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ガシャン、と銃のスライドを引く音が聞こえた。
美玖さんが本気で人を撃つなんてことはないと思ってはいるけれど、どうしても何となく落ち着かない。腰を抜かしたままの男は、いつ自分に銃口が向けられるのかと気が気ではない様子で浅い呼吸を繰り返している。

「少しお時間を頂いてもよろしいでしょうか」
「ひっ、はいい!」

咄嗟に返事をする男の情けない声に呆れたのか、美玖さんはため息を吐くと振り返って私を見る。いつもなら目線を合わせて話を聞いてくれる美玖さんが立ったままなのは、一応男を牽制しているからだろう。

「少しだけでいいから状況を教えて欲しい。話せるかな」
「はい」

返事をして、先ほどまでのことや男から出された条件を簡単に伝えた。そうすれば美玖さんは「教えてくれてありがとう」と一言返して、再び男と対峙した。次いで彼が銃を仕舞うと同時に、男の安堵のため息が聞こえる。

「つまり、お金があればいいんですよね」
「そ、そうだが……」
「彼女を自由にするにはその方法しかないなんてとても腑に落ちませんが、仕方ないですね」

そう言うと美玖さんは懐から金色の鱗を取り出し、男の目の前に落とした。それを見た途端、男の目の色が変わってまるで肉に飛びつく獣の如く、目にも止まらぬ速さで鱗に手を伸ばす。……殿の鱗、本当に貴重な物なんだ。

「ほ、本物か……ッ!?」
「嘘だと思うのなら、今すぐ確認してきても結構ですよ」

男が鱗と美玖さんを交互に忙しく見てから素早く立ち上がると、鍵とモンスターボールをひとつ、美玖さんへ向かって投げつけた。それを難なくキャッチしてから、足早にこの場から立ち去る男に背を向け私のところへやって来る。

「はい。オレに出来るのはここまで」

目の前にスッと座って、私に鍵とボールを差し出す美玖さんを見た。

「さあひより、枷を外してあげるんだ」
「で、でも、鍵を貰ったのは美玖さんで……」

素直に受け取れない私の手前、彼が首を小さく左右に振ってから鍵を床に置いて立ち上がる。

「彼女を自由にできるのは、ひよりだけだよ」
「…………」
「オレには、できないことなんだ」

扉へ向かって歩いていく美玖さんの背をぼんやり見送っていると、開かれた扉の先からヒノアラシくんたちの心配そうな声がぽつりぽつりと聞こえた。……そっか。私はあの子たちにも心配をかけてしまっていたんだ。早く戻って、みんなにも謝らなければ。

──そうして扉が完全に閉まり、私と彼女のふたりきりになる。

俯いたままの彼女の横。床に置かれた鍵をそっと手に取り、彼女の手首から枷を外してゆく。金属音だけが静かに鳴り響く部屋の中、足首にもつけられていた枷を外して一度目を閉じる。……ひどい。
白い肌に残る赤く痛々しい痕を指先でそっと触れてから、買い物袋から買ったばかりの傷薬を取り出して吹きかけた。

「……ひより、……?」
「えっ、は、はい!?」

思わず包帯を巻く手を止めて返事をしたが、一瞬、誰に名前を呼ばれたのか本気で分からなかった。
未だに内心驚きながらも顔をあげると、瞬きを繰り返す私が可笑しかったのか彼女が口元に手を添えながらクスリと笑う。

「……やっぱり。あなたの名前、ひよりっていうのね」

なんともない仕草も美しく見える。だからなのか、余計に赤く痛々しく残る痕が目に付く。とにかく簡単な手当だけでも済ませよう。そう思って再び包帯を巻くために手を動かすと、私の手の上に彼女の手がそっと添えられる。片手から両手になり、私の手を包んで持ち上げ額に当てながら長い睫毛を伏せる。

「ひより。本当に、本当にありがとう」
「そ、そんな……私は、何も、……」

素直に彼女の言葉を受け入れればいいのに、と自分でも思う。でもどうしてもそれが出来なくて。
──結局、私は一人では何も出来ずにまた美玖さんに頼ってしまった。さらに自分勝手な行動にヒノアラシくんたちまで巻き込んで心配させてしまう始末。情けない、悔しい。
握られている手から視線を落として床を見ていると、握られている手にぎゅっと力が入れられた。それに視線をゆっくりあげると、彼女が真っすぐに私を見ている。何となく合わせられない視線を彷徨わせていると、彼女の整った唇が震えた。

「……"何もしていない"、なんて、本当に思っているの?」
「だ、だって、あなたを助けたのは私じゃなくて、」

彼女に安心を与えたのも自由を取り返したのも、全て美玖さんだ。……私では、ない。

「あなたよ、ひより。あなたなの」

きつく握りしめられた手から手が離れ、気づいたときには彼女に抱きしめられていた。瞬きをしながら少しだけ顔を横へ動かすと、細く透き通るような空色の髪がさらりと流れる。

