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Ego

エゴ






だって、あなたも、そうきれいなわけではないんでしょう?



 アニス・アドニス・アドリアティック及びオペラ・オパールグレイがレイヴンを務めたダブル・レイヴン方式の公演であり、また、アニス・アドニス・アドリアティック≠フ事実上の遺作となった作品。


 この物語は、いずれ語り部を失って忘れ去られる物語だろう。
 昔々のことなのか、それとも今よりずっと先の未来での出来事なのかは定かではないが、アル王国のアル城のわがままなアル王のところに、一人のうら若い王子がいた。名はレイと言い、彼は見目麗しい上に人好きをして気風がよく、代々暴君の称号を欲しいままにしているアル王家の血筋を引く者とは思えぬ品行の良さで、民からはすでに現王そっちのけで時期名君として慕われていた。レイは生まれてこのかたわがままを口にしたこともなければ、不平の一つも口に洩らしたことさえもなかった。そんなレイのことを、アル王も溺愛していた。王が何をそっちのけにしてレイを溺愛していたかというと、それは無論、政治である。
 さて、そんなアル王国の隣、川を挟んだすぐ向こう側には、リン国という小国が存在する。リン国は小さいながらも、大国であるアル王国に引けを取らないほど高度な文明を有しており、アル王国にとっては常に脅威、目の上のたん瘤であった。アル王としてはその高い水準の技術力や勤勉な人力は民の大半がこぞって労働を嫌うアル王国に欲するところである上、また、いずれ王位を継ぐレイの負担を減らすためにもリン国を自分の代の内に手中に収め、支配下に置いてしまいたかった。
 そして、とある日である。そんなアル王の企みを知ってか知らずか、リン国からレイ王子への縁談が舞い込んだ。リン国王の嫡女との縁談である。リン国側の申し出としては、この縁談を機に、両国の友好と親睦をより一層深めていきたいとのことだった。この話を聞いたアル王は好機到来として、嬉々としてリン王女とレイとの縁談を受けた。
 しかしながら、アル王は紛うことなき純血の暴君である。そう易々と愛息子を敵と呼ぶべき国の王女に明け渡すはずもなければ、何かを得るために己の何かを犠牲にするといった考えには断固反対であり、それでいて欲しいものは必ず手に入れる主義だった。そこで彼は側近の大臣たちを集め、何か良い案がないかどうか──「誰も何も申し出ないようならそんな役立たずはこの国に要らぬ。全員纏めて首を刎ねてしまうぞ」──を尋ねた。すると、大臣の一人がおずおずと手を上げ、恐れながらこう発したのだ。
 ──「私は長年、禁忌とされている人造人間レプリカント技術について研究しております。最近、自我のあるレプリカントを生み出すことについに成功致しました」と。
 そういうわけで、アル王はその大臣のレプリカント技術を用いてレイの複製を造り上げることにした。リン姫はお忍びでアル王国に訪れた際、レイの見目麗しさと甘やかなまなざし、そして思わず意識を傾けてしまう歌声に心奪われたという。それゆえ、大臣はレイのつやつやとした髪と長い睫毛の一本ずつと、爪の欠片を少しに、レイの歌声を聞かせたエバーラスティングの一輪を混ぜてレプリカントを造ろうと試みた。実験はつつがなく進み、美しい髪と長い睫毛の下に秘めやかなまなざしを持つ、世にも美しい青年の姿をしたレプリカントが生まれた。従順で、人の言うことにはなんでも従う、アル王や大臣からしてみればじつに扱いやすいレプリカントであった。実験は成功のように思われた。
 が、しかし、生まれたレプリカントは、全くレイに似ていなかったのだ。
