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翌朝。
ここ何日かヒウンシティに滞在していたものの、ずっと不安に思っていたKについては特に何もなく過ごすことが出来た。この街での用事もスムーズに終わらせることもできたし、何だか拍子抜けしているのが正直なところである。しかしながら、何もないに越したことはない。

「……よし、」

万が一のこともちゃんと考え、街を出る今朝はいつもより早く起きた。アーティさんのご厚意から頂いた男物の服もばっちり活用。顔はどうにも出来なかったものの、帽子を深く被ってカバーする。まず第一に向かう先は、リゾートゲートだ。

「……何事もなくこの街を抜けられそうだね」
『けど、まだ気は抜くなよ』
「わかってるって」

グレちゃんの忠告を受けつつ、なるべく人混みに紛れながら道を歩いていく。スーツ姿の人が多く通勤ラッシュといったところだろうか。今の私としては何とも有難い混み具合である。蛇行しつつゲートに辿り着き、ゆっくり歩みを進めてゆく。

「……やあ、また会えて嬉しいよ」

──リゾートゲート。
砂が強風で舞い上がる中、複数の陰が私を取り囲む。最後の最後でこの仕打ち!出てくるタイミングも嫌がらせにしか思えず、歯を思い切り食いしばる。どうやら私が男装をしているという情報は既に回っていたようだし、今日この街を出るということも端から掴んでいたらしい。……侮れない敵である。

「今日こそはそのボール、頂かせてもらおう」

私の腰についてるボールを一直線に指差した。手で覆いかくしつつ、しっかり付いているかを今一度確認する。……しかし恐ろしいぐらいの執着心。彼はロロにそこまでの価値を見出しているのか。

「絶対に渡しません」
「相変わらずだね、お嬢さん。もっと利口になりなさい」
「余計なお世話です」

ザッザ、と柔らかい砂を蹴りあげる音が絶え間なく耳に入る。ご親切なことに、部下の数も半端じゃない。ゆめの跡地で見た人数とは比べ物にならないほどだ。数の暴力もいいところ。強がってはみるものの、正直勝てるかどうかは分からない。
汗が頬を伝い、地面に落ちる。唾を飲み、ボールにそっと手をかけた。……そして事態が動き出す。

「ボールを奪え!」
「みんなお願い!」

Kの掛け声とともに、部下たちが一斉にボールを宙に投げ放つ。私も負けじとボールを次から次へと高く投げ、攻撃に備えて陣を固める。
実は、こうなったときのことも事前に考えておいたのだ。全員に一々指示を出すことは未熟な私ではできないため、各々が戦況を見ながらの自己判断にはなっているものの、きっとみんなならうまくやってくれるだろう。戦い方はそれぞれに任せ、私はロロのボールを死守することに集中。いざというときには私も指示を出せるよう、目はかっぴらいたままである。

『……ひよりの周りは俺がやる。グレにいは前の方お願い』
『任せたぞ。……前と同じにさせて堪るか』

私の傍には常にセイロンがいてくれて、グレちゃんはその先。グレちゃんが逃した敵はセイロンが片づけるという二重の盾となっていた。……こういうとき、何も出来ずにただ見ているだけというのは何とも歯痒い。

『一気に片付けるよー!』

砂嵐も利用しての竜巻を仕掛けるチョン。荒れる空中で少し辛そうだけど重要な戦力になってくれている。それからセイロンの他にもう一人、傍にいてくれているのがティーである。正しくいうと、ティーも"珍しいポケモン"という枠組みに入りそうだから目を付けられる可能性を考え、ボールに入ったままなのだ。

『ひより』
「……何?」

戦ってくれている三人と自分の周りの様子を警戒しながらきょろきょろ見つつ、ボールの中から聞こえてきたティーの言葉に耳を傾ける。

『僕、なにポケモンだか知ってる?』
「ええっと……?」
『"しょうりポケモン"、なんだよ。ね、僕がいれば安心、でしょ?みんなにおまじないしたから絶対勝てるよ。大丈夫』
「……ありがとう、ティー」

小さく揺れるボールにそっと手を寄せた。ティーの言葉が身に沁みる。一度大きく息を吐き、再び視線は真っ直ぐ前へ。……"大丈夫"。繰り返しひっそり心の中で呟いて、戦う彼らの背を見守った。





