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Beast you’re Beauty

ビースト・ユア・ビューティー






あなたは、美しい



 ダリア・ダックブルーがレイヴン、マリアンヌ・デュアメルがスワンを務め、二人が最後に共演を果たした作品。


 昔、昔のことである。
 あるところのある国の、ある深い森の中にある城に住む獣の王子は、あるとき、森の中に捨てられていた小さな籠を拾った。
 昔、昔のことである。
 あるところのある国の、ある深い森の中のある城に住む獣の王は、もう十数年もの間、たった一人きりの日々を過ごしていた。
 広い城の中で、王は長いことその心を閉ざしていた。城の中に籠りきりのその身体は痛々しくやつれ、頬はこけ、目元にはいつも黒い隈が刻まれていた。そんな彼の肉体に獣の王としての威厳はなく、王はそんな自分の姿を隠すように分厚く大きなマントを身体に巻き付け、鳥の羽根が縫われた衣類で首元や手足を覆っていた。かつては美しく華やいでいた王城は今や見る影もなく、ひとり、またひとりと家臣が出ていったそこはカーテンが閉まりきって、薄暗く砂埃にまみれた廃城にも等しかった。王は今日もひとりであった。きっと明日もそうだろう、と彼は思った。それでいい。それでいいのだ、と。
 けれども、あくる日である。王がいつものように謁見室に置かれた古びた玉座に腰掛け、ぼんやりと虚空を眺めていると、彼の視界の端に何やら不思議な物体が映り込んだ。怪訝に思った王が軋む身体を持ち上げてそれに近付いてみると、そこには、灰色のロバが一頭、ぺしゃんこに平たくなって謁見室の床の上に落ちていた。王はぎょっとして思わず、「おい。……おい、お前! だいじょうぶか!」と声を荒げるが、返事はない。王は狼狽し、恐る恐るそのロバの身体へと触れ──ふと手を止める。
 霞む目を瞬かせて、王は目の前のロバをよく見てみた。すると、それはロバなどではないことが王には分かった。彼の目の前に落ちていたのは、作り物のロバの毛皮を洋服の上から纏った、うら若い人間の乙女であったのだ。王は更にぎょっとして、その場から動けないままに娘のことを見下ろした。
 ややあって、娘が目を覚ます。彼女は眠気まなこでぱちぱちと瞬きをくり返し、辺りをきょろきょろと見渡し、それからふと顔を上げた。王と娘の目が合い、娘はじいっと王のことを見つめたのち、突然「獣の王様!?」と声を上げる。彼女の大音声に、久々に他人の声を聞いた王は自分の鼓膜がぐらぐらとするのを感じながらも、冷淡な声色で「このおれが王に見えるのか」と呟く。娘は驚きを隠せない表情で「もちろんです、王様」と頷いた。「城に住んでいるからといって、王とは限らないのではないか」という王の問いかけに、娘は「けれど、あなたは森で見かけたどのような動物とも異なって見えますわ」と微笑む。王はその言葉に目を伏せたが、娘は続けた。「とても美しい」
 彼女の言葉に、王は驚いて目を上げた。娘はすっくとその場に立ち上がると、「それにしても王様。このお城は埃と仲が良すぎますわ。わたし、お掃除します!」と声高らかに宣言し、けれども足元が力なくふらりとする。思わず王が娘のことを支えると、娘は気恥ずかしそうに笑って「やだ、わたしったら。そういえば、わたし、お腹が空いて気を失ってしまったんだった……」と言う。
 そんな娘に、王は「ここには人間の食べるものなど何一つない」と発する。娘は「王様は普段何をお食べに?」と訊き、王は「何も」と返す。「何も?」「何も」「食べなくては死んでしまいますわ」「……時々、庭の木の実を」王の言葉に嘘はなかった。王はもうこの十数年間のあいだ、ほとんど食事をせず、水と、荒れ放題の庭に実った木の実や果物を時折口にすることで自身の生命を繋いできていた。王は決して、肉を口にしようとはしなかった。
 娘の腹の虫が鳴く。娘は「台所をお借りします。お庭に実のなる木があるんですよね? わたし、獲ってきて、何か簡単なスープでもお作りしますから!」と発して、王が止める間もなく城の中を駆けて行った。厨房がどこにあるかも知らないだろうに、と王が気疲れしながら玉座に腰掛けてからややあって、娘が両手にスープを持って謁見室へと戻ってくる。娘の戻りの早さに、王はまるで厨房や庭の木の位置を知っていたかのようだ、と微かに思うが、目の前にずい、とスープを突き出されたことでその思考は霧散する。ぺろりとスープを平らげてしまった娘を眺めながら、王はこわごわとスープを一口だけ飲み、中の木の実もひとかけらだけ食した。「王様、もうよろしいのですか?」娘が問う。「いい。食べたくない」王が返す。「余計なことはするな。元いた場所へ帰れ」そうして王は、自分の私室へと去っていった。
