3



"ひより"、と名乗る変な人間に出会った。

最初は俺のことを人間だと勘違いしたのか、普通に話しかけてきた。その声は震えていて、いかにもか弱い人間のもの。草木の間から覗いてみれば声と同様、見た目もそのままの非力な少女。だから、まあ、気まぐれでその間違いを気付かせようと易々姿を見せたはいいものの、なんとそのまま話を続ける始末。これに付け加えると、ポケモンと話せる上に野生に名前まで付けるという飛びきり変な人間だった。

『…………』

何はともあれ、もう過ぎたこと。今日出会ったあの人間のことも、いつかはどうせ忘れるだろう。変な人間の一人や二人、どうだっていい。それより俺は、これからどうするのかを真剣に考えるべきだ。約束を守るため当てのない旅を始めるのか、それとも。

──……ぴくり。耳を傾け、微かな音をしっかり捕える。
遠くから確実に近づいてきている複数の音。ひとつはさっきの人間の足音。それから残りは、

『!』

瞬間、それを確認する前に左半身に強い衝撃が走った。
痛みに転げ回る前に、強制的に降りてきた瞼によって視界が閉じる。意識が遠のき、音も消える。
……ああ、今日は一体何だっていうんだ。





『──よう、久しぶりだな』

俺を囲んで見下ろしている、俺と同く"シママ"と種族名を付けられたポケモンが三匹。コイツらと一緒にされるのは大変気に食わないが、姿恰好が同じだから仕方が無いだろう。それに俺も人間のことは一纏めにしていることに変わりないから何も言えない。
当たり所が悪かったのか、身体が思うように動かない。とにかくこの状況を早く何とかしないと、俺が選べるのはたった一つの道だけになってしまう。

『こんなところまで追いかけて来るなんて、よほど暇のようだな』
『強がっていられんのも今のうちだけだぞ、おい』
『……ッ!』

攻撃を受けたところを二匹に蹴られて、思わず痛みに顔が歪む。声だけは漏らすまいと歯を食いしばれば、苦痛の息が隙間から外へ出た。いつも通り逃げれば撒けたものの、今日はこの身体では立つこともままならない。

『さあ、やっとこの日がきた。ここがお前の墓場だ。アイツも喜んでいるだろうよ、ざまあみろってな』

どうせ俺が何を言っても信じてもらえないことはもう分かりきっている。……なんとでも言えばいい。
ばちりと放電を繰り返しながら高笑いをする三匹を横目に、どうやってこの場を切り抜けようかと必死に頭を働かせる。
……コイツらの言う通り強気に出ていたが、今の俺ではどうやっても逃れられない。それでも今ここで殺られるわけにはいかない。アイツとの約束がある限り、まだくたばる訳にはいかないんだ。
……さあ、どうする。

『言い残すことは……ま、何も無えよな。テメエの言葉を聞くような奴もどこにもいねえしな』

──どうする、どうする。
確実に心の臓めがけて、鉄骨のように硬く重いひづめが襲いかかろうとしている。
何かあるはずだ。この場を切り抜ける何かが。何か、。

『あの世でアイツに会ったらよろしく言っといてくれ』

最後まであがいてやる。嫌だ、諦めたくない。だけど何も思い浮かばない。

『じゃあな、"元リーダー"』
『……ッ、』

──……そしてその時はやって来る。
大きく振りかざされる黒を睨んで、そして。


「ッちょっと待ったー!」


ずどん、と辺りに重たい音が響く。
音の元は、私と私が突き飛ばしたシママさんである。遠目から見ただけで不穏な雰囲気だったから走ってきた勢いで突き飛ばしてみたものの、私もそのまますっ転んだという訳だ。ああ、一瞬で服が泥だらけになっちゃった。着替えられるような服なんて持ってないのにどうしよう。

『お、お前、なんで……っ!』

グレちゃんの声でハッと急いで起き上がり、傍に走り寄って屈んでみれば嫌な予感は的中。横たわるその身体は私よりも泥だらけだし、黒い毛皮の胴体は痛々しく腫れあがって皮膚を青紫に変色させている。あちこちに出来てしまった切り傷からも鮮やかな赤が未だ止まっていないようで、思わず顔を背けてしまった。
下唇を噛んで、一度目を閉じ大きく深呼吸をする。……落ち着け、落ち着け。とても泣きたい衝動に駆られているけれど、今、私が何とかしないといけないのだ。頭を大きく左右に振って、再び傷と向き合った。鞄から傷薬を取り出しながら、傷の具合を確かめようとそろり胴体に触れると黒い身体は電撃が走ったかのように一度大きく飛び跳ねてから、苦痛の息を漏らす。

『どうしてここに来た!?今すぐ戻れ!』

霧状の傷薬を吹きかけていると、グレちゃんが怒鳴るように私に耳打ちをしてきた。身体はこんな状態でも口は変わりなく元気らしい。先ほどよりは随分と見れるようになった傷から目を離してグレちゃんと向き合うと、本当に怒っているみたいで鋭い瞳が私を睨んでいた。

「わ、私は、助けにきたの!」
『余計なお世話だ!お前には関係ないだろ、放っておけよ!』

一個目の傷薬を吹きかけ終わったところで、暴れるグレちゃんを押さえつつ扱い慣れていない包帯をできるだけ綺麗にきつく巻いてゆく。この鞄はまるで某機械ロボットのポケット並みに便利な道具が詰まっていてくれたから何も持っていない私としては大変有難い限りだ。