部下のポケモンも半分か、それ以上減っただろうか。その分、グレちゃんたちの疲労も目に見えてきているのは当たり前のことである。しかし状況があまり変わらないままなのは、やはり圧倒的数の差かもしれない。

「だ、大丈夫……?あと少しだから、」
『まだまだやれる。心配するな』

傷薬を手早く吹きかけてからそっと撫でると、答えるように私の手のひらを鼻先で軽く押してからまた敵に向かっていくグレちゃん。その背を見送ったあと、後ろを振り返るとセイロンがこちらに向かって投げ飛ばされてくる。

「……っ、セイロン!」
『……ごめん、ひより……っ』

セイロンぐらいの重さなら受け止めきれると思ったものの、勢いもついていたため抱きとめたまま尻餅をついてしまった。すぐさま私の腕からするりと抜けるセイロンを止め、傷薬を吹きかける。確実に当たる技で戦ってくれているのか、特に足元の傷が多く見られる。……血が止まるのも待たずに再び私に背を向けるセイロンに、乾燥しきった喉から声を絞り出す。

「ごめんね、こんなになってまで戦わせて、」
『……ひよりの役に立ててるの、すごく嬉しい』
「でも、」
『俺は今、こうして戦えているのが本当に嬉しいんだ。……だからひより、気にしないで』

"嬉しい"。それは良い事ではあるけれど、理由が理由で素直に喜ぶことが出来ないでいた。そんな私のことなんて知るはずもないセイロンもまた戦いに戻っていく。空に敵無しのチョンは、未だ元気が有り余っているようだ。唯一の救いかもしれない。

「……ッええい!こんなにいて何故小娘一人に勝てないんだ!」
「も、申し訳ありません……!しかしながら、予想以上にポケモンのレベルが上がっていて、」
「言い訳などいらぬ!」

痺れを切らしたのか、Kがとうとう苛立ちを見せた。…以前、ゆめの跡地で会った際、彼は確かこう言っていた。「定期的に改造結果を報告しないと私の身に危険が纏う。」、今になって思いだし、そりゃあ必死になるわけだ!と一人納得してしまった。勝負がつかないからと言って、そう簡単に引いてくれはしないだろう。
ふと、Kが一歩前へ出て、懐から一つのボールを取り出した。黒に金と赤の線。ゴージャスボール、だったかな。

「……戦闘には出したくなかったのだけどね、ここまで来てしまったら仕方ない」

にやり、金歯が光る。手前に軽く投げられたボールは蓋が開き、赤い閃光と共にそのポケモンが砂の上に足をつける。どこまでも軽やかに、そして美しく……──。

「……レパル、ダス」

ワインレッドの毛並みが太陽の光でさらに艶を増している。その美しさに息を飲み、また無意識にあの子がここに居るまでの過程を想像しては目の前が歪んだ。

『色違いのレパルダス……彼も、多分改造されたポケモンだ』

ボールから聞こえるロロの声に目を閉じて、震える手で拳を作る。ゆっくり目を開け息を吸い、レパルダスを見つめる。

「さあ、お前の実力を見せてやるがいい!いけ、"イオナ"!」

砂を蹴る音すら聞こえない。部下のポケモンたちに依然囲まれているグレちゃんたちの視線が私に向いているのに気付く。着実に迫る牙に、グレちゃんたちの助けは望めない。……ボールに触れ、歯軋りを立てた。今、あのレパルダスと戦えるポケモンと言ったらロロとティーだけ。しかし二人ともボールから出すわけには、。……一体どうすれば!?

『……俺が出る。俺が、終わらせないといけないよ』
「ロロっ!?」

触れていたボールの蓋が上へ開き始めるのを感じた。……私なりの最後の足掻き。ロロのボールが開かぬよう、迫りくるレパルダスを前に必死に手で抑え込む。けれど隙間は大きくなる一方で、心の中でロロに謝りながらボールが開くことを許してしまった。

……そのとき、。

ガッ!、まさにそういう効果音が相応しい。
……私へと一直線に向かってきていたレパルダス。今では首を正面から片手で鷲掴みされたまま宙ぶらりんになっていた。緑色の瞳が伸びる腕の先を突き刺す勢いで睨み、凶器となっている長い爪は"彼"には数ミリ届かないまま、激しく上下に動いている。

