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Dog Eat God!

ドッグ・イート・ゴッド!






そのためだけに此処にいる



 クーデール第一○九期生の卒業公演。レイヴンをマルヘル・ブルーナ、スワンをヘザー・ヒースブラウ、ナイチンゲール・スワンをオリーブ・オーカーが務めており、クーデール第一○九期生が新人公演で演じた『ドッグ・イート・ドッグ』を担任教師のガーネット・カーディナルの手によって脚本の再構成と大幅な演出変更が成された改作公演である。


 父が死んだ。
 幼いシグルス・ユスティーツの脳裏に焼き付いて離れない記憶といえば、それがすべてであった。シグルスの祖父に当たるユスティーツ王が崩御し、父であるシギベルツが戴冠式を終えてから二年と間もない頃だった。毎晩のように行われる酒の宴で、シギベルツは突如腹痛を訴えては床に伏せ、そこから数時間苦しんだのちに二度とは帰らぬ人となった。シグルスの父シギベルツは、まだ少年と呼ぶに相応しかった彼の澄んだまなこの前で死んだのだ。
 シギベルツの葬儀は粛々と執り行われた。厳めしい顔立ちや大柄な体格に反して心優しく大らかであり、城下町にもよく訪れては人々と交流をし、時には共に酒さえ酌み交わした人望ある国王の死に、国民たちは嘆き悲しんだ。そんな彼の威厳を守るため、シギベルツの死は表向き謀反人の手による毒殺とされた。酌をした侍従ファフニエルが下手人とされ、まだ若人だった彼は国王の威光のための礎となるべく、極刑を課せられた。生まれた頃からシギベルツの侍従としてひたすらに忠実だったファフニエルは、酒に毒が混入していたのを見抜けなかったのは自分の責である、と罪を受け入れ、微笑みながらその命を磔にした。しかし、結局のところ、シギベルツが毒によって死んだのか、それともただのつまらぬ食中毒で死んだのか、それは誰にも分からないままだった。もちろん、シグルスにも。
 間もなくして、シグルスの伯母に当たるヒルデリングが王位を継いだ。まだ十五に満たないシグルスに王の責務を果たすことは不可能だと、ヒルデリングをはじめとする彼女の側近らが判断してのことである。遊び盛りのシグルスも玉座に貼り付けられるより、馬に跨がって鹿を追う方がずっとよかった。シギベルツが亡くなる前の彼であれば、そう言っただろう。しかしながら、尊敬し愛していた父親がこの世を去ってからというもの、悪戯王子の名を欲しいままにしていたシグルスはまるで人が変わったように大人しくなり、部屋に籠もりがちになった。
 さて、ヒルデリングは自らの侍従にはもちろんのこと、身内、ひいては民にも厳しく律するような一面があったが、彼女は何事にも公平であり、公務に私情を挟むことは一切なかった。君主としてのヒルデリングは、シギベルツとは毛色が異なっていたかもしれないが、しかし彼女は臣民たちから常に尊敬や畏怖のまなざしを一心に受ける、稀代の名君として民に愛されながら王座に君臨していた。彼女が王位を継いだことを非難する者はユスティーツには存在しなかった。もちろん、シグルスもそうだった。自分よりずっと相応しいとすら感じていた。
 シグルスには母がいない。物心がついたときには彼に母はなく、無論、母親の記憶というものもシグルスの中には宿っていなかった。それを不思議に思ったシグルスが、どうして自分には母がいないのか、とシギベルツに問うたとき、彼はじつに悲しげな表情を浮かべながら、病で早くに天へと旅立ったのだ、とシグルスに語って聞かせた。そして、それを不憫に思ったのだろう。シギベルツの姉であるヒルデリングは、シグルスに特別目を掛け、厳しくは在りつつも、いつも親身に接してくれていた。彼が塞ぎ込み、心を閉ざしてしまってからも、ヒルデリングは辛抱強くシグルスの自室を訪ね、いくつかの厳しい言葉と、ひとつの優しい言葉を彼に語りかけてやっていた。その甲斐あって、シグルスは段々と元の明るさを取り戻しつつあった。そして、自分に手を差し伸べてくれたヒルデリングのことをシグルスは心から信頼していた。あの日までは。
