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『──……なんの音だ?』

顔を上げ、耳を澄ませる。どん、と一度だけ何か音が鳴った。鳥ポケモンが数羽飛び去る姿が見える。真下には川が流れている崖の近く。食料を探していたものの、妙に気になり一旦止める。探しあてた木の実を今朝の雨で未だ湿っている地面に置きっぱなしにし、音が聞こえた方に向かって走りだす。この辺には群れの奴らも食料を探しにやってくることが多い。念のためにも何の音なのか突き止めなければ。

『……くそ、雨がまた降ってきたな』

ぽつりぽつりと雨が鼻先に当たる。……そういや今日はアイツを見ていないな。いつもいるところに行ってもいなかったし、一体どこへ行ったんだ?

『確かここら辺で聞こえたはずなんだが……、』

本格的に雨が降り始めてきた。上を見上げて曇天の空を見つめていると、ふと、さっきよりは小さいものの似たような音が再び聞こえた。
──……よし、場所が掴めた。一目散に走りだし、辿り着いたのは崖際の森から少し離れたところ。

『なっ……なんだよこれ……!?』

不自然にいくつもの大きな岩が道を塞いでいる。ここは、俺が群れまで帰るときによく使う裏道だった。
さっきの音はここの土砂が崩れた音だったのか?いやでも、斜面が崩れた形跡はない。明らかに変だ。こんなに大きな岩がこんなに綺麗に連なって道を塞いだりはしない。小首を傾げながら岩をじっと眺めていると、──……ふと、崖の方からくぐもった声が聞こえてきた。それは呻き声にも近い。心臓が、飛び跳ねた。……いや、きっと聞き間違えだ、そう思いながらゆっくりと足を動かして崖を覗きこむ。

『……お、お前、どうしてっ!?』
『──……あ、はは』

目の前が、真っ白になる。聞き間違えであってほしかった、その声の主はやっぱりアイツだった。
落ちてきた岩に当たって弾かれたのだろう、血だらけのくせにいつもみたいに笑うアイツ。ふざけんな、笑ってる場合じゃねえだろ!

『待ってろ……!今助けるっ!』

見たところ横たわっているアイツの下、飛び出ていた小さな岩が辛うじで支えになっている状態。だがあれもいつ崩れるか分からない。
一度崖から目を離し、辺りに声をかけるも応答はない。誰もいないようだ。……今から走って救援を呼んでくるか。苦渋の決断をして走り出そうとしたとき、またもや岩が落ちる音がした。慌てて戻って崖を覗きこむと、パラパラと支えの岩が崩れる音がしていた。なんとか崖に蹄を突き立てているもののその手もすでに赤く染まっている。……駄目だ!時間なんてない。俺が今、なんとかしないと駄目だ……!

『……あ、れ。落ちて、ない……』
『……っ!』

真下、崩れた岩が小さな欠片になって落ちてゆく。アイツが、驚いた顔で俺を見上げている。あ、危なかった……!なんとか両腕を使って片腕を掴めたものの、骨格上シママの腕はこんなに上がらない。早く助けなければいけないというのに、……ちくしょう!掴めたのに引き上げられないなんて……っ!そうしているうちに、ずるずるとこちらの身体まで崖下に向かって引きずられはじめてきた。マズイ、このままだと一緒に落ちる……!

『……きみに、渡したいものがあったんだ』
『っは!?こんなときに何言ってんだよ!そんなの後で聞いてやる!』
『──……綺麗な、花なんだ。ピンク色の、花だよ』
『だからなん、』
『今すぐ手を離して、お願い』

雨の音が、一瞬聞こえなくなった。
──……ザアアア。雨粒が鼻先を伝って下に落ちる。
手を離せだって?離すわけねえよ馬鹿!、そう、怒鳴りたかったのに。できずにただ、弱弱しい笑みを浮かべる顔を見ていた。雨で泣いているようにも見えた。
──……いいや、まだ俺がこの手を掴んでいる。だからまだ、いいや、絶対に助けてみせる。

『……ねえ、僕はきみと一緒に居られて、本当に楽しかったよ』
『なに言ってんだ、これからも一緒だろう!?』
『僕とは……全く違う考えを持っている、きみに憧れていたんだ』
『……やめろ』

なんなんだよ、なんで今こんなことを言うんだ。俺が、助けなければいけないんだ!
絶対に手を離さないように何度も踏ん張って後ろに下がろうとするが、逆効果。持ち上がるよりも引きずられる距離の方がでかい。地面に突き刺している蹄が悲鳴を上げている。土も削れていびつな線を描いていた。……くそ、どうすればいいんだっ!?

『……もう、僕は駄目だよ。仮に上まであがっても、傷が深くて手遅れだ』
『やめろっ!!絶対、助ける!』
『──……本当に、いじっぱりなんだから』

消えそうに笑いながら急に咳込む。項垂れる姿越しに、雨と一緒に落ちてゆく赤い液体の塊を見た。血の気が引く。急に寒さが襲ってくる。信じられない光景から一刻も早く逃れたくて、精一杯力を込めた。これが最後の力だ。グッと後ろ足と背中に力を込めて、持ちあげる。もう蹄だって剥がれていい。歩けなくなってもいい。……なんとしてでも、!

