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……襖の前に立つ。未だにここへ来ると緊張してしまい、ゆっくり息を吸ってから襖に手を伸ばして横へ滑らせた。一人で使うには広すぎる部屋に、足を踏み入れ息を飲む。

「……殿、」

殿の朝はかなり遅い。寝ているところを起こすこと覚悟で入ってみると、今朝はすでに起きていた。
いつもの座椅子に座ったまま、私には背を向けている。……その先。ただの壁だったはずの場所に本棚がある。今まで隠していた……?

「──主の言ったことが、よもや本当になってしまうとはな」

座ったまま私の方へ身体を向けては静かに言う。

「それで、とうとうイッシュへ戻るのかや?」
「もう、知っていたんですね……」
「主の手持ちが揃った時点で薄々予想はしていたのだ。主が悪戯にこちらで暇を持て余す時間ももう無いのだろう。……つまらぬな」

赤い目が私を真っ直ぐに捉える。それにドキリとしながら、ふと、殿の手にある物に釘付けになってしまった。……"誰か"のボールだ。
──そのとき、殿のすぐ真横で光が生まれた。
小さな光の輪が広がり不思議な空間を作り出す。じっと見ていると吸い込まれてしまいそうになるそれは、見覚えのあるものだった。そうして飛び出してきた緑にアッ!と声をあげてから、目を見張る。

「セ、セレビィくん!?」
『やっほーひよりちゃん、久しぶりー!』
「どうしてここに……」

以前ココちゃんとウバメの森まで行ってあんなに探しても見つからなかったのに!
楽しげに周りをふらふら飛ぶセレビィくんを、鬱陶しげに手で払う殿をジッとみる。

『いやあ、やっぱり殿にひよりちゃんのことお願いしてよかったよー!これでボクの羽も千切られないで済むぞ!』
「たわけ。主のせいでわっちがどれほど苦労したか……」
『でもその分、とっても楽しかったでしょう?"彼"のこと、少しは忘れることが出来たでしょう』
「──……誰が忘れられようか」
「……あ、あのお……?」

一人会話に追いつけなくて、何が何だかさっぱりだ。そんな私のところへセレビィくんがやってくると小さな手を口元に当てながらクスクスと楽しげに笑う。

『殿はね、ボクの命の恩人でもあるんだよ。ま、正確に言えば殿のトレーナーさんが、なんだけどね』
「!?、殿、セレビィくんと知り合いだったんですか!?」
「だとしても、こやつは気まぐれに時を飛び回るポケモンだ。顔見知りだからといって主たちの前にそう簡単に出せるものでもなかったのでな」
「でもヒントぐらいくれても良かったじゃないですかー!」

サラッと言ってのける殿を睨む。私たちがウバメの森に行くときには何も教えてくれなかったくせにー!……って、ああもう!喧嘩をするためにここへ来たわけじゃない!

『ひよりちゃん、ボクも一緒にイッシュに行くよ』
「……え?」

私の目の前まで飛んできたセレビィくんの言葉を聞き返す。一緒に来てくれるというのは……。

『あれだけのお菓子じゃ割に合わないんだ。……それにボクは、彼のこと嫌いじゃないよ』
「セレビィくん……!」

思わぬ同士に腕を伸ばして小さな身体を思い切り抱きしめる。くすぐったいよー!なんて無邪気に笑うセレビィくんの存在が本当に有難い。構わずぎゅっとしていると、殿がボールを本棚に戻す姿が見えた。すると本棚はぐるりと一回転をして、あっという間に壁になる。……その先、僅かに白い部屋が見えた。ほ、本当に隠し扉だったんだ……。

「わっちは元より、主が早くこの家から去ることを願っていた。さっさとイッシュへ戻るが良い」
「…………」
『あっれー殿。そんなこと言って、実はかなり寂しいんでしょう?』
「ふん。そんな煽りなど効かぬわ」

そうしてまた座椅子に踏ん反り返るとこちらに背を向ける。セレビィくんを離して顔を顔を見合わせてから、ゆっくり殿のもとへと向かう。
……思えば私は、殿に出会った時から振りまわされていたなあ。あんな綺麗な外見なのに、女癖の悪い酒好きでだらしない人。本当に、自分勝手な殿様だ。

「殿」

けれど、なにも分からなかった私に居場所をくれたのは、紛れもないこの殿だ。
……殿の後ろに立ち、膝を床に着いた。それでも変わらず背を向けたままの殿が今は有難い。そうして後ろからそっと腕を伸ばして抱きついた。……いっそ、いつものように扇子で思い切り叩いてくれればよかったのに。──どうしてこういうときだけ、何もしてくれないのかなあ。

「……殿、私、……殿のことが大好きです」
「…………」
「人間の、私のこと。本当の家族みたいに、心配、……してくれたり。叱ってくれたり、"おかえり"って、言ってくれた殿のこと、……本当に、大好きです……っ!」

泣くつもりはなかった。けど、いざ言葉に出すと想いが涙と一緒に溢れて止まらなかった。
着物にしがみ付いたままの私を放っておいてくれているのは、彼なりの優しさなのか。そう思うとまた涙が零れる。

「まるでもう、一生会えぬような言い方をするのだな」
「そんなこと、……ない、ですけど……」

そっと、両手が私の頬に触れた。それにゆっくり顔をあげると、霞む視界に殿の顔が映る。赤が、揺らいでいる。気がした。
そうして殿の親指が動いたと思うと、私の目元を優しく拭った。その手つきにまた驚いては動けなくなってしまう。

「……わざわざ口にしないと分からぬか」

こつん。ぶつかる額と額に、涙で濡れる世界で殿の瞳を必死で見る。なんだよなんだよ、今の今までずっとあんな態度だったのに!……今さら、こんな、こんなあ……!

「──わっちもひよりが、大好きだ」
「──っ、!」
「行ってこい、ひより。わっちはここで、主の帰りを待っていよう」

目を細めて整った顔をしわくちゃにしながら笑う殿に、思いっきり抱きついた。ただじっとそこにいてくれる殿に甘えて、涙を零す。
別れが悲しくて泣いているわけではない。ただ少しだけ、……離れるのが寂しくて、私はただただ泣いていた。



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