「グレちゃんだってさっき関係ない私を助けてくれたでしょう!?」
『あっ……あれは気まぐれだ!気まぐれ!』
「なら私も気まぐれで助けてる!」
『な……、』

絶句するグレちゃんと、とにかく手当に必死な私の背後から黒い影が落ちてきた。ゆっくり振り返ってみれば、先ほど私が勢いで突き飛ばしたシママさんがものすごい剣幕で見下ろしている。ああ、これはマズイ。身体中から血の気が引いて、目の前が一瞬ぐにゃりと歪む。

『さっきの人間じゃねえか。どういうことだ、こりゃあ』

そのまま固まっているとグレちゃんが鼻先で私を自分の背へ押しやってシママさんとの間に入る。猛威が少し遮られたとはいえ、グレちゃんと同じ姿恰好だというのにまさに獣のような凶悪な瞳から目を離すことができない。

『コイツは関係ない』

お腹に響くような低くて冷たさを持った声が響く。負け地と睨み返して呻るシママさんたちも含め、双方ともまるで牙を剥きだした獣のよう。実際牙なんてそんな危ないものは無いけれど、今の私にはそれが幻覚のように見えるぐらいこの状況を恐ろしく感じている。どうやら私は、野生のポケモンというものを甘く見過ぎていたようだ。

『そこの人間も運がねえよな』
『だからコイツは、』
『関係あろうがなかろうが、この場に来た時点で終わりなんだよ』
『ふざけんな!コイツには手え出すな!』

吠えるような声が響く。私は彼らのやりとりをただ呆然と黙って見ていることしか出来ない。それ以前に恐怖にやられて身体の芯からやってくる震えを押さえ込むので精いっぱいだ。
ふと、グレちゃんが後ろに下がった。それは一歩とも言えないほどの微妙な距離で、足元を見ていなかったら動いたかどうかも分からなかったかも知れない。

『……俺が時間を稼ぐ。だからお前はその隙に逃げろ。いいな』
「な、なに言って、」
『このままだとお前もここで死ぬ羽目になるぞ』
「死……っ!?」

聞きなれない言葉に耳を疑う。きっと私にしか聞こえなかったであろうくらいの小さな声だったけれど、その二文字は変に頭の中で大きく響いた。どくんどくんと大きく跳ねて速度をあげてゆく心臓。
……私は、どうすればいいんだろう。
さっきは偶然、というか不意をついて突き飛ばせたものの、今はそういかないことは分かりきっている。肉弾戦でも私が負けてしまうのは確実。となると、やっぱりグレちゃんに言われた通り大人しく逃げることが正解なんだろうか。

『逃がそうったってそうはさせないぜ。まずはお前からだ、死に損ない!』

瞬間、私の身体は宙に浮かびそのまま真横の木まで吹っ飛ばされた。突然のことに脳が追いつかず、木とぶつかった衝撃に思い切り咳き込んだ。よろよろと顔をあげて、先ほどまで居た場所に目を向ければ堅い地面には三か所の凹みができている。どうやら全く動けない私をとりあえず他のところへ移すためグレちゃんが蹴飛ばしてくれたようだ。動かし方はどうだったであれ、大きな怪我は特にないから感謝するに越したことはない。

咳き込みながらふらりと立ちあがって、激しい音のする方へ目を向ける。丁度、地を蹴り上げたシママさんたちの蹄は宙へ浮かび、真っ直ぐにグレちゃん向かって振り落とされるところだった。私が思わず目を瞑る前に、グレちゃんはそれを素早く見極め避けてばちばちと凶暴な電気を三匹に浴びせる。

『今だ、逃げろ!』

グレちゃんが叫んだ。三匹の動きが若干鈍っている。……今なら逃げられる。がむしゃらに走り出せばいいだけだ。それだけなのに、動かない。大粒の汗が頬を伝ってぽたりと地面にシミを作る。
逃げられる。……だけど、私が逃げたらグレちゃんはどうなるだろう。
三匹相手に今は互角の戦いを見せているものの、勝負がつくのは時間の問題なんてことはこの私にも目に見えて分かる。誰だっけ、"助けにきた"なんて偉そうに言ったのは。私だ。私が言った。助けにきたのに逃げるなんて、そんなのないだろう。……私にだってきっと何か出来ることがあるはずだ。だから私は、!

(ひより、鞄にある道具を使うんだ)

凛、と不意にあの夢で聞いたものと全く同じ声が頭の中で響いた。それを不思議に思っている時間なんてものはどこにも無くて、その声を皮切りに全く動けなかった身体が動き出す。狂ったように鞄の中へ両手を突っ込み、ありとあらゆる道具を手に取る。木の実、ボール、ボール……。

「グレちゃんこっち!」
『!』

手にした道具をシママさんたちに向かって思い切り放り投げると、直後、ボンッ!と爆発音が響いて急激に辺りの視界が悪くなった。自分で投げておいてあれだけど、けむりだまの威力はすごい。本当に何も見えない。その中でぬっと現れた黒い鼻先に一瞬びっくりしたけれど、巻いていた白い包帯ですぐにそれがグレちゃんだと分かった。それに服の裾を銜えられて引っ張られるように足を進める。

『前が見えねえぞ!っちくしょう!』
『くそ……っ覚えてろよ!』

可愛らしい見た目とは裏腹に私たちに向かって投げつけられる荒い言葉にぶるりと身震いをしながらも、グレちゃんと共にその場から一目散に走りだした。



prev
next

- ナノ -