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「……あの、もういいよ」

研究室の扉が閉まったのを確認してから、あの子を呼ぶ。
その言葉に反応して、暗闇に光が生まれた。そこから元気よく飛び出してきたのは緑色のあの子。この奇妙な雰囲気を放つ場所には似つかないぐらいの明るい笑顔で『やあ!』なんて手をあげた。

『すごく久しぶりだね!……あっ、キミからするとそんなでもないのかな』
「え、えっと……そうだね」
『今日はキミの方で良かったよー。もう1人のキミ怖くてさー。ボク、羽を千切られそうになったもん』
「ええっ!?ご、ごめんなさいいい!」

そんなの聞いていなかった!今更ではあるけど何度も謝ると、くすくす笑いながら『別にいいよ』と頭を撫でられる。……この子の方が小さいはずなのに、なんだか僕の方が子どもみたいだ。

「あ、あの、それでね、」
『分かってるよ。もうすぐなんでしょう?』
「……うん。一度きりだよ。失敗はできない」
『ま、ボクはキミの望み通り、別のところに運ぶだけだけどねー』

ふわり。僕の周りを飛ぶと、目の前で止まって目線を合わせ。
じっと目を合わせることに慣れていないからそっと目線を逸らすと、またくすりと笑われる。

『ねえ、ボクすっごく不思議なんだけどさ』
「う、うん……」
『どうしてこんなことしようなんて思ったの?ぶっちゃけさ、これ成功したってキミにメリットなんてないじゃないか。寧ろみんなの恨みを買っちゃうし、キミがすっごく危なくなるだけじゃん』

首を傾げながら、大きな瞳が僕を捕える。
確かにこの子の言う通りだ。成功しても失敗しても、僕の立場が無くなることに変わりはない。仮にこのまま彼に協力をしていれば、僕の望む世界を彼と一緒に好きに創れるし、その方がメリットが沢山あるのは分かっている。
……でも、それでも僕は、。

「僕に沢山のものを教えてくれたひよりさんを、殺すなんて絶対にできない」
『今はマーさんの力で僕たちの言葉が分かるみたいだけどさ、それが無くなればただの普通の人間だよ?代わりなんて沢山いるじゃないか』
「……代わりなんて、どこにもいないよ」

ふーん。そういってつまらなそうに視線を外すと、小さな羽を羽ばたかせて再びふわりと周りを飛ぶ。

『ま、元はと言えばキミのせいで彼女こっちに来ることになったんだもんね』
「……っ、……も、もちろんそれも理由の一つだよ」
『そんな顔しないでよ!?まるでボクがいじめているみたいじゃないか!』

痛いところを突かれる。鋭く、そして悪気がないからさらに性質が悪い。……それでも事実は事実だ。
僕が完全になりたいがため、彼の話に乗っかってしまったからマシロさんも捕まってしまった。だからひよりさんが呼び寄せられた。……そう、なってしまった。

『ま、大体わかったからもういいよ。じゃあ最終確認ね』
「う、うん」
『まずキミが足止めをしてる間にボクは彼女に軽く状況説明、そして移動の準備。キミもこっちに来てやるべきことをやって終了。おっけー?』
「お、おっけー、です」
『あ、そうだ……キミに言っておかないと』

正面にやってきて、それから何故か『ごめんね』、と視線を下げる。

『ボクの力では1人しかちゃんと移動できないんだ。だからキミはあの場からは移動できるけど時間操作はできない。……ディアさんならできるんだけど、あの人気まぐれだからさ』
「……手伝ってくれるだけで、十分だよ」

その場から姿さえ消せればいくらでも逃げられる。……だから、大丈夫。彼女さえ動かしてくれれば、それでいいんだ。

『ボクを助けてくれたキミに少しでも恩返しできればいいんだけど。じゃあボクは一旦姿を消すから、その時になったらまた呼んでね』
「う、うん……」

助けたというか、なんというか。
ほんの少し前を思い出しながら同じく手を振り、消える光を見送った。……さて、僕も行こう。

1人研究室を出て一歩踏み出したとき。
どくん。大きく心臓が鳴り響いた。それは激しい痛みも帯びて、胸元を握りしめながら思わずその場にしゃがみ込む。

「こ……、こんな時に……何……っ!?」
『……い、おい。俺様の声が聞こえるか!』
「う、うん……なん、とか……」
『なら今すぐ来い!早くだ!』

ここで誰かに見つかったら大変なことになる。
一歩も動けない今、皮肉にも僕は"この部屋"に入るしかなかった。研究室の隣にある、閉ざされた部屋のドアノブを握る。

「──……ナンバー、96、ロック解除……」

ガチャリ。鍵が開く音を聞いてから這うように中へ入る。ドアが閉まり、真っ暗闇に包まれた。早速目を閉じて、意識を自身の内側へと向ける。
……そうしていつもの空間に来てみれば、彼らしくない表情をしながら僕のところまで走ってきた。てっきりいつものように「遅い!」なんて殴られるのかと思えば、肩に腕を回してふらつく身体を支えてくれる。

