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息を吐くと、白い息が宙に浮かんでは消える。
冷え込む早朝、キンと凍える空気を少し吸ってからコートの中へ首をすぼめた。それでも寒くて身体が一度ぶるりと震え上がる。

「ココちゃんはそんな格好で寒くないの?」
「ええ。平気よ」

丈の短いスカートから伸びるスラリとした細くて白い生脚。ロングブーツを履いているとはいえ、肌を出してる時点ですごいなあと感心する。そしてなによりもあの胸元。首元ノーガードで、よくこの寒い中で居られるものだ。

「忘れ物はない?」
「うん、大丈夫だよ」

そんなココちゃんに対して、若干動きにくく感じるほどの重ね着装備の私。
大丈夫。とは言ったものの、一応鞄の中身を再度確認してみる。斜めに掛けるパンパンに膨れた鞄の中には、ハンカチティッシュに傷薬、そして美玖さんお手製のお弁当が入っている。これだけは絶対に忘れてはいけないものだ。絶対。

「今日中に帰ってこい。分かったな」
「それ、もう何度も聞いたわよ」
「特別に何度でも言ってやろうぞ」

玄関の柱に寄りかかる殿は、ココちゃんを見たあとにひとつ欠伸をしていた。それも一瞬で白くなっては、初冬の空気に溶けて消える。

「それにしても、殿がこーんな朝早くから見送りのためだけに起きて下さるなんて思ってもみなかったわ」
「たわけ。わっちは美玖に無理矢理起こされたのだ」
「……オレより早く起きていたのはどちらさまでしょうかね」

言葉の途中で殿は美玖さんをきつく睨みつけながら、足早に家の中へと戻って勢いよく戸を閉めた。となると、やっぱり美玖さんの言葉のほうが正しいらしい。
戸を挟んでぼんやりと見える金色を見ながら取手に手をかける。そうして再びからからと横に開ければ、すぐそこに殿の背中が佇んでいた。

「私たちのこと心配してくれて、ありがとうございます」
「そういうことにしておいてやろう」

殿の答えに思わず笑みが零れる。どうやら意地でも認めないらしい。そんな殿の羽織の裾に手を伸ばして、しっかりと掴むと肩越しに少しだけ振り向いた赤い瞳と目が合う。

「必ず家に帰ってきます。……ところで、私の家はここでいいんですよね?」
「ひより、主は回りくどい言い方をするのだな」

殿にはただ一言、「そうだ」と答えてもらいたかったのに全く違うものが返ってきた。さらに即答で。回りくどい言い方で悪かったですねー。

「必ずここに帰ってきます。約束ですよ」

言い終わるのが早いか、扇子が私の手の甲に落ちるのが早いか。
ぺちんと叩き落された手を胸の前に戻しながら、ぼそっと一言呟いてから気怠そうに部屋へ戻る殿を見つめる。
……殿、今、……。

「ココちゃん、!」
「勿論、ばっちり聞こえてたわよ」

後から隣に並んだココちゃんは面白そうににんまりと笑みを浮かべながら、私と同じく殿の背を見つめる。

「……さ、行きましょう。ひより」
「うん!」

戸をくぐり、再びひんやりとした外へ出る。
殿と美玖さんと戦った日を境に、ココちゃんは二人の前でも平然とポケモンの姿に戻るようになった。殿と何か話しているところを見かけたけれど冷戦に立ち会うのは気が引けてしまって、どんな内容か私は知らない。それでも今も良好な関係が続いているからそれだけで十分だ。

「夜ご飯、作って待ってるよ」
「わあ!それは絶対帰ってこないといけないですね」
「そうじゃなくても、だろ」

クスリと笑う美玖さんから離れて、翼を広げるココちゃんの背中に跨がる。ふわふわな羽が足元を覆ってくれてとても温かい。

「"気を付けて行って来い"、ひより」
「──……はい!行ってきます!」

二人分の言葉を胸に、ふわり浮かび上がる感覚に一度目を瞑った。
手を降る美玖さんを背に、向かう先はウバメの森。……私の記憶の鍵を手に入れるために、冬の空を駆け抜ける。





「うえええ……」
「ひより、大丈夫……?」

……未だに内臓が身体の中でふわふわと浮いている気がする。
ココちゃんから降りた瞬間、激しい吐き気に襲われてしゃがみ込んでいる今。人間の姿になって優しく背中をさすってくれているココちゃんに口元を押さえながらこくこく頷く。

