5


カツカツと足音が響く洞窟内。唯一の灯りは美玖さんが持っているランプのみ。いつもお留守な足元にも気をつけながら、我が家を囲む黒い湖を目指す。

「ひよりは暗い場所が苦手だったよな?克服したのか?」
「えっ。う、ううん、苦手のままだよ。でもここはもう家の中みたいなものだから慣れたのかもしれない」
「……そうか」

急に話しかけられたことに驚きつつ、彼の知る私も暗いところが苦手だったのかとぼんやり思った。しかしながらグレアの言う"ひより"は結局私であることに変わりはないから、苦手なものが一緒なのは当たり前だ。分かってはいるものの、何だか別人のことのように思ってしまう。

「ひより、荷物任せたよ」
「はい、任されました」

ねぎが突き出ている袋を受け取り、一歩後ろに下がる。
そうして波ひとつない静かな黒い湖に浮かぶ大きな甲羅が、いつも通り岸辺まで寄ってきては私が乗りやすいように角度を斜めにできるだけ動きを止めてくれていた。

『足元ぬかるんでるから気をつけて』

何回かここで転んだことがあるからなのか、最近美玖さんは決まって私にこの言葉を言う。気をつけてはいるけど本当に滑りやすいところでして……ああ、今までに何度服を泥だらけにしたことか。
そんな訳で揺れ動く甲羅に乗るのにはちょっとした覚悟が必要なわけで、今日も覚悟を決めてから一歩踏み出す。……直前。不意に持っていた袋が後ろに引っ張られた。慌てて振り返ると、骨ばった手が私が持っている荷物をかっさらう。

「そっちの袋も俺が持とう」
「え、でも、」
「持ちながらだとますます足元がお留守になるぞ」

……否定できない。お言葉に甘えてもうひとつの袋も手渡してからのろのろ甲羅に乗った。一息吐いてから袋を受け取ろうと、四つん這いのまま甲羅の上で方向転換をすれば、突然ぐらりと左右に揺れ動く。

「何をしているんだ?」
「に、荷物を受け取ろうと……」
「俺が持っているから大丈夫だ」

さっきまで岸辺にいたはずのグレアが、もう甲羅に乗っかっている。さっきの揺れは彼が乗ったとき起こったもののはずだけど、いつ飛び乗ったのか全然分からなかった。いつも苦労をしながら乗っている私とは大違いだ。

『あれ、電気がついてる』
「ほんとですね。珍しい」

順調に水の上を進んでいく中、先に見えた灯りに美玖さんと会話を交わす。
玄関外の電気がついているということは、今日は殿は出かけてないんだろうか。いつも出かけるはずの殿がいるのはなぜなのか。不思議に思いながら考えて、まさか、と思う。……いや、まさか、……。

「寝込みを襲うなんてことは……」
『流石に殿も……ない……こともない、かな』
「なんの話だ?」

突然妙な話を始めてしまってグレアには悪いとは思う。でも今はそれどころじゃないことに気が付いた。今更、気が付いてしまった!そうだよなんで私はココちゃんを置いていったりしちゃったの!?殿がいるのに!?

「美玖さん!」
『急ぐからしっかり掴まってて!』

もし最悪の事態になっていたらと、とりあえず打撃用に袋から大根を取り出して握りしめる。私の力で殿をぶん殴っても全然効かないだろうが、何も無いよりはマシだ。

家に着いて、すぐさま甲羅から飛び降りた。慌てて美玖さんも人間の姿に戻ると殿の部屋を確認するためなのか家の後ろへ走り回っていた。

「……何かあったのか?」
「すごく……大変なことになっているかもしれない」
「なら俺が先に行く」
「だめ、これは私が行かないとだめなの」

玄関の扉に手をかけるグレアを制止して首を左右に振る。ココちゃんのことは私が守る。ここで私が一番に行かないで誰が行くというんだ!

「危なくはないんだろうな」
「……多分」
「……」

私が大根を振りおろした後どうなるか分からないけれど、仮にもお殿様だからきっと手加減はしてくれる……はず。うん、きっと大丈夫。

「……部屋に殿はいなかったよ」

戻ってきた美玖さんからは絶望的な言葉がでてきた。これでまた最悪の状況へ一歩近づいてしまったということだ。唾を一度飲みこんで、大根を握りなおす。

「美玖さん、私が先でいいですよね」
「うん、援護はオレに任せて」
「ありがとうございます。……グレアはここで待ってて。すぐ戻るから」

無言のままの彼から視線を外して、隣に並ぶ美玖さんとアイコンタクトをとる。
ココちゃんが寝ているのは入口からすぐ左の部屋。私とココちゃんの部屋だ。どこに何があるかを把握しているのは幸いである。最終チェック。大根オッケー、シュミレーションオッケー。

「……行きます!」

ガラッ!と素早く玄関を開けては靴を脱ぎ捨てる。それから廊下を走って襖を思い切り開けて大根を構えた。
そうすれば、驚きの表情を浮かべるココちゃんと偉そうに座椅子に踏ん反り返りながらこちらを見る殿の姿が見えた。
──瞬間、なぜか後ろに傾く私の体。
廊下で足を滑らせたのかと思ったけれど、手首を掴まれる感覚ですぐに違う分かった。後ろに倒れながらも景色がスローモーションのように流れて、驚いている美玖さんの表情も見えた。どうしてこうなっているのか把握できないまま、衝撃に備えて無意識に全身に力が入る。……が。

「──……え、」

頬を撫でる黒髪に肩へ回る腕。頭が追いつかなくて身体を相手に任せたまま瞬きを繰り返す。

「……頼む、」
「グ、グレア……?」
「頼むから……ひとりで行かないでくれ、」

絞り出すような声で呟かれた言葉に息をのむ。
覆い被さるように抱きしめられているから彼がどんな顔をしているのか分からないが、今はそれで良かったと心から思った。

「今度こそ、絶対に、……」

よく聞こえなかった言葉の直後。──バチンと頭上で弾けた音に、慌てて顔をあげる。それと同時に床に落ちたのは見慣れた赤い扇子。これは……殿の扇子では……?

