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「ごめんなさいです……滅多に誰も来ないものですから、慌てて飛び出してしまったです……」

ズレた大きな茶縁眼鏡に、それに負けないぐらいの大きな丸い瞳。ボリュームのある髪を二つに緩く結んでいるこの女の子は、どうやら私たちの話し声や物音に警戒してやってきたらしい。

「こっちこそごめんなさいね。怪我はない?」
「あう、大丈夫です」

髪についた木の葉をとりながら落ちていたベレー帽を被ると、のそのそと立ち上がる。それから二、三度服をはらって、ようやくズレていた眼鏡を掛け直した。

「パピエと申しますです」
「私はひよりです。隣がココちゃん」
「心音よ、どうぞよろしく」

簡単に挨拶を済ませたとき、私はあることに気がついた。
パピエちゃんの後ろでゆらゆらと暢気に揺れている白い尻尾、そして筆の様な形で黄緑色の絵の具を含んでいる毛先。……これはもしや、もしかしなくても。

「パピエちゃんは……ドーブル、ですか?」
「あうう、バレてしまいましたか」
「隠す気なんてこれっぽっちもあらへんやろが!」
「わー、素早いツッコミありがとうございますです」

楽しそうに笑みを見せるパピエちゃんとココちゃんの姿に釣られてにっこりしてしまう。そうしてふと、パピエちゃんが垣根に向かって歩き出した。着いてこいということなのか、ちらり振り返って私たちを手招きをする。可愛いなあ。

「パピエはこの森に住んでいるの?」
「いえいえ、違いますです。あう、でも今は住んでいると言えるかもです」

パピエちゃんに続いて垣根の隙間をくぐり抜けると、そこにはひとつのテントがあった。何色もの絵の具で塗られている、今までに見たことがない色のテントだ。そしてその横にはキャンバスが立てかけられている。

「パピエはここでコンクールに出す絵を描いているです。ええと……ここへ来てから、今日で二週間ぐらい経ちましたです」

地面に散らばる色とりどりの絵の具チューブを拾い上げて端にまとめるパピエちゃんは「どうぞ座って下さいです」と横たわる大木を指さす。
お言葉に甘えてそこへ座ると、立てかけていたキャンバスの表が見えた。青々と茂った緑に静かに佇む大木。……それはまるで写真のように繊細な絵で、思わず魅入って目が離せなくなる。

「あう!それは失敗作なのであんまり見ないで頂きたいです」
「えっ、これが失敗作!?こんなに綺麗に描かれているのに……」
「……ありがたいお言葉ですが、パピエはその絵に納得がいかないのです」

俯きがちにそう言うと、足早にキャンバスに近づくと自身の尻尾でその絵に大きくバツの印をつけてしまった。どろりと垂れ下がる絵の具が美しい木々を塗り潰してゆく。

「なんだか勿体無いですね……ここまで描くのにパピエちゃんだって苦労したはずなのに……」
「…………」

無言のままパピエちゃんはバツ印がついた絵をくしゃくしゃに丸めてポケットに押し詰めてしまった。それから一度テントの中に入ってからサイコソーダを私とココちゃんに手渡すと、真っ白なキャンバスの前にある小さな木製の椅子にちょこんと座る。

「コンクールまでもう時間がないのに、満足できる絵が全然描けないのです。静かなこの森に来ればきっと描けると思ったのですが……違いましたです」

肩を落として握った筆も下に降ろす。……私から見れば、とても素敵な絵なんだけどなあ。ぱちぱちと口の中で弾けるサイコソーダを味わいながら、パピエちゃんの膨らんだポケットを見ていた。

「パピエは今、絵を描きたいという気持ちはあるのかしら?」
「……本音をいえば、描きたくないです。逃げたいです。でも描かないともう時間が、」
「そう、なら決定ね」
「……あう?」

そういうとココちゃんは、私とパピエちゃんを引き寄せたかと思うとチルタリスの姿に戻って大きく翼を広げた。すぐに地面から離れるもんだから、私とパピエちゃんは落とされまいとしがみつくのに必死だ。

