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ひたすらに走って走って──……走った先。
雪に足をとられながらなんとか進んでいる中、ばちばち!と激しく弾けるような音が聞こえてきた。
……右……いや、左だ!まだわずかに距離がある。正確な位置が掴めず、自身の耳を頼りに雪を掻き分けてゆく。
「美玖さん……どこ……?」
ゼブライカ、らいでんポケモン。博士の持っていたあの分厚い本にはそう書いてあった。雷電即ち電気タイプは水タイプである美玖さんにとっては最悪の相手だ。美玖さんに限ってそんな、とは思ってはいるものの、やっぱり心配なものは心配だから自然と焦燥感が高まる。
「……!また聞こえた!」
電気の走る音。速まる足。吹っ飛びそうな帽子を押さえながら息を切らして走る走る、走る。
──……そうしてやっと。
「美玖さん……っ!」
「!?、ひより、どうして、!」
必死に走ってきた私よりも荒い呼吸に所々焼き焦げた衣服、傷だらけの手足……美玖さんの姿を見た途端、自分の身体が震えだす。寒さだけではない。恐怖と不安で震えているのだ。
「オレはいいから今すぐここから逃げるんだ!」
「いいい、嫌です……っ!私は助けにきたんです!」
片膝をついている美玖さんの元へ駆け寄ってから、急激に冷えた身体とガチガチと小刻みに音を鳴らす歯を食いしばって背負っていたバッグを降ろす。それから手袋を手早く取ってから、ガーゼと傷薬を出して未だ血が流れる傷口に当てた。じわりと染みる赤を見ながら唇を思い切り噛み締める。
「……今日だけはオレの言う事も聞いてもらいたかったな」
「ごっ、ごめんなさい!でも美玖さんが心配で、それで、私でも出来ることがあるんじゃないかって思って、……」
伏せたままの顔に、目の前には大きく左右に震える自身の手。助けにきたなんて良く言えたものだ。
……また、空からゆっくりと白い雪が降ってくる。
「なんとなくひよりは追いかけてくるんじゃないかとは思っていたよ」
「ご、ごめんなさ、」
「ありがとう、ひより」
「──……え、」
思わず顔をそっとあげると、美玖さんは困ったような表情を浮かべながら笑っていた。それからふらりと立ち上がって、二丁の銃を両手に引っ提げながら私の横を通り過ぎる。……まだ、戦うつもりなんだ……!!
「ッ美玖さん、一旦ひきましょう!その身体では……!」
「大丈夫。オレはまだまだ戦えるよ」
……それにやっと、話せる距離まで来てくれたからね。
私を隠すように美玖さんが目の前に立つと、続いて雪を踏みしめる足音が聞こえた。突如聞こえてきたその音に驚きながら、ずり下がる帽子を直してはじっと息をひそめる。
「話もせずに攻撃をしてくるなんて、よほど警戒しているんですね」
「今まで散々追いかけ回されたからな。用心するに越したことはないだろう」
被っていたフードを持ち上げ、後ろへ投げる黒髪の男の人。そこではっきり顔が見えて──なぜか一瞬、どきりと心臓が大きく音を鳴らした。
頬にはゼブライカの模様と同じペイントがあり、写真と同じく目つきもなかなかに鋭い。風になびく前髪は右目を見え隠れさせている。
「それで、どうして今になって出てきてくれたんですか?」
「話せる相手だと判断したからだ。お前の後ろにいるのは一緒にいたトレーナーだろう?もしもあいつらなら、ポケモンが怪我を負っていても心配すらしない」
「なるほど、それで距離をとったまま攻撃してきていたと……」
……つまり。私の出方を見ていたということなのか。しかもわざわざ美玖さんを傷つけて、私がどういう反応を見せるのか探っていたと。
追われていたとかなんとか言っていたから、彼にも何か理由があるのだろう。でも、それでも……こんなのってあんまりだ。
「出方を伺うにしても、やり過ぎです……!」
ゆっくり立ち上がってから美玖さんの横に出ると、やっと彼と目があった。青い瞳が私を見ては、ゆっくりと目を見開く。
「ひより、危ないからオレの後ろへ」
「でも美玖さん!」
すっと美玖さんの片腕が目の前に伸びてきては、また私を隠すように前に出る。私が何か言ったところで対峙している彼は何も言わないし、結局何かが変わるわけでもない。
……そう、思っていた。
「──……ひより、……」
──……一瞬。誰が私の名前を呼んだのか分からなかった。
ひどく優しく、柔らかい声色だった。
その声に私と美玖さんが同時にゆっくり視線を目の前の彼に向けると、……確かに、彼は私を見ていた。
「本当にひより……、なんだよな……?」
「そう……です、けど……」
「──……そうか。……そうか。……声も覚えているつもりだったのだが、……忘れていたんだな」
先ほどと全然違う雰囲気と表情に戸惑ってしまう。嬉しそうな、でもどこかすぐにでも泣いてしまいそうな。
どう説明したらいいのか分からない表情をしている彼に、私は一歩後ろに下がった。よく分からない感情を向けられている不安。……彼は、私のことを知っている……?
