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時計の針は午前0時。日付が変わった時間である。ガラガラと悪びた様子もなく堂々と音を立てて開いた玄関の戸。お殿様のお帰りだ。音に気付いて部屋の襖を開けてからそっと顔を出してみると、玄関に座る殿の元には美玖さんがすでに駆けつけていた。なんと早いこと。
「お帰りなさい、殿」
「……なんだ、小娘のくせにまだ起きていたのか」
「現代の小娘は普通に夜中まで起きているものですよ?」
「ふん。主も随分と言うようになったではないか」
美玖さんに羽織を渡してすたすた歩くと、すれ違いざまに扇子でぺちんと頭を叩かれた。手があがるのが完全に見えていたから今度こそ避けるぞ!と思って構えていたのにダメだった。ああ、このままだと殿が何か私に対して気に入らないことがある度に私を叩く癖がつきそうで怖い。
「というか殿、かなりお酒臭いです……うええ」
思わず顔をしかめて殿を見ると、にやにやしながらわざと私に近づいてきた。まさに酔っ払いのおっさんだ。いや顔が良いからお兄さんというべきか……。ともかく、すかさず美玖さんが腕を引っ張って距離を開けてくれたおかげで絡まれずに済んだけど、やっぱりまだ殿との距離感は掴めない。
「珍しく早い帰りかと思ったら、今日もかなり飲まれたようですね」
そういうと美玖さんがため息を吐く。この時間で早いというと、普段はさらに遅いのか。しかも"今日も"ということはいつも沢山飲んでいるのだろう。……いくら命の恩人といっても、よくもまあこんな人と文句のひとつ言わず一緒に暮らせるものだ。
そんなことを考えながら、通り過ぎた二人の背を見送っていた途中。ふと美玖さんが振り返る。
「ひより、おやすみ」
「お、おやすみなさい……!」
……正直、びっくりした。何でもない挨拶ですら、距離が縮まった感じがして嬉しい。にこりと微笑むその顔に思わずにやけながら手を振る。
「……美玖。いつの間にひよりと親しくなったのだ」
「今日は色々あったので」
「……ほう」
一度立ち止まって美玖さんを見ていた殿が、今度は私に視線を向ける。ちょうど美玖さんに手を振っていたけれど、思わず殿の視線に固まってしまった。……私から動かない視線。……殿にも手を振って、おやすみなさいって微笑むのが正解なのか?……なんか違う気がする。ので、ぎこちない笑顔で固まったままの私。
「……早く寝るのだぞ」
「は、はい……」
今の間は、いったいなんだったのだろうか。よく分からないまま、再び背を向け歩き出す殿と美玖さんを見送った。
それから私も部屋に入ってゆっくり襖を静かに閉める。私が借りているこの部屋は一番玄関に近く、とても広い。元は物置だと言っていたけれど、初めから物もあまり置いていなかったし綺麗だったため一人で借りるには贅沢すぎる部屋だ。今この広い部屋には少しの家具と、布団だけ。
「やっぱりまだ見慣れないなあ……」
布団の上に座って、ぐるりと一周部屋を見渡す。……自分の部屋が恋しい。
「…………あれ、?」
ふと。……恋しい気持ちは確かにある。でも、どうして。
……自分の部屋が、どんな部屋だったのかぼんやりとしか思い出せなくなっていることに気付いてしまった。
「うそ、なんで、……!?」
途端、焦燥感に駆られてしまう。思い出せないことはこんなに怖いことなのか、。
頭を抱えながら布団の上で膝を抱えて目を閉じる。……やっぱり。他にも思い出せないことが沢山ある。両親の顔は分かる。でも声が思い出せない。それに家のことも、近所の道も、友達のことも、…………。
「大丈夫、今だけのことだよ。きっと、……いつかは思い出せる、ぜったい、絶対……!」
布団に寝っ転がって毛布を頭まで被り呟くひとり言は、もはや呪文のようだった。
……自分自身のことなのに、分からないことが多すぎる。
「大丈夫、全部忘れるわけじゃない……」
この世界は楽しいことで溢れている。今日もとても楽しかったし、きっと明日も楽しいだろう。
でも私は、この世界の人間ではない。いつかはきっと、元の世界に戻るのだ。……その時のためにも、元の世界のことは決して忘れないようにしなければ。
自分に言い聞かせるように目を閉じる。
……大丈夫。きっと、大丈夫だから。