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Moon Shiner

ムーン・シャイナー






だって私たち、生きているから。生きているから、夢を見る



 アトモス第一〇五期生の卒業公演。レイヴンをキャメル・キャンティクラシコ及びアイビー・アービュータス、スワンをシルバー・シナバークォーツ及びヴェール・フレネルが務め、公演日ごとにレイヴンとスワンの配役がシャッフルされるという遊び心に溢れた公演。


 月が落ちてくる!
 月が落ちてくる。それも百年以内に。さる研究者がそう発表してから、地球ではもう五十年ほどの時が流れた。その発表から最初の十年はそんな予言を信じる者はなく、しかし次の十年で月が紛れもなく地球に迫りつつあることが分かると、世界中は大変な混乱に陥った。月が迫るほどに地球の重力は増加の一途をたどり、人々の住める土地は刻一刻と地球上から失われていった。
 そして、そんな状況に人類は無意味と分かりながらも地下に緊急用のシェルターを作り、地上にあるすべての街の上下四方をドーム型の分厚い壁で覆っては来たる月の襲来に備えた。しかし、そのような姿の街が地上へ無数に点在しているさまは、さながら丸くて無骨な隕石が草木の生い茂る土地で無意味に転がっているようであり、それはどこか人類だけが失われた地球の姿にも映った。
 人は原則として街の外に出ることを禁じられ、彼らは昼は壁に投影される青空を眺めて作り物の日光を浴び、夜は星月のない暗やみの中で眠りに就く日々を送ることとなった。人類の手に最早自由はなく、まことの空は彼らの視界から剥奪されて久しかった。そして、そんな閉鎖的な空間での長い生活により、人類の寿命は著しく低下した。本物の空を見ることもなく生涯を終える者が、決して少ない世界ではなくなったのだ。街の外に出られる者は今となっては政府の研究者と、多大な資金援助を取引材料に政府から外出許可権を買った資産家のみとなっていた。
 ゆえに高い空は、暖かい日光は、爽やかな風は、柔らかい雨は、星月夜は、富める者たちだけが楽しめる嗜好品となった。
 時は一九六九年。政府からの通達では、あと五十二年と三か月と八日後に月は地球と完全衝突し、人類はもちろん、地球上に存在するすべての生物はみんなすっかり滅びるという話だった。そんな大それた予言を前に、しかし人類は驚くべきことにかつての大混乱などは嘘のように穏やかに日々を過ごしていた。それは、月がまこと地球に近付いていると発覚し、大混乱が起こった三十年前の当時に生きていた者の多くが短くなった寿命のせいで亡くなったり、大混乱の際にその心労に耐えきれず自ら命を絶ったりと、人類が営んでいたかつての暮らしを知る者が激減したためかもしれないし、生きた日光や風を浴びないままに限られた資源と限られた空間で日々を送り続ける人類の中で、ただ止まることを知らずに膨らみ続ける諦念にも似た無気力のためだったかもしれない。
 そして、そのような世界の中に他と同じように建つドーム状の街、コクーンLCー39αにはしかし他とは少し違った少女が暮らしていた。
 少女の名前はエルバ。他の子どもたちと同じように──厳格な政治家の父による男手一つで容赦なく育て上げられた彼女は、或いは他の子どもたちよりも月は巨悪でおそろしい存在なのだと物心ついたときから教え込まれてきたが──生活を送る彼女は、けれどもその実、いつも隠れて絵を描く小さな画家だった。画家というだけならばなんら問題はない。しかし、彼女が描くのはいつも星月の絵だったのだ。
 三十年前に政府が取り決めた法により、政府の許可なく星月に関わることは月光犯罪として取り締まられ、違反した者は捕縛され、逮捕され、街から姿を消してその後は影も形も見ることがなくなる。星月の話をするだけで違法と見なされるのだ、その絵を描くなどもってのほかであり、見付かれば子どもであろうと老人であろうと月光犯ムーン・シャインとして処罰されることは間違いなかった。エルバにもそれは分かっていた。それでも、どうしてもやめることができなかった。丸くて傷だらけに見える球体が描かれた古びた紙片を街のごみ処理場で見付けたときから、彼女はずっとそうだった。その球体の名前が月≠ニ知ってからも、エルバは憎むべき彼の絵を描くことをやめられなかった。その衝動から成る行動の危険性だけは理解していたから、エルバは絵を描くときにはいつも少年の格好をし、他人や家族の目を盗んでいた。それでもいつかは捕まる、今日か、それとも明日か。遠くない未来にきっと訪れるその日に怯えながらも、少女はほとんど人の通らない廃公園の土管の内側に絵を描く日々を送っていた。
 それから或る日の夜のことである。それは不思議な夜だった。エルバはいつものように土管の中でランタンを傍らに星月の絵を自らの想像で描いていた。気が付くと日はとうに暮れており、天井に投影されていた青空と作り物の陽光は姿を消して、辺りはすっかり塗り潰されたような暗やみに染まっていた。そろそろ着替えて家に帰らないと怪しまれると慌てたエルバは土管の中から転がり出て、しかしはっと動きを止める。
