3


「痛っ、」
「ちょっと。動かないでじっとしていなさいよ」

私が正座で頬を冷やす横。ココちゃんと美玖さんがそれぞれ手当てを進めていた。部屋に広がる薬品の匂いは、なんとなく今は落ち着く匂いのように思える。

「心音さん、オレは大丈夫なので自分の手当てを……」
「もう終わったから手伝ってあげているの。ほら、前向いて」

向かないと顔面にかけるわよ。そういいながら傷薬を目の前に構えるココちゃんに、美玖さんは渋々顔を前に戻した。それでもやっぱり気になるようで目線はチラチラと後ろへ向いている。

「甲羅背負ってるだけあって背中は傷が少ないわね」

手当て終わりの合図なのか、ココちゃんが捲っていたワイシャツをおろしてバシン!と背中を叩くと、美玖さんの体が一度大きく飛び跳ねた。それに首を傾げるココちゃんとジリジリと距離を置く美玖さん。

「……ねえ、どうしてそんなに距離をとるのよ?」

そういうとココちゃんは腕を組んで顔をしかめる。
……頬の熱もだいぶ引いた。一度手の平で頬を触ってみたらひんやりとしていて気持ちよかった。それから溶けてほとんど水が入った袋を床におくと、困り顔の美玖さんとばっちり目が合う。
「ココちゃんにも言うべきですよ!あ、でもあえて言わないでこのまま普通に接してもらって治すのもアリですね」、小声で美玖さんにそう言えば、慌てて左右に顔を振ってみせる。
打ち明ける覚悟ができたのか、ココちゃんと向かい合う美玖さんが正座になってから渋々口を開く。

「……あの。実はオレ、……女性が苦手でして……」
「……本当に?」
「……はい」

目をまん丸にしたココちゃんは、人差し指で頬をぎこちなく撫でる美玖さんを見ながら「へーそうなの」なんて一言述べるとツンと腕をつっついた。それにまた飛び上がる姿を見ては、楽し気に笑みを浮かべる。いたずらっ子みたいなことしてる。可愛い。

「こっ、心音さん!」
「なによ。美玖、あなたずっとこのままでいるつもりではないでしょう?なら別にいいじゃない」
「うん、確かにココちゃんの言うとおりだね」
「!?ひよりまで、そんな……!」

立ちあがって私からも距離を置く美玖さんに思わずニヤっとしてしまった。なんとなく居心地の悪い空気だったけど、少しだけいつもみたいに戻った気がする。
……しかしそれも、聞こえてきた一つの音でまた元に戻ってしまった。

「──……今の音って、」
「……殿が出かけたみたいですね」

美玖さんが広げた救急箱を静かに閉じて棚の上に戻す。
それを見ながら、またあの時の殿の表情を思い出していた。殿があんな顔をするなんて未だに信じられない。それに私を叩いたのも、きっとなにか理由があるはず。


「……美玖さんなら、分かりますか?」
「ん、なんだろう?」
「私を叩いたときの殿、……怒ってはいたんですけど、なんだかちょっと、泣きそうにも見えたんです。私の気のせいかもしれませんが。……それがなんだか引っかかっていて……」

私の言葉に、美玖さんは立ったまま少し視線を下へ向けては何か考えていた。それから少しして、私とココちゃんの前にゆっくり座ると口を開く。

「……たぶん、だけど。心音さんを庇うひよりと、ある人の姿が重なってしまったんだと思う。それでつい、手をあげてしまったんじゃないかな……」
「その、ある人とは……?」
「──……殿のトレーナーだった人、だよ」
「ええっ!?」

自分でも驚くぐらい大きな声がでた。あの殿にトレーナーさんがいたなんて信じられない。けれど美玖さんが言うなら本当のことなんだろう。それにしても……うん、本当に信じ難いことだ。殿を手懐けるトレーナーなんて、想像もできない。

「なら、今そのトレーナーはどうしてここにいないのかしら」
「…………それは……、」

美玖さんが口ごもる。話そうか話さないか悩んでいる様子で、結局、視線を下げたまま口を閉じてしまった。


「──……それは。もう、あやつはこの世に居ないからだ」

静まり返る部屋に響く凛とした声に慌てて身体を捻った。
つい先ほど出かけたはずの殿がなぜか襖横の柱に寄りかかりながら立っているのだから、驚きのあまり声も出せない。

「……全く、あやつも主もとんでもない阿呆だ!」
「あいたっ!」

足早に私の前にやって来ると扇子でバシン!と頭を叩かれた。頬の次は今度は頭かあ……。いつも以上に強く叩かれたみたいで、やけに痛む。……痛い。
涙目になっている私にはお構いなしに、殿は立ったまま私を見下ろしては言葉をぶつける。