「…………」

扇子を投げたであろう手をゆっくり降ろす殿は、私をものすごい剣幕で睨んでいる。それにグレアが対抗してくれているものの、殿の目には私しか映っていないらしい。殿と私の間に入ってくれているグレアが全く意味を成していない。
そうして殿は、懐からまた別の扇子を取り出しては私に向かって言い放つ。

「おいひより!拾ってくるなら女にしろ!」
「…………は?」

グレアの拍子抜けしたような声を聞きつつ、目の前の状況を再確認する。
ココちゃんは驚いた表情で布団から上半身だけ起こしている。……よかった。最悪の状況にはなっていなかった。
……が、これはこれである意味最悪の状況なのかもしれない。

「そやつはわっちを睨み殺すつもりか?返り討ちに合いたくなければ、今のうちにやめておくが良い」

床に落ちた扇子を美玖さんに拾わせると、殿はそれを受け取りながら引き続き座椅子にふんぞりかえっていた。

「……殿はなんだか悪役が似合いそうですね」
「ひより、主はわっちに叩かれるのが好きなようだな」
「ごめんなさい」

また扇子を投げる仕草を見せられては謝るしかないじゃないか。速攻謝罪すると、殿の手がスッと下がる。

「ちょっとあなた。ひよりから早く離れなさいよ」

いまだに私を守るように片腕に抱えているグレアに向かって、ココちゃんがゴホゴホと咳き込みながらも睨んでいる。本人は必死に威嚇しているみたいだけど、冷えピタにマスクというまさに病人という格好では何の効果もないのでは……。

「お前、体調が悪そうだが……大丈夫か?」
「余計なお世話よ」

なんだか家を出るときよりも悪化しているような気もする。できればポケモンセンターやウツギ博士のところに連れていって直接見てもらいたいところだけど、本人が行かないと断固拒否を続けているからそれも出来ず。とりあえず事情を説明してウツギ博士から貰ってきた薬を飲んで貰おう。
グレアに目配せをしてから離れてココちゃんのところへ向かう。

「ココちゃん、まだ寝てないと駄目だよ」
「……そうね。私もひよりには心配をかけたくないから早くそうしたいけれど、そこの彼が何者なのかはっきりするまで眠れないわ」

ココちゃんを半ば無理やり布団に戻して、バッグから薬を取り出し枕元に置いておいた水をコップに注ぐ。その隣には空になった白いお皿。お昼はちゃんと食べてくれたらしい。良かった良かった。……ってあれ。お昼までには帰る予定だったから昼食の準備はしていなかったはず。なのにここにある白いお皿は一体……?

「ココちゃん、このお皿は、」
「……殿が作ってくれたの」
「ん!?」

なんだって?殿が作っただって?いやいや、そんなバカな。あの殿様が作るわけないじゃないか。そう思って顔をあげるといつの間にか殿が私のすぐ隣にいた。どうして近づくときに気配を消すんだろうか。びっくりするからやめてほしいんだけどなあ。

「ひより、信じておらぬだろう」
「それは…………まあ、」

すると、急に顎を片手で掴まれ、思わず身動きが取れなくなった。赤い瞳に長すぎる睫毛……やっぱり見てくれだけは良いよなあ。なんて悠長に考えていると、両頬を指で容赦無く押された。そうして私の口が開いた瞬間、スプーンを思い切り突っ込まれた。
さらにそこから注ぎ込まれたものが熱いのなんのって!そのまま吐き出すわけにもいかず、すぐさま後ろに仰け反り口元を両手で隠す。絶対わざとだ……!

「ほれみろ。わっちの料理は泣くほど美味しいであろう」
「ちっ、ちがいまふ!これは、あふ、あつくて!……あっふい!」

ニヤニヤ笑みを浮かべながら、涙目になる私を見る殿。こんな熱いもの、味なんて分かるものか。信じてもらえなかったことがそんなに気に食わなかったのか。それにしても、なんという酷い仕打ち。これ絶対、舌やけどした。

「主、そんなに睨んでもわっちには効かぬぞ」

睨みが利くような相手だとは思っていない。むしろ睨む余裕もない今、霞む視界に殿を捉えた。それからその視線の先を追って見れば、……あの雪の降り積もる森で出会ったときと同じように、鋭く光る青い瞳が視界に入る。
直感で「あ、まずい」と思って口の中のものを慌てて飲み込む。

「だっ、大丈夫!私は大丈夫だから!ね!?」
「……ならいいが」

言葉と表情が一致していないんだけど。
未だ不満そうにそっと腕を降ろしては私から視線を外す彼を見る。……私に対して過保護すぎではないだろうか。
未だ、グレアとの距離感は掴めていない。



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