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Five minutes of the Soul

魂の五分間






それはほとんど即興のようなものであった



 ヘザー・ヒースブラウが三年次の春公演後にかつて自身が所属していた劇団ポゥジー・ブージー≠ノて急遽上演した、たった五分間の短い公演。


 それはほとんど即興のようなものであった。白く、簡素な衣装を身に纏い、細いスポットライトの下に立つ彼は、祈るように腕を折り曲げ、夢想に酔いしれるように舞台をゆっくりと回った。彼は舞台を一周しながら、踵をつけた状態だった足を徐々につま先立ちへと変えてゆき、そこに存在しないはずの螺旋階段を確かに上った。舞台にはただ暗やみばかりがあり、言葉はもちろん、音楽さえも存在していなかった。暗やみの中に唯一、朧なライトを浴びて立つ光が彼であった。或いは、彼は人ではなかったかもしれない。それは階段を上るごと、ゆらゆら、ゆらゆらと心許なげに震え、揺れている。たとえば彼は蝋燭であった。蝋燭の先に灯る小さな炎であった。燭台を持つ誰かの行く先を、もしくはその頬や手の甲を温めようと、炎はすっと背筋を伸ばし、息を吸って熱を集めた。けれどもその誰かが螺旋階段を上れば上るほど、炎の震えは大きくなる。風が吹いていた。それは炎を大きく膨らませるものでありながらも、しかし炎を吹き消す死神のようなものでもあった。彼は上体を弓づるのようにしならせて、不規則によろめくことで大きく揺れ、風の勢いに消し飛びそうな炎の姿を体現すると共に、柔らかな感傷がその一瞬一瞬で感情的なもの、特に生への執着に変化するさまを表現した。彼はそのとき蝋燭の炎でありながら、同時に矢に射られた白鳥でもあった。彼は両腕を微かに振る。炎は風に慄き、白鳥は痛みに悶えていた。蝋燭を持つ者は螺旋階段を更に上る。風は更に強くなる。彼はわずかに飛び退き、炎は仰け反った。それは白鳥の痛みでもあった。藻掻けば藻掻くほど矢は白鳥のからだを深く貫いた。彼は手を空気を撫でるように動かす。白鳥の浮かぶ水面は波立ち、白鳥は傷付いたからだでどうにか空に飛び立とうと足掻いた。けれども叶わない。白鳥の羽は散るばかりで思うように動かず、強い風に打たれて蝋燭の炎は徐々に小さくなっていった。彼は仰け反らせていた状態を一時ばかり前のめりに起こし、空を掻きながら魂で迫りくる虚無に微か反抗した。それは吹き消える前に一瞬膨らむ炎であり、高い空に追い縋る白鳥であり、そして、目前の死に抗う獣の咆哮でもあった。彼は空に向かって伸ばした身体の緊張を徐々に解くと、そうすると共に地に沈む。片足を前方に滑らせて右膝に頽れるそのさまは、からだの重さの桎梏に逃れられない今際の際の生物、それが抱える消え入りそうな火そのものであった。倒れ込んだ姿のまま、彼はふと、夢見るように片腕を天に伸ばす。腕は痛みに苛まれて震えていたが、或る地点に到達するとまるでその痛みから解放されたように、彼の指先はそっと柔らかくなる。それは生への諦念というよりは死への降伏であり、享受なのだった。彼は痛みをはじめとする過去、現在、未来のすべてから全き解き放たれ、最期の瞬間、まるで微笑みのごとく片手の指先で何か丸いものをなぞるようにする。それは愛する者の輪郭に触れる一人の女性の姿にも見えた。蝋燭の炎は消え、命は尽きる。そうしてついに、彼は舞台の上で一切の動きを止めるのだった。