 そこには、青年が一人立っていた。鮮やかなオレンジ色のダウンジャケットを着た青年が、一人。
 青年は空を見ていた。背筋を真っ直ぐと伸ばして凜と立ち、頤を上げては頭上に広がる暗やみをじっと見つめていた。両目を開けて、ただ黙って息を吸っていた。それはこれからまるで、何かが起こるとでも言うかのように。
 そして、それから数秒後、ぽつ、と地面に水滴が落ちる。その一滴を皮切りにして、ぽつぽつと人工雨が辺りに降り注ぎ、それはエルバのことはもちろん、彼の目の前に立つ青年のこともひっきりなしに叩いては濡らした。それでも青年は目を開けていた。目を開けたまま、彼は笑った。「ああ、もうバレた」雨音に混じって、そんな青年の声がした。
 「バ──バレたって何が?」そう、思わずエルバは問うた。青年がちらりと相手の方を見る。「絵を描いた」「絵?」「蜜蝋の翼で月まで飛ぶハクトウワシの絵。月は燃えてないから翼は溶けない」エルバは青年の言葉にぎょっとした。こんなにも軽々と、平然と当たり前のように月の話をする人間は見たことがなかった。月光犯! エルバは、自分以外の月光犯を目の当たりにしたのも初めてだった。微かな恐怖が少女の口の中に広がる。「き……君は、誰? 何者なの?」だというのに、エルバの喉から出てくるのは恐怖に反してそんな問いかけばかりであった。
 「アロム」青年は短くそう答えた。「アロム?」「アポロの一人と言った方が分かり易いか?」「アポロ……」エルバはおうむ返しして、ぱっと顔を上げた。「アポロ!? し、指名手配の、集団月光犯の?」「そう」「こ、こんなところで何をしてるの。一人で」「うん。だからさっき言った通り、絵を描いてた」「どこに?」「壁に」「壁?」「俺たちを取り囲んでる、このばかでかい壁に。偽物の空に」アロムは片手を天に向けて伸ばした。よく見ると、彼の右手には銀色のスプレー缶が握られている。「やっぱり内側に描いてちゃあ意味がねえな。こうしてすぐイヌにバレて、水に流されて消されて、何もかもなかったことにされちまう。色も形も、思想も」「イヌ……」「夜警ムーン・レイカーのことだよ、もちろん」
 アロムは戸惑うエルバを見て、少し笑った。「その土管の中の絵、お前だろ。キャンバスを持たないのは賢いが、肩に絵の具を付けてるんじゃ世話ないぜ。自分がこの中の絵を描きましたって言ってるようなもんだ」アロムの言葉に、図星を指されたエルバの心臓はどきりと嫌な音で鳴る。けれどもアロムは膝を突いて土管の中を覗き込むと、そこに描かれたエルバの星月の絵を眺めてにっこりとした。「いい絵を描く。だから、もっと巧くやれよ。捕まっちまうのはもったいない」
 言って、アロムは踵を返した。それと同時に、彼はエルバに向かって顎をしゃくる。彼女の中で、不思議な喜びと湧き上がる好奇心が困惑と恐怖を飛び越えた。少女は公園を後にするアロムの背を追った。「ねえ、アロム」「なんだ?」「君って、三日月みたいに笑うんだね」「見たことがあるのか?」「ないよ。でも、きっとそうだ」その言葉を聞いて、アロムは笑った。
 「そういえば、お前、名前は?」「え? ああ、エル──」アロムの問いにそう答えかけて、エルバは内心首を振った。「……イレブン。イレブンっていうんだ」
 それから二人は夜の街へとくり出し、少年同士らしい速度で仲良くなった。黒い夜の中、アロムはひとけのない道を縫っては、通りがかる壁という壁にひたすらスプレー缶で絵を描きつけていた。「そら、引き金を引いてみろよ」そんなふうに言って、アロムはエルバにスプレー缶を手渡し、エルバは何もかもが変わるような思いでそのスプレー缶の噴射ボタンを押した。はじめに描いたのは、やはり月の絵だった。三日月の横顔。「なあ、イレブン。お前、月は何色だと思う?」その絵を見て、アロムが尋ねた。「光を吸い込んだ黄金色かな、やっぱり。……アロムは?」とエルバは訊き返す。「俺は銀だと思う。いろんな色を反射できるから」
 二人は夜の街を進み続けた。彼らは何度も角を曲がり、幾本もの裏路地に入り込んだ。歩みが増すごとに道は狭くなったが、しかしエルバの予想に反して周囲の景色は明るくなっていく。あちこちで壁に吊るされた電飾がぴかぴかと輝いていたし、道のそこここでは様々な形をしたランプが暖かな光を足元に差し出している。壁にも地面にも所狭しと絵が描かれており、目に映る場所すべてに無数の星、無数の月、無数の太陽をはじめとして飛び交う星座の動物や美しい伝説の女神たちさえもが息づいていた。幾重もの色と線を用い、様々なタッチで自由に星月が描かれているそこは、まるで新たな一つの世界のようだった。「ここは?」思わずエルバは問うた。アロムが振り返ってにやりとする。「月の裏側プリヴォルヴァさ」「プリヴォルヴァ?」「イヌの知らない、俺たちだけの秘密基地。月の裏側を知っているのはアポロだけ」
 その言葉を合図にして、たくさんの人影がばっとエルバの前にも後ろにも左右にも姿を現した。壁の隙間や梯子の上、マンホールの中や立てかけられたキャンバスの裏側、それに、だまし絵の中──実際のところ、彼はずっと絵の一部としてだまし絵の前に立っていたのだが──プリヴォルヴァに散らばる様々なものから飛び出してきた彼らは、それこそ物語の中の住人のごとくだった。皆、エルバやアロムと大差のない子どもたちであり、アロムが羽織っているダウンジャケットの色違いをその全員が着ていた。「君は誰? 僕らはアポロ!」一斉に、かつ口々にカラフルな子どもたちはそう言った。