「いい大人が寄ってたかって嬢ちゃんいじめってかぁ?情けねぇ」
「あ、貴方は……!?」

口の開いたままのK、そして暴れるレパルダスの手前。顎髭を生やした男がニッと歯を見せ、私を見る。どこからともなく割り込んできたこの男。見た目はおじさん、というより"おっちゃん"という方が合うだろう。このおっちゃんが、レパルダスを片手で掴んでいる本人である。

「嬢ちゃん、こいつはどうすりゃいい?」
「え、えっと、」

瞬間、レパルダスの尻尾が男目がけてアッパーカットをぶち込んだ。……鈍い音が聞こえる中、後ろに傾く男を目の前にしてヒッ!と喉から情けない声が漏れてしまった。男の緩んだ手からレパルダスが抜け出して、一歩後ろへと飛んで退く。
少しの間固まってしまった身体がハッとし、仰向けに倒れた男の元へと慌てて駆け寄った。どうみてもさっきの攻撃は手加減無し。人間相手になんてことを、!心臓が破裂しそうなぐらいに音を鳴らし、肝を冷やして男をゆっくり覗きこむ。

「邪魔をしたのが悪いのだ。顎の骨だけで済んだことを感謝しなさい」

目を見開き、息を飲む。

「イオナ、お嬢さんに"辻斬り"だ」

ゆるり、目の前で起き上る姿。目にも止まらぬ速さでこちらに向かってくるレパルダスに気が付いたのは、その後だ。

「……さっきの、」

グアッ……!風が生まれ、それはそのまま真っ直ぐ前へ……──!

「お返しだぁーッ!」

破裂に似た音がした。殴られ、再び後ろへ戻されるレパルダスがスローモーションのように見える。どうやら私の脳みそは既に現実に追いつくことを諦めてしまっているようだ。
ズシャア、と砂とレパルダスが摩擦する音が聞こえ、Kのうろたえる姿も見えた。

「な、何故まだ立てる……!?」
「俺ぁ頑丈なんでさぁ。ほら、まとめてかかってきなぁ!」
「いっ、行け!怯むな!!」

部下たちがぞろぞろと盾を成す。ボールが次々に開いて出てくるポケモンたちを前に、なんと、男は笑っていたのだ。砂の音がして、男のかかとがグッとあがる。そうして私の前で砂が小さく飛び散った。走り来る敵を前に、自ら距離を縮めるなんてどうかしてる!

「……すごい、!」

全く現実味が帯びない状況を目の前に、ぽつり言葉が口から漏れる。腰が抜けたまま砂の上に座りつつ、どんどん先が綺麗になっていく光景をぽかんと眺めるこの状況。あのおっちゃんが誰だか知らない。けれど彼の登場により、良い方向へ向かっているのは間違いな、……、

「……ッ嬢ちゃん危ねぇ!」
「──……え、」
「さようなら、お嬢さん!」

すぐ真横。背に乗っていたKが砂の上へ転がるように降りたあと、レパルダスが飛び跳ねる。急に歪む私の視界をワインレッドが塗りつぶす。……あかく、あかく。
そして、音が弾け飛ぶ。

『──……貴方が、マスターの、』
『………』
「ロ、ロ……!」

私に覆い被さるかたちから素早く身体を起こすロロ。震える手で後ろからでは見ることが出来ない前面に軽く触れると、ぬるっとした何かがついて、息が止まる。手を戻し、ゆっくりゆっくり手のひらを上に向けると、真っ赤な血が一粒、砂の上へと流れおちた。砂を力強く踏みしめている四足の間、ぽたりぽたりと音がする。

「ロロ……っ、ロロ……!」

がたがたがた。震えが止まらない。周りは変わらず戦いが続いて騒がしいはずなのに、私の耳は一切音を受け付けない。無音が、いる。

「わ、私……っ、私のせいで……っ!」

触れる距離にいるロロは、私の代わりにすぐ目の前にいるレパルダスの凶器と化した長い尻尾をこちらも尻尾で受け止めて、力で小刻みに震わせている。まるで真剣と真剣が垂直に合わさっているかのようだ。その間も血が垂れ、容赦なく血溜りを作るロロの足元に私の歯がガチガチと小さな音を鳴らす。……うまく、息が出来ない。

