252.4.252

「嵐が見てえなあ」
 と、ウラジロが呟いたのは、とある晴れた日の高い、高い、青空の下であった。
「嵐」
 そして、その後ろに続くカワラは、そんなウラジロの言葉を聞いて疑問を呈するわけでもなく、ただ淡々と聞こえてきた言葉をくり返すのみだった。
 麗らかと呼ぶには些か青すぎる、どこか皓々たる空に見下ろされ、二人はさながら終わりなくどこまでも続くような、果てしのない万里の城壁──イッテン長城を上っていた。山岳を横断して広くうねるように延びるその姿からギャラドスの背≠フ別称があるこの険しい道のりの先に、カワラがチャンピオンとして率いるポケモンリーグは聳えている。
 カワラは前を行くウラジロの背から視線を外し、今しがたやってきた道のりを見下ろした。順路にはこの辺りを根城にしているドラゴンつかいやからておうがぽつり、ぽつりと墨汁を垂らしたかのように佇んでいるばかりで、二人の足音の他には真新しいもの、特にチャレンジャーなどという存在は見受けられない。カワラは歩くたびにカラコロと鳴る自身の天狗下駄に反してごくごく静かに足を止め、空を仰いでは風のにおいをすん、と嗅いでは、
「十分後に夕立が来る」
 そうウラジロに向かってぽつりと発した。ウラジロもまたその言葉にぴくりと肩を震わせたのち、足を止めて背後を振り返る。
「げえ、まじかよ。あと十分でリーグまで帰れるか?」言いながら彼はまだ遥か先に建っているように感じるポケモンリーグを見やった。「ってか、嵐ってそういう意味じゃあねえよ」
「あいにく台風は来ないな」カワラが平然と言う。
「それもちげえって!」ウラジロは食い気味にそう訴えると、溜め息混じりに肩を落としてカワラを見た。「つまり、オレが言いたいのは──カワラ。お前のことだよ」
 言われて、カワラはウラジロのそれとよく似た茜色の瞳で相手のことを見返した。ウラジロはそんなカワラの視線を受けつつ、たっぷりとした長い髪を揺らしながらイッテン長城の防御壁に近付くと、その経年によって欠けた部分に両腕を預け、そこから見下ろすことのできる縹渺と無辺際に広がる大地を眺めやる。イッテン長城の眼下に見える景色は最早画布に塗り広げられた輪郭のない色彩画であり、この高さからではポケモンや人々の細かな営みの姿は目に入れることさえ叶わない。野生のとりポケモンやむしポケモンが寄り付けないほど、ポケモンリーグと地上の距離は離れている。
 それでもウラジロはその遠く離れた道のりをひとっ飛びするかのように、ふっと片手で宙を掬い上げては天上を示した。
「だって、お前さ、すっげえ強えのに、いっつもシケた面しててよお」そうして山肌を上る風をぐっと掴み取ると、彼はぶわりと吹く風に前髪を揺らしながらカワラの方を振り向いて笑う。「でも、そんなお前でもポケモン勝負してるときは時たまちょっと楽しそうな顔するじゃねえか? だったら……たとえば、とんでもねえチャレンジャーがリーグに──お前の前に現れたりすればさ、お前ももっといい顔するんじゃねえかって、そう思うわけよ、兄貴としてはな」
 太陽の照り返しは、今日という名の玉座が崩れるほど激しくなっていく。傾きはじめた陽光にウラジロの輪郭の半分が照らされ、その瞳を染める朱の色をちかりと閃かせていた。カワラはそんなウラジロの顔をじ、と見つめたのち、雨の一滴を待つより早く、ゆっくりと一つ瞬きをしてみせた。
「来るかも分からん挑戦者の話をするくらいならば」そして眉をぴくりともさせることもなく、カワラがそう言った。「オマエがより研鑽を積み、そういう存在になればいいのでは?」
 ウラジロが肩をすくめ、かぶりを振る。「あのなあ、リーグにチャレンジャーとしてカチ込む四天王がどこにいるんだっての」
「いたって構わんだろう。オレが許す」
「そう好き勝手言ってるからお上にぐちぐち怒られるんだぜ」
「構わんが」カワラは顎をしゃくった。
「いーや構えよ。怒られるのは四天王のオレたちなんだぜ……」ウラジロは溜め息混じりに抗議した。「主に兄貴のオレ!」
「知らん」