 似ているのは髪色と瞳の色ばかりで、目鼻立ちも纏う雰囲気も、背格好や後ろ姿さえもレプリカントはレイに似ていなかった。レイは涼やかなつり目がちの瞳に対して、レプリカントはどこかあどけなさの残る垂目であったし、鼻はレプリカントの方が幼げに低かったが、けれどまなざしばかりが大人びて、それはまるでレイの睫毛の影から生まれたようにどこか濡れた憂いを帯びていた。
 肝心の歌声さえも、レプリカントはレイに似ていなかった。レプリカントはレイよりも歌を歌うのが好きなようで、いつでもどこでも暇を見付ければ歌を口ずさんでいたが、その歌声はレイのついつい会話を止めて聴き入りたくなるような王族然とした存在感の滲むそれとは相異なって、気が付けば胸の内側に入り込んでいる、空気めいて風めいて水めいて波紋めいた、とても一人だけのものとは思えない、不可思議な音色をしていた。それは夜に鳴く鳥の声にも似ていた。
 そんなレイとは非なる存在に仕上がったレプリカントを見て、大臣はアル王に「これではレイ様の身代わりにはとてもならないでしょう。しかし、配合を変えれば或いは。一度破棄して、造り直しを致します」と進言したが、手間と労力と時間と費用を惜しんだ王は首を横に振り、「いいや、これはこれで使えるところがある」と言った。「このレプリカントを、レイの弟ということにしよう。レイとリン王女の婚儀は来月だ。その直前に不運な事故でレイが命を落としたということにし、せめてもの慰めとして兄の代わりに弟が姫と婚約をするというのはどうだ? 詫びの気持ちを込めて、婿入りという形でな。そうすればレイは敵国の醜女を娶る必要もなし、レプリカントは易々とリン国の心臓部に潜り込んで情報を盗み、なんなら暗殺だって可能だ。一石二鳥じゃあないか。どうせリン国の女なんて皆、人の顔の美醜しか見てはおらんのだ。ならばこのレプリカントでも問題なかろう」そんなアル王の企みに頷きつつ、けれど物憂げに大臣は「ああ、しかし陛下、どうかお気を付けください。決してレプリカントを日光に当ててはなりません。身体が溶けてしまいますから」と言ったが、しかしその大臣の心配を、アル王は事もなげに笑い飛ばしてみせる。「病弱で日の光に当たれないということにすればよかろう。それなら誰も、こやつを日の元に晒そうなどと考えんわ」
 レプリカントはこのような謀略に対して是非もなく、ただ王に命じられればそれに従うまでだった。リン王女との婚儀までの一か月間、特に為すべきこともなく猶予を与えられたレプリカントは、城の庭園に足を踏み入れては水飛沫を上げたまま動きを止めた噴水に腰掛けて、湧き上がる歌に身を任せてはただ歌って過ごしていた。レプリカントが活動できるのは室内か、もしくは専ら夜ばかりであったが、不思議なことに庭園はいつ何時でも夜の姿をしていた。真っ赤なバラをはじめとする様々な品種の草花が植えられた庭園はいつ訪れても月の光にぼんやりと輝いて美しく、レプリカントはそんな花々たちに囲まれていると、不思議と心が落ち着くのだった。ここは、レイの歌を聴き、レプリカントの身体の一部となったエバーラスティングが生まれ育った庭園だった。
 その日の夜──それは庭園だけのものではないほんとうの夜だった──もレプリカントは噴水に腰掛けて歌を歌っていた。極力人目を避けるよう命じられていたレプリカントにとって、誰もやってくることのない庭園はこの上なく都合の良い場所だった。この日までは、こつりと石畳を踏む靴音が鳴り響くこの瞬間までは確かに。