 王国ユスティーツには、毎年死者を悼んでは故人のための祭壇を鮮やかな花や蝋燭で彩り、その色や灯りを目印に帰ってきた故人の魂と語り合う一夜の祝祭が、古くから伝統文化として存在する。シギベルツが崩御してから初めての祝祭夜、シグルスは久々に城の外に出て、祝祭が行われている王立墓地へと足を運んだ。彼はシギベルツの墓の前に片膝を突き、まるで祈りめいた姿勢で亡き父の魂にいくつかの言葉を語った。「父上のお好きな酒をお持ちしました」「今日は良い日和でした。きっと鷹狩りをしたら気持ちが良かったでしょうね」「どうして、死んでしまったのですか」……
 シグルスがそう問うと、ひゅう、と冷たい風が一陣吹き、それは花弁を鮮やかに散らしながら、庭園墓地の方へと向かっていく。何に急かされたわけでも、考えがあったわけでもなかったが、彼はなんとはなしに──誘われるように花弁が舞う方へと駆けていくと、そこでは真っ白な服を着た一人の少女が白いマリーゴールドを持って墓地の前でひらりひらりと踊っていた。さながら、妖精のごとく。
 「オディーリア?」シグルスが呼びかければ、少女ははっと顔を上げ、気恥ずかしそうに彼の方を見た。「王国の明け星、シグルス様。今宵もその気高き御心のままに」オディーリアはヒルデリングの長女であり、シグルスにとっては従妹に当たる人物である。「ここで何を?」と、そうシグルスが問うと、オディーリアはそっと静かに微笑んだ。「父上に練習した踊りを見ていただいておりました」よく見れば、オディーリアの背後には立派な墓が建っており、それは数年前にこの世を去ったヒルデリングの夫──オディーリアの父親のものだった。
 「シグルス様はどうしてこちらに?」逆に問われて、シグルスは言葉に迷ったが、オディーリアの屈託のない瞳に見つめられて、正直に打ち明ける。「花びらを追いかけてきたんだ」「花びらを? そう……きっと、お父上のお導きなのね」「導き?」「シグルス様、橙の花びらが舞っております。橙色のマリーゴールドは、真実を教えてくれると本で読みました。気高き御心に真実のお導きがありますよう」オディーリアがそう言うと、風がまたひゅるりと吹き、シグルスはそちらへと向かって走り出した。視界の端では、オディーリアが何者かの墓の前に黄色いマリーゴールドを供えている妹ルーンヒルトに声をかけ、共に踊り出すさまが映っていた。
 シグルスが花弁を追いかけて向かった先には、王族のためではない、行き場を失った民衆のための共同墓がひっそりと立ち並ぶ、祝祭の最中とは思えないほどに静かな墓地があった。橙、黄、赤、白と様々な色のマリーゴールドが敷き詰められた墓地の中で、ゆらり、と不気味に照る蝋燭の灯りがシグルスの目に映る。何者かが共同墓の前に佇み、何事かを呟いていた。シグルスは墓の一つに身を隠しながら、そうっとその者の正体を窺った。
 ヒルデリングだ。それを察すると同時に、シグルスは何故彼女が民衆の共同墓の前にいるのだろう、と当然の疑問を感じる。けれども、その問いは突如ヒルデリングが上げた微かな笑い声と、それから発された小さな独白によって打ち砕かれた。「やってやった、やってやった、やってやった……」ヒルデリングは静かな声で、しかし笑みを含ませた声色で何度もそうくり返した。「何時間も何時間も苦しんで死んだ。馬鹿な男。きっと自分が何故死んだかも分からないだろう。あいつはつまらない食中毒で死んだ! 皆がそう思っている。私だってそう思っているとも。あいつにはそれがお似合いだ! 事実など、この真実の前には全くの無意味。そうでしょう──」