「おおう、言ったな!」そう怒号と呼ぶには些か丸すぎる声を上げたウラジロが、びし、と人差し指をカワラの眉間に突き付ける。「そんな口利くヤツは、いいか、晩飯抜きだからな!」
「そうか」
 それからふん、と鼻を鳴らしては踵を返してずかずかと進んでいくウラジロの背を眺めていたカワラだったが、しかし彼は不意にその背から視線を外すと、先ほどウラジロが見やっていた遥か下界の景色を目に映す。
 ややあって、天狗下駄の小気味好い音が聞こえてこないことを怪訝に思ったウラジロが振り返った。「カワラ?」
「……雨のにおいがする」そう呟くカワラの声はどこか人離れして、さながら不思議な生き物の鳴き声めいていた。
「ああ、風も強くなってきたな」ウラジロが数歩戻って、カワラに向かって手招きする。「急ごうぜ」
 カワラはそんなウラジロの大きな手を音もなく見つめた後、コイキングが滝を登るよりは素早く、けれどもギャラドスの背のうねりよりは真っ直ぐなまなざしでウラジロの瞳を見据え、
「ウラジロ」
 と、吹く風よりもゆっくりとそう呟いた。それは静かなものであったが、響きを確かめるような強かさをも滲ませるものだった。
「この辺りに吹く風は、向かいの山から吹き下ろす局地風だ」カワラが更に言葉を継ぐ。「大幅に地形が変わらん限りはいつも同じところから同じように生まれた風が吹く」
「あン……?」ウラジロはぱちりと瞬き、要領を得ない様子で呟いた。「何が言いたい?」
「オレは常日頃オマエたち四天王に言っていると思うが」
 カワラもまた不可解そうに言い、そんな相手にウラジロが小首を傾げ、ひらりと片手を振った。「だから何をだよ。知らん、つまらん、話にならん≠ゥ?」
 カコ、と足元が鳴る。カワラが一つ、歩を進めた音だった。湿ったにおいを従えた風が強く吹き、彼の二つ結いされた長髪を二股の尾の如く揺らしている。けれどもカワラの纏うマントは重く、その程度の風では翻らなかった。そうして彼はウラジロの横を通り過ぎざま、ただ前ばかりを見つめたままに言い放った。
「欲しいものがあるのなら、それを手にする努力をしろ。夢想し、待つだけでは何をも手には入らん」
 ぽつり、またぽつりとカワラの足音よりも短い間隔で地面に黒い染みが広がる。雨が降り出したのだ。ウラジロが顔を上げる。けれどそれは顔に降り注ぐ水滴のためでも、突如青空に立ちこめた暗雲のためでもない。彼は階段に足を掛けたカワラのことを見ていた。ざあ、と雨をはらんだ風の音が響く。雨は瞬く間にすべてを踏みつけるほどの勢いになった。
「嵐が見たいと言うのならば、ウラジロ」カワラがつと階段上で振り返り、豪雨よりもうるさい静けさでそう発した。「風はオマエが連れてこい」
 それだけ言うとカワラは再び身を翻し、こちらを蹂躙せんとする大雨をその天狗下駄で踏みつけながら、悠々とイッテン長城の頂きに向かって進んでいく。ウラジロははたとし、そんなカワラの背を追いかけて数歩飛ばしに階段を上ると、彼のすぐ後ろについてこう尋ねた。
「オレが風を連れてきたその暁には?」
「オマエの見たい景色を見せてやろう」カワラは振り返りもせずに言いきった。「そして、その風とやらもこのオレが叩き割り、嵐を手中に収める。それが道理で、王者というものだろう」
 カワラの答えに、ウラジロは弾ける雷のごとく高らかに笑った。口の中に雨が入るのも気にせず彼は笑った。太陽は雨雲に覆われてとうにその座を奪われていたが、ウラジロの赤い瞳は先ほど陽光に照らされたのと同じほどに閃きを隠せずに輝いていた。そうして彼は一頻り笑った後、ひょいとカワラの横に躍り出ると、その肩に自身の腕を乗せてはじつに楽しげな笑みを浮かべたのだった。
「仰る通りで。将軍サマ」
 そう言うウラジロに、カワラがまた一歩足を進める。風が強く吹いている。時化た海のように空気がうねっている。けれども、それはおそらく、彼にとっての頷きに等しかった。カワラは睫毛を上げ、聳えるポケモンリーグを見た。
 頂きと予感が、すぐ目の前にあったのだ。

20230122 執筆
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