「ロロ、ロロ…もう、いいよ……っ!どいてっ……!」
『あは、ひよりちゃん泣いてるの?見えないから分かんないけど』
「だって、ロロ、このままじゃ死んじゃう……!」
『面白いこと言うもんだ。これくらいどうってことないよ、ひよりちゃん』

大きく尻尾を振りあげて、レパルダスを弾き上げる。間髪容れず、軽く着地するレパルダスに爪を振りかざしてから避けた相手の足元に素早く尻尾を横振りにいれた。二段構えに体勢を崩すレパルダスの首元を、ロロは容赦は無く前足で思い切り踏みつける。呻き声を発するレパルダス。

『イオナくん、だったっけ?"107"。君も改造されたポケモンでしょう。同情するよその毛色、可哀想に。定期報告、研究所に行くのは君も一緒でしょ?……俺が君のボールも、ここで壊してあげようか』
『私はマスターに買われた身。貴方がいなくなってくれたおかげで、もうあの地獄に戻る必要はありません。私にとってマスターは紛れも無い命の恩人なのです。……ふふっ、残念でしたね"66"さん?』
『……そう。なら俺は、君をここで片付けなくちゃ、ね』
『──……ぐっ!』

前足が、ゆっくり首に沈んでゆく。食い込んだ爪から血が流れ、またロロの身体からも出血は続いている。二人の血が砂の上で混ざり合い、不気味な色を光らせる。嫌に耳にこびり付くレパルダスのもがき苦しむ声もどんどん小さくなってゆく。……震えはまだ、止まらない。

「……っくそ!」

そのときだ。Kが懐からボールをやっと取り出してレパルダスを戻したのだった。何もいなくなった赤い砂を踏みしめて、ロロが真っ直ぐ前へ視線を向ける。以前のロロはKの姿を見ているだけで身体を震わせ警戒音を鳴らしていたのに、今は驚くほどに静かで、そして恐ろしい。

『あれが俺の代わりかあ。あははっ……心底、笑えるね』

腹から震えがくるような、ひどく低い声と一緒にその場が煙に包まれる。……まさか、まさか。

「あんなの、俺の代わりにすらなれないよ」
「ポ、ポケモンが……人になった、だと……!?」

赤く染まった服の上から脇腹を押さえ、ふらりとKに近づくロロ。今度はKが、恐れ慄く番である。

「だっ、誰か!早くこの化け猫を、!」
「……ねえ、マスター」
「ヒッ!」

言葉の途中でロロがKの胸倉を掴んで上に引っ張り、そのまま無理やり地面に立たせた。震えた身体では何もすることが出来ずにつま先立ちになるKを、私は静かに見守った。……いや、そうすることしか出来ないのだ。恐らく、誰も手出しは出来ないはず。

「ポケモンはさ、人間に対して強い気持ちを持つと人間になれるんだよ」
「だ、だから何だと言うんだ……っ!」
「俺の場合はねえ、強い"憎しみ"から、なんだよね」

鋭く伸びたロロの爪が、Kの首元にそっと冷たく触れた瞬間。ぷつり。切っ先が皮膚に刺さり、赤く小さな実をつける。

「その気になれば、マスターだって殺せるんだよ?」
「…………!」
「……ッロロ!」

やっと、だ。やっとの思いで絞り出した声は、ちゃんとロロに届いていた。こちらをようやく振り返ったロロを私は涙で霞む視界で捉え、口を半開きにしたまま永遠と首を左右に揺らしていた。ロロは困ったような表情を浮かべてから、すぐに瞳を細くしていつものように笑って見せる。そうして視線を再び戻し、爪はギラリと光って見せた。

「生きるも死ぬも、マスター次第。
 ──……さあ、どっちかな?」

少し間を開け、全身の力が抜けたようにぶらんと腕を下ろすK。いつの間にか随分と大人しくなっていた周りに私が気づいたのは、丁度この時だった。
視線を横に向けたKの先、部下の一人が震える手で携帯を放り投げる。ロロが胸倉を離すとKが崩れるようにしゃがみ込む。そうして右手で砂まみれの携帯を握り、耳元へと宛がった。
……答えはもう、ここにいる皆が知っている。


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