 父が死んだ。殺されたのだ。ヒルデリングに。
 ヒルデリングの声は風に掻き消えるほどの小さなものだったが、けれどもそれはシグルスの頭の中をわんわんと揺さぶるには十二分すぎるほどだった。彼は息を潜め、ヒルデリングが蝋燭を手に去っていくのをじっと眺めた。シグルスをここまで導いた橙色のマリーゴールドが、彼の周りにはらりはらりと落ちていく。ヒルデリングの去ったのち、彼はその場に立ち上がり呟いた。「父上……分かりました」と。
 その日を境に、王国は変わった。あれほどまでに名君と評されたヒルデリングの施策は祝祭夜を過ぎてから堕落の一途を辿り、彼女はその聡明さ、公正さなどは祝祭夜の終わりと共に死者の国へと放り捨ててしまったかのごとく、玉座に腰掛け、気に入りの柘榴を頬張りながら、恐るべき圧政を平然とした顔で行った。国民へ課す税を徴税回数と共に増し、反旗を翻した者は宮廷関係者であろうと関係なしに国外追放或いは極刑を命じ、市街では危険思想をもつ国民の粛正を彼女はたびたび冷酷な笑みと共に執行した。かつて己が控えるよう命じた毎晩の宴会の席で、まるで人が変わったように物を食い荒らし、酒を飲み干し、踊り狂いながら、ヒルデリングは王国の命を踏み潰して笑ったのだ。
 更に彼女はシギベルツの忠実な侍従だった者たちを徹底的に城から排除して、シギベルツが、彼の父が、彼の祖父が、先祖代々愛し育んできた王国を貪り、蹂躙し、嘲笑った。半年も経たぬ内に市街では飢餓や病が流行し、犯罪は手に負えないほど増加したが、宮廷にはヒルデリングの忠実で妄信的な侍従ばかりしか残らなかったため、彼女を止める者は誰一人としていなかった。いたとしても、首を刎ねられていたため、言葉を発することはできなかっただろう。
 間もなくこの王国は滅びる、と誰もが思っていた。シグルスさえもそう感じていた。故に、彼は自分も今に殺されるのだろう、と思った。シギベルツの血を引く自分は、ヒルデリングがこの世から抹消したい人間たちの先頭に立っているはず。殺されるのだろう、おそらく毒で。
 だが、シグルスとて、父の仇を目の前にしてみすみす死んでいくわけにはいかなかった。今後の食事に毒が混入されることを危惧した彼もまた、祝祭夜が明けると同時に道化を演じた。夜明けと共にシグルスは狂乱しながら大音声で叫び、頭を抱え、のたうち回るように踊った。突然乱心した彼を見た宮廷中の人々は、祝祭夜という故人を対話する夜を過ごしたためにシギベルツの死のシーンがフラッシュバックしてしまったのではないか、とシグルスの心の傷を憐れんだ。そして、そんな人々の心に付け入ったシグルスは再び部屋に籠もりがちになり、辛く震える日々を過ごしているふりをしながら、ヒルデリングを葬れる機会を窺っていた。
 冷たく、暗い日々だった。食事に毒が混入されている様子はなく、だからといって刺客に狙われている気配もしない、音のない日々。部屋の中にいるときはもちろん、時折部屋の外に出るときも常に神経を尖らせていたシグルスの安息は、食事を運んできてくれるオディーリアにしかなかった。
