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Hydra Hydrangea

ハイドラ・ハイドランジア






あなたに、いちばん怖いのをあげる



 オリーブ・オーカーとその元担任教師であるガーネット・カーディナルが初共演を果たした作品。また、オリーブ、ガーネット両名がスワン及びナイチンゲールを演じるという不可思議な公演である。


 女学生のアーデンハイトの過ごした今日という日は、とにかく最低な一日だった。
 雨は未明から町中に降り注いでいた。そのせいで朝ベッドから起き上がるのがひどく億劫──目覚めることに嫌悪感があったのは、雨のせいではないかもしれないが──で、制服に着替えた頃にはもう朝食を食べる時間もなかった。そのまま慌てて学校へ向かえば、スピード違反の車に泥入りの雨水を掛けられた上に傘は強風で折れ、ぐしゃぐしゃの格好で学校の門をくぐれば、生徒の誰も彼もから指を指されて嗤われた。「見ろ、ハイドだ! ぼろ雑巾のアーデンハイド、、、! 不幸がうつるぞ、逃げろ、逃げろ!」
 けれど、たとえ小綺麗にしていたとしても生徒たちからのこの扱いは変わらない。アーデンハイトは俯き、足早に教室に向かったが、そこにあるのはいつだって落書きで汚れ、傷付けられた机に、生徒の思想に忖度して難しい問題ばかりを自分に当てる臆病者の教師、破られた教科書、行方の分からないノート、授業中に後頭部へぶつけられる紙屑、腫物を触るような気配、自分以外の輝かしい人たち、自分だけが取り残された世界。いつから日常はこのようなものだっただろう? アーデンハイトには分からない。少なくとも彼女の世界は、物心ついたときからこんなふうに薄汚れていた。
 ゆえに、女学生のアーデンハイトの過ごした今日という日は、とにかく最低な一日だった。けれども今日は、というのは少々語弊があるかもしれない。正しくは今日も、である。それは昨日もだったし、おそらく明日もそうだろうと思えた。
 夕暮れ時、アーデンハイトは壊れた傘を握り締めて逃げるように下校していたが、どんどん強くなる雨足に耐えかねて、彼女はどこか少しでも雨宿りできる場所を求めて走った。がむしゃらに走って、走って、走った。どこか遠くへ。ここではないどこかを目指して。
 そうして彼女がふと顔を上げると、そこにはぬかるんだ道の両脇を挟むようにして無数の紫陽花が咲いていた。雨はもはや嵐にも近く、アーデンハイトにはここはどこだろう、と考える余地も残されていなかった。彼女は紫陽花の道が続く先に建つ、この辺りでは見たことも聞いたこともない一軒の屋敷に向かって更に走った。風に煽られて、鉄製の門がぎい、と開く。アーデンハイトはその門を通り抜けると、古く寂れてあちこちが崩れかけ、玄関扉の鍵さえ風化して使い物にならなくなっているぼろ屋敷の中へと飛び込んだ。
 屋敷の中は無人のようだった。当然ながら、明かりも灯っていない。無作法に無遠慮に殴りつけてくる大雨からやっと解放されたアーデンハイトは、薄暗い屋敷の中で今日一日の不幸とこれまでの過去、それから今までと何も変わることのないだろう空っぽの未来を思って、絶望にも似た不安感に襲われる。彼女は屋敷の二階へと続く階段に腰掛け、背を丸めて声を殺して泣いた。押し殺した声が、まるで唸り声にも聞こえた。
 それから、どれほどの時間が経っただろう。未だ泣き止む気配のないアーデンハイトの頬が、突然ぼうっと熱い光に照らされる。「泣いているの?」驚いたアーデンハイトが光の在る方へと顔を向けると、そこには彼女と同じような制服──アーデンハイトが着ているものよりは多少古臭い意匠だったが──を纏い、金の燭台を手に持った、アーデンハイトと同じ年頃の女学生が立っていた。「こんなところに迷い込んでしまったのね、かわいそうに。あなた、お名前は?」問われて、アーデンハイトは震え上がりながら訥々と答えた。「アーデンハイト。あだ名は、ハイド」
 「ハイドラ? ヒドラ?」アーデンハイトの声が小さすぎて正しく聞き取れなかったのだろう、女学生はそう首を傾げてにっこりとした。「どちらにせよ、格好良いあだ名ね!」
 アーデンハイトは、人にこうして笑顔を向けられたのはもしかすると生きてきて初めてかもしれない、と目の前の人物を恐怖と困惑、それから高揚のこもったまなざしで見つめた。「す、す、好きに呼んで」彼女はなんとか喉から言葉を絞り出した。「あの。き、きみは一体?」
 「幽霊よ」あっけらかんと女学生は笑った。「ユウレイ、分かる? ゴースト、スプーク、スペクター、ファントム。まあ、そんな感じのものよ。だから、ヒドラ。あなた、かわいそうな子」「よく言われるよ」アーデンハイトが返す。「本当? あなたが幽霊に出会うことを予言してた人がいるって?」「き、きみと出会うことの何がかわいそうなの。今までの方が、ずっと不幸」
 幽霊の女学生はかぶりを振る。「それは、だって。幽霊は、もし生身の人間と出会ったら、その人間のことを驚かせなくちゃあいけないのよ。ここに自分がいた≠チて憶えていてもらえるように、出会った人間がいちばん怖いと思う方法で驚かせないといけない」その言葉に、アーデンハイトは眉を下げた。「いちばん怖い? 土日休みがなくなって、三六五日ぜんぶが登校日になるとか?」「違うわ。だってあなたは、そんなのちっとも怖くない」「嘘。怖いよ」「ヒドラ、怖くないわ」。幽霊が言った。「気付いて。あなた、とっても強いのよ。それに、すごく綺麗だわ」
 そう笑う幽霊がふっと燭台のほのおを吹き消す。それと同時にぱっと屋敷内に明かりが灯り、玄関近くの暖炉で火が爆ぜた。見た目だけでなく言葉通りに暖かくなった室内をきょろきょろと見渡して、アーデンハイトがつと頭上を仰ぐと、そこには天井全体を覆うように無数の傘が敷き詰められており、色とりどりの傘が頭上に浮かぶその様子は、まるで屋敷の外の紫陽花たちの姿にも似ていた。「雨漏りが酷いからね」と同じく天上を見上げて言う幽霊に、アーデンハイトは問う。「き、……きみの名前は?」
 「さあ? 分からない。何も憶えていないの」と幽霊は笑う。「何しろ幽霊ですからね」そうして彼女は思い付いたみたいに顔を輝かせる。「そうだわ! あなたが名前を付けてよ、ヒドラ。あなたみたいに素敵な呼び名!」
