世界も呪いも同じこと

 月のない夜のことだった。
 それは目を開けていようと閉じていようと同じことだった。寝台から起き上がり、そっと開けたカーテンの隙間からはすっかり寝静まったバハギアの姿を見下ろすことができる。この地方の眠らない街と称されるシンガンシティも、とうに夜半を過ぎた今頃となればさすがに眠りにつくというものだった。未だ煌々と明かりが灯っているのはバハギア有数の大企業であるトリリオン・ホールディングスの本社ばかりであったが、或いはそれはシンガンシティの人々にとってはただ唯一、夜の闇を照らしてくれる頼もしい存在だったのかもしれない。ベッドサイドのシェードランプのように、また、松明に似たポケモンリーグのように。
 ただ一人の目を貫く、その代わりに。
 新月の夜だった。夜明け前の、最も闇の密度が濃い時間だ。この地方は毎晩、驚くほど従順に夜に染まっていく。目を細めると、トリリオン本社の他に街灯の明かりがまばらに灯っているのを認めることができた。部屋の中はこの上なく清潔な暗やみで覆われていたが、今この瞬間に下界を支配しているのは夜に目覚めるポケモンや植物たちの秘密めいた呼吸を宿した、清潔とは呼べないが自由で暗澹たる漆黒であった。それこそが、バハギアで真実夜と呼べるものだった。その夜が存在するおかげで、卓上のインクを流したみたいな空に輝く、無数の小さな光が何かの前兆のごとく身震いするのが目に映る。月はない。ぼやけてうっすらとした白い輪の紋章が、ただ頼りなく空に浮かんでいるだけで。
 そうしている内、トリリオン本社のまばゆい光がこちらを捉え、うるさいほどの沈黙を部屋の中に忍び込ませてきた。己の息づかい一つ聞こえなくなって、思わずカーテンを閉めて後じさる。頭の割れそうな重苦しい、完全な沈黙だった。瞬間、聞かれている、と思った。心の内を聞かれている。見透かされている。ああ、見られている!
 しかし、それが全くの杞憂であるとトビシマが正気を取り戻したのは、
「──ボス?」
 と、眠気が揺蕩っている声で少年が呼んだためであった。
「パームくん」はたとしてトビシマが呟いた。
「どうしたの」ベルベットのシーツを無造作に蹴飛ばしながらパームは起き上がった。「何、まだ夜じゃん……」
「すみません、起こしてしまいましたね」
「何してたの」あくびを噛み殺して、パームが問う。
「……月を」わずかに逡巡したが、トビシマは答えた。「月を、見ていました」
「月? ふうん」
 あくび混じりにそう声を洩らすパームの声はこの上なく興味がなさそうだった。しかし少年は興味がないなりに上等のベッドから身体を離して、若さのために内側から輝くようなその素足で絨毯を踏み、毛足の長い草むらを拉きながらトビシマの隣へと歩を進めた。
 そうして大きな窓から空を仰いだパームは「ないじゃん、月」と呟き、怪訝な顔でトビシマの瞳を見やる。夜明けの底にひとときばかり光る水色にも似た淡い秘色に捉えられ、トビシマは言葉を見付けるより先に困ったように微笑むことしかできなかった。そんな少年が身に着ける、透き色の白をしたナイトウェアの裾が呼吸するたびに静かに揺らめいている。それはトビシマにとって、どこかバハギアに巡る真っさらな祈りの波のようにも映った。
「後悔してるの? センシの森を焼いたこと」窓の近くは足が冷たかったので、すぐ近くのラウンジチェアに座ったパームが足をぶらぶらとさせながらそう問うた。
「……いえ」普段であればその向かい側の椅子に腰を降ろすトビシマだったが、彼は未だ窓の外を見つめながら睫毛を伏せることでかぶりを振った。「いえ、していませんよ。あれは必要な犠牲でしたから」
 その回答にテーブルに頬杖をつき、パームがトビシマを見る。「へえ、変なの」
「え?」
「だって、後悔するでしょ、普通。あんなにポケモンが死んだんだから」あっけらかんとパームは言った。「だから、変なの」
「……そう思いますか?」
「思うよ?」あくまで少年は気軽な調子だった。それが至極当然の言葉であるといった、淡々とした声音の。
「なら、どうして君は……」
「どうして、って? 理由がいるの?」振り向いたトビシマの灰紫に、雲よりも軽やかなパームの疑問がひらりとする。「ボスのポケモンだってそうじゃん。ボスが変なのでも、変わらず一緒にいる」
 トビシマは思わずベッドサイドに置かれているボールの一つを目に映した。円い輪郭を保ち続けるそれがシェードランプのほの明かりを受け、闇の中でおまもりすいしょうにも似た姿で静かに光っている。その形は、手と手を組み合わせて祈りを捧げるときの、あのまろやかな円形にも近しい。
 トビシマは再び窓の外を見、大層に輝くトリリオン社を見据えた。「……父は今、失った沿線開発権を取り戻そうと躍起になっています」
「えんせ……何?」
「沿線開発権。新しい駅や線路を作り、そこに汽車を走らせるための開発事業をすることのできる権利ですね」
 ふうん、とパームが鼻を鳴らした。「そのエセナントカを取り戻したらどうなるの?」
「父のことですから、まずは開発中止となったジンライシティとロクショウタウンを繋ぐ線を再び開通させようとするでしょうね」ほとんど無意識にトビシマは俯いていた。「そうなれば、多くのポケモンが命を落とすことになる──センシの森よりも多くのポケモンたちが」
 窓際に立つ彼の長い黒髪が、バハギアの呼吸する暗やみを暴く光に照らされ、それはかなしばりを受けたときのように微動だにせず、同時に冷たく細い針で刺されたかのごとく身震いしているふうにも見えた。どちらにせよ、パームには同じことだった。少年は、トビシマの額に落ちる一房の髪しか見ていなかった。
