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ひとり家の中へのろのろと入ると美味しそうな匂いがした。それに釣られて台所へ行けば、お鍋の中をゆっくりかき混ぜていた彼と目が合う。やっぱり、とでも言うように目を細めて困ったように笑う美玖さんは、いるはずの彼がいない理由を察しているようだった。

「……美玖さんも分かっていたんですか。グレアが出て行くってこと」

私が訊ねれば、また美玖さんは困ったように笑って見せる。

「なんとなく、だけどね」

今日はどうやらシチューのようだ。とろりとお皿に注がれる白の中には、ニンジンやらコーンやら色とりどりの野菜が入っている。目で見ても楽しめる色合いに、冬になるとなんとなく食べたくなる大好きの分類に入る料理ではあるが、今は全然気分も上がらない。とりあえず台所に並べられるお皿を手にとり、テーブルと台所の往復を無言で繰り返す。

「少ししか関わっていないからオレも彼についてはよく分からないけどさ、」

ひよりのこと、すごく大切に想っているっていうのは分かったよ。
……冷蔵庫から野菜を取り出し水で軽く洗い流す。今度はサラダでも作るんだろうか、私も分厚い服の裾を捲くって隣に立った。いつものことながら触れない程度に距離を保ちつつ、二人で野菜を手際良く洗ってゆく。

「そう、でしたかね」
「そうだよ。彼の場合は分かりやすかったかな。ずっとひよりの傍にいたし、常に気にかけてる様子だったからね」

特に気にしてはいなかったけれど、言われてみれば確かにそうかもしれない。殿から受けるはずだった攻撃はグレアがほとんど弾いてくれたからか、今日は被害が少なく思う。

美玖さんはまた別のお皿に野菜を盛り付け、今度は別のお鍋に手を伸ばす。気になってそれを覗いてみるとお粥が出来ていた。ココちゃんのために別で作ってくれていたらしい。

「心音さんにはひよりが持って行ってくれないかな」

オレよりひよりの方が喜ぶだろうし、なんて苦笑いをする美玖さん。お盆には私の分の夕飯ものせて部屋の前まで運んでくれるようで、一緒に長い廊下へと再び足を進める。私はここへ来る前にお店で買ってきたゼリーやらアイスやらが詰まった袋を片手に、隣をちょこちょこ歩いていた。

「ココちゃん、入るよ」

部屋の前で美玖さんからお盆を受け取り、中へ入る。上半身を起こして、何やら考えごとをしているのかココちゃんの視線は下にあった。お盆をテーブルに置いて、横に座ると「ありがとう」と笑顔を浮かべる。

「……ごめんなさい、ひより」
「?、なんのこと?」

私からスプーンを受け取りながら、ココちゃんが"これよ"と視線を下げる。ああ、殿にやられたことを言っているんだなあと思わず苦笑いがでてしまった。本日一番の被害を受けた舌は、実のところ未だにヒリヒリしている。

「世話をしてもらってあれだけど、ひよりにあんなことするなんてひどすぎるわ。後で殿に仕返ししないとね」
「仕返し出来る相手だったらよかったんだけどね……」

お粥もココちゃんに渡して、私はシチューを掬って息を何度も吹きかける。猫舌な上にダメージを受けているものだから、食べる際はどうしても慎重になってしまう。スプーンの上で小さく波打つシチュー越しに見えたココちゃんの横顔が、体調が整っていないせいもあるかもしれないけれど元気がないように見えた。それに一旦、お皿をお盆の上に置く。

「ココちゃん、どうしたの?体調良くない?」
「ううん、体調はもう全然大丈夫よ」

心配しないで。と笑みを浮かべるものの、ココちゃんの手元は止まったまま。やっぱり様子が少しおかしい。そのままジッと見つめていると、彼女もお皿を布団の横に置いて身体を私の方へ向き直す。

「あのね。……わたし、最低なことを考えていたの。……ひよりの記憶が戻らなければいいな、って」

言葉がすんなりと頭に入らなくて、無言で瞬きを繰り返してしまった。俯きがちのココちゃんの長い睫毛を眺めながら、「え?」なんて聞き返してみても、やっぱり返ってくるのはさっきと同じ言葉だ。

「え、えーと……?」

私の記憶をどうにかすると、私以上に意気込んでいた彼女はどこへやら。グレアも同じようなことを言っていたし、私が意気込んでからなんだか風向きが怪しくなってしまった。一人ならまだしも、二人に言われてしまうと……やっぱり私は忘れていた方がいいんだろうか、とも思ってしまう。