 その申し出にアーデンハイトは大いに困惑したが、それでも考えを巡らせ、あっと思い付いたように天井を指差した。「アンブレラ!」けれども幽霊は首を傾げる。「ヒドラみたいなのがいいわ」「じゃあ、レイン」「ありきたり」「じゃあ……じゃあ、ハイドランジア。外にたくさん咲いていたし……」「長すぎない?」「分かった。なら、ヨヒラ、はどう? 異国ではハイドランジアをそう呼ぶらしいから」
 「それって素敵!」幽霊が笑った。「あなたがヒドラ。私がヨヒラ。なんだか姉妹みたいじゃない?」ヨヒラの言葉を受け、アーデンハイトは相手の顔を見つめた。「姉妹……それなら。それなら、ヨヒラ。きみはずっと私の味方でいてくれる?」「もちろん」そう言うヨヒラに向かって、アーデンハイトは小指を差し出した。「でも、ごめんなさい。小指の約束はできないの」「どうして?」「幽霊は、生身の人間に手を握られると消えてしまうから」「消えたらどうなるの」「さあ。もしかしたら、新しい人間として生まれ変わるかも」
 そうして夜が更けるまで他愛もない話をしていたアーデンハイトとヨヒラだったが、不意にヨヒラが「さあ、あなたはもうそろそろ帰らなくちゃ」と言い、渋るアーデンハイトに向かって「またいつでも来ていいから。待ってるわ、ヒドラ」と笑う。ヨヒラは階段を上り、じつに軽い身のこなしで天井の傘を一つ手に取ると、「これをあげるわ、ヒドラ。きっと雨が続くから」そう言ってアーデンハイトに赤い傘を手渡した。
 それからというもの、アーデンハイトは足しげくヨヒラの元へと通った。どんな些細な話題すら、二人の間では宝物のようだった。触れ合えない代わりに、彼女たちは傘の中で囁き合った。そして、そんなアーデンハイトの日々は目に見えて変化していった。続く雨の中、赤い傘を差す彼女の俯きがちだった顔は常に前を向くようになり、いつしかその足取りもしっかりとしたものへと変わっていった。彼女はもう、誰に何を言われようと関係なかった。学校が何? いるのはくだらない連中ばかり。愛されないことが何? そんな連中に愛されて何になるというの。私はヒドラ。私にはヨヒラがいる。押し付けられた委員会の仕事のせいですっかり夜が遅くなったときには、大広間で他の幽霊たちと踊るヨヒラを見ることができたから、感謝さえするほどだ。踊るヨヒラは美しかった。手は繋げないけれど、私にも踊り方を教えてくれた。私以外とはもう踊らないと約束してくれた……
 けれども、気が付けばアーデンハイトをハイド≠ニ詰る者は誰もいなくなっていた。続いていた雨も止み、アーデンハイトが持ち歩いていた赤い傘を広げる機会も少なくなっていった。空が晴れ渡った数日の間に、彼女には数人の友人ができていた。アーデンハイトはヨヒラとの出会いによって、アーデンハイトとしての幸せを、青春を取り戻そうとしていた。その穏やかな幸福は、ヒドラとしての自分を忘れてしまうほどだった。ヨヒラのことさえ、忘れてしまうほどだった。雨のない青空に、雷の音が鳴り響くまでは。
 アーデンハイトは友人たちを振り切り、慌てて学校を飛び出した。どうして忘れていたのだろう? 彼女は赤い傘を抱えて、ヨヒラのいる屋敷へと転がり込んだ。
 そこでは、アーデンハイトにとって驚くべき光景が広がっていた。ヨヒラの屋敷では、舞踏会めいたものが開かれており、誰もが様々な時代の女学生の恰好をしていた。そして、その中心でヨヒラは踊っていた。ヒドラ、、、以外の女学生と踊っていた。手まで繋いで、踊っていた。
 踊るヨヒラが、立ち尽くすヒドラを見て微笑んだ。「あら、ヒドラ。来たの? てっきり私のことなんて忘れてしまったかと思ったわ」そう言うヨヒラに、ヒドラは吼えた。「私以外と踊らないって約束したのに!」その声に驚いて、女学生──の恰好をした屋敷の幽霊──たちは別の部屋へと逃げていく。「あなたが意地悪するから、私も意地悪しただけよ、ヒドラ。私たち、仲直りが必要ね?」
 大広間に取り残されたヨヒラを見つめて、ヒドラが問う。「怒っていないの、ヨヒラ? 私があなたを忘れてしまったこと」ヨヒラは笑う。「怒っていないわ。私があなたを怒ったことがある?」ヒドラは言う。「もう二度と私以外と踊らないって約束して」
 「いいわ、ヒドラ。じゃああなたも、もう二度と私を忘れないって約束できる?」「ヨヒラ。もちろん約束する」「本当に?」ヨヒラに向かって、ヒドラは頷いた。「本当に。だから踊って。私と」そしてヒドラは、ヨヒラの手を取った。
 時を忘れ、人を忘れ、手を繋いで、二人は踊った。どれほどの時間踊り続けているのか、今がいつで、ここがどこなのかももうヒドラには分からなかったが、しかし彼女にとってそれは、この世のものとは思えない幸福すぎる時間だった。
 ヨヒラが「ヒドラ」と、彼女に声を掛けるまでは。
 「ヒドラ、覚えてる? 人と出会った幽霊は、その人間がいちばん怖いと思う方法で驚かせないといけない」その言葉に、ヒドラは唐突に自分がヨヒラと手を繋いでいること──繋いでしまったことを思い出して、顔色をさっと青ざめさせた。そんな彼女の顔を見て、ヨヒラがうっそりと微笑む。「あなたに、いちばん怖いのをあげる。だから、忘れないでね。私のヒドラ……」そう呟き、制服だけを残してヨヒラは消え失せる。
 ヒドラはその場に崩れ落ち、残された制服を抱いて慟哭する。そしていつしかその泣き声はどこか不気味な笑い声へと変わり、彼女はひとりでに踊り出す。うっすらと微笑みながら、何年も何年も、何年も何年も踊り続けた。ヨヒラのダンスをくるりくるりと、自分が誰なのか、どうして自分がここにいるのか、何故ずっと踊っているのかも曖昧になるほどの永い月日を、ただひたすらに他の幽霊たちと踊り続けた。天井に吊るされた、赤い傘の下で延々と。
 そうして更に時が過ぎた頃、屋敷の中へと一人の人間が転がり込んでくる。それは折れた傘を手にし、塞ぎ込んだ様子の女学生だった。ヒドラはどうしてか、その女学生を一目見た瞬間、懐かしく切ないような、それでいてくるおしいほどに焦がれるような気持ちに駆られる。だから、彼女は金の燭台を持ち、階段に座り込む女学生にこう声を掛けるのだった。
 「泣いているの?」と。


