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ココちゃん曰く、殿の料理は本当に美味しかったらしい。「美玖の師匠だけのことはあるわね」、なんて鼻をかみながらココちゃんが殿を横目に見る。鼻頭を赤くしても美人は美人だ。褒められている殿も満更でもない様子で、さっきまでの不機嫌さはどこかへ飛んでいったようだった。ココちゃんに大感謝。

「それで、主は何者だ。この地方の者ではないだろう」

肘掛へ寄りかかって扇子を開く殿。その延長線上にいるグレアも、そっとその場に座り直していた。まるで戦闘開始前のような張り詰めていた雰囲気が少しだけ緩んだ気がして、ひっそりとひとり息を吐く。

「俺の名前はグレア。イッシュ地方から来た」
「イッシュ……それはまた随分と遠いところから来たものね」

ぐずり、ココちゃんが鼻を啜る。
──そういえばウツギ博士の研究室にはとても大きな地図が貼ってあった。ジョウト地方とイッシュ地方の間には大海が広がっていて、簡単に来れる距離ではなかった気がする。

「俺はひよりのポケモンで、ひよりと仲間と一緒にイッシュ地方を旅していた」
「ひより……って、このひより……?」
「……ああ」

大きな目をさらに大きく見開きながら絶句するココちゃんと、同じく目を見開いて開いた口が塞がらない私。
グレアが私のポケモンだったというのは聞いていた。だけど他にも仲間がいて、さらには一緒に旅をしていたなんていうのは初耳だ。どうやら私は、ただぼんやりと暮らしていたわけではなかったらしい。

「ふむ。ならば主はどうやってここへ来た?セレビィかや?」
「いや違う。……誰とは言わないが、力を借りてここへ来た」

彼の答えに殿は目を細める。あの表情、大体の予想はついているんだろう。

「セレビィはここへ来た時、何か言っていなかったか?」
「すでに主も知っているだろうが、ひよりにはイッシュ地方での記憶が一切ない。それと一緒で、あやつの記憶もなくなっているようだったな。勿論、イッシュ地方にいるときの記憶だけではあるが」
「…………」

何か思い当たる節でもあるんだろうか、グレアは目線を下へ向けていた。
……私だけではなくセレビィの記憶までなくなっていたなんて。しかもどうしてイッシュ地方での記憶だけが無いのだろうか。おかしい。まるで何かを隠しているような、。

「なんだ、主がセレビィに頼んだのではないのかや?」
「頼む……?それはセレビィが言っていたのか?」
「ああ。"誰かに頼まれて時渡りをした"とな」

殿の言葉の直後。グレアが急に立ち上がる。

「──邪魔をしたな。世話になった」

フードまで被って静かに一礼をすると、身体の向きを変えて襖へと向かうではないか。もう遅いし、まだ彼の体調も心配だ。……止めるために立ち上がろうとした私のすぐ横。赤い扇子がすごい勢いで通り過ぎた。驚いて一瞬動きが止まってしまう。

「主、どこへ行くのだ」

いつの間にか振り返って扇子を手で止めていたグレアを見ながら、殿が目を細める。しかし彼は質問には答えず、扇子を畳の上へゆっくり置くと再び足を進めていた。それに殿がひとつため息を吐いて、肘掛に体重をかけながら頬杖をつく。

「行くなら連れて行く者が一人いるであろう?」

ぴたり。彼の足が襖のすぐ目の前で止まる。取っ手にかけた手も止まり、ほんの少しだけ隙間を作った。

「何を考えているかは知らぬが、わっちは別に止めはしないぞ。むしろ早く追い出したいぐらいなのだからな」

……誰のことを言っているのかなんて、この場にいる全員が分かっていたはずだ。私はただ、黙ってその場に座っている。

「主は時を越えてまで、何しにここへやってきたのだ?」
「…………それは」

途中で止まる言葉に、また殿がため息をつく。顎で美玖さんを使い、畳に置かれた扇子を持って来させると再び広げてひらひらと仰ぐ。風で揺れる金色の髪は、何とも面倒臭そうな表情とは裏腹に蜘蛛の糸のように細く綺麗に揺れている。

「言わぬならわっちが言ってやろう。主はひよりを迎えに来たのだろう?違うかや?」
「…………」
「勝手に連れて行くが良い。わっちは構わぬ」

ぱちんと扇子を閉じて立ち上がり、欠伸をひとつ零す。そうして殿は上着を羽織ると襖へ向かって歩き出し、扇子でグレアを端へ動かすとそのまま部屋へと戻ってしまった。

……部屋に残された私は、ただ呆然としていた。殿は事をおおむね理解したような素振りを見せておきながら全て丸投げにして颯爽と部屋に戻ってしまったし、対する私は分からないことが多すぎて何をどうすればいいのかも分からない。

「……とりあえずさ、」

ビニールが擦れる音が聞こえた。それと一緒に美玖さんが立ちあがって、食料が詰まった袋を両手に掴む。それからにこりと笑みを浮かべると顔の横まで長ネギが刺さったままの袋を上へ持ち上げた。

「夕飯にしようか」

場の空気を変えるために美玖さんが気を遣ってくれたのだ。私が大きく頷いてみせると、袋を両手に抱えて台所へ向かう美玖さんが立ち止まったままのグレアの横を通り過ぎる。
とりあえずココちゃんにはそのまま寝ていてもらって、私は夕飯の準備を手伝うため美玖さんの後を追いかけた。
……私が部屋を出たあと、グレアもそっと部屋を出ては反対方向、……つまり、玄関へ向かう。