 「君……」つと、歌うレプリカントの背後で洩らすような呟きが聞こえてくる。レプリカントがはたとして後ろを振り返ると、そこには夜の暗やみの中でも太陽を内包した水面のごとくにきらきらとまばゆい一人の青年が立っており、レプリカントのことをじっと見つめていた。その青年こそレプリカントの元となった人物、レイ王子だった。「君が、僕の弟?」彼はレプリカントと目が合うのと同時に目の中の驚きをふっと和らげ、柔らかく目を細めてそう問うた。「病弱で日光に当たれない?」「そうです、王子様」レプリカントは噴水に腰掛けたまま、レイを見上げて頷いた。「はじめまして、僕はあなたのためのレプリカントのライ。あなたに会えてとても嬉しい」「ううん、違うよ。僕の弟なら兄様って呼んでくれなくちゃあ」「はい、兄様」「あはは、嘘だよ。レイって呼んで」「レイ」「うん、ライ。君は夜露を浴びた花みたいにきれいだね」「あなたには似ていない?」「うん、そうだね。君が僕のようだったら、僕はこうして足を止めたりなんかしなかっただろうから」
 それからというもの、レイはレプリカントのライの元に度々訪れた。ライは相変わらず夜以外のない庭園にいて、いつでも歌を歌っていた。「はじめは夜の鳥が歌っているんだと思ったんだ」とはレイの言である。「でもありえないよね、この庭は母様が亡くなって一切の動きを止めた場所だから」「どうして動きを止めたの?」「さあ、詳しいことは分からないんだ。でも母様は王妃でありながらも王国いちばんの庭師だったというし、侍女の話では息子である僕に、自身が手入れをしたこの咲き誇る庭園の美しさを知ってもらうため、自分が死んだ瞬間に庭園の時間が止まるように仕掛けを施したらしい」「すごいね、魔法みたいだ」「うん。でもそれって、なんというか、エゴだよね」「エゴって?」「自分勝手な愛情ってことかな」「それはいけないこと?」レイは答えなかった。代わりにバラに留まった蝶や木の枝から飛び立とうとしている鳥の姿を指差して、「ごらん。彼らはもうずっとあのままだ。時が止まって、どこにも行けないままで」と言った。「レイはそれが悲しいの?」「そう見える?」「違うの? なら、悲しいのは、もしかして僕の方?」首を傾げながらそう呟いて、ライは動きの止まった蝶のところまで歩いていく。「いつからこのままなの?」「母は僕が三歳の頃に亡くなったから──十五年はこのままだよ」「それはどれくらいの長さ?」
 ライの質問にレイは答えに窮したようだった。ライも答えを欲していたわけではないのかもしれない、彼は蝶をそっと撫でると薄く唇を開いて歌を歌いはじめた。レイははっとしてライの横顔を見つめる。まずは初めて間近に聴くその歌声の美しさに、次いで、自分のレプリカントが紡ぐ歌そのものの内容に彼は目をわずかに見開いてライを見つめたのだった。ライが歌うのは、子守唄だった。レイの母がある夜に即興で作り、息子ただ一人に聴かせてみせた夜にたなびく子守唄だった。
 しかし、どうして、とレイの口が戸惑いを洩らすよりも早く庭園に異変が起こる。噴水の水が音を立てて噴き出したかと思えば地震のごとき地響きがあり、庭園の草花は咲いては散り咲いては散りを凄まじい速さで行ってはおそるべき急成長を遂げて庭園内を縦横無尽に覆い尽くし、終いにはバラの茨が噴水をも抱き締めるように突き破っては止め処を失った水が庭園内に好き放題流れ込み、それが更に植物たちの成長を助けた。レイがああ、と思い、何が起きているのかを理解した瞬間にはもうすべてが終わっていた。
 時間が動いたのだ。
 庭園が、今日≠ワでの時間を、今まさに取り戻したのだ。見上げれば、硝子の天井から夜が消え去っていた。白昼の青空が十五年ぶりにこの庭園を見下ろしていた。そこには光があった。太陽だった。日光が! それを認識すると共に思わずレイは駆け出し、ライの上に覆い被さった。「ライ、腕が」一瞬であれど日光を浴びてしまったライの片腕はその皮膚の表面が爛れて、血とも肉とも骨とも呼べない何やら醜い中身を呈出してしまっていた。「ああ、ごめんなさい、レイ」言って、ライはレイを見上げた。「あなたの腕を傷付けた」「違う、君の腕だよ。僕のはかすり傷だ」「でも、血が流れてる」「痛くないよ」「僕も痛くない」ライは自身の皮が溶けた片腕を見る。