「コ、ココちゃんどこ行くの!?」
『それは着いてからのお楽しみよ』

ふわり。再び襲い来る吐き気。それに慌てて口元を押さえてながらしがみついていると、後ろからパピエちゃんの声がする。

「ひよりさんはポケモンさんの言葉が分かるんです?!すごいです!あうっ?!」
「わー!パピエちゃん危ない!!」

滑り落ちそうになったパピエちゃんを必死に掴むと、一瞬でポケモンの姿に戻った。パピエちゃんもといドーブルは軽くて、私でもなんとか引き上げることができた。そのまま胸元に手繰り寄せて腕と胴体でしっかりおさえる。

『あうう、ありがとうございましたです、パピエはもう死ぬかと思いましたです……!』
「いえいえ、今度は私も押さえているから大丈夫ですよ」
『はいです!これならパピエも安心です!』

──そうしてココちゃんが着地したのは、ほんの数分後だった。飛行距離が短いおかげか、最初のときよりも吐き気が大分治まっている。

「はい、ここはどこでしょうか」

満面の笑みでココちゃんが手で指し示すのは、詳しくない私でも一目見て分かる建物。……これは紛れもなく、あの場所だ。

「あうう、ここはコガネシティのポケモンジムですね……」
「はい正解!じゃあ入るわよ」
「ええええっ!?」

止める暇も質問する時間すらなかった。ココちゃんに引っ張られるがままの私に、開いたジムのドアをなかったことにすることはもちろん出来るはずがない。
──ピンク色の床に可愛らしい壁紙。そして迷路のように行く手を阻む壁や階段は、まるでやって来たチャレンジャーをジムリーダーのところへは行かせんとばかりどっしり構えているように見える。ええと……ところで、なぜ私たちはこんなところにいるんだろうか。

「ひより、緊張しているの?」
「そ、そりゃ緊張するよ!だってジムだもん!ココちゃん、バトルするつもりなの!?」
「も、もしやパピエも戦うですか……?!パピエ、バトルは苦手です……!」

うええどうしよう!なんてパピエちゃんと手を取り合っていれば、ココちゃんが口元に手を当てながら楽しそうにくすりと笑う。

「安心して、戦いにきたわけじゃないわ。遊びに来たの」

え?、と私から声が漏れる前に、壁の向こう側から驚いたような声が聞こえた。高音の明るい雰囲気、そしてやっぱりコガネ弁。

「ちょ、ちょっとアカネちゃん、もし違う人だったらどうするのよ?!」
「いいや、違うことあらへん!このごっつ綺麗な声は……」

鉄壁かと思われていた壁の一部から急に線が浮き出てきた。それからすぐに段差をつくってガチャリと音を立て、たった今現れたばかりの扉が開く。

「わーん!ほら、言うた通りやった!よお来たなあ、鈴、……むぐ、」
「今は"心音"いう名前なんよ」

出てきたと同時にココちゃんに飛びついてきたのはピンク色の髪に超ミニのスカートを履いている女の子……ジムリーダーのアカネさんだ。

「久しぶりやな、アカネ。元気にしとったか?」
「元気も元気、めっちゃ元気や!ところで……心音、言うたか?あんた、サーカスはどうなったん?」
「……話すと長くなるんよ。だからそれはまた後でにしてや。紹介するわ。わたしのトレーナーのひよりと、絵描きのパピエ」

ココちゃんから視線を私たちへと移すアカネさんにお辞儀をする。……すごい。アカネさん、すごく可愛いしなんかいい匂いする……!まさにダイナマイト・プリティ・ギャル!

「うちがアカネちゃーん!このジムのジムリーダーや!どうぞよろしゅう」
「こちらこそよろしくお願いします」

挨拶を交わすと、アカネさんは再びココちゃんと会話をはじめていた。二人のコガネ弁を何だか新鮮な気持ちで聞きながら、案内されるがままに歩きはじめる。隣にいるパピエちゃん同様、私もジムの中をぐるりと見まわしては「カワイイ!」を連呼する。

「ほな、服脱いでもらおーか」
「は、…………い!?」
「はよ脱ぎー!」

とある部屋に入った途端。
問答無用で服が上へ引っ張られる。私だけかと思いきや、パピエちゃんも部屋にいたお姉さん方に脱がせられているではないか。とりあえず身体を縮めてみるものの、手際が良すぎて結局服は剥ぎ取られてしまった。