 「本当に誰なのかしら」つと、そんな言葉と共に子どもたちの間を裂いて一人の少女が現れる。エルバと同じ年頃の少女だった。「どういうことなの、アロム」彼女は厳しい目つきで問う。アロムは傾げた。「リンツ。どういうことって?」「すべてよ。誰なの、この子は? どうしてプリヴォルヴァに入れさせたの? あなたはリーダーなのに、どうして無意味に私たちのアポロを危険に晒すの?」リンツと呼ばれた少女はそう発して目の形を三角にしたが、反してアロムは全く悪びれない様子で肩をすくめる。「こいつの絵を見ればそんな考えもどこかへ飛んでっちまうさ。それに、こいつはまだみんなの質問に答えてないだろ?」アロムは困惑しているエルバの方を見た。彼はエルバに手渡したスプレー缶を示し、それから落書きまみれの壁を拳骨で軽く叩く。なんでも好きなものを描いてみろ、そうアロムの瞳は語っていた。
 言われるままに、エルバは壁を見上げ、その広々としたキャンバスに向かってスプレー缶の噴射口を向けた。アポロの子どもたちはその様子を興味津々で見つめ、リンツは厳しい目つきで腕組みをしながらエルバの描く絵を眺めた。これほどまでに伸び伸びと大きな絵を描ける場所を初めて目にしたエルバは、あっという間に周りのことなど忘れ、描きたい絵を描くことに集中した。彼女は砂漠に咲く花の絵を描いた。顔を上に向け、まっすぐに、まるで何かが起こるように月を見つめる花の姿を。
 見る者をはっとさせるような、大胆でいてかつ繊細で鮮やかなエルバの絵を見て、アポロの子どもたちは言葉を忘れた。リンツですらもそうであった。エルバが描きつけたその絵を目にして満足げに頷いたアロムは、はあ、と息をつくエルバを軽く叩き、その肩にふわりと白いダウンジャケットを羽織らせて軽く笑った。「君は誰? 僕らはアポロ! この問いにお前は、これからこうやって答えればいい。君たちは誰? 僕もアポロ≠チてな」
 かくして、幸か不幸か集団月光犯アポロに自身の絵の実力と、紛れもなく月光犯であることを認められたエルバは、その日を境に彼らの一員となった。そうして少女は夜な夜な家を抜け出してはプリヴォルヴァで様々な絵を描き、見えない空を夢想し、星月の話をアポロの団員たちと語り合う日々を過ごした。
 一員となってから知ったことだが、アポロという集団は子どもたちだけで構成されており、その中でも一番の年上がアロムということだった。そして皆、同じ孤児院の出身であるという。早起きニワトリちゃんアルツァルシ・コンイ・ポリという名の孤児院──アポロという団の名前は、この孤児院の名のアナグラムだ──は、児童保護施設であると同時に町の清掃業者でもあり、アポロの子どもたちは昼間は総じてその仕事に身をやつしているらしい。「綺麗にした分は汚していいだろ」それがアロム及びアポロの総意であった。アポロは集団月光犯として街中に指名手配されているが、しかしその正体は未だ不明であり、月光取締官の夜警も彼らの尻尾を掴みあぐねているという。町の誰も、孤児の子どもたちが集団で犯罪を行うなどとは思わないのだろう。人々は、未熟な子どもたちが内包しがちな鋭さや、まるで重力などものともしない驚くほどの行動力を持つことをこの長い閉鎖生活の中ですっかり忘れてしまったようだった。たくさんのことを、大人は忘れてしまっていた。
 「アロムには夢があるの?」エルバがアポロの一人となってまだ間もない頃、不意に彼女はこんなことをアロムに尋ねた。「夢?」「夢」「そうだなあ」「あるの?」「あるよ」「どんなこと?」エルバの問いに、勿体ぶってアロムは答えた。「俺は月が見たい。ほんとうの月」それは、おそらく月光犯の誰もが胸に抱く願いだった。声に出すことさえ憚れるような、当たり前の望みだった。それでもアロムは、目の前の友人に向かってその夢を口にした。「俺は月が見たいんだ、イレブン。月まで、行きたい」
 そんなアロムの真っ直ぐなまなざしを受けたエルバは、少しの間考えるような素振りをしながら、けれども相手のことをしっかりと見つめ返して微笑んだ。「僕も行きたい。だから一緒に行こう、アロム」
 エルバはアロムをはじめとする、アポロとのこんな生活のことを絶対に他人には知られないようにしなければと、日々を送るごとにその決意を強めていった。特に、月光取締の夜警である、兄のネイルには、絶対に。
 そう、エルバには兄がいる。彼女の兄であるネイルは極度の月嫌いが高じて月光取締官になった、生粋の夜警である。年齢はエルバの二歳年上でアロムと変わりないほどの青年だ。夜な夜なランタンと懐中電灯を手に、黒く塗り潰された街を警備して回るネイルには、妹のエルバと同じように、やはりいくつかの秘密があった。
 「ネイル! こんなところで会うなんて奇遇ね」公園のベンチでぼんやりパンを食べていたネイルの元に、涼やかな声が降り注ぐ。ネイルは相手の姿を目に映すと、たちまち目の中に光を取り戻してにっこりとした。「リズ。君こそ、この時間は仕事じゃなかったっけ?」「今日は休み。ネイルも時々は休まないと体に毒よ」ネイルの秘密といえば、リズと呼ばれたこの少女のことだけでほとんど説明することができる。