 パームは椅子の上で三角座りをし、その細腕で膝を抱き締めながら相手のことを覗き込む。「ボスは、お父さんを止めたいんだ」
「止める?」その響きは、少しばかり虚ろに聞こえた。「いえ──止まらないでしょうね、父は」
 トビシマはパームの、まるでこの世に汚れなど存在しないと信じたくなるような青い瞳を見る。肌を透かす透き色の布よりも更に光めいている彼の白い髪が椅子の背に掛かって、それは月光よりも確かな存在感をもってトビシマの方へ投げかけられていた。トビシマはそんな少年の髪に触れようとし──瞬間、己の指先が随分と黒く染まっているように思えて、やはり暗やみを掴むだけに留めた。
「ですから、私はせめて……父が食い潰すバハギアの豊かな自然やエネルギーを、エニシデシアの力で補完したい」そう薄い唇から吸い込む空気が少し冷たかった。「バハギアがこれ以上、苦しまないように」
「まるでバハギアが生きているみたいな言い方をするね」パームは声を立てずに笑った。
「……生きていますよ」
「ああ、つまり、ボクが言いたいのは」眉を微かに下げて笑むトビシマに、パームはちょっと仕方なさげに首を傾げる。「バハギアに心があるみたいな言い方だねってこと」
「変……でしょうか?」
「不思議だね」
 さっぱりと棘もなくそう答えたパームに、トビシマは今まで触られなかった己の湖に雫が落ちたような感覚がした。「どうしてなのでしょうね。自分でも、あまりよく分からないのですが」
「ボクに聞かれたって分からないよ、ボスのことなんだし」
 でも、と少年は言った。そんな隔世の感さえあるパームの目が弧を描き、穏やかと呼ぶには些か柔い輪郭でトビシマを見ている。
「ボスが一緒に苦しんでるのは分かるよ」
 瞳と似た色で影を落としているトビシマの深い隈が、ふっとその視線を上げたことによってわずかに和らいだ。パームの陶器めいたつま先が不意に伸びてテーブルの一本脚を蹴飛ばし、彼はその反動で椅子ごとくるりと回転する。テーブルに乗っている火の消えたキャンドルがかたりと揺れ、トビシマの視線を誘う。
 そして、パームの片脚がすう、と窓の外を指し示した。「そんなにお父さんが嫌いならさあ、壊しちゃえば?」
「……壊す?」初めて聞いた言葉をくり返すみたいな声音だった。
「エニシデシアを復活させて、捕まえて、なんかすごいわざでどおんっと会社を壊しちゃったらいいじゃん。そっちの方が手っ取り早いよ」悪びれることもなく堂々と、名案を思い付いた探偵のごとくパームが目を細める。「マスターボール、持ってるでしょ?」
「ですが、それでは根本的な解決には……」
「気は晴れるよ」迷いを見せるトビシマに、パームはこの世の何ものよりもいたずらっぽく、尚かつ手のつけられない無邪気さでくつりと笑った。「たぶん、センシの森を焼いたときよりはね」
 トビシマは、自分の喉が不思議な速度で上下するのを感じた。
 次いで心の中に小さな波が立ち、その輪郭がパームの髪の流れによく似ていることにも気が付いた。彼は呆然として、もう何事も言うことができなかった。いま目の前に映る少年以外のすべてが、スクリーンに投影された映画のようにすっかり厚みをなくしていた。パームの嘘みたいな白と透ける瞳の青ばかりが確かな存在を放ち、今のトビシマにとって、ただそれだけが信じられる真実であった。音も消えていた。トビシマは、窓の外で夜を牛耳るトリリオンの電灯のことさえ忘れていた。
 そんなトビシマを尻目に、いつの間にやらパームは椅子の上から降り、まるで光が踊るみたいな軽やかさで再びベッドに身を沈めてしまう。そうして少年は自身が最も居心地の好いベッドの凹みを探し当てると、そこに身を横たえては、少しばかり腕を伸ばしてベッドサイドのボールを触った。
 ややあって、からりとパームは笑う。「ポケモンはいいね、分かり易くて」
「分かり易い?」やっとのことでそう発したトビシマの声の方がよほど乾いていた。
「ボスにとって、ね」うつぶせのパームの脚が、エネコの尻尾みたいに揺れ動く。「ずっとそばにいますって、見ただけで分かるでしょ。こうしてボスのボールに入っているから」
 額面通りの言葉だった。分かり易くて不思議な生き物を愛でる指先が、子守唄の手触りでそっとボールの縁を撫でている。羨ましげな様子は一切なかった。それこそ、見れば分かった。黒いベッドの上を支配しているのは、どう見ても少年のもつ白──清濁をすべて同じ味と呑み込む、その揺るぎない白だったから。
「ボクはボールに入れないけどさあ、ボス」ベッド横のナイトチェストから一つの輪を取り出して、パームはそれを相手に差し出した。「不安なら、首輪でもしとく? リードはボスが持ってね──そうしたら」
 パームの瞳が三日月になる。トビシマは手招きされるままにベッドに腰を降ろしていた。次の瞬間には、手の中にリードが握られていた。細くて柔らかな手が、忍び笑いを洩らしながら両目を隠す。そうされながら、トビシマは自分の手の色を忘れ、パームの真っ白な髪に触れていた。そして同時に、或ることを思い出していた。
「見えなくても、分かるでしょ?」
 月が隠れていたとしても、その存在を疑うことなど決してないことを。

20230811 執筆
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