 シグルスはオディーリアの持ってきたもの以外は受け取らず、オディーリアが運び、彼女が目の前で毒味をした料理以外は口にしなかった。と、いうのも、オディーリアは嘘が吐けない。生まれてこのかた嘘を吐いたことすらないだろう。もし彼女が運んできた衣類や料理に疚しい箇所があれば、オディーリアはそれをシグルスに渡す際、大げさなほど動揺をするはずだった。彼女はずっとそういう人間だった。だから、シグルスはオディーリアを料理を運ばせる人間として指名したのだ。従妹であれば、それを不信に思う者もいない。
 けれども、そんなシグルスの思惑などはつゆ知らず、オディーリアは毎日三度、従弟の部屋を訪れては柔らかな微笑みの中に心痛を秘めた様子でシグルスの世話を焼くのだ。シグルスははじめこそオディーリアにも心を閉ざしたような演技を続けていたが、純真で穢れのない彼女の、慈愛に満ちたその瞳を前にして己の嘘を貫き通すことが難しくなっていく。彼は次第にオディーリアが立てる扉のノック音を心待ちにするようになり、そしてそのたび、彼女に向かって「君の踊りが見たい」と幾度も希った。オディーリアが彼の願いを拒んだことは一度としてなく、彼女はシギベルツの死から時が止まってしまったシグルスの部屋で踊った。何度も。何度も。何度も。
 「シグルス様、ご自分をお赦しになれないのね」祝祭夜から一年ほど経った或る日──次の祝祭夜の前日だった──シグルスの部屋で踊り終えたオディーリアは、彼の両手をそっと包み込んで不意にそう呟いた。「もう、ご自分をお赦しになって差し上げて」シグルスはオディーリアの両手を見下ろしながら、彼女の目を見ずに微笑んだ。「そのために、やらなければならないことがあるんだ」「やらなければならないこと?」「そう。それを成さねば、俺は誰をも赦すことができない」「では、なさって」迷いなく言ったオディーリアにシグルスは思わず顔を上げた。オディーリアは、何を疑うこともなくただ柔く笑んでいた。「その気高き御心のままに」
 翌日。シギベルツの死から一年後の祝祭夜に、シグルスは剣を一振り携えてがらんとした王立墓地へと向かった。かつての祝祭夜の華やかさはどこへやら、ほとんど飾り付けも明かりも灯されていないシギベルツの墓の周りには、しかし道を示すように橙のマリーゴールドの花弁が落ちていた。彼はその導を追って、庭園墓地の方へ向かう。
 そこには、自らの父グンナルの墓に白いマリーゴールドの飾りつけをし、蝋燭に火を灯しているオディーリアがいた。シグルスは足を止め、月明かりに照る美しい従妹のことを見た。その姿を見、シグルスは揺らいだことのなかった決心が鈍るのを感じた。ヒルデリングを殺せば、オディーリアは母を失うことになる。その喪失感がどれほどのものかは、自分自身が最もよく分かっていた。あの張り裂けるような痛みを、今度は自分がこの優しいオディーリアに味わわせるのか? しかし、オディーリアはそんなシグルスの昏い表情を見ると、そっと彼に向かって片手を差し出す。そこには言葉もなかった。シグルスはオディーリアの手を取ると、二人は白く彩られた庭園墓地でしばし踊った。羽が生えているかのように軽やかに跳び、重力などまるで遠い世界のことであるかのごとくに舞うオディーリアに魅せられ、共に踊るうち、シグルスは自分の中にあった迷いや葛藤がいつしか霧散していることに気が付く。この世に後悔など一つもない。この記憶さえあれば、もう何を失ったって構わない。踊りながらそんな思いさえも感じていた彼は、そっとオディーリアの手を離し、抜き身の剣を片手に共同墓地へと向かっていった。
 共同墓地は、これまで例に見ないほど無数のマリーゴールド、無数の蝋燭で鮮やかすぎるほど鮮やかに彩られていた。ヒルデリングはまるで婚礼の衣装めいた華やかな、それでいて血に塗れた黒のような色をした艶やかなドレスを身に纏い、うっそりとした表情で踊っていた。目には見えない誰かと手を繋ぎ、会話をしているかのごとく時折くすりと微笑みながら。