 リズは人好きのする笑顔を浮かべて、ネイルの座っているベンチに腰掛けた。そんな彼女こそ集団月光犯アポロの一員であり、アポロではリンツ、という名で親しまれている少女だった。ネイルはリズが指名手配犯のアポロの一員であることには、もう随分前から気付いていた。リズが夜警である自分を利用するために近付いたことも。ネイルは彼女の思惑通りにイヌの監視をすり抜けられる道≠竍イヌの目が届かない路地裏>氛氓ツまるところ、自分が監視を担当している地区をリズに教えた。彼が教えた道を順に辿進んで行くと、現在のアポロの秘密基地プリヴォルヴァに辿り着くこともネイルは気付いていた。一度なんかは、昼間に足を運んだことさえある。ネイルはすべてに気付きながらも、鈍感なふりをして彼女の求める情報を差し出していた。無論、犯罪行為である。何故、そうまでしてネイルは憎むべき月光犯であるリズに荷担したのか。単純明快である。ネイルはリズに恋をしていた。ただ、それだけだった。それだけ。
 そしてリズ──リンツもまた、自分たちの敵である夜警のネイルに惹かれるところがなかったと言えば嘘になるだろう。アポロの中にいるときの勝ち気な言動はネイルの前では鳴りを潜めて幾らか柔和になっていたし、普段の皮肉っぽいとげとげした言い回しもほとんど顔を出すことはなかった。リンツのそんな態度ははじめこそネイルから信用を買うための演技に過ぎなかったが、ネイルと会う日々を送るごと、彼女の演技はいつしか本心から成るものになっていった。それはネイルが時々見せる翳った表情のためであり、彼の心のどこかに何か底知れない傷があることをリンツが感じ取っていたためであった。リンツは彼の心の傷がどのようなものであるのかは分からなかったが、これ以上彼が傷付くことのないよう、彼にはとくべつ優しく接した。「ねえ、ネイル」「なんだい?」「……ううん、なんでもないの」だから、リンツはネイルにこう問うことができずにいた。あなたが憎んでいるのは、ほんとうに月なの?=c…
 さて、そんな兄とリンツの関係など露知らず、エルバはアロムと交わした「一緒に月に行く」という約束を果たすために画策していた。まずはどうにかして月光犯だと露見しないうちに街の外に出なければと考えたエルバは、夜警と政府しか知らないという外への出入り口を探すことにした。そのために警備に出ているネイルの部屋に忍び込んで、何か手掛かりがないかと彼の部屋を荒らし回ったこともあったし、さも月を憎んでいるふりをしながら常より頻繁に兄に話しかけ、彼が何か一つでもぼろを出さないものかと企んだりもした。実際、ネイルはぼろを出した。たった一つだけ、微かに。エルバと話している最中に、無線でネイルの元に別の夜警から連絡が入ったのだった。ネイルはそそくさと妹の前から離れ、小声で相手と話をしていたが、エルバはそんな兄の後を尾け、影に隠れては聞き耳を立てた。「はい──はい、A氏がフライト? そ、それは……あ、ああ……ええ……はい、承知しました。では明日、準備に当たります。はい、それでは明日の夜、スノウコーンにて……」
 「スノウコーン?」翌日の夕暮れ、エルバはいつもの公園にて、兄が話していた無線の内容を真っ先にアロムに話した。「そう。そんな名前の地区は聞いたことがないけど、アロムは何か心当たりない?」「いや全然……や、待てよ、一つだけある」「ほんとう?」「ああ。街には一つ、種の保存だかなんだかのためにでかい冷凍庫があるんだ。今じゃもう機能してなくて監視も来ないような、忘れ去られた場所だよ。そこがかき氷スノウコーンかもしれない」「それはどこにあるの?」「俺たちの後ろさ」「後ろ?」「プリヴォルヴァの一番奥だ」その言葉に、エルバは驚愕する。「不味いな。もしそこがほんとうにスノウコーンなんだとすりゃ、俺たちのプリヴォルヴァは今日の夜、イヌどもに見付かる。走るぞ、イレブン! あそこではアポロの連中が今も月を描いてる!」
 エルバとアロムが走り出した公園とはまた別の公園で、ネイルも焦っていた。今日もまた偶然を装ったリンツがやってくることは分かっていたが、それでも落ち着きなく、彼はベンチの前を行ったり来たりをくり返した。そして、ついにリンツの姿を目にすると、彼は普段では見られないような勢いで彼女の元に駆け出し、その肩をきつく掴んだ。「リズ、今日はだめだ」そんなネイルの突飛な言葉に、リンツは狼狽した。「え?」「今日は、今日だけは、君の──君たちの秘密基地に行ったらいけない」「え? あ、あ……はは、ネイルったら一体どうしたの? なんのことだか全く……」「僕は君が月光犯で、アポロだってことを知ってる。僕の担当地区に君たちのアジトがあるのも。僕は今までそれを見ないふりしていたけど、でも、今日の夜、そのアジトの奥にある冷凍庫を開きに夜警が向かう。僕と、僕以外の夜警が一人。たちまち君らのアジトは見付かって、大勢の夜警が呼ばれるだろう。アポロもきっとみんな捕まってしまう」早口に捲し立てるネイルの言葉に、リンツの表情が困惑から焦燥へと変わった。「ねえ、それじゃああなたはどうなるの、ネイル?」「分からない。いや、僕のことはいいんだ。とにかく君だけでも逃げて──」リンツはネイルの手を振りほどいた。「教えてくれてありがとう、ネイル。でも私、行くわ」「ど……どうして!」「仲間は家族。見捨てることなんてできない」「でも──」「ねえ、ネイル。その冷凍庫はなんのために開けられるの?」「え? あ、ああ……その冷凍庫を抜けた先に、大きな隠し倉庫があるんだ。そこに飛行機があって、富裕層の人間がごく稀に大金をはたいてフライトをする。僕が夜警になってからは事例がなかったから、もう廃止された制度なんだと思って油断してて……」「そこから外に出られるのね?」「うん。でも、外に出たって……」「ネイル」「え?」「私、月が見てみたいのよ」言って、リンツは駆け出した。
