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Crescendo !

クレッシェンド!






音楽が楽しいことを、水曜日のあなたが教えてくれた



 ダリア・ダックブルーがレイヴン、マリアンヌ・デュアメルがスワンを担当した公演。また、ダリア・ダックブルーの初舞台にして、ダリアとマリアンヌの初共演作品でもある。


 冴えないサラリーマンのマークは、その日も定時で退勤していく同期や後輩たちを横目に、押し付けられた仕事を一人こつこつとこなしていた。
 引っ込み思案な彼はそんな貧乏くじのような自分の立場にさして不満もなく、自分はこのような人間なのだから仕方がない、と諦めてさえいた──「定時で上がると、飲み会にしつこく誘われるし……誘われると、断りにくいし……」──が、ふと時計を見ると最終列車の時間が近付いており、慌てて会社から飛び出してあと十分で最終列車が発車してしまう駅まで向かおうとした。しかし、その途中で自分のパソコンをシャットダウンし忘れたことに気が付き、彼は溜め息混じりに渋々と元来た道を引き返すことになる。
 再び会社から出て、どこか手近なホテルにでも泊まろうと当てもなく夜の街を彷徨うマークは、会社への行き帰りで通り過ぎる噴水広場を普段のように横切ろうとした。けれども、残業の疲れでぼうっとしていた彼は進む方角を間違えてしまい、いつも敢えて避けて通る側を歩いていくこととなる。
 そして、道を間違えたことに気が付いたマークは、はたとして足を止める。彼の目の前には小高い木製のステージと、一台のストリートピアノが置かれていた。
 広場を訪れた者が誰でも自由に演奏できるピアノである。彼は誘われるようにそのピアノの前まで進んでいき、ほとんど無意識にピアノベンチに腰掛け、震える指先でファ≠フ一音を鳴らした。
 「ピアノに興味がありますか?」そんなマークの背後から、ふとそのような問いかけが響く。彼が驚いて振り返ると、そこには美しい女性が微笑みながら首を傾げて立っていた。マークは心臓がひっくり返るような気持ちで、「い、いえ。その、俺は、そんな……」と返す。歯切れの悪いマークに女性はくすりとして、「本当? じゃあ、私が弾いてもいいですか?」と言う。彼女の申し出に、マークは急いでピアノベンチから立ち上がる。
 鍵盤の上に乗った彼女の指先から、美しい音色が流れ出す。夜の中にそっと柔らかな帳を下ろすようなやさしい楽の音に、いつしかマークは涙を零していた。演奏を終えた彼女はマークの方を見やると「とっても疲れているのね」と笑んだ。
 彼女の名前はコルダと言った。マークの務める会社がある通りの一角で、小さなピアノ教室を営んでいるという。「週の真ん中って、なんだかとても疲れるでしょう。だからこうして、時々息抜きに来るの」コルダの言葉に、マークはスマートフォンを見る。そういえば、今日は水曜日だった。
 それからというもの、どちらからともなく二人は毎週水曜日の夜に広場のステージで待ち合わせ、共にピアノの演奏をするようになった。コルダがマークにピアノの弾き方を教える、という形で。「音楽を恐れないで。楽しいように弾いたらいいんですよ」初めは指先を緊張で震わせていたマークの演奏が、それでも初心者にしては目を見張る速さで上達していくのを目にするたび、コルダは心から嬉しそうな顔をして笑う。「コルダ先生の教え方が上手いんですよ。あなたの声は、心にすっと響く」マークも控えめに微笑みながら、いつもそう返した。「そうだ。コルダ先生の好きな歌はなんですか? 俺、それを弾いてみたいです」マークの問いに、コルダは一瞬驚いた後、そっと曲名を口にする。それを聞いたマークは表情を明るくして言った。「俺も好きです。その歌」
 二人の好きな歌、『Ms.Merula』の演奏をマークが行う途中、旋律の中でコルダが細く、微かに歌を歌っていた。彼女は少し泣いていた、まるでマークが初めてコルダのピアノを聴いたときみたいに。マークは演奏を止めることはなかった。彼はコルダの心を労わるように、指先を鍵盤の上に滑らせていた。
 演奏が終わり、コルダが口を開く。「マークさん。本当は、ピアノ、弾いたことがあるんでしょう」。彼女の言葉に、マークは少し申し訳なさそうに頷いた。「数年前まで。音楽学校のピアノ演奏科で習っていました。だけど、コンクールの本番で事故に遭って、骨を折る怪我をして……それから、ピアノを弾くのが怖くなった」その言葉にコルダは睫毛を伏せて微笑んだ。「私もそう。数年前まで、シャンソン歌手だった。コンサートで失敗をしてしまって、そこから人前で歌えなくなってしまった。辛くて、楽になりたくて、一度は音楽から離れてみました。でも、もっと辛くなるだけだった。だから、ピアノに逃げたんです」コルダはマークを見る。「だけど、不思議。あなたの演奏を聴いていると、少しだけ、また歌ってみたくなる……」マークは頷いて、再び演奏を始めた。「歌ってください。音楽を恐れないで、あなたの楽しいように」
 そんな二人の日々はこれからも穏やかに続いていくものと思われた。
 しかし、広場が市の都市開発によって撤去され、ショッピングモールになるという。もちろん、あのステージやストリートピアノも含めて。
 それを知ったマークとコルダは言葉を交わす。「でも、ピアノは他の場所でも弾けますもの。私の教室もありますし……」「そう、ですよね」「だけど、やっぱり。……寂しく、なりますね」二人の表情は暗い。
 それから、広場の撤去工事を前にして、最後の水曜日。マークは入社して初めて会社を定時退社すると、足早にコルダのピアノ教室へと向かい、その扉を叩いてはひどく緊張した面持ちでこう発した。「コルダ先生。最後に、コンサートをしませんか」
 そうしてコルダはマークに言われるままに広場のステージに立った。マイクも音響機器もないステージ。あるのは、ピアノただ一台だけだった。まもなく夜が訪れようとしている夕暮れのステージに立つコルダのことを、数人の人間が好奇のまなざしを向ける。コルダはそんな視線に一瞬怯むが、マークがそっとピアノを弾き出すと、自分の中の恐れが旋律の中にほどけて溶けるような心地を感じた。
 コルダの美しい歌声と、マークのすべてを包み込むやさしい旋律は、通りすがる人々のまなざしを好奇のそれから純粋に音楽を楽しむ人のものへと変えていった。集まる聴衆の数が増えるたびに、二人は怯んだ。それでもマークはコルダのためにピアノを弾きたかった。コルダはマークのために歌を歌いたかった。それが二人にとって、一番楽しい音楽だった。二人の奏でる音色はいつしか自信に満ち溢れるものとなり、だんだん強く、だんだん強くなっていった。その楽の音に、広場に集った人々は魅了された。二人は何時間も奏で続けた。日がすっかり落ちても、夜が深まっても、何時間も。マークは思う。「運命があるなら、きっとこのことだ。俺は、今日のためにあの日怪我をしたんだ」
 それから、翌週のこと。あの最後の水曜日にマークとコルダのコンサートを楽しんだ観客たちでデモ隊が組織され、市の役所には広場の撤去を反対する人々が押し寄せたらしい。彼らの熱量に押し負けた市は協議の末、結局広場の開発を撤回した。
 更に翌週の水曜日。またしても定時にタイムカードを切ったマークに、同僚が「随分早いお帰りじゃないか! どうだ、これから一杯?」と声を掛ける。マークは微笑んで、「ごめん。今日はピアノを弾くんだ」と返し、脇目も振らずコルダの待つ広場のステージへと駆けていく。広場に向かうにつれ、彼の足取りは力強いものとなる。駆けてくるマークを見付けたコルダが抱き締め、二人はまた水曜日のコンサートを始めるのだ。
 そして、物語はマークの言葉で幕を下ろす。
 ──「コルダ先生。また、来週の水曜日に!」


