス。……ちょ、ちょっと待ってほしい。ええと……あれ。もしやさっき、やっぱり私死んじゃった?死んでポケモンの世界に来てしまった?ええぇ?うう……もう、訳が分からない。

(ほ、本物……なんだよね、?)

甲羅に崩れるようにうつ伏せになっているところからゆっくり身体を起こして、そっと甲羅にまたがって座ってみた。……すごい、私、ポケモンに乗ってる。それだけでもう興奮ものだ。だってあのポケモンだ。画面越しの憧れの世界に生きているポケモンに、触れている……!!

「すごい、すごい……っ!」

そのまま甲羅の上で手を滑らせてみると、手触りは意外にもつるつるだった。見た目はゴツゴツなんだけど。それから少し前を見て、可愛く小さな青い耳が動いているのを見つけてしまう。……耳は、どうなんだろうか。ふさふさなのか、つるつるなのか。
甲羅に跨ったまま、少しだけ前に身体を滑らせて腕をそっと伸ばして。

「ちょっとだけ失礼しまーす……」
『ッ!?』

耳に指先が触れた途端。カメックスがびくん!と飛び跳ねて甲羅が大きく傾いた。それに私の身体もまた水面めがけて振り落とされそうになったものの、すぐさま態勢を戻してくれたカメックスのおかげで何とかま逃れた。……ちなみに耳はふさつるだ。つまり、ふさふさであり、つるつるでもあった。

『っな、な、何をするんですか……っ!』
「ご、ごめんなさい、つい……」

少しだけ振り返って、怒ったような戸惑ったような声を投げつけるカメックスは、……やっぱり美玖さんの声と同じだ。人間と同じ声帯を持つポケモンっているのか?…………あれ。そもそも。

「どうして私、ポケモンの言葉が分かるの……?」

ありえない。ありえないことだらけでますます訳が分からない。
そうしているうちに、再びあの家の前に戻ってきた。幅寄せしてくれたカメックスから慎重にゆっくり降りると、すぐさま隣からどすん、という重たい足音が鳴り響く。同時にぼたぼたと水滴も落ちて、それはもうすごい迫力だ。カメックスの姿を見上げて、口を開いてしまった。私よりも遥かに大きいし、ものすごく強そうだ。……すごい、本物だ。

「あっ、あの、ありが……」

ハッとしてから頭を深々と下げてから、ゆっくり顔を上げたとき。
突然ぼんっ!という爆発音に似た音と一緒に真っ白い煙が生まれた。驚いて瞬きを何度も繰り返しながら口元を覆う。なんとか目だけは開けて見ていれば、……どういうことか、だんだんとカメックスの影が小さくなって……煙が消えたとき、次にそこにいたのは美玖さんだった。

「…………えーっと、?」
「……早く中へ」

一言そういうと、目にも止まらぬ速さで上着を脱いで私の肩に掛けた美玖さんは、すぐに顔を背けて先に家の中へ入ってゆく。優しい雰囲気の彼はどうしたのか、何となくそっけない彼の後を追いながらひとつくしゃみをした時。その理由が分かってしまった。……下着が……透けて見えている……。

「うわああああうそでしょおお!?」

急激に恥ずかしくなって美玖さんの上着を左右から力強く握りしめ、思いっきり前を閉める。それはもう鉄壁の如く腕も左右にして二重に隠す。そうして襖の前で顔を背けて立って待ってくれている美玖さんを目印に、長い廊下を裸足で素早く駆け抜けた。もちろん部屋には光の速さで入室だ。

「男物で申し訳ありませんが!」
「滅相もありませんありがとうございますお借りします!」

シャッ!スパァンッ!
服を差し出してくれる美玖さんから素早く受け取って襖を思い切り閉める。……それから一息、吐き出して。一緒に渡してくれたバスタオルで濡れた身体を軽く拭き、一応襖を一度見てから服を全部脱ぎ捨てて素早く着替える。そうして部屋にある鏡の前に立ってみて。ぶかぶかなYシャツに、だぼだぼのズボン……不格好ではあるけれど、ずっとあの服でいるよりはマシだ。マシなんだけど……下着を付けないだけでこんなにも不安になるものなのか!早く乾いておくれ。

「入るぞ」
「うおああっ!?」
「全く可愛げのない声だな」

スパン!と勢いよく襖が開く。入る前に声をかけてほしいと恨めしく思いつつ、顔をあげて。

「なぜ……笑っているんです……?」
「面白かったからに決まっているだろう」
「なっ……」

面白いとは。私が溺れかけていたことに対して言っているのか。
思わず言葉を失う私に代わって、殿様の口はぺらぺら動く。

「ふはは、まさか飛び込むとは!予想以上の面白さだったぞ。わっちは主がほんの少し気に入った」

そういうと、広げていた扇子を閉じて歩いてきて私の目の前に座る。妙に近い距離に恐ろしくなりながらひっそりと後ろに下がってから私も座り直して向き合うと、またしても怪しげな笑みを浮かべる殿。……なに、なんなんだ。