「あうう……お洋服、とられちゃったです……」
「代わりにタオル一枚か……」

上半身素っ裸で手渡されたタオルをぎゅうと前で抱きしめる。……一体どうしてこうなった。
いつ取り戻そうかと悶々と考えつつ、そのまま案内された先はカーテンの仕切りがある簡易ベッドが規則正しく並べられた場所。

「あ、やっと来たわ」
「女の子同士やったら恥ずかしくないやろが」
「はっ、恥ずかしいですよー!?」

涙目で叫びに近い声をあげるパピエちゃんをなだめつつ、お姉さん方に誘導されるがままひとつのベッドに腰掛けた。

「はいはい、いいからそこにうつ伏せになりい。アカネちゃんからプレゼントやで!」

半ば力尽くでうつ伏せになった私とパピエちゃん。背中にどろりと冷たい液体がかけられて思わず一度身体を震わせた。……それからはもう至福の時間だ。アロマのいい香りと心地いいマッサージ。こんな贅沢、したことない。

「あうう……とっても気持ちいいですう……」
「せやろー?うちの子たちの腕は最高やからなあ」

あまりの気持ち良さに前で組んだ腕に顎をのっけてウトウトしていると、急にパピエちゃんが頭をあげてどこからか紙とペンを取り出し必死に何かを描きはじめた。つい、ココちゃんと顔を合わせて笑みを浮かべる。

「パピエはきっと考えすぎて、気に入ったものがかけなかったのよ」

わたしもね、絵ではないけれど似たような体験をしたことがあるから分かるのよ。とココちゃんが言う。それに耳を傾けるパピエちゃんの手は止まっている。

「パピエは描きたくないと言ったわよね。なら描きたくなるまで描かなければいいのよ」
「で、でもそれでは……」
「描きたくないときに描いたって気に入ったものが描けるわけないじゃない。ならいっそ全然関係のないことをやって楽しんだ方がいいと思うの」

実際そうやったら思いついたでしょう?、そう言って笑ってみせるココちゃんにパピエちゃんがゆっくり頷く。

「大好きがいつも大好きだとは限らないわ。だからね、嫌になったら一度離れてみるのもいいと思うの。本当に大好きなことなら、離れてもすぐにまたやりたくなるから」
「……そうですね、心音さんの言う通りです。パピエ、さっきまですごく描きたくなかったのに今は違うです」

そういってタオルを掴んで起き上がるパピエちゃん。それと一緒に私とココちゃんも帰る準備を進める。

「ほんまおおきにな、アカネ」
「ええってええって。その代わり、またあんたの歌聞かせてや!」

目をキラキラと輝かせながら語るアカネさんの姿に笑うココちゃんはとっても嬉しそうだった。それから一言「勿論、ええよ」と言葉を返すとアカネさんの頭を撫でてから私の隣に戻ってきて、チルタリスの姿へと変わる。

「アカネさん、本当にありがとうございました。とっても気持ち良かったです」

……なんだかんだですでに日が少し傾きはじめている。幸せな時間は経つのが早いなあ。

「ひよりちゃん、ちょっと」

アカネさんにお礼を述べてココちゃんに乗る手前、アカネさんに呼び止められる。今一度彼女の前まで戻ってみると、小声でアカネさんが話し出した。

「詳しいことはよう分からんけど、心音のこと助けてくれておおきにな」
「いえ、そんな……」
「あの子な、サーカス入るの泣くほど嫌がってたから今頃どうしてるか心配やったの」

パピエちゃんと楽しげに会話をするココちゃんを遠く見つめるアカネさん。

「でもほんま安心したわ。ひよりちゃんみたいなええトレーナーと一緒で、あの子も幸せそうや」
「……そうだといいんですけど」
「あの顔見てみ。幸せの他の何物でもないわ」

ほんま、おおきにな。
夕焼けに照らされながら微笑むアカネさんにお辞儀をしてから、私もココちゃんの背中へと乗っかった。

「またいつでも来てなー!」

手を振るアカネさんの上空、言葉代わりの歌声が聞こえる。……ココちゃんがさようならの挨拶として歌っていた。
そうして綺麗な歌声とともに、コガネシティへ別れを告げる。別れというには聞いていると楽しくなってくるメロディーで、実にココちゃんらしいなと思わず笑みがこぼれた。