「黙って指示だけ出していれば良いものを、何故自らを盾として出しゃばるのだ!?」
「その……気付いたら動いていて……」
「ったわけ者が!」

バシン!、またしても強烈な振りが頭に落ちる。咄嗟に手でガードしてもなぜか必ず頭を叩かれているのだからもう訳が分からない。

「わっちたちポケモンは人間如きに守られずとも、あの程度の攻撃なら少しの怪我で済む!だが人間は、……人間は、違うだろう!?」

振り下ろされた扇子から今度こそ頭を守ろうと腕を頭に引っ掛けるけれど、いつまで経っても落ちてこない。……ビクビクしながら両腕の隙間から目の前の殿を見上げると、当然の如く切れ長の赤い瞳と目が合った。

「……何故分からぬ」

ひどく、寂しげな声色だと思った。
スッと私の目の前に殿が座り、私の両手首をそっと掴むと流れるように下へ降ろす。それからノーガードとなった私の頭には、鉄のような扇子の代わりに優しく手の平が乗せられる。

「人間は脆い。──……とても、脆いのだ」

スラリと長い指を持つ女の人のように綺麗な、だけどゴツゴツと直線的な大きい手。紛れもない殿の手なのに、今までになく優しい手つきに今もまだ本当に殿が私の頭を撫でているのかと疑っている。

「まさかとは思ったが、主もあやつと同じと分かった以上、やはり行かせることは出来ぬ」

殿はそれだけ言うと、部屋をそっと出て行った。私の頭に乗っかった手は二回三回と優しく跳ねたのち、何事も無かったかのように颯爽と去ってしまった。……少し、名残惜しく思う。

「……そうね。殿の意見にはわたしも頷かざるを得ないわ」

ココちゃんが溜めていた息をゆっくり吐き出しながら眉を下げる。

「相手がまだ内輪だったから良かったものの、これが外での戦いなら……考えたくもないわ」

ココちゃんは一度ぶるりと震え上がると腕を交差して自分自身を抱きしめていた。……ごめんなさい、で済む話ではない。それぐらい私は重大なことをしてしまったのだ。ココちゃんの手前、なんとなく視線を合わせられなくて俯いてしまう。

「殿はひよりのことを心配していたんだよ」
「殿が……私を?」
「──……殿のトレーナーは、殿を庇ったことが原因で亡くなったみたいだから」

美玖さんの言葉で、ようやく全てが繋がる。と同時に喉元がきゅうと狭くなって苦しくなった。あの、殿の表情も。さっきの言葉も。……全て、過去の出来事からきていたんだ。

「……それで、今回ひよりがどうでるのかを見るために戦ったということね」
「そうですね。見るためには心音さんを危ない目に合わせてしまうのは必然的だったので、最後まで反対したのですが……今はやって良かったと思ってます」

がたんと音を出したのは私自身。美玖さんとココちゃんの視線を浴びながら、気づけば立ち上がっていた。鉛のように重い足を一歩踏み出し、襖の取っ手に指をかける。

「ひより……?」
「ちょっとだけ、……ひとりにしてほしいな」
「……わかったわ」

ぎこちなく細まる水色の瞳に、ぎこちない笑顔で返して襖を開けた。
そのまま振り返らないで後ろ手のままゆっくり閉めて、ひとり、部屋へ足を進める。

「……」

……私がやったことは誰の為にもなってなかった。殿の過去をほじくり返して、美玖さんとココちゃんには心配かけて。
殿たちの気持ちは十分分かる。でも、それでも、私の身体は勝手に動いてしまう。それはきっと、これから先もずっとそう。大切な人を傷付けたくない、私だって守りたいと思って走りだしてしまう。

「……どうしよう、」

部屋に入ると、片隅に折り重なる布団が見えた。今朝ココちゃんと一緒に片付けたものだ。そこへなんとなく歩いていって、そのまま顔面からボフンと倒れてみる。鼻が潰れて息もしずらい。

……たとえば。
またさっきのようなことが起きたとする。殿たちに言われた通り、私はそれを見ながら飛び出すことを我慢したとしよう。一緒に戦っているのにココちゃんだけ傷ついて、大怪我を負って、……駄目。駄目だ。

「そんなの絶対、ダメ」

……何度考えても、殿たちに言われた通りにすれば後悔の道しか無い。かといってどうすればいいのか考えても、一向に思いつかなかった。
はあ。……どうしたものか。



- ナノ -