『聞いてほしい。……僕の、最期のお願い』
『っ嫌だ!助ける!』
『お願い。……きみだってもう、分かってる、でしょ』
『──……ッ、』

……言い、返せなかった。悔しい。悔しくて堪らない。踏ん張ったまま、まだ繋ぎとめている腕にぎゅっと力を込めた瞬間、岩に引っ掛けていた蹄が落ちた。……わざと、落とした。それでも俺は離さない。絶対に離すものか。

『……約束、して。僕の分まで生きて、幸せになるって』
『──……俺だけのうのうと生きるなんて嫌だ。幸せなんていらない!』

もはや叫びに近かった。雨が激しく降る中でさえも、響いた。

『きみが嬉しいと、僕も嬉しかった。きみの幸せは僕の幸せ、なんだよ』
『やめろっ、やめてくれ……っ!頼むから、っ!』
『……きみが、生きて。僕を、覚えていてくれれば……。僕も、きみの心の中で、生きていくことができる』
『っだれか!!誰かいないのかっ!?──……だれかっ、!』

泥だらけの血まみれになって地面を這いつくばる。あの時は無様だったなあと、一生笑われてもいい。だから誰か助けてくれ!コイツは俺の、──……俺の大切な、親友なんだ!
泣きじゃくりながら力を振り絞り、。

『旅に、でるんでしょう?──……僕も、一緒に連れて行ってね』

手に、衝撃が走り。時が止まる。無音になる。

『ありがとう。さようなら。』

雨粒が激しく降り注いで音という音をかき消す中。
──……暗闇の底へ落ちてゆく姿に、叫んだ。





『ああ、そうだ。あのときあそこに俺たちは居た。あれは、俺たちが仕掛けた罠だった』

平然と口にする姿に、思い切り前足を蹴り上げ振り落とす。嫌な感触の後に下から呻き声が漏れるのを聞いてから、再び真上に前足を振りかざす。
……おかしい、と思った。あのとき俺しかあの場にいなかったはずなのに、どうしてコイツがアイツが崖から落ちたことを知っているんだと。

『殺すつもりだったのには変わりないぜ。……まあ、お前の代わりにアイツが死んだのは想定外だったけどな』

ガッ。鈍い音が鳴った。何度目なのかすらもはや分からない蹴りに、未だ弱音一つ吐かないコイツが心底腹立たしい。憎たらしい。……いいや、こんなのまだまだだ。アイツもっと苦しんだ。もっと痛い思いをしていたはずだ。傍から見たら、一方的な暴力だろう。だがこれは、俺の復讐だ。誰にも止めさせやしない。

『群れのヤツらに真実を言えばいいさ。"俺が殺したんじゃない。アイツらが殺したんだ"ってな』

……結局は俺のせいだってことは前から分かっていた。
あのあと俺は、アイツを殺した犯人だとでっちあげられ群れから抜けた。それから考え、疑った。リーダー候補だった俺が気に食わなくて、何かと突っかかってきていたコイツらに嵌められたのではないかと。それがようやく真実だと知って、怒り狂っている今。俺が狙いだったならもっと確実な方法でやればよかったじゃないか。そうすればアイツが死ぬことだってなかったはず!

『俺が憎いだろう』
『……』
『……殺したければ、殺せばいい』

ぷつり。何かが切れた。
傷口に泥が張りつき瀕死状態のゼブライカ。地面に飛び散っている血と、薄汚く赤く染まっている自分の手足を見た。──……ああ、望み通り、殺ってやる。
何も考えないまま脚を思い切り振りあげると、静かに目を閉じるヤツの姿が映った。慈悲など無い。その心臓めがけて一直線に振り降ろそうとした。そのとき、──……フッと、思い出してしまったのだ。あの言葉と、隠されていたあの花を。

"……やったやられたの繰り返し。……喧嘩は、嫌いです"
"いくら憎くても僕は我慢します。傷つけるのは良くありません”

『──……お前は、俺にやめろと言ってるのか、』

"……約束、して。僕の分まで生きて、幸せになるって"

──……思いっ切り、横の地面に振り下ろした。
ドン!と土が一瞬にして跳ね上がって地面がへこむ。俯いて未だにへこんだ地面を力いっぱい踏みしめている俺を、驚きの表情で見上げているゼブライカが目に入った。そうしてのろのろと上から退いて横にずれると、『お前……』なんて小さな声が聞こえた。
……俺だって、本当は片付けたい。でもアイツが、心の中のアイツが俺を止めた。止められてしまった。

『──……もういい』
『……』
『行け。もう二度と、現れるな』

少しの沈黙から、ふらつく巨体を血まみれの足で支えながら立ち上がったゼブライカは何も言わずにゆっくり森の中へ消えていった。ずるずる身体を引きずる鈍い音が、耳に残った。

一人、人間の姿に戻ってヤツの血で汚れた地面に座り込む。それから赤い手で土を掻き回して唇を噛んだ。なんて、後味の悪い終わり方だろう。

大きなため息が漏れた。ふらつきながら立ち上がり、懐からピンク色の花を取り出す。あの頃と何一つ変わらず美しく咲いている花。見つめると、花びらが笑うように風で揺れた。
ライもこの類の花を持っていたことには正直驚いたけれど、おかげで分かったことがある。花のおかげで願いが叶い、役目を終えた花は散るということだ。アイツは一体、何を願ってこの花を俺に遺したんだろう。……まだ一向に枯れる気配のない花を握り。

「……なあ、これで良かったんだろう?でも、この気持ちはどうすればいいんだ。……このやり場のない気持ちは、」

答えはもちろん、返って来ない。ただただ、空を仰ぐことしかできなかった。



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