 翌日である。謁見室へと向かう途中の廊下で、王は両手いっぱいの食材を抱えて鼻歌を口ずさむ娘の姿を目にする。王は「おい。……おい! お前、どうしてまだいるんだ」と声をかける。王の呼びかけに娘はがばりと顔を上げると、声高らかに宣言する。「王様! おはようございます。わたしったら、すっかり伝え忘れておりました。わたし、帰りません! そして……」呆気に取られる王に、娘はにっこりと微笑んだ。「お慕いしております、王様」
 「さあ、王様。ごらんになって!」娘は言った。「王様がお腹を空かせていると言ったら、ほら、こんなに! 森の皆さんが食べ物を分けてくださったわ! ミルクはヤギの一家が、紅茶はシカの一家が、パンやクッキーはリスの一家が、チーズはネズミの一家、ジャムはツバメの一家、ロバの一家は綺麗なお水をたくさんたくさん城まで運んでくれた……皆さん、王様のことが大好きなのね」娘の言葉に、王は首を振る。「まさか。皆、おれが恐ろしいだけだ」娘は王よりもきっぱりと首を振った。「いいえ! 皆さんは、王様に元気になっていただきたいだけ」
 それからというもの、娘は王にどれだけ「帰れ」と言われても、冷たくあしらわれても決して城から出ていこうとしなかった。娘は朝になれば城中のカーテンを開き、窓から風を取り込んで、箒とはたき、雑巾を手に城の中を明るく、清潔に保った。外から差し込む光から王が顔を背けるたび、娘は「王様のお腹が空かないのは、王様がちっとも日の光を浴びないからだわ」と言って笑った。娘は朝になると王を叩き起こし、作った料理を振る舞い、王はそれをほんの少しだけ食べ、昼になれば掃除用具を手に歌い、時折庭へと王を連れ出して彼に歌を聴かせ、作った料理を振る舞い、王はそれをほんの少しだけ食べ、夜には共に踊ろうと王を誘い、作った料理を振る舞い、王はそれをほんの少しだけ食べ、眠る前には彼に優しい物語を語って聞かせた。城の中で娘は、ほんとうに楽しそうに笑っていた。その笑顔を見るたび、王は目を伏せた。
 あるとき、王は娘に問うた。「お前はどうしてこんなところにやってきたんだ」娘は笑った。「わたし、ロバ娘なんです」「ロバ娘?」「国の中でいちばん愚鈍な女のこと。十六年に一度、国でロバ娘が一人決められて、愚か者の代表として森の中へと捨てられる。そうすると、国には賢い人間だけが残り、国はさらに豊かに、強かに発展することができる。人間の王様はそんなふうに信じているの。普通は、親のいない赤子がロバ娘に選ばれるのだけれど、わたしはほら、とくべつ愚かでしたから……」「ロバは愚鈍などではない。彼らは賢く、優しく、強靭だ」王の語気が少しばかり強くなる。そうしてはたとしたように、王は視線を下げた。「人間は、不可解な生き物だ」王は娘を見る。「では、お前は帰る場所がないということか」「ありますわ。まさに、ここに」娘の言葉に、王が怪訝に眉をひそめた。「わたし、ここに帰ってきたんですよ」分からない、という表情の王を見つめる娘の瞳は、きらきらと輝いていた。王には娘の言う意味が分からない。分からなかったが、少しだけ、彼は眉を下げていた。
 そして、またあるとき、今度は娘が王に問うた。「王様はどうして、お食事を嫌がるのですか」王はものも言わずに玉座から立ち上がると、娘の横を通り過ぎ、城の外へと続く扉の前に立った。娘もすぐに後を追いかけ、王の隣に立つ。王が触れると、ぎい、と重たい音を立てて扉が開く。王は城の扉の前に置かれていたものの姿を見下ろしながら、「おれはこの森で唯一の肉食獣だ」と呟いた。
 王が見つめる先には、草花が敷き詰められた木の棺に横たわる、ウサギの亡骸があった。「人間の王がどうかは知らないが、獣の王はこの森に住む者たちの葬儀を執り行う。王は死んだ者の亡骸を焼き、その煙によって魂を天へと送り出して、地に残った肉体を骨だけになるまで食らう。それが代々、獣の王の責務だ」王は呟きながら、両腕にたいせつそうに棺を抱えて、城の地下へと向かって歩き出す。「だが、友だちが死に、そいつのことを食ったときに、おれは怖くなった。こんなのはもう嫌だ、と唐突に思った。友だちのことを食うのも、誰かのたいせつな者のことを食うのも、おれはずっと嫌だった。そして、そんな者たちの亡骸を目の前にして、美味そうだ、と思う自分が、おれは何より嫌だった」城の地下には、外の光が天から直接差し込む、吹き抜けの花畑があった。王はその中心にぽつんと置かれた、美しい装飾の鉄の釜に棺の草花を詰め込み火を点けると、燃え盛りはじめたそこにウサギの亡骸をそっとくべた。「食べることを諦めたかった。食べたいと思わないようになりたかった。皆と同じ、草食獣になりたかった」王は夕暮れ空へ向かって立ち昇る煙を眺めた。「でも」やがて王は、火に焼かれたウサギを自分の手が焼けることも気に留めず釜から取り上げ、胸の中に抱いて膝を突いた。「でも、食べたい……」王は未だ煙が立ち昇る花畑の中で頽れ、嗚咽した。