 『ハイドラ・ハイドランジア』は演者同士が互いに互いのスワンを演じるだけでなく、互いに互いのナイチンゲールを演じるという一風変わった作品である。
 それのみならず、ロワゾ・ミュージカルでの主演ダンサーとして名高いガーネット・カーディナルと、その教え子であるオリーブ・オーカーの初共演舞台であったこの演目は、ロワゾ・フォロワーの中でも大いに注目を集めた。まさか、二人が同じほどの年頃の女学生を演じるなどとは、ロワゾの熱心な観客だけでなく劇団員たちを含めて誰も予想していなかったが。
 また、余談として、常に滑るような動きや踊り方をすることでヨヒラの幽霊らしさを表現していたガーネットは、ヨヒラがヒドラの元から消え去る最後の瞬間、衣装を素早く脱ぎながら舞台の奈落に落ちることで、まるで本物の幽霊のようにその場から姿を消すが、これに対して『ヘルタースケルター』を経たこともある彼は「奈落に落ちるのが得意になってきたな」と皮肉っぽく笑っていたらしい。更には相手役のオリーブについて問われると、「あいつは浮気性だからハマり役だよ」などという発言をし、一時期界隈を騒がせた。相変わらずお騒がせな人物である。
 脚本を執筆したダリア・ダックブルーをはじめ、この公演の関係者が明確な答えを提示することは今後ともないだろうが、この舞台を観た観客による考察としてはヒドラとヨヒラはその役割を交代しながら永遠に踊り続ける≠ニいうものが一般的である。
 雨は何度でも降り、花は何度でも咲き、夜は何度でもあるゆえに。




劇中曲 / 一部抜粋


Rain, Umbrellas and Dance
Between Fire and Ghost
Never again and Forever


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