 「ヒルデリング」シグルスが感情のない声で呼びかけると、ヒルデリングは踊り続けたまま、たっぷりと間を取って振り返った。「シグルス。部屋に籠もる内、礼儀作法も忘れたか?」彼女の言葉を受け、シグルスは苦々しげにかぶりを振り、ヒルデリングに詰め寄った。「俺にとっての陛下≠ヘ父上だけです」
 喉元に剣を突き付けられながら、ヒルデリングは全く恐怖など感じていない表情で言った。「シグルス、私を殺す前に知りたいことがあるでしょう。何故、お前を殺さなかったか?」ヒルデリングは感情の分からない瞳でまっすぐにシグルスを見つめ、自身の胸元に片手を当てた。「私はお前の母です、シグルス」
 その告白にシグルスは言葉を失って、ただ呆然とヒルデリングの方を見た。「お前の父がお前ほどの年だった頃、彼奴は私の愛する者を毒殺し、同じ毒で私の胎の子までもを殺し、それから私を辱めた。そのときにできた子がシグルス、お前なのですよ」彼女のおそろしい言葉に耐えかねて、シグルスは思わず一歩後退った。「あなたの愛する者は、オディーリアの父グンナル様ではないのか。グンナル様は、確かに病で……」シグルスが問えば、ヒルデリングは無表情に首を傾げた。「グンナルのことではない。グンナルは彼奴が選んだ、私の結婚相手に相応しい男≠セ。私の愛した者は、彼奴ならこう言うだろうな。身分を弁えぬ、つまらん踊り手=c…」ひとりごちるように発して、ヒルデリングは墓の影から何者かを引き摺り出した。
 オディーリア。シグルスは目を見開いた。シグルスの身を案じて彼の後を追い、身を潜めていたオディーリアの腕を引いたヒルデリングは彼女を拘束し、自分の身体と密着させながらさながら盾代わりに娘を前に立たせた。「知っているぞ、シグルス──私を殺すか?」嘲るような物言いに、シグルスの表情が熱いほどに凍てついた。「そのためだけに此処にいる」彼は迷わずにそう言った。オディーリアの顔は見なかった。「まさかあなたが、それを否定するわけはないでしょう」シグルスの剣がオディーリアの腹部に突き付けられる。「では最後に、何故この国を滅ぼしたかを教えてやろう」素晴らしい演説でも始めるかのごとく、ヒルデリングは笑った。「あの人が、一秒たりとて生きていたいと思わない世界にするためだ──」その言葉と同時に、シグルスの剣はオディーリアごとヒルデリングを貫いた。
 そして、シグルスがその剣を二人の身体から引き抜くと共に、赤いマリーゴールドの花びらが血さながらに噴き出しては、辺りを、オディーリアの真っ白な服を赤々く染め上げた。ヒルデリングはすでに絶命してその場から動かなかったが、しかしオディーリアは痛みに悶えながら髪を振り乱し、地面をのたうち回るように踊り狂う。そんなオディーリアを前にシグルスは膝を突き、命を差し出すように首を垂れた。それを目にしたオディーリアの踊りがふっと軽やかなものになり、彼女は普段の慈愛に満ちた表情で微笑むと、シグルスを抱き締めて「あなたを、赦します」と、そう呟いて息を引き取った。自分の腕の中で死んだオディーリアを見下ろしながら、彼は美しい妹≠、彼女の母が発したおそろしい事実を、自分自身がオディーリアに抱いていた感情の色を、そのおぞましさを思い出して、唇から黄色のマリーゴールドを吐き出した。彼の頭には、ヒルデリングの、自らの母の言葉が延々とこだましていた。知っているぞ、、、、、、、シグルス……
 それから、明朝のことである。正式な王位継承者として、国王の冠を戴いたシグルスは、城の中に微かに残った家臣たちに迎え入れられながら、ひどく憔悴し、魂が抜け落ちたような表情で玉座に腰掛ける。彼は一夜にして窶れ、落ち窪んだ瞳で何を見るともなく、ただ力なく祝杯を掲げて言った。「ユスティーツに」