 そして、夜が来る。
 エルバとアロムがプリヴォルヴァに辿り着いたときにはもう、辺りは大勢の夜警でいっぱいだった。物陰に隠れた二人は半ば呆然としながらアポロの仲間たちが次々に捕らえられていくさまを目に映し、エルバは大勢いる夜警の中に自分の兄の姿を見付けてはぎゅっと唇を噛んだ。そうして視線を落とした先に転がっているものを目にして、彼女は覚悟を決めたように顔を上げる。「アロム、みんなを助けよう」「ああ……もちろん。だが、どうやって? 俺たちにゃ、夜警と戦えるものなんて一つもない」「あるよ」「ある?」頷いて、エルバはにやりとした。その手には、スプレー缶が握られていた。
 そんな二人の前方で、ネイルはどこか虚ろな表情で阿鼻叫喚に陥っているプリヴォルヴァの惨状を眺めていた。「お前、懲戒免職じゃあ済まないかも知れないぞ」彼の隣に立つもう一人の夜警が、苦々しげに呟いている。ネイルはどうでもいいというように、その言葉に曖昧に返事をした。月光犯が捕らえられた後のことは、夜警のネイルでさえも把握していなかった。リンツは他の子どもらを庇ったために、夜警の応援が到着して早々に捕らえられ、姿が見えなくなってしまった。こんなことならば、引っ張ってでも引き止めるべきだったのだ。耳の中で、リンツが自分に向けて発した最後の言葉が反響する。「月が見てみたい……」思わず声に出したその呟きは、しかし彼の隣に立つ夜警が発した悲鳴に掻き消された。
 驚いたネイルが振り返ると、そこで彼は妹のエルバと目が合う。「エ──エルバ!?」妹の予想もしていなかった登場に、ネイルは目を見開いて叫んだ。隣の夜警は、顔面に思いきりスプレーを吹き付けられて倒れ込んでいる。エルバは倒れたその背中に慣れきった手付きでにっこり笑う月の絵を描くと、「ごめん、兄さん。僕はアポロのイレブン──これがほんとうの私の姿だ!」そう発して、次々に夜警の顔にスプレーを吹き付けては暴れ回った。アロムもそれに続いて、何人もの夜警を地面に転がし、何人もの子どもたちを解放した。子どもたちは解放されるや否や壁に飾られていた星のガーランドを引っ掴み、それを用いて床に転がされた夜警たちの手首や手足を縛っていく。アロムは縛られた夜警たちを横一列に並べると、その背中に大きくワシの絵を描いた。
 カラースプレーで染め上がるプリヴォルヴァで、アポロは形勢逆転の色を手に入れる。彼らはどんどん仲間を夜警の手から奪い返し、路地の一番奥、冷凍庫のある場所まで駆けていく。そうして冷凍庫の扉の前まで辿り着いた彼らは、そこに掛かっている大きな錠前をどうにか力尽くで外そうとした。しかしうんともすんとも言わない錠前に焦りが募り出す。そんな彼らの中に、救い出されたリンツの姿を見出したネイルは、はっとしたように駆け出しながら自身のベルトから鍵を取り外して、「リズ! 鍵だ!」と叫んでそれをリンツの方へと放り投げた。リンツは鍵を受け止めると手早く錠前を外し、大扉を開いて仲間たちを外へと逃がした。夜警が何故、と困惑するアロムに、リンツとエルバが「だいじょうぶ!」と声を揃えて言った。「あの人、私の恋人だから!」「あの人、僕の兄さんだから!」その場にいた全員がネイルも含めて「え!?」と驚きの声を上げた。リンツは咳払いをする。「ネイルのリズ。それもまたほんとうの私ってこと! さあ、私たちも月とご対面よ!」
 そうして意気揚々と冷凍庫の中へと進んでいこうとした一行の背後から、けれど冷気よりも凍えそうな声が響き渡った。「愚息が失態を演じたと聞いて来てみれば……これはまた随分なことだ。よくも私の名前に泥を塗ってくれたな」四人が振り返るとそこには、この街には知らぬ者のいない政治家・オートの姿があった。オルトは驚愕しているアロムとリンツには目もくれず、ぎろりとエルバとネイルのことを睨んだ。まるでその視線だけで人を射殺しそうだった。それもそのはず、オートは二人の実の父親であったのだ。「ネイル、死にたくなければこちらへ来なさい」
 その刺すような言葉に、ネイルは恐る恐る父の元へと近寄った。そんな息子の肩にぐっと片手を置いて、オートは冷ややかに発した。「ネイル、お前が月光犯に成り下がるのはこれで二度目だ。血を分けた息子だからと見逃してきたが、それでも三度目はない。麻酔銃を持っているだろう? 撃ちなさい、エルバを含めて」ネイルははっと息を呑む。「それで今回のことは不問にしてやる。お前はまた、氷結剤を打てばいい。そうすればお前は夢のことなど忘れて元通り、優秀な夜警に戻ることができる──だから、撃ちなさい。まずは端の少女から」言って、オートが指差したのはリンツのことだった。ネイルは言われるままに麻酔銃をリンツに向けて構えたが、は、は、と息は上がり、その手は震えるばかりで上手く狙いも定められないようだった。ネイルの頭の中は混乱を極め、そこでは父の言葉とリンツの言葉が何度も反響していた。これで二度目だ……月が見てみたい……