「でも、どうしよう? あなたのためになるには、僕は美しくなくちゃいけないのに。これじゃあますますあなたに似ていないよ、レイ」「問題ないよ、僕だってそうきれいなわけじゃないんだ」「腕には花でも挿したらいいかな」言いながら、ライは辺りに無数に咲く花々を目に映す。そんな相手を見下ろしながら、レイは問うた。「ライ、さっきはどうして」「ああ、ごめんなさい、レイ」ライはくり返した。「あなたが聴きたいかなと思ったから」「どうして?」「お母様の話をしていたから、お母様の歌を聴きたいかなと思ったんだ。僕にはそう見えて」「どうして、母様の歌を知っていたの?」「僕はあなたのレプリカントだから」「どういうこと?」「僕はレイの一部から造られたものだよ。だから、あなたの記憶をほんの少しだけ持ってるんだ」僅かに笑んでそう呟いたライは、自分の片腕を見やって問うた。「ねえ、もしかして。あなたにもこんな傷がある? レイ」レイは何も言わないでいた。彼は日が暮れて太陽が植物の領地と化したこの庭園から姿を消すまでの間じっとライを見つめ、ただ彼に覆い被さったまま、ライの日陰であり続けた。「十五年」ふと、ライが呟いた。彼のそばには、吹けば飛んでしまいそうな灰が音もなく積もっていた。「蝶や鳥が生きるよりも長い時間だったんだね」
 明くる日から、茨の楽園となった庭園はレイ王子の片腕を傷付けた忌み地として封鎖された。アル王の愛息子であるレイを傷付けることはそれがどれほど僅かで目に見えない程度であれど王国では大罪である。植物にも例外はない。いずれあの庭園は焼き払われるだろう。
 「止まったままの方が幸せだったのかな」その話を聞いたライはそんなふうに呟いた。彼は庭園という居場所を失してから、ほとんどの時間をレイの部屋で過ごすようになっていた。「分からないな」「レイにも分からないの?」「僕には分からないことばかりだよ」「それでも、みんなあなたを名君と呼ぶの?」「みんな、知らないんだよ」「何を?」「何も」「僕は知ってるよ」「何を?」「あなたが後悔していること」「何に?」「……僕と出会ったこと?」「違うよ」レイは少し笑った。「後悔なんかじゃない。やっぱりライは何も分かっていないよ」「でも、あなたの見た海がきれいなことも知ってる」「海?」「憶えていない? だけど、僕の中にあるんだ。あなたが見た輝く海の記憶が……」レイは爛れた皮を覆い隠すように造花が飾られているライの腕を見た。「そういえば、母様と一度だけ行ったことがあるかな。アル王国とリン国の間を流れる川をずっと下っていくと青い海があってね」「想い出した?」「ううん、あまり。随分前のことだから」「十五年前?」「大体ね」「僕も見てみたいな」「海を?」「うん」「きっと、もう汚れてしまっているよ」「それでもいいんだ」「どうして?」「だって、あなたも、そうきれいなわけではないんでしょう?」
 リン王女とレイ王子の婚儀に関する偽装工作はつつがなく進んでいるようだった。やがて婚儀の一週間前になると、最終調整を行うという名目で、ライは大臣に連れられてレイの部屋を去り、二人は顔を合わせることもできないまま婚儀の前日を迎えていた。
 その夜、どうにも寝付けずにレイが城内を彷徨っていると、どこからか聴き覚えのある歌声が響いてくる。レイは一瞬足を止めて、さざめく美しい歌声に耳を澄ませた。母の子守唄だった。誰が歌っているかなど、立ち止まる前から分かっていた。彼は再び足を動かして、歌がやってくるところまで早足に、ほとんど駆け出していた。