 そして、そんな新王の姿を眺めながら、家臣の中の一人──オディーリアとよく似た髪色をした少女は、杯を掲げて微かに笑ったのだった。「母上。姉上。そして──私のファフニエルに」
 こうして物語の幕は下りた。
 しかし、半分のみ、である。照明が落ち、半分だけ幕が下りた舞台の上で、物語は再び目を覚ます。
 薄暗い照明だけが洩れる舞台の上には、オディーリアによく似た少女が倒れ伏す青年の横で嘆き悲しんでいる。床に伏したまま動かない青年の顔の周りには赤いマリーゴールドの花びらが落ちており、慟哭する少女の腹部もまた、赤い花びらが滲むように彩られていた。そしてそんな少女を見下ろし、くつくつと煮える笑みを洩らしているのは、シグルスに似た青年だった。彼は恐怖と激しい憎しみを瞳に浮かべて睨みつけてくる少女の顎を掴んでは、恍惚の表情を浮かべてまた笑うのだった。
 それから、再び暗やみ。
 その暗やみの中で一瞬閃いて見えたのは、シグルス或いはシギベルツが玉座の前で倒れている姿だった。杯の中には、赤いマリーゴールド。
 こうして物語の幕は下りたのだ。すべて。


 「舞台に墓を掘る」、担任教師のガーネット・カーディナルが発したそんな言葉から発案されたという此度の卒業公演『ドッグ・イート・ゴッド!』(以下『DOG!』)は彼らクーデール第一○九期生の新人公演『ドッグ・イート・ドッグ』(以下『DEAD』)のリバイバル上演である。
 しかし、リバイバル上演という表現には語弊があるだろう。何しろ、この表題作、物語の大筋は『DEAD』をなぞってはいても、その表現方法、脚本、音楽、衣装、ダンス、舞台を形づくる要素すべてにおいて大幅な変更がなされている。
 まず挙げられる変更点といえば、それはもちろん音楽、衣装、ダンスだろう。歴代の『DEAD』で用いられていたクラシック音楽は全曲ロック・ミュージックにアレンジされ、舞台上で響くのは主にエレキギターやベース、ドラムの奏でる音であり、そこにアクセントとしてピアノやヴァイオリンの音色が乗っている。
 もちろん、この音楽に合わせて衣装も一新されており、『DEAD』で代々受け継がれながら少しずつ変更がされていた古典衣装は表題作では日の目を見ることはなかった。『DOG!』での衣装は古典のそれとはかけ離れた、黒と赤を基調にする現代的なゴシックパンク及びゴシックロリータ衣装──いわゆる、かの日本では有名なゴシック・ファッションを基に、そこに軍服風なテイストを加えながら制作されている。
 そして当然ながら劇中のダンスも音楽と衣装に合わせて、ロックダンスの型を踏襲した振り付けとなっている。また、『DEAD』に比べると群舞の数が格段に増え、アンサンブルキャストの出番が非常に多くなっており、『DOG!』では舞台の光も闇もアンサンブルキャストが踊ることによって表現されるのである。
 また、劇中で誰もが黒い衣装を身に着ける中、スワンのオディーリアだけが真っ白なロマンティックチュチュを纏っており、彼女が踊る場面の音楽とダンスばかりはクラシック・バレエ、特に『ジゼル』を踏襲したものとされている。故に、オディーリアはシグルスの唯一の光であり、世界にとって異質で、どこか歪んだ性質をもつ存在ということが言葉なく名言されているのだ。
 更に、脚本自体の変更点や追加点も非常に多い。『DOG!』は『DEAD』と結末さえ異なっている。まず、劇中で強調されているマリーゴールドの花だが、この表現は『DEAD』には存在せず、死者を悼む祝祭夜なる舞台も一度として出てくることはない。オディーリアが踊っているのは城の庭園であり、ヒルデリングが独白をするのは城の中にある礼拝堂である。また、これは余談だが、花で表現をしたいと呟いたガーネットに対していち早く、マリーゴールドはどうか、と提案したのはルーンヒルト役のミリアン・バームだったらしい。