 『魂の五分間』には題名が存在せず、この表題はヘザーの公演を観劇したルニ・トワゾ歌劇学園の生徒が、閉幕直後に呟いた言葉が元となって後付けで付けられたものである。
 表題作は元々は彼の担任教師であるガーネット・カーディナルが、ヘザー・ヒースブラウという役者のためだけに考案し贈った、言葉通り彼のためだけのダンス振付だった。ガーネットはこの振付を元に脚本制作をダリア・ダックブルーに依頼し、音楽や舞台美術も整えてルニ・トワゾの季節公演に臨むつもりだったが、しかし劇団ポゥジー・ブージーでの『魂の五分間』公演のために、その機会は永遠に失われることとなった。
 劇団ポゥジー・ブージーは、ヘザーの母の旧友が経営する小規模の劇団である。彼は五歳からルニ・トワゾに入学するまでの長い期間をこの劇団の筆頭娘役として過ごしてきたが、どこか閉鎖的で気楽な性質の劇団と、その中で一人だけ熱量の高いヘザーの間には、彼が在籍中から名状しがたい確執と呼ぶべきものが確かにあったらしい。劇団に昔から存在するという「娘役は少女が、男役は少年が」というような暗黙の了解めいた配役ルールもまた、「筆頭娘役以外に配置しようがない少年役者」のヘザーをその場から浮かせる要因だったかもしれない。
 そんなポゥジー・ブージーにあまり良い思い出のないヘザーが何故、その舞台で公演をすることとなったのか。その理由はヘザーを通してルニ・トワゾに宛てられた、ポゥジー・ブージーからの申し出にある。
 申し出の内容はこうだった。「ヒースブラウが退団してからというもの、我が劇団は近年稀に見る経営難に陥っております。演劇の未来のためにも、どうかご助力をいただくことはできませんでしょうか。来週末に一つ、新作の公演を予定しております。その舞台を二部構成にして、第一部の公演をクーデールの皆様にお任せしたいのです。予算の関係で、こちらではあまり大層な舞台の用意をすることはできませんが、数人のご出演でももちろん歓迎致します。何とぞご一考のほどよろしくお願い申し上げます」──要約すると、教え子のよしみで短期間かつ低予算で集客のできるような良い公演をやれ、である。ガーネットはこの手紙を握り潰しながら困惑を極めるクーデール生たちに「いいか、お前たちはルニ・トワゾの役者だ。役者をないがしろにする舞台に立つ必要はない。自分が立つべきと思う場所以外には立つな」と説いたが、ヘザーは突如として彼の持つ手紙を引ったくって「僕がやる」とだけ言い放った。ガーネットがその理由を問うと、重ねてヘザーはこう言ったという。「クーデールの皆様と言いながら、この手紙は僕以外のことを呼んでる。それなら僕が行く。演劇の未来のために」
 かくして、ヘザーはたった一人で因縁の舞台に立つことになった。ヘザーは一年次の新人公演からこの公演までの間、役者としてほとんど救いがたい低迷に陥っており、ポゥジー・ブージーの舞台に立つと決めた際に彼は「この公演が終わったらルニ・トワゾを退学します。役者も辞める。だから、何もかもを演じます。せめて、僕という役者が存在したことを憶えていてもらえるように。見ててください」とさえ明言した。ガーネットは引き止めなかった。しかし、その代わりにヘザーのためだけに考えた振付を彼に贈った。
 そうして迎えた公演日、ポゥジー・ブージーの発行したチケットはルニ・トワゾの宣伝効果により見事完売した。ヘザーの立つ舞台には装置や美術は一切存在せず、在るのは一筋の細いスポットライトのみだった。彼は白い衣装を身に纏い、台詞も音楽もない舞台の上で踊り出した。それは古典的なバレエの動きを用いつつ、要所要所にコンテンポラリー要素を取り入れた、極めて優れた技巧が求められるダンスであったが、その精密な技術を誇示することが彼の目的ではないことは明らかだった。それは全く透き通り、卓越した純度で描き出される生と死の闘争であった。感傷と感情のグラデーションであり、またそれを完全に捨て去る心象のホワイトアウトであった。彼が踊ったのは手足はもちろん、全身での踊りでもなかった。魂の踊りだった。目から魂へと真っ直ぐに突き通る、しかし決して目を潰すことのない、想像力への揺さぶりかけだった。
 彼の踊る五分間に、新しいものは何一つとて存在しなかった。表現方法にも目新しいものはなく、表現した内容も原初から、命と呼ばれるすべての生物が知っているものしかなかった。けれども、それは「革命」だった。観る者すべての心をどうしようもなく震わせる踊りだった。そのため、それを目の当たりにした第二部公演の出演者は、ほとんど戦意喪失状態で舞台に立たなければならなくなったという。「まあ、良い薬にはなっただろ」というのが、そんなポゥジー・ブージーに対するガーネットの意見である。
 ヘザーの『魂の五分間』を経て、経営を持ち直したポゥジー・ブージーはすぐさまその振付を基にした舞台を作りたいとルニ・トワゾに申し出たが、ガーネットはこの提案を一蹴した。けれどもそんなガーネットを宥め賺して、ヘザーはこれを了承したという。「構いません」と、そう言ったヘザーの言葉だけを聞くとまるで彼が非常に寛大な人間のように聞こえるが、その場にいた者は、どう足掻いてもヘザーがこう言っているようにしか聞こえなかったらしい。「僕以外に踊れるものなら踊ってみろ」と。
 その後、ポゥジー・ブージーでは『魂の五分間』を土台とした『火炎、あるいは』という演目が上演されているが、ガーネットがヘザーのために贈った振付が散り散りになってしまったそれが『魂の五分間』を基に作られた公演であることに気付く者は少ない。
 また、『魂の五分間』公演後、ヘザーは自らの引退宣言を取り消した。否、取り消すまでもなかった。
 何故ならば、あの五分間が彼の出した答えそのものだったのだから。彼は長きに渡って自分を苦しめていた感傷の鎖から解き放たれ、ついに魂の白鳥として飛び立ったのである。以降、ヘザー・ヒースブラウがルニ・トワゾ及び劇団ロワゾにてスワンとして飛躍的な開花を果たしていくのは言うまでもない。

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