 「夜の鳥が歌っているんだと思った?」ライは植物の王国と化した庭園にいた。彼は真っ白な衣装を身に纏っては茨に抱かれて崩れた噴水の上に立ち、そばにやってきたレイを見付けると、ふっと歌うのを止めてそのように尋ねつつ微笑んだ。「ありえないよ。君がいるのに」レイがそう言うとライは可笑しそうにくすりとしたが、しかしあちこちで石畳や石像を蹂躙しては自由に伸びて咲き誇っている草花たちを見渡すとそっとその睫毛を伏せ、呟いた。「この庭園は明日焼き払われるんだって」「そうなんだ」「悲しくない?」「実感がないから、あまり。ライは悲しいの?」「レイが悲しくないなら僕は悲しくないよ」ライは噴水の上からふわりと地面の上に降り立った。「あなたに会えるのはきっとこれが最後だから、訊きたいんだ。レイはずっと、何に後悔しているの?」ライの瞳が形も色の鮮やかさも異なるレイの瞳をじっと見つめる。レイはそんなレプリカントの目を見つめ返し、たった一度だけ瞬きをすると、「前にも言ったよ、後悔なんかじゃあないって」そう呟き、それから唇で音もなくライの名前を呟いたのち、こう言った。
 ──「海に行こう」と。
 そうして彼らは手を繋ぎ、城を飛び出した。怠惰なアル王国で夜、見張り番が起きていた試しはない。二人は夜の中を何時間も何時間も駆け続け、ひたすらアル王国とリン国の間を流れる長い川を下っていった。夜の色は深く、星々は煌々と無数に輝いていたが、月は生まれ変わりの日であるために姿を見せることはなかった。言葉も、駆ける二人の間にはなかった。ライの歌さえも。
 駆けて、駆けて、駆け続け、レイとライが海に辿り着く頃には、水平線の底は僅かに、ほんの僅かに白んで、星々は夜明けを悟ってその鳴りを潜めては空は一日の中で最も暗い夜の色に染まり上がっていた。海はひどく静かに凪ぎ、波が砂浜に打ち寄せるざあ、という音だけが辺りには響いていた。ライは天上の星々が投げかけた光で淡く煌めく黒い水面を見やって、「これが海?」とレイに問う。「うん、これが海だよ」「あなたが見たものと違うみたいだ」「汚れてみえる?」「ううん。大きな穴みたいに見える」言いながら、ライが衣装の長い裾を引き摺って海の中に足を踏み入れる。「僕はあなたのためのレプリカントのライ。ねえ、あなたのほんとうの望みを教えてよ、レイ」レイも海の中に歩を進めた。「それならもう叶ったんだよ、ライ」「そうなの?」「うん」「じゃあ、よかった」「ごらん、ライ」レイは水平線を指差した。橙色に染まりはじめた空の果てに、顔を出そうとしている太陽の輪郭が緑色に輝いている。「ああ、夜明けだ、レイ。僕のことを抱き締めていてくれる?」「うん、いいよ」「僕の溶けた身体が、あなたを傷付けたらごめんなさい」「うん、ごめんね」「あれが、太陽。レイがお母様と見た海は、これだったんだね」陽光が照ってちかちかとまばゆく輝く、色鮮やかな海の姿を目に映してライが笑った。「きれいだ、太陽も、海も。あなたにはあまり似ていないけれど」夜明けの日光を受けるライの皮膚がレイの腕の中でどろりと溶けて、徐々にその身体が人としての姿を失っていく。彼は異形と化していく両腕をレイに伸ばして、「ねえ、レイ。時を止めて。僕と歌って」と囁いた。返事の代わりに、レイは歌った。母の子守唄だった。ライも歌った。同じ歌を彼らは歌った。時は止まらない。朝焼けはライの身体を喰らい尽くして、彼はついに言葉を発するのがやっとの姿にまで堕ちた。けれども、ライは微笑んでいた。レイも同じ表情をしていた。ライはレイに問いかける。それが、彼の最期の言葉だった。「僕はあなたに、似ていなかった?」だから、レイは膝を突いてはライを抱き締めたまま息を吸い、
「        」
 と、囁いた。
 ライの身体は完全に溶け崩れ、色をなくして海の中に落ち、やがて波に攫われて消え去った。水面の上にはライの着ていた真っ白な衣装と、彼の片腕を飾っていた造花ばかりでゆらゆらと頼りなく漂っている。やがてレイは波の中に立ち上がり、顔を上げて空を見た。
 夜明けだった。東の空が赤く燃えていた。戦争が始まったのだ。
 そして物語は、ここで幕を閉じる。