 『DEAD』は古典ゆえに、細かく語られている部分が少ない。ヒルデリングのシギベルツの殺害動機──「すべてを奪いたかった」とヒルデリングの台詞にはあるが、そこに至るまでの理由は名言されていない──、シグルスの母が出てこない理由、ヒルデリングがシグルスをずっと泳がせていた理由と、挙げてみると意外と多い。それらを解釈し、整合性を持たせようとしたガーネットは、すべての役をクーデール生たちと共に演じ、話し合いながら今回の『DOG!』で結末の先、それから過去を描くことを決めたのだった。
 表題作の『DOG!』ではシギルス自身もまた別の人間に復讐されることを仄めかし、暗転、若いシギベルツがヒルデリングの恋人を殺し、ヒルデリングにも微弱な毒を盛りながら、彼女を見下ろして猟奇的に笑い、暗転、玉座の前でシギルスないしシギベルツが絶命しているシーンで終わる。このようなシーンももちろん、『DEAD』には存在しない。『DEAD』では、オディーリアは死なず、本当の王として玉座に座ったシグルスが国の再興を誓って杯を掲げたところで舞台の幕が降りるのだ。
 そういった脚本の改稿や演出の変更によって、新人公演からキャストの変更もなされた。シグルス、オディーリアの両役はマルヘル・ブルーナ及びヘザー・ヒースブラウの続投となったが、新人公演で第一○七期生のナギット・ナンフェアが演じたヒルデリングはルニ・トワゾのナイチンゲールとして確固たる地位を築いたオリーブ・オーカーが受け継ぐことになった。また、物語の最後に強烈なインパクトを残すオディーリアの妹ルーンヒルトは、『DOG!』にて年齢が大幅に引き上げられ、『DEAD』での幼くあどけない印象と大きく異なるため、新人公演で彼女を演じたオリーブ・オーカーからミリアン・バームへとキャスト変更となった。ミリアン・バームが演じたヒルデリングの侍女役は第一一一期生のベロニカ・ベロネーゼが引き継いでいる。
 上述した通り、『DOG!』ではアンサンブルキャストの出番が格段に増えた。表題作では、舞台上の光や闇や空気の流れさえも彼らが表現する。そして、そんな光と火を率いるのが第 期生のインディゴ・インクブルーであり、闇と風を率いるのが同じく第一一○期生のヴェニット・ヴェローナであるのだ。『DEAD』の時代には存在しなかったコンテンポラリー表現が、しかし驚くほどこの物語に親和性をもたらしている。
 言わずもがな『DEAD』はウィリアム・シェイクスピアの『ハムレット』に影響を受けて執筆されたものである。いわば、『DEAD』はグースグレイのハムレットであり、『DOG!』はガーネット・カーディナルが率いた第一○九期生の『ハムレット』なのだ。再演予定は今のところない、とガーネットは語っている。
 『DOG!』では登場する誰もが復讐者である。狂気的な慈愛を貫いたオディーリアでさえ、そうだと捉えることもできるだろう。彼らは「DOG」をひっくり返して、「GOD」に反旗を翻したのだ。つまり、この卒業公演は、紛れもなく第一○九期生それぞれのリベンジ≠ネのである。弱い自分を、墓に埋めるために。別離のために。愛するために。




劇中曲 / 一部抜粋


Live or Evil
Ghost Like A Fairy
Poison Is Red


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