当たり前のことながら、昼間でさえ暗かったウバメの森はより一層暗さが増していた。
そんな中、テントに戻るや否やパピエちゃんは大きなランプをたくさんキャンバスの周りに並べると一心不乱に絵を描きはじめる。

「ここは……この色を混ぜてですね……」

絵の具をひねり出して筆に馴染ませ、キャンバスに滑らせる。その表情は真剣そのもの。

「ねえココちゃん」
「なあに?」
「もしかしてココちゃんは、歌でパピエちゃんと同じ経験をしたの?」

ええそうよ。とココちゃんは湯気の出るマグカップを両手で包み込みながら頷いた。

「自分より歌の上手い子を見つけるとなんだかもやもやしちゃって考え込んでいたの。そのときアカネにさっきのことを言われてね、」
「アカネさんの言葉だったんだね」
「アカネは明るくて前向きで……とても世話になっていたわ」

ぱちぱちと目の前で弾ける焚き火に木を継ぎ足す。それから顔を少しあげると、パピエちゃんがいつのまにか筆を置いて鉛筆を握っていた。私の視線に気がついた彼女は、スケッチブックを優しく抱え込みながらはにかんで見せる。

「あうう、なんだかお二人を描きたくなったので描いていたです」
「あら本当?ちょっと見せてよ」

おずおずとスケッチブックを差し出すパピエちゃんからココちゃんが受け取り、私にも見えるように斜めに傾けた。

「わ……すごい、写真みたい……!」
「ほんとね。パピエ、あなたすごい才能だわ」
「あう、そ、そんなことないです……」

色はついていないのにこんなにも鮮明に印象を与えられる。すごいとしか言いようがない。焚き火を手前に、私とココちゃんが楽しそうに話している絵。……あ、そうだ。

「パピエちゃん、隣のページに描いてもいい?」
「どうぞです!あう、何を描くですか?」

鉛筆を借りて最大限丁寧に描いていると、私が何をしたいのかココちゃんも分かったようで、横から手を伸ばしてはサラサラと白いページに二人して思いも思いに描いていた。
そして、出来たものをパピエちゃんに見せると目を丸くしてから声をあげる。

「わあ……!これ、パピエですかっ!?」
「あー!分かってもらえて良かった……!下手くそだけど、どうしてもパピエちゃんもいれたくて」
「あうう、パピエ、他の人にパピエのことを描いてもらったの初めてです……!とってもとっても嬉しいです!」

私からスケッチブックを受け取ると、そのままぎゅうと胸に抱きしめるパピエちゃん。喜んでもらって私も嬉しい。……と、ここで鳴ったのは私の腹の虫。そしてハッと気がつく。

「あー!?もう夜だよね!?か、帰らないと殿に怒られる……!」
「すっかり忘れていたわ!急ぎましょう、ひより!」

慌てて大木から立ち上がって、広げた荷物を慌てて詰め込む。そんな私たちをおろおろしながら見るパピエちゃんも、椅子から立ち上がってキャンバスの前に立った。

「あう、お二人のお家はコガネシティじゃないです?」
「ワカバタウンなの。だから急いで帰らないと」
「そんな遠くだったですか!あうう、コガネシティならまた会えると思ったのに……」

早速チルタリスの姿になったココちゃんに乗る前。
パピエちゃんの手をぎゅっと握ってから笑ってみせる。

「またいつか会えます!そしたらまた一緒に遊んでください。それからコンクール、応援してます!」
「……は、はいです!また会うときまでにお二人に見せられる絵を描けるよう、パピエ頑張るです!」

眼鏡を掛け直して笑顔を浮かべるパピエの手を離し、急いでココちゃんに乗り込む。広げた翼の風圧で、焚き火の炎が大きく揺れていた。

『またね、パピエ!』
「またねです!お気をつけてくださいですー!」

小さくなるパピエちゃんに、だんだんと開ける視界。地平線に仄かに見えるオレンジ色とちらちらと点滅する星屑たち。
帰り道の空はとても綺麗で、心も幸せで満ち溢れていた。……セレビィとは会えなかったけど、とても良い一日だったと心底思う。



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