「……ね、ねえ、これ……なに、?」
「──クソッ!やっぱりテメエの方が先にやられたか……!」
「ど、どういう、」

拳を思い切り床に叩きつけるその姿を見ながら、ふと、気付く。
──……よく見ればあちこちに切り傷がある。ボロボロだ。でもどうしてこんなになっているのか。
また、どくんと心臓が鳴り響く。……そうだ、僕と共鳴する彼に、この胸の痛みは無いのだろうか?

「君は……痛く、ないの?」
「…………」
「……その傷……どう、したの?」
「…………」

……駄目だ。視界が霞む。訳がわからない。一体何が起こっているんだ。
何も答えてくれない彼を見ながら、疑問だけがぐるぐると頭を駆け巡る。
ふと。彼が急に顔をあげ、僕を寝かせて前に立つ。鋭く痛む胸を押さえながら顔を向けると、彼はホルダーからナイフをとり出しゆっくり体制を低く構える。

「……いいか、よく聞け。テメエは喰われる。……いや、正確には、また凍っちまう」
「──……え、?」

僕は知ってる。彼は乱暴でめちゃくちゃだけど、嘘だけは絶対に言わない。

「そしてそれは……俺様も同じだ」

瞬間。投げられたナイフが弾かれる音が響いた。
何を言っているのか分からない。僕も、それから彼も?なぜ?どうして?
必死に閉じかけている目を見開いて先を睨み、目を疑う。……あの、姿は。

「──……ふふ。ゲームオーバーだ。だからさ、もう諦めなよ」
「コイツ見てからやっと思いだした。……ったく、自分の力で記憶が凍ってたなんざ情けねえぜ」

フッと笑うと一歩下がって、再びナイフを手にとる。
……僕も、今、思いだした。そうだ、ずっと忘れてた。この部屋で「キュウム」という2つの人格を持つ身体に、もう1つの人格を無理やり入れられていたということを。

「前に声が聞こえたっつったろ。……コイツだったんだよ。おっさんに絶対服従な、野郎の仕業だ」
「ワタクシには分からない。キミたちのこと、さっぱり分からないよ。理解不能。このまま従っていれば夢だった完全になれるんだよ?世界征服もできちゃうんだよ?……なのに何さ。あんなチビと手組んで、」

それは、一瞬だった。
あんなに強いはずの彼が、思い切り蹴り飛ばされたのだ。そして今、僕の目の前にいるのは、3人目の僕。異端の、僕。いいや、僕と呼べるのか。僕ではないと、言い切りたい。
伸びた腕は僕の首を片手で掴んで軽々と持ち上げる。ぱきぱきと喉元から張り巡らされる冷たい恐怖を感じながらも、苦し紛れに睨みつけるとフッと鼻で笑われる。

「でもキミの作戦大失敗!残念無念、終了でーす」
「っそいつから手え離せ!!」

彼が投げたナイフは簡単に指に挟んで取られてしまい、素早い蹴りも止められて足を掴まれる。彼がここまで手も足も出ないことなんてあっただろうか。僕の記憶では、今までにそんなことは一度たりともなかった。
それほどまでに、コイツは強いということだ。
……これじゃあ、僕は完全に足手まといだ。このまま……タダでやられるものか。

「はい!それじゃあ、おやす、」
「……それは、僕の台詞、だよ」

隙をついて、まだ微かに動く手にナイフを握って思い切り胸に突き刺すと、驚いたように僕を見てまた笑う。

「あちゃあ……なんだよ、案外やるじゃんキミ。でももう手遅れだ。キミもおやすみ、おやすみだよ」

3人目の僕がフッと消え、床にそのまま落とされた。落ちた痛みよりも、胸の痛みと喉元からじわじわ広がる冷たさの方が大きく上回ってしまっている。瞼が重い。もう駄目だ。それでも僕は、もう1人いる。彼ならきっとやってくれる。

「ごめ、ん。僕は先に、降りるよ。君に全部、押し付けてしまう、けど、」
「……やれることはやってやらぁ。テメェ、絶対叩き起こしてやる。それまでしっかり俺様の姿を見とけよクソ」
「ああ、……頼ん、だよ」

おやすみ、もう1人の僕。
ぱきん。……最後に、氷の音が響いた。



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