 「僕の夢は夜警になることじゃなかった」はたとした様子で呟きながら、ネイルは麻酔銃を下ろして父親の方を見上げた。「父さん──あなたのような飛行士になることだった。月が見てみたい=Bエルバくらいの年の頃、僕は父さんにそう打ち明けた。そして……その夢を薬を打たれて忘れさせられた。他でもないあなたにそうされたというやるせなさや絶望感は、月への憎悪へすり替わった。だから、僕は夜警になった」ネイルは強いまなざしでオートを見る。「すべて思い出した。ねえ、父さん。どうして? どうして、よりにもよって飛行士だったあなたが僕らの夢を否定するんですか?」ネイルの問いを受けても、オートはぴくりとも眉を動かさない。「飛行士だったからこそ否定するんだよ、子どもには分からんだろうな。……想像できるか? 今までいつか辿り着くべき己の夢だった場所が、月が、一瞬にして人類の敵になってしまった日のことを。夢というものが粉々に砕ける音を、それらが内臓をずたずたに傷付ける痛みを、お前たちに想像することができるか? 夢崩れた者は、それによって傷を背負った者は何も私だけではない。だからこそ、私たちは夢という存在を否定するのだよ。お前たちは、こんな虚しい痛みを知らないでいい」
 「父さん、あなたのそれは自分の忘れたい痛みを私たちに押し付けているだけだよ」オートの言葉にそうかぶりを振ったのは、ネイルではなくエルバだった。「あなたの痛みはあなただけのもの、他の誰のものでもない。それと同じように、私たちの痛みも私たちのもの。夢は、それを見る人のもの。奪うものでも、奪われるものでもない。そんな権利は、ほんとうは誰にもないはず」言いながら、エルバは胸に手を当てた。「夢は希望。生きる力を私たちにくれる」その言葉に、オートは娘を見据えた。「希望? 叶わなければ虚しいだけのものだ」「虚しいと感じるのは、父さんがほんとうは見たい場所があるのに、そこから目を背けて別の場所を見ているから。あなたはかき集めた夢がまた砕けて、希望って光に目を灼かれるのが怖いんだ」「知ったような口を聞くな」「いつか月が落ちてきて私たちは死ぬ。でも、月が落ちてこなくたって私たちはいずれ死ぬんだ。なら、私は夢を見たい。目が灼けても、蝋の翼が溶けても、夢を追いたい──だって私たち、生きているから。生きているから、夢を見る」そう微笑むエルバに、オートの表情が苦しげに歪む。彼はゆっくりと取り出した銃をエルバの方へ向けた。「お前はほんとうに母親に似ているよ、エルバ。その浮ついた、無遠慮で、楽観的な瞳。諦めないで、諦めないでとまなざしで何度も、何度も、夢破れた私に何度も鞭打ったテンス! 諦めないで飛んでと言われるたびに私は、踏み出せない私は、夢を捨てた私は、飛行士でない私は無価値だと言われているようだった……! 私はただ、……ただ、月に行ってみたかっただけなのに。月を近くで見てみたかっただけなのに。それがどうして、いつから、こんなことになった? いつから、こんな呪いに……」カチリ、と撃鉄の上がる音がする。麻酔銃ではない、実弾だ。それを四人が悟ると同時に、引き金が引かれる。瞬間、赤い色が弾ける。ドサ、と重たいものが落ちる音。地面に崩れたのは、エルバを庇って飛び出したアロムだった。
 「逃げろ、走れ!」誰かが何かを発するより早く、アロムがそう吼えた。どくどくと赤い血が広がっていくさまに、エルバが膝を突こうとしたが、けれどアロムはそれを制して笑った。「イレブン、前に言ったろ。月は燃えてないから翼は溶けないって。それに、お前の目だって灼けない」彼の言葉を聞いたエルバはきゅっと唇を引き結び、リンツとネイルに目配せをして三人で冷凍庫の中へ逃げ出した。
 「あっさり見捨てられたようだな。やはり、夢など所詮この程度だ。お前のアポロも、私の夢も」言いながら、オートは倒れているアロムに近付いた。「恨むなら、お前のように生まれてきたお前自身を恨むのだな。私もそうした」オートの言葉に、アロムは少し笑った。「恨まないさ。俺たちは生まれてきたときからずっと自由だ、誰だってそうだ──あんただって」そうしてアロムはオートのことを見、深呼吸をする。「イレブンから聞いたよ。近く、A氏って人がフライトをするんだろ。……あんたのことだ。違うか?」オートは否定しなかった。「あんた、そうやって自分自身に重たい枷をはめてないと飛んでっちまいそうなんだろ? まったく飛行士じゃねえか、現役で」「よく回る口だな」「ああ──そろそろ変だと思わないか?」「何?」「つまりだ、俺は見捨てられたんじゃなく、信じてもらえたってことだ」その言葉を合図にアロムはがばりと起き上がり、オートの手首を思いきり蹴って拳銃を落とさせた。何故、と驚愕しているオートにアロムは銃弾の打ち込まれた赤色のスプレー缶を見せつけると、それと同時に噴射ボタンを押してオートの顔を真っ赤に染めた。ぐらりとオートが膝を突くと、冷凍庫の扉の裏に隠れていた三人も飛び出し、彼の手足をガーランドで縛り付けようとしたが、けれどもそれをアロムが制する。