 『エゴ』は当初、レイ役がアニス・アドニス・アドリアティックとして予定されていた作品であった。アニスが幼い頃からよく口にしていた子守唄めいた歌から着想を受けてダリア・ダックブルーが書き上げたというこの物語は──のちに公表されたことであるが、アニス・アドニス・アドリアティックはダリア・ダックブルーの義弟である──長らくライ役のレイヴンが見付からないまま、上演を断念され続けてきた作品だった。このまま相手役が見付からないようであれば、半永久的な上演の頓挫の可能性も危惧されていた表題作だったが、しかしそれが覆ったのは或る春──ダリア・ダックブルーの教え子である第一期エグレット生のオペラ・オパールグレイがロワゾ入りを果たした春のことだった。
 アニスは劇団ロワゾの中でもロワゾ・プリンスとして名高い、いわゆる孤高の存在である。彼が興味を示すのはいつも脚本の内容、物語の世界観、そこに立つ登場人物たちばかりであり、役者個人に興味を抱くのは非常に珍しい。彼はどんな役者に対してもこの上なく平等であり、それは第一期エグレット生に対しても同じで、彼らがロワゾに入団した当初などは全員に分け隔てなく「やあ、これからよろしくね」といった挨拶のみを行ったという。が、アニスがなんとはなしにロワゾでのオペラの初舞台を観劇した際、おそらくは彼の中で何かが音を立てて覆ったのだろう。それから彼は数ヶ月の間、自らの出演の機会を削ってでもオペラの上がる舞台を観劇し続け、そして或るとき不意に座長レディバグ・レグホーンの執務室に現れるなりこう呟いたと言う。「オペラ・オパールグレイを呼んで。たったいま気が付いたんだ。僕はライだった」と。
 そのようにしてレイ役にオペラ・オパールグレイ、ライ役にアニス・アドニス・アドリアティックを据えて上演された『エゴ』は主にアニスのファンに大いなる打撃を与えることとなった。一つは、今までのアニスは清廉潔白が売りの気高い王子気質の主人公を主に演じており、けれども今回の表題作ではまるで毛色の違う役柄を演じたため。そしてもう一つは、『エゴ』の千秋楽を以てアニス・アドニス・アドリアティック≠引退し、アリア・アリス≠ニして再びロワゾ入りするという発表があったためである。そのため、先述したように、この表題作『エゴ』はアニス・アドニス・アドリアティックの事実上の遺作となったのだ。そうして改名のために引退し再デビューするという不思議な形を取ったアニスであるが、その改名に一体なんの意味があるのか、と問われると、彼は薄く笑って「アニス・アドニス・アドリアティックを求めて観に来てくれる皆さんの期待に添えるものを、僕はきっともう演じきれないと思ったんだ。アニスはずっと僕の王子で、アドニスとアドリアは僕の騎士だったけれど、僕はこんなに大きくなってしまったから、もう彼らの上には乗りきらない。僕は王子様じゃないし、王子様のお姫様でもない、もっとべつの何かなんだって気が付いたんだ。つまり──エゴだよ」と答えたという。
 それから程なくしてアリア・アリスとして再デビューを果たした彼は、言葉通りにアニス時代とはがらりと異なる役柄を次々演じて、昨今ではレイヴンだけではなく時には無性別的な意味合いのピーコックや、ナイチンゲールも演じるようになった。『エゴ』と改名を経てさながらライの皮が溶けるように非公開にしていたプロフィールを公開し、化けたように役の幅が魔法のごとき速度で広がったアリアには賛否両論が飛び交っているが、しかし彼はそんな声にうっそりと微笑んでこんなふうに囁くばかりであった。
「もちろん、秘密もあるよ。たとえば、レイが最後になんて言ったのか、とかね」




劇中歌 / 一部抜粋


Repliqa Song
Flowar Sing
AI


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