 『クレッシェンド!』は初公演時から現在まで根強い人気を誇る劇団ロワゾの代表的なラブストーリーである。初演からキャストを変え、演出を変え、様々な色で幾度も幾度も再演されてきた公演であるが、やはりダリアとマリアンヌが演じたオリジナル版の人気は他と一線を画すものがある。
 ダリア・ダックブルー演じるマークのうだつが上がらない様子や溜め息で話すような物言い、また、コルダの一挙一動にどきまぎと身体を固くする様子は極めて現実的で、見ている観客の方が心配になってしまうほどだった。また、マリアンヌ・デュアメル演じるコルダの優しく大人びた雰囲気と、それでいて人並みに感情の揺らぎを内側で持ち、それが絶えず渦巻いている様子も当然、無数の観客の心を打った。
 更に、劇中のピアノ・シーンは楽団ラマージュの演奏ではなく、本当に二人が弾いているというのも驚くべき点の一つだ。
 ダリア・ダックブルーはこのデビュー公演で一躍有名レイヴンとなり、また、この脚本を書いたのも彼自身であることから、劇団ロワゾの脚本家としても大いにその名を高めることとなった。
 以降、ダリアとマリアンヌは劇団ロワゾで引退後も愛されて止まないコンビとなっていく。ゆえに、今でも『クレッシェンド!』のダリア&マリアンヌ版の再演を望む声は多いのだ。




劇中歌 / 一部抜粋


Piano Lesson
Ms.Merula
To Coda ~コーダ・マーク~


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