「──あなたがあの時来てくれたとき。こうやって、あなたが優しく抱きしめてくれたとき。……わたしがどれほど救われたのか、きっとあなたには分からないでしょうね」

彼女がゆっくり身体を離して私を見る。大きな瞳が潤んでいて、今にも涙をこぼしそうにしながらも美しく微笑んでいた。そんな表情に私まで泣きたくなってしまう。

「わたしを見つけてくれたのはあなた。手を差し伸べてくれたのも、あなたなの。わたしに自由をくれたのは、ひよりなのよ」
「……歌姫さん……」

ふと、彼女がゆっくり立ち上がって床に残されたままのボールを手に取り、再び私の前で座る。

「……見ていて」
「……?」

直後、一瞬で彼女の姿がチルタリスに変わった。目の前で真っ白の羽根が大きく広げられて思わず息を飲む。美しい姿の中にある痛々しく変形している羽根。食い入るように見ていると、またすぐに人間の姿に戻ってはそこに立ったまま私を見下ろす。

「舞台でも私だけ擬人化したままだったのはね、羽根を見られたくなかったからなの」
「……そう、だったんですね」
「でも、あなたには見せないとと思って」

そういうと、彼女がしゃがんで私の前にボールを出す。男が鍵と一緒に残していった物だ。

「わたしのボールよ。受け取ってほしいの」
「……え、?」
「わたしの一生をあなたのために使いたい。あなたの隣に居させてほしい。……醜い姿のチルタリスでも良ければ、の話だけれど」

視線を外して苦笑する彼女の手前、腕を伸ばして彼女を抱きしめる。

「……ごめんなさい。なんと言っていいのか分からないんです。私には歌姫さんが今までどんなことをされてきたのか分からないから」
「……そうね、そうよね」
「でも!でも、……私は、美しいと思いました。これまで戦ってきた、強くて美しい羽根。私には、とても美しく見えました」

お世辞じゃない。本当にそう見えたのだ。少しでも伝わってほしい一心で彼女を抱きしめると、そっと細い腕が私の背に回る。
……私はこの世界の人間ではない。いつか元の世界に帰る日が来るかもしれない。そう考えると、彼女のボールを受け取ってはいけないような気がしている。
けれど。いつ帰れるかも分からない今、見えない未来よりも確かな今を選ぶべきだと思ってしまった。

──そうして身体をゆっくり離し、彼女の手からボールを受け取る。大事に両手で包んで持ち、彼女を見ると大きな目をさらに大きくしながら私を見ている。

「頼りないし何もできないけれど。こんな私でよければ」
「今のわたしには、あなた以外考えられないわ」

(今の俺には、ひより以外考えられない)

ふわりと微笑む彼女の言葉の後、一瞬、誰かの声がした。
……誰の声なのか分からない。なのに、……どうしてこんなにも、懐かしく思うのだろうか。

「どうしたの?」
「……あ、いえ。なんでもないです」

ぼんやりしていると歌姫さんの顔がすぐ目の前に現れて思わず後ろに身を引くと、またもやクスリと笑われてしまった。やっぱり、どんな仕草でも彼女は美しい。
それから立ち上がる彼女から差し伸べられた手を握り、少し遅れて立ち上がると、彼女は後ろ手で腰を少しだけ曲げると私に近づき笑顔を見せる。

「ねえ、ひより。わたしに名前をちょうだい」
「え!?私が決めていいんですか?」
「ええ。あなたが決めた名前ならどんな名前でも堂々と胸を張って名乗れる気がするの。もう私は歌姫でも、──でもないから」

名前らしき言葉はとても小さくて聞き取れなかったけど、気にしない。だってもう、彼女には新しい名前があるのだから。

「──"心音"」
「ここね……」
「はい。心に響く音、ここねってどうでしょうか。私、あなたの歌が大好きなんです」
「ありがとう。……とっても素敵な名前だわ」

わたしにはもったいないぐらい。、そういう彼女はとても嬉しそうで私も自然と笑顔になる。

「さあ、行きましょう。みんなにも心音さんのことを紹介しないと」
「……ひより。ありがとう。本当に、ありがとう」

強く握り返される手をしっかり握り、部屋の扉を開け放つ。
……彼女のボールを受け取ってしまったことが正しいかどうかは分からない。いつか彼女をひどく傷つけてしまうことになるかもしれない。でも、それでも、とても勝手なことだけど。きっと私は、後悔しない。彼女とこれから過ごす日々を、後悔することは決してないだろう。



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