 「なあ、オートさん」そして彼はオートの前に片膝を突いて、赤く染まった中にあるオートの両目を覗き込んで言う。「あんたはさっき、奥さんの目が自分を責めてるように感じたって言ってたよな」「……それが?」「それ、奥さんの言葉じゃないよ。あんた自身の言葉だろ。あんたの心が、諦めるなって言ってたんだよ、ずっと。何度も、何度も。たぶん、今も」アロムが発したその言葉に、今初めて目の前の光景を視界に映したかのようにオートが顔を上げた。そんな彼の顔を見て、アロムは自分の着ていたオレンジのダウンジャケットを彼に羽織らせると、その背中をばしん、と叩いた。「夢を凍らせたって無駄なこと、あんたにだって分かってるんだろ。生きてる限り、嫌でもそれを溶かす熱が生まれ続けるって。……それ、似合うからさ、諦めんなよ」
 オートは自身の両肩をかき抱いて嗚咽した。それから今度こそ冷凍庫の中に入っていく四人を彼は滲む視界で見送り、けれどその歩みの途中でくるりとアロムが振り返った。「いつまで座ってるつもりだ? あんたも来るんだよ」そう言って手を差し出して立つアロムに、オートは未だに立ち上がれないまま問いかけた。「何故、夢なんかのためにそこまでできる?」彼の問いにアロムは笑う。「逆に聞くが、あんたはどうして飛行士になったんだ?」「どうして?」「きっと、自分だけのためじゃあないだろ? きっと──同じ夢を見てくれる人がいたんだろう? あんたを見ていてくれる人がいたんだろ? 飛行士になるという夢を語るあんたを見て、喜んで、応援してくれる人が」アロムは自分の心臓の辺りをぎゅっと掴んだ。「そういう相手が一人でもいるなら、俺はそれに応える。それが夢の持ち主にできる、唯一のことだと思うから。つまりさ、分かるだろ? 好きな相手が飛んでって言うなら飛ぶし、一緒に行こうって言うなら無謀と思っても行くんだよ。格好悪いところは見せたくないからな」それだけ、と言って、彼は踵を返して三人と一緒に歩き出した。オートの唇がはくりと人の名前の形に動き、彼はひどく覚束ないがそれでもどうにか立ち上がって、外に向かう四人の背を追った。
 そうして五人は息の詰まるような空気の薄い真白の冷凍庫を抜け、すでに他のアポロたちによって開かれていた隠し倉庫を通り過ぎると、今までの騒動が嘘のように呆気なく街の外に出た。
 さらさらと静かな風が流れる夜の草原だった。アポロたちはその穏やかで、しかしどこか瑞々しくもある空気を肺一杯に吸い込み、頭上の星空でいっとう大きく、大きく大きく輝く月を仰ぎ、丸くやさしい光を差し出すそれに手を伸ばしてはぐっと握り込んで笑った。「さあ──それじゃあ、月の裏側でも見に行くか!」
 その言葉と共にアポロたちは草原を駆け出していく。「みんな、どこへ行くんだろうね?」そしてふと、そんな声と共にプリヴォルヴァの影から三人の子どもが顔を出す。「さあ、どこかへ行くんじゃない? そのために出ていったんでしょ」「ねえ、僕たちもついてってみようよ」「はあ? あんた、正気? ちょっと、待ってってば!」子どもの一人が物陰から飛び出し、アポロたちを追いかけて駆けていく。もう一人の少女はその背を追いかけようと一歩を踏み出したが、先ほどから何も言わずに何かを書き付けているもう一人に向かって首を傾げる。「あんた、さっきから何描いてんの?」問われた少年は顔を上げる。「ん? うーん……空を飛べる、機械?」「え? 空を飛べる機械なら、すぐそこにあるじゃない。プロペラの」少女は言いながら隠し倉庫の飛行機を指差した。少年はかぶりを振る。「あれよりもっと高く飛べるやつだよ」「ふうん。名前は?」「そうだな……ええっと」少年は立ち上がり、先に外へ出てしまった仲間の一人を追いかけて走り出した。「──スペースシャトル、なんてのはどう?」
 その言葉で、物語の幕は降りる。
 彼らがこれからどこへ向かうのかは分からない。しかし、人はそれをかつてこんなふうに呼んでいた。未来、と。


 「とにかく演じていて楽しい舞台を」、アトモス第一〇五期生の卒業公演は、担任教師のアンチック・アーティーチョークが発したこんな言葉から始まった。
 表題作『ムーン・シャイナー』は、人類が過去に成し遂げたことで有名なかの月面着陸ミッションからインスパイアされた群像劇である。
 それは宇宙を題材として舞台を構成するのに最適であったキャメル・キャンティクラシコがちょうど卒業生の立場で在籍していたためでもあったが、具体的な公演内容をアトモス生ぐるみで練る際、怒涛の執筆作業でほとんど意識のなかったダリアが発した「空間スペースのアトモスだから宇宙スペースまで飛んでくってのはどう?」という間抜けな洒落が、アンチック含めた全員に好評を得たため、というのが題材決定の決め手だろう。どれほど好評だったかと言うと、テーブルに乗っていたグラスが落ちて割れるほどアトモス生たちは笑った。ちなみに全員、連日の居残り稽古で様々な感覚が麻痺していた。「何があんなに面白かったのか分からない」というのが、現在のアトモスクラスの総意である。
