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「手、大丈夫か?」

デントさんたちが部屋を出ると同時にグレちゃんが擬人化して小走りにこちらにやってくる。私が手当てをしてもらっている間も、ちらちらこちらを見ては気にしてくれていたことが嬉しかったり恥ずかしかったり。綺麗に包帯が巻かれた手を見せながら頷くと、グレちゃんは俯いて頭を軽く掻き乱しながら座っている私の足元へとしゃがみ込む。

「……少しぐらい怒れよ」
「怒る?だれが誰に?」
「ひよりが、俺に」

目線を斜めにしながら言ったグレちゃんの言葉の意味が、私にはさっぱり分からない。首を傾げながら「え?」とか「どうして?」とか疑問詞ばかり一人呟いていると、下から小さなが聞こえてきた。

「俺はお前のポケモンなのにちゃんと守れなかったんだ。……トレーナーの身を守るのも手持ちポケモンの役目なのに、」
「え、そうなの?」
「そっ、そうだろう!?」

バッと顔を上げたグレちゃんの顔はほんのり赤い。いや、グレちゃんは多分間違ったことは言っていないとは思う。けれど私はこの世界に来たばかりだし、そういうのってよく分からない。

「じゃあ、グレちゃんも私のこと怒っていいよ」
「……また訳の分からないことを」
「トレーナーだってポケモンを守る役目、あると思うんだけどなあ」
「…………手」

つい、シママを撫でるように人間姿のグレちゃんの頭も撫でてしまっていたようだ。ハッとしてから手を下ろして「ごめんごめん」と謝るけれど、目線は合わせてもらえない。子ども扱いするなよ馬鹿!とか、思われているんだろうな。

「はい、だからこの話はもう終わり。グレちゃん、あの時私の我儘聞いてくれてありがとう。流石相棒!って思っちゃった」
「あ、あれは、お前が全然動かなかったから、仕方なく、」
「ありがとう」
「……」

頬を人差し指で引っ掻きながら伏し目がちに立ちあがると、腰に手を当て壁際へと目を向け私と彼を交互に見てから訴える。"お前の我儘の延長線だ。何とかしろ"、そんな意味を込めての目線だろう。
グレちゃんは完全に身を引いた。私が話をつけなければならない。
重たい腰を持ち上げて、ベルトに付いている新品のボールを握る。足を引き摺るようにグレちゃんの横を通り抜けてロロさんの目の前、その一歩手前にしゃがみ込んだ。ボールを掴んだままの手を前に差し出すと、ゆっくり二色の瞳の視線があがる。

「これはロロさんのボールです」
『そこに置いてはくれないんだね』

言葉が宙に浮かぶ中、鋭い視線が真っ直ぐに突き刺さり息を飲む。口元からは尖った牙が顔を覗かせ、私が獲物かどうかを探っているようにも思える。
不本意だったとはいえ、私たちは知ってしまった。ロロさんが改造ポケモンだということを。ロロさんの今後を握っているのは私であり、また逆に握られているのも私である。……言葉選びを間違えた瞬間、この喉元は掻っ切られてしまうかもしれない。

「全部が片付くまででいいんです。ロロさんのボールは……私が持っていたい、です」
『君が悪い人間ではないということ、ちゃんと分かってるよ。だけど君が俺を売らないという保証も無い。人の心は変わりやすいってこと、俺は身を以て知ってるんだ』

ボンという音とともにうっすら煙が広がったと思うと、ロロさんがレパルダスから人の姿になっていた。それから前触れもなくストールを外して床に放り投げ、今度は胸元のボタンに手をかける。

「なっ、ロ、ロロさ、!?」

元から二、三個閉められていなかったロロさんのシャツが全開になり、肌色の部分が随分と広くなった。私は何を悠長に眺めているんだか!頬に熱が集まるのを感じながら目を逸らそうとした、そのとき。その前に手首を掴まれ、胸元まで導かれる。
、肌に触れ、瞬間、血の気が引いた。……乱暴に切り取られたように波打つその皮膚は周りの皮膚よりも黒ずみ、厚い皮を成しているのだ。息苦しさを感じながら視線を少し下にずらして、至る所に走る縫い傷の跡に手が小刻みに震えだす。掴まれた手首は、熱い。

「ポケモンのままの姿なら、俺自身、この醜い身体にも気づかなかったかも知れない。……擬人化出来て、本当に良かったよ」

紫色の髪が揺れ、垂れ下がる。顔を寄せられ、すぐ目の前で髪の間から黄色と青色が姿を見せていた。人工的な色の瞳は光は入らず、何処か虚ろさを感じる。

「ひよりちゃん。君は、俺の瞳を"綺麗ですね"って言ってくれた。……今も同じこと、言えるのかな」

そう言って笑みを浮かべるロロさんに、言いようの無い感情が喉奥に詰まる。それを口に出すことはできずに固唾をむ。
掴まれていた手が離れ、今度はその手を自身へと宛がうロロさん。すらりとした細長い指が縫い傷をゆっくりなぞってゆく。蛞蝓が這うような固執した指先に思わず生唾を飲み込んだ。

「俺の身体の中、ぐちゃぐちゃなんだ。遺伝子まで組み換えられて、それで得たのはちょっとした身体能力と毛並みと不気味な色した瞳だけ。……あんなに痛い思いしたのにこれだけだよ?ほんと、笑える」
「…………」

離された手首には赤く跡が残っている。それを端に捉えたあとに目を瞑り、恐る恐る指先だけ触れていた傷跡に手のひら全体を押しあてた。身体を前屈みに斜めへ倒して、胸元に耳を当てる。──……どくん、どくん。外気に触れて少しばかり冷たくなっている薄い胸板は、"生"を叫んで熱を生む身体の要を守り続けていた。