「特別に、主に見せてやろう」
「……何をですか」
「―……わっちの、本当の姿を」

わー……またこれだー。あのカメックスさんに引き続き、今度は殿まで爆発して白い煙が出てきた。微弱な風圧に目を細めていると、何やら私の身体に密着しながら取り囲むように動いているものがある。未だ晴れない煙の中、訳の分からないそれに全身に寒気が走り、鳥肌が一気に立つ。

「えっなにっ、何ッ!?」

とりあえず遠ざけようと腕を動かし、それに触れて、また驚いて思わず手を引っ込める。自分の手のひらを見てから、身体に絡みついているそれを見る。……肌色みたいな薄黄色みたいな、なんかぷにぷにザラザラしている細長い……これは、ヘビ、みたいな……ッッ!!

「っいやああああ美玖さんんん助けてくださいい!!」

腹の底から声が出た。それはもう自分でも驚くほど大きな声が出た。

「失礼します!」

スパァンッ!、ものの数秒で襖が乱暴に開けられる音が聞こえた。それと同時に美玖さんが息を吸い込んで。

「何をしてるんですか、殿!」
「と……殿……?」

ようやく煙も薄くなり、まず目に入ってきたのは美玖さんの姿だった。何故か私に向かって「殿!」と引き続き怒声を上げている。そして横を向いてみると、赤い舌が私の頬をべろりと舐める。一気に背筋が凍りつき、身体を固めたまま見上げてみると……真っ赤な瞳と視線が交わる。……あ、目はカワイイ……。

『主は無礼なやつだな。せっかくわっちが可愛がってやろうと、』
「何でもいいから早く離れてください!」
『嫌だ』
「殿!!」

大きくて長い触角のようなものをひらひらさせているこれは……ミロカロス、だ。巨大ヘビではなく、ミロカロス。……こんなことって、あるのかしら。
さらにこのミロカロス、驚くことになんと色違いなのだ。金色の鱗がきらきらと輝いていて、言葉に出来ないくらいに綺麗……と、それは置いておいて。

「……え、い、今、私に巻きついているミロカロスさんは……殿、なんですか?」
「ええ、残念ながらそうです」
「そしてやっぱり、美玖さんはさっきのカメックスさん……?」
『?、主は何を申しておるのだ。先ほどその目で見ただろう』

まさかとは思っていたけれど、やっぱりそうだった。
……ポケモンは、擬人化できる……!!
さらにポケモンがいる時点で、もはやここは私が住んでいた場所ではないことが確定してしまった。違う場所ならまだしも、これはもう次元も違う。あ、ああもう、どうしてこんなに有り得ないことばかり起こってしまっているのか。でもとりあえず一度はやったことのあるゲームの世界でまだ良かったと心底思う。

「あの……ここは、どこの地方ですか」

カメックスとミロカロス。組み合わせが謎すぎて訊ねると、ミロカロス殿様と美玖さんが顔を見合わせ不思議そうな表情を浮かべる。

「ここはジョウト地方。一番近い町はワカバタウンです」
「ジョウト地方……」

ジョウト地方ならゲームでやったことがある。ぼんやりとしか覚えていないけど、どんな場所でどんなポケモンがいるのか大体想像はつく。……から、余計に不思議に思った。カメックスもミロカロスも、ジョウト地方にはいないはずなんだけど……。

「……さて、遊びも終わりだ。主、家があるのだろう。去れ去れ」

そういうとミロカロスの姿から一瞬で人間の姿に戻った殿が、扇子を広げて立ち上がる。
……去れと言われても。
またあの水の中を泳げというのか。でも、万が一にも泳ぎきれたとしても、この世界にはどこにも帰る家がないことも確定してしまった。帰れないし行き場もない。ど、どうしよう。これからどうすればいいのか。しかし去れと突き放されてしまった以上、自分でどうにかするしかない。俯いたまま、とりあえずゆっくり立ち上がった。
その時。

「本当に、行く宛てはあるのですか」
「……、……」
「……無いんですね」

それに小さく頷いて見せてから、また顔を伏せる。どうしようもなく下唇を噛むと、頭上から「分かりました」と声が振ってくる。

「なら、ここでよければ住んでくださって構いません」
「──……え、?」
「あんなこと言ってますが、殿は最初からひよりさんをここに住まわせる気でいたんですよ」

美玖さんの言葉に顔をあげて殿の方を見てみれば、私に向けている背中が小刻みに震えていた。……笑いを堪えて、いらっしゃるのか。……いや、いいや!

「ほ、本当にいいんですか……っ!?」
「くどいぞ。そんなに追い出されたいのか?」
「めっ滅相もございません!」

畳の上で座り直して正座をし、二人に向かって頭を下げる。
流れで急に決まってしまって、いまだ混乱しているけれど。

「お、お世話になります、よろしくお願いいたします……!」



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