「ごめんなさい、飛ばしすぎちゃって」
「だ、いじょぶ。ありがと……うぷ、」

逆流してくる何かを必死で抑えて足に力を入れる。あんなにも想い焦がしたウバメの森がすぐ目の前にあるというのに、なんて私は情けないんだ。くそう、意地でも吐くものか。
……それからどれほど経っただろうか。
なんとか吐き気との勝負に勝利した私は、やっとゆっくり立ち上がることができた。

「……ココちゃん、行こう」
「少し休んでからのほうがいいんじゃないかしら」
「ううん、大丈夫。早く行かないと日が暮れちゃうよ」
「わかったわ。でも無理はしないでね」
「うん、ありがとう」

──……そうしてふたりでウバメの森へと続くゲートをくぐり抜ける。
一歩踏み出せば、草の掠れる音が鳴る。まさに森。見えるものは一面の緑で、日がそれに遮られて午前中だというのに薄暗い。さらに今は冬のはずが、ここの森は濃緑色の葉がわさわさと茂っている。これもセレビィと何か関係があるのだろうか。


「祠は……ええっと……」
「ひより、わたしに任せて」

字がかすれた木製の看板に目を凝らして見ていれば、横からココちゃんの手が伸びてきてそのまま森の中をずんずん進み始めた。引っ張られるがまま、私も一緒に足を運ぶ。

「あと……そうね、五分ぐらいで着くかしら」
「ココちゃん、ここのことよく知ってるみたいだね?」
「昔はここが遊び場だったのよ。わたし、この森の先にあるコガネシティの出身だから」
「そうなんだ!?」

なるほど。だからときどきコガネ弁を使っていたんだ。コガネシティ出身なら、ごく稀に見せてくれる素早いツッコミにも納得だ。

「でもコガネシティ出身なのに全然訛りがないよね」
「昔は舞台で話すこともあったから、その時恥ずかしくないように直したの」

移動サーカスだったしね。そう付け加える横顔は少し寂しそうに見える。
……それから歩き続けて、ココちゃんの予測通りの時間に祠に到着した。緑生い茂る中にひっそりと佇むそれはどことなく神聖な空気を纏っているが、木の葉が小さな屋根に乗っかり今にも森と一体化しそうになっている。きっと、このまま気づかずに通り過ぎてしまう人も沢山いるに違いない。

「セレビィさーん……いませんかー……?」

祠にあるたった一つの小さな扉に向かって声をかけていると「その中にはいないわよ」と笑い声が聞こえた。

「いるとしたらこの辺を飛んでいるはずなのだけど……やっぱりそう簡単に会えるものではないようね」
「……そっかあ」

期待せずにはいられなかっただけに、セレビィがいないという事実にやっぱりどうしても気が少し沈んでしまう。

「無駄足を踏ませてしまってごめんなさい、ひより」
「そんなことないよ!諦めずに何度も来ればそのうち会えるよ、きっと」
「……ふふ。そうね」

ひとつため息を吐いたココちゃんが、突如、動きをピタリと止める。
どうしたのかと話しかけようと口を開けば、無言で首を左右に降って私を祠と挟むように距離を縮めた。
……がさりと、何かが動く音がする。

「……何かな」
「多分ポケモン……。出てきたらひよりはすぐ祠の下に隠れて。いいわね?」

ココちゃんに向かって頷き、態勢を低く構える。……速くなる鼓動と近づいてくる音。
そのとき、足音が急に速くなった。ガサガサと音は乱暴になり、そして、

「伏せて!」

ココちゃんの声に飛び上がった身体は、そのまま木の葉がたっぷり敷き詰められている地面に転がった。それから音はすぐに消え、再び森に静寂が訪れる。

「ココちゃん……?」

目を瞑ったときだったか、目の前からココちゃんの姿が消えていた。
ひとり、祠と共に取り残されてしまったみたいで、急に不安が押し寄せる。そうして慌てて立ち上がって辺りを見回しながらココちゃんの名前を呼び続けていると、少し離れた自然の垣根の向こう側から声が聞こえた。

「ココちゃん大丈夫?!」
「い、痛いです……っ!あうう、」
「……ん!?」

……今の声はココちゃんではない。もっと幼い声だ。
一応警戒しながら近づくと……、そこには。
笑顔でひらり手を降るココちゃんと絞め技を食らっている少女という、なんとも異様な光景があった。



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