「あ、あの。確かに私はひよりです。でも、」
「……?さっきから思っていたがどうして敬語なんだ?まるで初めて会った時のような……、」
「……私たち、"はじめまして"、ですよね……?」
「…………え、?」
お互い驚きを隠せず視線を合わせたまま固まってしまう。
もしかしたらどこかで会ったことがあるのかもしれない。そう思って殿と美玖さんにお世話になってからの今までを思い返してはみたものの、やっぱり目の前の彼は全く思い当たらない。そもそもゼブライカなんてこの地方では珍しいポケモンなら一度会えば忘れることはないはずだ。
「あなたと会うのは初めてのはずですが……」
「……な、何言ってるんだよ。こんなときに冗談、」
「いえ、冗談ではありませんよ。本当にあなたのことを知らないんです。人違いではありませんか……?」
目の前。ゆっくり美玖さんの腕が下に降りる。もう戦う必要はないのだろう。
確かに、彼はもはやそれどことではないぐらいに取り乱している様子が伺える。
「な……何が、どうなって……、」
直後。彼の身体がぐらりと後ろに傾き、その場に倒れるように座り込む。額に手を当てて俯き、次第に呼吸が荒くなってゆく。
「っ!?だ、大丈夫ですか!?」
思わず慌ててかけ寄ったものの、目前、伸ばされた片手でストップをかけられて立ち止まる。俯いたままで表情は伺えないが、呼吸と一緒に肩が動いているのをみると状態はよくないはず。
「ひより、急いで研究所に戻ろう」
「は、はい!」
すかさず動きだす美玖さんの掛け声にハッとしてから、バッグを拾い上げて帽子を被りなおした。それから座り込んでいた男の片腕を首に回して担ぎあげる美玖さんの代わりに荷物を持って、隣に並ぶ。
「川が凍ってなければいいんだけど」
「えっ、泳いで戻るんですか!?その身体で!?」
とんでもない。美玖さんだって怪我をしているのに泳いで帰るとか正気じゃない。
なんなら私がこの人担いで帰りますから!、そう言い切って反対側に回っては美玖さんの真似をして片腕を担いでみたものの、それだけでも重たすぎて私の方が潰れそうになった。
実際、そのまま雪中へ何度目かのダイブを果たしたわけですが。
「ポケモンの姿なら多少痛みも和らぐし、泳ぐ時間も短いから心配はいらないよ」
ゆっくり起き上がりながら髪についた雪を払うと、美玖さんが笑っていた。……恥ずかしい。
「……あ、水の音」
雪の積もった間に穏やかに流れている川が見えた。水温のほうが外気よりも高いのか、川からは水蒸気があがってぼんやりと靄に包まれている。
「よし、これで早く戻れるぞ。ひより、少しだけ彼を頼むよ」
力なく俯いたままの彼を雪の上にゆっくり降ろすと美玖さんがカメックスの姿に変わる。いつみてもすごいギャップだなあと思いつつ、なんとか踏ん張って男を担ぎあげた。
「ぐぬぬぬ……っ!」
『大丈夫か……?』
「大丈夫、です……っ!」
引きずりながらでも甲羅の上まで運ぼうと頑張ってみるものの、これまた重いのなんのって!でもここは私が早く乗せなくては、この人の具合がさらに悪くなってしまう。なんとしてでも運んでやる。
「──……ひより、」
「はっ、いぃっ!?」
……ぼふん。
突然呼ばれた名前に驚いて私が滑ったついでに、ドミノ倒しのように担いでいた彼まで雪の中へ埋もれることになってしまった。しかも下敷きにされている私。さて、私に覆い被さっているこの病人をどうやって起き上がらせようか。
「ぐぬー……っ!」
全っ然身動きがとれず……仕方なく這い出る手段を選んだ。
そうして雪の中を少しずつ這っているとき。不意にお腹のあたりに腕が回ってきた。びっくりしてうつ伏せの上半身を少しだけ浮かせる。
「っな、な、……!?」
「──お前はひよりだけど、ひよりではないんだな」
「どういう意味……、」
ぎゅう、と。一瞬だけ腕の力が強くなったと思うとすぐに離れた。ついで、自分でゆっくり立ち上がる彼を雪の中に座り込んだまま見上げる。
「……悪い。俺はもう大丈夫だ。世話になったな」
そういうとよろめきながら背中を向け、川と反対方向へ向かうではないか。
いやいや、何が大丈夫なんだ。あんな足取りで今すぐにでもまた倒れそうなのに。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
慌てて追いかけて手首を掴むと手のひらに冷たい感覚が広がる。私の手もそれなりに冷えている。それでも冷たく感じたということは、この人の体温が私より低いということだ。
「……なんだ」
「一緒に行きましょう」
「いや、遠慮させてもらう」
掴んだ手は振りほどかれて、再びざくざくと雪が積もる森へと戻ろうとする。
……な、なんて意地っ張りなんだ。だけど私だって諦めない。彼を研究所へ連れ戻すことがウツギ博士の頼みでなくとも、このまま弱っている彼を放っておくことはできない。
「……」
すぐに追いついて今度は無言でしっかり手を握れば、彼は驚きながら私を見下ろしていた。私はといえば、その視線には気づかないフリをして力づくで川の方向に手を引っ張る。
「お、おい、俺はいいって、」
「そんなふらふらしてるのに何がいいんですか。何がなんでも連れて帰りますからね!?」
本気で抵抗されたら絶対に敵わない。それでも彼は私に引きずられているのだから、完全に拒絶はされていないのだろう。
そうして無理矢理美玖さんの甲羅の上に押し乗せたあと私も急いで乗り込んだ。それと同時にすぐさま動きだして、景色がどんどん流れてゆく。
「……」
「……」
銀世界を眺めながら、逃げられないように繋いだままの手に不思議な感覚を覚える。言葉では表現できない。……なんとなく、覚えのあるような……、?
「……変わらないな」
「なにがですか?」
「……いや、なんでもない」
冷や汗を拭う横顔は青白い。きっと座っているのも辛いはずなのに、そっと笑みを浮かべる男。
それがどうしてなのか分からず、私は手を繋いだままの彼から視線を外した。