 しかしダリアは自身のこの発言によって、今までほとんど題材として書いたことのなかった宇宙物語を執筆することになり、宇宙の気難しさに大いに頭を抱えたという。当初はキャメルから教わった宇宙や宇宙科学の知識を元にSFを執筆していた彼だが、八割ほど書き終えたところで「付け焼き刃は所詮付け焼き刃であることが分かる。それはアトモスクラスには相応しくない」ということに気付き、現在の形に一から書き直したらしい。
 『ムーン・シャイナー』はダブルレイヴンかつダブルスワンという配役である。通常このような配役は舞台の力が弱まるためにされることはないが、けれどもこの配置を強く希望したのは、舞台の持つ力の強弱を知り尽くしていると言っても過言ではない元名クロウのアンチックであった。彼はダリアにまるで子どものような顔で「誰が主人公か分からない舞台ではなく、みんなが主人公の舞台をやります。主人公が四人いたら四倍楽しい。でしょう? ダリアさんの脚本と僕が教えた生徒ですよ。未来しかない。楽しい方をやりましょう」と言ったという。ダリアはそれに乗ったのだ。普段の季節公演では生徒たちそれぞれの課題を考え、それに対応するような公演をつくり上げるために指揮を執るアンチックが発した最終公演でのこの要望は、おそらく彼なりの生徒に対する深い愛情表現なのだろうと察せられる。
 集団月光犯アポロのメンバーは皆、現代の宇宙服をイメージしたダウンジャケットを羽織っており、様々な色のジャケットがずらりと並んで歌い、踊り、時には暴れるさまはじつに色鮮やかで楽しい。反転して彼らに敵対する夜警の衣装は深い青のフライトジャケットをイメージしており、夜警が大勢集まるシーンなどはまるで星のない夜空が動いているようにも見える。故に、夜警の背には落書きの星月がよく映えるのだった。
 また、表題作は衣装にはもちろんのこと、舞台美術にも非常に力を入れている。アトモスクラスは空間を謳うだけあり、プロジェクションマッピングの扱いに非常に長けたクラスだが、しかし『ムーン・シャイナー』ではその出番はほとんどなかった。劇中でプロジェクションマッピングが使用されたのは、街の壁に青空や真っ黒の夜を映し出すシーンだけだった。というのも、「今まででいちばん美しい月を下さい」というアンチックからの要望を受けたルニ・トワゾ美術部の出した答えは「画像には頼れない。いちばん美しいものは、私たちにしか描けない」だったためである。そのため、月をはじめとする『ムーン・シャイナー』で用いられた舞台美術はそのほぼ全てが古典的なアナログ手法でつくり上げられている。ラストシーン──美術部が真実と大いなる想像に少しの脚色を駆使し、心血を注いで描き上げた匂い立つ情景とそこに浮かび上がる月の姿に、さながら自分たちもほんとうの月と再会したような気持ちになって涙する観客も少なくなかったとか。
 そして、『ムーン・シャイナー』を語る上で外せないのが公演日ごとにシャッフルされるレイブンとスワンの配役である。卒業公演は五日間連続で上演され、その最終日の公演後に卒業証書授与式が行われる。表題作では、まず公演初日はキャメルとシルバーがアロムとエルバを演じ、アイビーとヴェールがネイルとリンツを演じた。次の日はアイビーとヴェールがアロムとエルバ、キャメルとシルバーがネイルとリンツ、その次がキャメルとヴェールがアロムとエルバ──そのように日ごと配役が代わり、最終日には初日の配役に戻った上演が行われる。そのため、五日間の中で観客たちは様々な『ムーン・シャイナー』に触れることになるのだ。
 たとえばキャメルが演じるアロムは所々で月へ執着する表情を見せ、エルバへの恋心をちらつかせるシーンなどは少し周りが見えなくなるところがあるし、アイビーが演じるアロムは等身大でからりとした兄貴肌の青年だが、周りが思っているよりも繊細な心の持ち主のため、オートにダウンジャケットを羽織らせるシーンなんかは微かに涙さえしている。シルバー演じるエルバはか弱い少女のような見た目をして、しっかりと自分の芯を持っている強い女性であり、ヴェール演じるエルバは強かに見えて臆病な面もあるが、譲れないところはしっかりと足を踏み締めるような勇気のある女性である。
 それゆえに、『ムーン・シャイナー』という公演は日によって色や姿を変える空や星座めいた公演なのである。
 或いは、夢のような。
 飛び立っていった彼らもまた、きっと夢と現実の境で傷付き、苦しむことがあるだろう。それでも彼らが再び羽ばたき、時には地を走ってまで月の裏側に辿り着けることを、私たちは願わずにはいられないのだ。共に、夢を見る者として。
 余談だが、劇中でアポロたちが噴き付けているスプレー缶の中身は色付けされた砂糖水なのだとか。そして、それはきっと、決して苦いだけではない夢の味なのだろう。




劇中歌 / 一部抜粋


Moon Shines A-po-ll-o
The Eagle has landed
Armalcolite 11


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