「それでも。──私は、ロロさんの瞳はやっぱり綺麗だって思います」
「本心じゃないくせに」
「例え作られたものだとしても。それがロロさんの物であるならば、私は綺麗だと思うんです」

──加速する、音。
顔を上げればロロさんの瞳は満月のように整った丸を描いていて、少しの光でも輝きを見せる。この瞳には眼球の代わりに宝石が入っているんじゃないだろうか。そんな気さえ起きてしまうのだ。これが本心ではないというなら、何だというんだろう。

「ロロさん、」
「──君に、俺の何が背負える?……俺の、何が、っ!」

乱暴に掴まれた両肩に震え上がる前に、それは後ろから伸びてきた手に叩き落とされ力なく床に落ちた。ロロさんの視線は姿勢を崩した私を支えてくれている、後ろにある。

「いい加減にしろよ。ひよりにお前の勝手な感情を押しつけるな、馬鹿猫」
「君はちょっと黙、」
「ひよりだけじゃ頼りないのなら、俺もお前の背負ってやる」
「──……は、?」
「俺だってあの場にいたんだ、俺には関係ないとは言わせないぞ。いいか、言っておくが俺は野生育ちだ。お前みたいな温室育ちより精神的に強い自信はあるんだからな」
「グ、グレちゃん、」

開いた口が塞がらないのはどうやら私だけではないようだ。間抜け顔のままグレちゃんの顔を見上げていると、目が合った瞬間すぐに逸らされ、さらには片手で目を塞がれてしまった。どうやら私に見られるのはあまり好きではないらしい。仕方なく、すき間から入る光にぼんやりしながらロロさんとグレちゃんの声を聞いていた。

「なあ、いい加減やめたらどうだ?途中からかなり熱の入った芝居だったみたいだが」
「──……シマシマくん、意外にちゃんと見てるんだ」
「は……?え、え……?」

両目を覆っていた手を退かし、ほぼグレちゃんに体重を預けていた身体を起き上らせて瞬きを一回二回と繰り返す。
私が次にロロさんを見た時、誰だこれはと言いたくなった。つい先ほどまでの緊張感は何処へやら。あからさまに柔らかくなった雰囲気に戸惑いを隠せない。怖いぐらいの鋭さを持っていたロロさんの瞳も、いつの間にか綺麗な三日月を描いている。それから私の赤くなった手首に気づいたようで慌てて両手で持ち上げると「子猫ちゃんの白い肌に俺の跡が!興奮するけどとにかくごめんね……!」とかふざけたことを言ってきた。

「……あの、ロロさん、?」
「ひより、コイツはお前を試したんだ。今までのは全部、たちの悪い演技だったってことだな」
「そういうこと。あは、ごめんね、ひよりちゃん」

……拳を振りかざす準備は万端。あとはこれをどう目の前の猫にぶつけるかが問題だ。へらへら笑うその整った顔に一発お見舞いしてやりたいところだけれど、グレちゃんの言っていたことが本当ならさっきの中にはロロさんの本音も混ざっていたということだ。それがどれなのか、きっと私が知ることはないだろうけど。

「グレちゃんも気づいてたなら教えてよ!」
「いや、俺も分からなかったんだ」
「じゃ、じゃあなんで演技だって、」
「元・野生の勘だ」
「元・野生の勘」

真顔でそういうグレちゃんに私は静かに頷いた。グレちゃんがそういうなら、野生の勘だったんだろうなあ。そうだよねそうだったということにしよう。
目の前、ボールを握ったままの私の手を掬い上げるロロさん。滑らかな動きに思わず見惚れていると、ゆっくり手の甲に唇が押しあてられた。突然のことに驚いて肩を飛び上がらせると、ロロさんはクスクス笑う。……あ、ああ、顔が熱い。きっと今、私の顔は十分に熟れたトマト並みに赤いだろう。

「ひよりちゃんを見極めたかったんだ」
「さっきのだけで見極められるものなんですか?」

それだけで決めつけられるのは腑に落ちない。横目にロロさんを見れば、わざとらしく視線を片手の盾で跳ね除ける仕草を見せる。

「うん。ひよりちゃんが、信じるに値する人間なのかどうかっていうのは分かったよ。……他のことは、これから知っていけばいいかなって。お互いに、ね」
「……ロ、ロロさん……っ!」
「これからひよりちゃんには沢山迷惑かけちゃうけど、シマシマくんも支えてくれるっぽいし?居心地良すぎて離れるなんてできなさそう」

グレちゃんからの冷ややかな目線は完全にシャットアウトしているようだ。ある意味すごい機能である。今一度、ロロさんが下げられた私の手を持ち上げられて前屈みになった。それに慌ててストップをかけるため空いている方の手で思いっきりロロさんの手を握り、上げられた視線に思いきり顔を左右に振りたくる。

「俺は、ロロ」
「?、知ってますよ?」
「──ロロって、呼んで。ひよりちゃん」

細長い人差し指が、私の唇に押しあてられる。……ど、どうしてこの人はこうも恥ずかしいことを何個もやってのけるのか。ろくな恋愛経験もないし、ましてやここまで顔の整った人をこんな間近で見たことが無い。そんな私が真顔でこれを跳ね除けることなんて夢のまた夢である。やっぱり火照る頬に、口をもごもごさせてしまった。

「……ロ、ロさ……」
「やり直し」
「……ロ、ロ」
「もう一回」
「ロロ!」

瞳孔が開いたと思うとすぐに細まり、嬉しそうに笑みを浮かべる。ころころ変わる表情に振り回されっぱなしだけれど、これは初めて見るカオだ。揺れる紫髪に猫っ毛が跳ねて、まるで髪まで笑っているようである。

「これからどうぞ宜しく、マスター」

そうして猫は、また笑う。


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