記録、1






「私はね、正常者なの」



読んでいた小説をパタンと閉じ、今朝早くに終えた計測の記録をしている私へ向かって彼女は静かに微笑む



「そう言ってあげたいのは山々なんだけどね、君は異常者だよ。ここに居る事が何よりの証拠だ」



その笑顔をチラリと覗き見ながら、私はまた別の用紙へ彼女の様子を出来るだけ事細かに綴る
彼女は、まるで解らずやに対して【困った】とでも言う風に小さく肩を竦めた


先日は驚いた。異常者には余り年齢など関係無い様に思われるが、実は異常性は未成年の方が格段に高い
そして、此処にいる"世間一般から異常と認識された者達"も殆どが未成年、それも12歳から19歳と的確で、それは此処では皆が皆知っている事

なのに、この少女にはその"此処での常識"が通じない

歳こそ当て嵌まってはいるものの、他の異常者では決して成し得ない事柄全てが彼女には出来る


長年ここで沢山の患者を診てきたが、どの者も話が通じる事は無く、かろうじて伝わったと思っても返ってくるのは見当違いの返答
彼女の様に患者と会話が成立した覚えは今の今まで全く無かった

ところがどうだろう。この少女は私の話を聞き、誰がどう聞いても正常な返答をし、その上試しにこちらから何か話を振ってみた所、相槌まで完璧に打てていた
先程彼女自身がそう言っていたように、正常者としか思えないのだ



「……そう言えば君は、何故ここに連れてこられたんだい?」



ふと、気に掛かった疑問

会話の一貫として何気なく口にすれば彼女は目を見開いて、やがてクスッと可笑しそうに笑った



「ふふっ、オジさんたらお馬鹿さんね」

「?、そうかい?」

「そうよ。だってオジさんの今の言葉、さっきオジさん自身が言ってた事を否定してるわ」



一瞬何を言ってるのか解らずに眉を顰めかけたが、すぐに先程自分が彼女に対して言った事を思い出し「(ああ…そうか)」と理解した

此処に居る事が異常者である証拠だと言った後に馬鹿な質問をしたものだ
職員以外は異常な者しか居ない、と認識している上でのその質問は明らかに、自分が彼女を異常者として見ていない事になる

思考と言動の矛盾から口走ってしまった自分へ対しての呆れと、出来て当たり前と言ってしまえばそれまでなのかも知れないが、言葉の真意を瞬時に理解し尚且つ先程の言動と照らし合わせて矛盾に気付いた彼女への驚きで、複雑な心境で苦笑した



「凄いね、驚いた。大分頭が良いとは聞いていたけど、ここまで聡明だとは思わなかったよ」

「聡明…?違うわオジさん、誰にでも出来る事よ?」

「そうかな、中々難しいよ?」



口端を少し上げて微笑む彼女にそう返せば、彼女は若干不本意そうな表情を浮かべて、だがじきに軽く俯きクスリと笑った。…何とも、人間らしい動作だ

………?
人間、らしい…?



「思い込みよ、オジさん。此処に居る限り普通の人間ではないって言う思い込み。此処の患者ではない誰かがオジさんに同じ事をしても、きっとオジさんはホントだねって笑って言って、聡明だとも賢明だとも思わずそのまま流していた筈よ」



顔を下向けたまま話す彼女の表情は残念ながら伺えないが、その声は何故だか楽しそうに弾んでいる

そんな様子に気を取られて、何か大事な事に気付きかけたと言う事実を、頭の隅に追いやってしまった。そう経たない内に頭の中から抹消されるだろう



「人を形成する物とは何か、と考えた事はないかしら?まあこの答えは人それぞれだけど、私は経験だと思うの。声を上げる事を経験する、触る事を経験する、口にする事を経験する。生を受けてから今まで、経験に経験を積み重ねて、十人十色の人間が出来上がっていくんだわ」



愉快そうに、愛おしそうに、彼女は滑々と言葉を舌に乗せながら話し続ける。止まろうとしないソレにほんの少々の恐怖を覚えたが、しかしそれよりも彼女に興味を持った

自分が自分を形成する物が何か、等と考えた事のある者が、世界にどれだけ居るのだろうか?いや、もしかしたら誰でも考えるかもしれないし自分も昔はふとした拍子に考えた事もあったろう。だが、時が経てば、思い悩んだ事すらいつの間にか忘れている

…そうだ、明確な答えは、結局出なかったままだった



「そして、経験によって確立された人格や思考が、その人そのものになる。経験した事柄によって、性格や考察の仕方も大幅に変わるわ。経験は、その人の脳髄の全てを形作るわ」



そこまで喋って一旦言葉を切ると、彼女は漸く頭を上げその表情を見せてくれた

素晴らしい程の笑顔と共に、彼女が喋っている内容が、スルリと頭の奥深くまで入って来る気がした



「オジさんは経験で、此処の患者である者は真面に会話すら成り立たない思っていた。だから成り立つ者は正常者、と言う線引きを何処かでしてたんじゃないかしら?ね、思い込みでしょ?」

「…ははっ、本当だね」



驚愕を隠しもせずに、渇いた笑みだけ零す。そんな私に対し上品に笑うと先程まで読んでいた本を開いた彼女は、最初の一言を呟く寸前までと何も変わらず、口元を微かに上げて頁をめくっていた

完膚なきまでに言いくるめられた…と言った微妙な気持ちは残るものの、頭の中は随分とスッキリしていた。何だか、知らない自らを知った時の様な…そんな気分だ

この自分よりも遥かに歳下の少女からは、学ばされる事が多々ありそうだ
異常者だと言う事も忘却し掛けていた脳みそにそんな考えまで浮かんで、私はフッと笑みを浮かべるとペンを手に取った



気付き掛けた事柄も、すっかりと忘れてしまったまま……――




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