「わたし、ひよりが大好きよ。大好きで、とっても大切な人なの。あなたと出会ってから誰よりもひよりのことを想っている自信があったわ」

でもね、それも今日まで。
もぞりと身体を私の方から横に戻すと、足を曲げて腕で抱える。膝に顎を乗っけると毛布に顔を埋めて声をくぐもらせるココちゃん。

「だめ。……彼には敵わない」
「彼って、……グレアのこと?」

こくりと無言で頷いてから、顔をゆっくりあげる。目が潤んでいる彼女が心配になって背中に手を添えると、次の瞬間には押し倒されるような勢いで飛びつかれて後ろへ回された細い腕に抱きしめられる。ぎゅっと、力強く。

「……彼、ひよりのこと迎えにきたんでしょう」
「た、ぶん」
「記憶が戻ったら……彼と一緒に行ってしまうのでしょう?」
「…………」

……聞かれて、すぐに答えを出すことができなかった。実際そうなってからではないと私自身どうするかなんて分からないからだ。
ただ、どんな理由があったとしても過去にグレアが私のポケモンで共に旅をしていたとなれば、記憶が戻ればまたグレアと旅をしたいと思うかもしれない。もしかしたら、そう思わないかもしれない。

「……お願い、わたしを捨てないで」
「ココちゃん、?」
「お願い、……わたしには、ひよりしかいないの」

消え入りそうな声でそういいながら、腕に込められる力。そのまま続けられる願いの言葉はまるで呪文のように繰り返される。
──以前。アカネさんと会ったときに、ココちゃんはサーカスに入ることを泣くほど嫌がっていたと聞いた。それに他にも名前があった様子も窺えたし、サーカスにいれば必要のない戦闘にも慣れているようだった。そして今の「捨てないで」という言葉。
わたしの知らない、彼女の過去が関係しているのか。

「……大丈夫。心配しなくても大丈夫だよ」

背中をゆっくり上下に摩れば、顔をゆっくりあげて私を見上げる。まだ熱があるのか頬はほんのり色づいて、透き通る瞳は潤んでいる。

「ココちゃんは私の相棒なんだよ。物じゃないんだから、捨てたりなんか絶対しない」

それより私がそう簡単に捨てるような人間に見られていたことがショックで冗談のようにその言葉と一緒に頬を膨らませると、ココちゃんが一度ぽかんとしてから小さく笑う。「ごめんなさい、そういうことじゃないのよ」、そういいながら身体を離して布団に戻る姿を見る。

「つい……昔のことと重ねてしまって」
「……そっか」

痕の残る手首を握りながら俯きがちに言葉を紡ぐ。……今はまだ話してくれる時ではないらしい。静かな部屋を包む時計の針の音を聞いていると、そういえば、とココちゃんが顔をあげる。

「誰か出かけたみたいだったけれど、また殿は遊郭へ?」
「殿のことは多分正解。……だけど、もうひとつあるんだ」
「え?」

グレアが出て行ったことをココちゃんにも話すと、とても驚いた様子を見せていた。それから殿や美玖さんに言われたことも一緒に伝えると、呆れたように言葉を捨てる。

「護られているだけ、待っているだけがいいなんて。ほんっと男って全然分かっていないのね」

向こうは"護っている"ということで勝手に満足しているんだろうけどね、とため息を吐くココちゃんに激しく同意する。全くもって、ココちゃんの言うとおりだ。女だって、私だって護られているだけなんて絶対嫌だ。危険に晒されようと、護りたいものだって私にもきっとある。なのに彼は私のことなんてお構いなしに勝手に行ってしまったのだ。納得できるわけがない。

「私、グレアに"ひとりで行かないでくれ"って言われたんだよ」
「あら、完全に矛盾してるじゃないの」
「そうでしょう!?」

笑うココちゃんに同調して思わず身を乗り出してしまった。それから体勢を元に戻し、床についた両手を膝に乗せて背筋を伸ばす。
ココちゃんはもう気付いているだろうし、きっと私と一緒に来てくれる。根拠もないのにそう信じていたからなのか、言葉がすらすらと出る。

「私ね、グレアを捕まえて文句を言いたい。だから、旅に出ようと思う」
「なら……そうね。わたしはひよりの相棒としてどっちがふさわしいか勝負でもしてもらおうかしら?」

にこりと悪戯に微笑むココちゃんを見ては一緒になって小さく笑う。
決まりだ。彼を探しにどこまででも行ってやる。私は、ココちゃんと旅をする。
……意気揚々とそう決めた瞬間。金色のお殿様が赤く染まった鋭い瞳で睨みつけてくる姿が頭をよぎってしまった。……うう、負けるものか。



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