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ひんやりとした薄気味悪い風が当たり、腕に鳥肌をたてる。
こんな暗い森に一人きりだなんて勿論生まれて初めての経験。寒いし不安だし怖いしで、今すぐここから逃げ出したい気持ちはもう山々すぎる程あるけれど、道も何も分からなければどうしようもない。

私はちゃんと信号を守って歩いていた。つまり、こうなった原因はあのトラックのせいで、そう考えたらなんだか無性に腹が立ってきた。トラックさえ突っ込んでこなければ!……なあんて、今考えても仕方ない、かあ。
とりあえず、頭を切り替えて今どうすべきかを考えようと腕組みをして頭を捻る。人がいる気配も来る気配もないし、この暗闇の中、見知らぬ土地を闇雲に歩くのも危険だろう。ポケモンの世界であってもなくても、野生の動物がいる可能性は非常に高い。
そのとき。

「…ひっ…、」

がさり。近くの草むらから音が聞こえた。けれど暗い上に林で囲まれているため、こちらからでは何も見えない。がさがさと一定に鳴る葉が擦れる音。不安が募る一方、音は容赦なく大きくなっている。
……た、多分これは何かの足音だ。ああ、姿さえ見えればこんなに怖がる必要はないのに。いや……これは人の足音だ。うんそう、きっと人。人、熊……っ違う人!……ええい、もうどうにでもなれ!

「あああっ、あのっ!!」

最大の勇気を振り絞って音の鳴る方へ声を出した途端、足音がピタッと消えて木の葉が風に揺られて擦れる音だけ闇に残った。バクバクと脳みそにまで音を鳴らす自身の心臓に手を当てながら、生唾を飲み込む。……最悪熊だったら全速力で逃げよう。

「ああ、あの、」
『……なんだ、人間か。何でこんなところに』
「ひ、人っ!?」

霞むような聞こえ方に多少違和感があるけれど、この際そんなのはどうでもいい。とにかく言葉が分かれば人間だ!熊じゃなかったことに一安心してから、聞こえた声質から未だ姿の見えない人は男の子かなあと想像する。声変わりをしたばかりなのか、少し幼さが残っている印象も受けた。……もうこの際、どうして男の子がこんな時間にこんなところにいるのかなんて考えないぞ。
……が、しかし。声の主はそれ以降一言も話すこと無く、少し間を空けるとまた足音を鳴らし始めた。不思議に思いつつジッと耳を澄まして聞いていれば、草の擦れる音が今度はどんどん私から離れていってしまう。

「ちょちょ、ちょっと待って下さい!」
『……は?』

やっとの思いで人を見つけたというのに、またこの暗闇に一人残されるなんてまっぴら御免だ!まさに藁にも縋る思いで、震える声のまま言葉を繋ぐ。

「わ、私、道に迷ってしまって、」
「……え、ええと、」
「どうすれば、いいのか……分からなくて、」

繋ぐ、繋ぐ。返事が返ってこなくても、今は繋ぐしかできない。なぜか泣きそうになりながらも必死に言葉を探し続ける。

「だから、その、」
「……一人は、嫌なんです……っ!」


──ふと、暗闇にぽつんと光が生まれた。
暗闇に慣れつつあった目には痛いぐらいに眩しく光り、目を細めながらその源へ視線を向ける。目元に手のひらを寄せながらぼんやりと浮かび上がる影を、首を傾げながら見つめた。……おや、これはどこかで見たことのある形。確かこれは、そう、ゲーム画面に映されたあれと一緒の。

「シ、シママ……っ!?」

白黒カラーにピンとまっすぐ上へ伸びる耳。確かに、シママだ。シママが、いる……っ!
興奮しながらハッと、バッグに図鑑が入っていたことを思い出して慌ててバッグを漁っては図鑑を取り出し画面を開く。DSと同じ原理で適当に横のボタンを押すと電源が入った。「ポケモンを登録する」のボタンを押してからシママに向かって図鑑を向けると。

『"シママ。たいでんポケモン。ほうでんすると たてがみが ひかる。たてがみの ひかりかたで なかまと コミュニケーションを とっている。"』
「わあっ!本当に読みあげてくれるんだ……!」

昔はよく見ていたポケモンのアニメを思い出して、その光景が現実となっていることに感動が止まらない。そうして無音になった図鑑から顔をあげると、不機嫌そうな表情のシママが私をジッと見つめていた。……お、おお、完全に怪しまれてる。野生のようだし、きっと見慣れない機械でもあるだろう。変な機械を勝手に向けてごめんなさい。ぺこぺこ頭を下げながらそそくさと図鑑をバッグにしまっていると、シママがゆっくり口を開く。

『……お前、俺の言葉が分かるのか?』
「は……あれ、そういえば、?」
『どうしてなんだ?』
「え、えーと……?」

ついさっきまで普通に会話をしていたけど、よく考えてみると今話しているのは人間ではなくポケモンだ。私がポケモンの言葉が分かるということにシママくんが驚いているところを見ると、どうやら普通ではないらしい。どうしてポケモンの声が聞こえるのか、私にもさっぱり分からない。

『……話にならないな』

いくら待っても答えが出る雰囲気ではないことを察してくれたのか、シママくんが一つ大きなため息を吐いた。あからさまな態度になんだか申し訳なくなってしまう。

『お前はトレーナー……、じゃないよな』
「はい。だから頼れる人が誰もいなくて……あの、その、よければポケモンセンターまで案内してください、お願いします……っ!」

人間ではないけれど今の私には頼れるのはこの子しかいない。無理を承知で頭を下げると、再び無音が訪れた。相手は野生のポケモンだ。そうでなくとも警戒されるのは勿論分かっているし、初対面の人間と慣れ合う義理もシママくんには何処にもない。断られる可能性が大の中、さてこの先どうしようかと一人ぐるぐる考える。……考えるけど何も浮かばない。ああ、私の未来は野垂れ死にで決定かな。