「……グレア、こっちだよ」

私が彼の服の裾を掴むと、少し驚いたように目が大きくなっていた。まさか引き留められるとは思っていなかった。そんな顔をしている。

「美玖さんのご飯、すごく美味しいんだよ。一緒に食べよう」
「……悪いが、俺は行かないといけないところがあるんだ」

掴んでいた裾が手からすり抜け、何もなくなる。
……私は、まだ何も聞いていない。きちんと話していない。距離感だって、まだ分からないままなのに。

「……私を迎えに来たって、本当、なの……?」

背を向けたまま少しだけ振り向いて、またすぐ顔を背けてしまう。表情は伺えない。けれども、なんとなく。今、グレアをここに留めないといけないような気がした。だから一度離した手をもう一度、今度はしっかり手を掴む。一度ぴくりと動いた大きな手は、そのまま大人しく私に捕まっている。

「……私、知りたい。もっとあなたと話したいと思ってる」

ごつごつと骨ばった手は、力強く握り締められていた。私の片手だけでは包みきれないからそっと両手で包み込むと、次第に力が抜けて拳は隙間を作ってゆく。

「グレアのことも知りたい。もしかすると、話しているうちに思い出すかもしれないよ。だから、!」
「ひより」

──私の言葉を遮るように呼ばれた、私の名前。
心臓がどくんと飛び跳ねた。そうしてそっと視線を上げると、目の前の彼がゆっくり振り返る。悲しそうな、辛そうな、……そんな顔。なぜ、どうしてそんな、。

「俺は、……俺は、出来ればお前の記憶は戻らないでほしいと思っている。だから俺に過去のことを聞いても無駄だ。話すことは何もない」
「──どうして、そんなことを言うの……?」

するりと両手から抜け出す手を、再び掴むことは出来ない。反対に上へ持ち上げられたグレアの手は、少しためらうように私の頬に指先でそっと触れるとすぐに下へ降ろしていた。

「知らないほうがいいんだ。忘れていた、ほうがいいんだ。……ひよりのためにも、俺のためにも」

──……そうして離れる手を、裾を、捕えることが出来ないまま。
外の闇に溶ける彼の背中を、ただただ静かに見送った。立ち尽くしたままの私には、見送ることしかできなかった。





頼むから、ひとりで行かないでくれ。

私にそう言った本人が、行方も教えてくれないままひとりでどこかへ行ってしまった。
彼が出て行った後、ふらりとひとり外へ出てみれば、この家を守るように囲っている湖には一本の細い道が出来ていて彼が通り過ぎるとすぐに水が道を覆い隠すというなんとも不思議な仕組みになっていた。
……こんなことが出来るのは殿しかいない。

『なんだ、主は残ったのかや。残念極まりない』

水面に波紋が広がったと思えば、金色のミロカロスが顔を出して赤い瞳を意地悪く細めていた。底も見えない黒い水のはずなのに、金色の姿は透明な水の中を泳いでいるかの如くはっきりと見えている。

「殿、どうしてグレアは……」
『わっちに聞くな。わっちとて全て分かっているわけではないのだ』
「…………」

微かな光でも輝く鱗は、水中でもこの世のものとは思えないほど綺麗だ。
……私は、グレアがよく分からない。もちろんそれはきちんと話していないからというのもあるけれど、それを抜きにしても彼の見せる矛盾に戸惑いを隠せない。

『まあ察するところ、あやつは面倒事に巻き込まれているのだろうな』
「面倒事ってなんですか」
『だからわっちに聞くなと言っているであろう、たわけ』

ばしゃんっ!と水が顔面に飛んできて一瞬のうちにびしょ濡れになる。仕方なく服の裾で濡れた顔を拭って、手すりに寄りかかってみた。「なんだ、つまらぬ反応だ」、なんて再び顔を出したミロカロスはまるでため息をついているように頭を垂れる。

『──……仮に、だ』
「?」
『もし仮にわっちがあやつの立場だったならば、わっちも主は置いていっただろうな。それが何故か、主に分かるか?』

女には分からぬだろうな。、私が答える前に殿が嘲笑う。それからちゃぷちゃぷとゆっくり私の目の前までやってきて視線を合わせる。ミロカロスの姿は、本当に美しい。

『主がよほど大切なんだろうよ。……忘れたままならそのままにして、面倒事は己で片付けよう。と言ったあたりか』
「ちょ、ちょっと待ってください。その面倒事って、私も関わっているんですよね?それなのにどうして……」

もし仮に、殿が言った通りグレアが私を迎えに来ていたとすると、私も関係しているに違いない。なのにどうして、私を連れていかなかったのか。どうして忘れたままでいいだなんて、そんなことを言ったんだろうか。

『主を守るためだ』
「……私を?」
『ここに居たほうがよっぽど安全だ。だから、』
「そんなの……!」

そんなの、納得いかない。行く行かないを決めるのは私ではないのか。
思わず手すりを思い切り握りしめて身を乗り出すと、今度は殿の尾鰭が私の頭を襲う。多少手加減してくれていたんだろうけど、痛いことに変わりはない。後ろに仰け反って頭を両腕で抱えていると、ぼちゃんと水音が響いた。

『女はよく"共に"困難を乗り越えようとするが、男は違う。大切なものを危険に晒すくらいなら一人でどこまでも突っ走る。守るためならなんだってするさ』
「……私には分かりません」
『だから女には分からぬと言ったのだ』

そういうと姿が見えなくなるぐらいまで潜っていってしまった。急に静かになる洞窟の中。……殿もどこかへ行ってしまったようだ。

「……」

全然、納得いかない。拳を握って手すりをグッと叩くと、少しずつ熱を帯びる手と静寂に広がった鈍い音が共鳴しているような気がした。



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