『……仕方ない。着いてきな』
「──……へ、」

今までだんまりだったシママくんがため息と一緒にぶっきら棒に返事をすると、くるり背を向け歩きだす。私が茫然と突っ立っている間にもシママくんはずんずん進む。
……ふと、不意に振りかえって顔を一度大きく振った。

『早く来いよ』
「あ、は、はい……っ!」

慌てて駆け出しシママくんの後ろへ着く。ぴょこぴょこという効果音が似合いそうな可愛い尻尾が動くのを見ながらにやけてしまう顔をなんとかしようと頬を手で挟んでいると、目が合ったシママくんは「きもちわるい」と言わんばかりの表情で一度ぱちりと小さく放電する。


「……えっと、私はひよりです。あなたの名前は……?」
『俺は野生だ。俺自身に名前なんてあるわけないだろう』

──ざくざくと草木を踏んでは進んでいく。
何を馬鹿なことを聞くんだコイツは、とでも思っているんだろう。ええ、全くその通りでございます。もしかしたらあるのかなーって思って聞いてみただけですし。しかしこのシママくん、とても大人しいうえに先ほどから何度も後ろを振り返って私を気にかけてくれている。そういうことから、もしやこの子は野生ではないのではと思ったのだけど。

「……んー、あ、それなら私が名前を考えてもいいですか?」
『は?何でお前が?』
「シママくんって呼びにくいですし、今だけの名前ってことで、どうですか」
「……まあ、別に、……いいけど、』

歯切れ悪く答えを返したシママくんは再び前を向く。
ポケモンだから夜でも目が利くのか、それともやはり野生のポケモンだからなのか分からないけれど、石やらを難なく避けて道無き道を進んでゆく。そんなシママくんの後ろ姿を追いかけつつ、どんな名前がいいかなあと首をひねりながら歩いていた。

「……"グレア"」
『ぐれあ?』
「そしてあだ名はグレちゃんです!」
『あだ名は置いておいて。……名前はまあ、悪くない、と思う』

名前に特に意味はない。……と言ったら怒られるだろうか。意味付きの名前なんて、そんなパッと思いつけるような頭を生憎私は持ち合わせていない。しかし、何はともあれ「ヤダ!」と一蹴されなくて一安心だ。ホッと息を吐きだしていると、手前の視線に気がつく。ポケモンだから多少分かりにくいものの、何だか不満そうな表情を浮かべるシママくん改めグレちゃん。

「え、ええと、……何でしょうか」
『その堅苦しい言葉遣い何とかならないのか?むず痒くて仕方ない』
「それなら普通に話した方がいいですかね」

ああ。とグレちゃんは簡単に返事を返すと、たてがみをパチリと光らせさらに周りを明るく照らす。
こうして周りを見てみると、ゲームの中でしか見ることのできなかった"ホンモノ"のポケモンたちが普通にそこらへんの木で眠っている光景を見て改めてこの世界を実感した。ここは本当にポケモンがいる世界、ゲームではない、リアルの世界なんだ。


『──おい』

ふと、足を止めて私のほうへ振り返ると頭を上に持ち上げた。触るとぷにぷにしていそうな丸みを帯びる黒い鼻先が指し示すのは木々の隙間。ぼんやり霞むようなその光を見上げて、思わずアッと声を漏らす。

「あれって、ポケモンセンターのマーク?」
『そうだ。この道を真っ直ぐ行けば、すぐに辿りつける』

夜でも明かりを灯してトレーナーたちを温かく迎えてくれるポケモンセンター。運よく手元にはトレーナーカードなるものがあるから、きっと私も例外なく歓迎してもらえるだろう。「一本道だ。また迷うこともないだろう?」と少し馬鹿にしたようなグレちゃんの言葉にも、やっと助かるという嬉しさが上回ってぶんぶんと上下に大きく頷いた。

「短い時間だったけどありがとう。グレちゃんのおかげで本当に助かったよ」
『まあ、これからはこんな夜中に出歩かないようにすることだな』

そういうと身を翻して来た道を戻っていく。実は何か用事があるからそのついでに私も案内してくれているんじゃないかと思っていたけれど、どうやら本当に私のためだけにここまで連れてきてくれたらしい。あ、ああ……なんと親切な子なんだろう……!

「また、何処かで会えるといいね!本当にありがとうー!グレちゃんも気を付けてねー!」

グレちゃんの耳がぴくりと私の方へ向き、一瞬立ち止まってくれたことに「おっ!?」と反応してみたものの、そのまま振り返らずにまた歩み出した。ほんの少しと言えどこの世界に来て初めてであったポケモンだ。せめてこのまま姿が見えなくなるまで見送ろうと思った矢先。

「──……なに、……?」

、何かが反射した光が、目の端に一瞬飛び込む。
光った方へ視線を向けてそれが何なのか見極めようと、耳も傾け身体も一度動きを止める。目を細めて暗闇を睨んでいると、突如、それは再び光を生み出した。まるで赤い流星の如く、草むらからすごい勢いで飛び出し真っ直ぐにグレちゃんへ向かっている。

考える間もなく前に進む私の足。
踏み出した一歩と共に、嫌な予感が心を浸食し始めていた。



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