 そんな王の腕に自分の手をそっと重ね、娘は問いかける。「王様が食べたお友だちは、ロバだった?」王は顔を上げた。「何故、それを。一体、お前は……」「王様。いつかきっと、森で小さな赤子を拾われたでしょう?」王は何かを考えるように娘を見た。それから、ああ、と小さく呟いて、「籠に入れられた、人間の子ども。作り物のロバの毛皮を着ていた子ども……」「そう。十六年前の、ロバ娘」「おれがまだ王子だった頃だ。ロバの格好をしているから面白くなって、友だちのところに連れていった。友だちも大喜びで、その後城で一緒に遊んだ。人間の子どもは何が面白いのか、泣きもせずよく笑った。手を差し出したら、小さな指がぎゅっと握ってきた。だが、人間が何を食べるのか分からなかったから、その日の内に人間の国の前に置いてきたんだ……」娘は王の顔を覗き込んで、柔らかく笑んだ。「十六年前、両親のいない赤子だったわたしはロバ娘に選ばれました。そして、十六年後の今、わたしはまたロバ娘に選ばれ、ここに帰ってきました。あなたの綺麗な瞳が忘れられなかった。わたしは、あのときからずっと、あなたをお慕いしています」
 娘は王の手を引き、城の階段を上って厨房を目指して歩いた。彼女は王の腕からウサギの亡骸を引き取ると、包丁を手にし、その身を捌いていく。王は力なく、ゆっくりとかぶりを振った。「やめてくれ。帰ってくれ。おれはひとりがいい。帰ってくれ。お前もいつか、死ぬんだから。おれは食べたくない。食べたくないよ。食べたいと思いたくない。おれは怖い。お前が、みんなが怖い。おれはひとりでいい。帰って、帰ってくれ……」娘もまた、ゆっくりとかぶりを振った。「王様が怖がられているのは、わたしでも、森の皆さんでもありませんわ」娘はテーブルの上に、切り分けたウサギが載った皿を置くと、王のことを抱きしめた。「王様が怖がられているのは、他でもない、王様自身です。わたしも、きっと森の皆さんも、死んだらあなたに食べられたいと思うのですから。あなたはちっとも怖くない。あなたは強く、優しく、そして、とても美しい獣の王様……」
 そして、娘は王を食卓に座らせ、自らもその向かい側に座った。テーブルの中心の大皿に対して、取り皿は王と娘の二人分があった。娘は「人間の国はおかしなところですが、それでも良い文化が一つだけあります。わたしたち、祈るんです。人が死んだときと、食事をする前に」と言い、ウサギが盛られた皿の前で祈りを捧げた。そして「いただきます」と呟き、彼女は肉を一切れ、そっと口にした。「王様。わたしは、あのときあなたに救われた命です。わたしは、この命をあなたに寄り添うことに使いたい。だから、分け合いましょう。楽しいことも──悲しいことも」王はそんな娘の見よう見まねで祈りを捧げ、「いただきます」と囁き、肉を一切れ、そっと口にした。王は両目の瞳から涙を零し、娘もまた涙した。娘が「美味しいね、王様」と囁くと、王は少しばかり微笑み、「ああ、美味しい」と、「命を、ありがとう……」と呟くのだった。
 それから、いくらかの時が過ぎる。
 命が芽吹く鮮やかな森の中を手を繋いで歩く獣の王と娘は、過ぎ去る獣に挨拶をしたり、手を振る獣に手を振り返したり、時折他愛もない会話をしたりしながら、昼の散策を楽しんでいた。娘が歌うと、王もまた歌い、娘が踊ると、王もまた踊った。日溜まりの中で笑う娘を見てやさしく微笑みながら、ふと、王が思い出したように問う。「いつか、お前は自分が国一番の愚か者だと言ったな。だが、じつは、そんなことはなかったのだろう?」王の言葉に、娘は「いいえ、わたしこそ国一番の愚か者ですわ」と、可笑しそうに笑ってかぶりを振った。「愚かでいることが怖くないほど、わたし、あなたに恋をしたのですから」
 物語は、娘のこの言葉で幕が降りる。


 『ビースト・ユア・ビューティー』は、前述の通りダリア・ダックブルーとマリアンヌ・デュアメルが最後に共演した作品である。
 脚本自体はダリアが十五歳の頃に書き上げた作品に手を入れたものであるが、物語の筋は当時のものと大きく異なる。かつての脚本は獣の王が娘の好意を跳ね除け続け、ついには彼女を失い、再びひとりになったときに激しい後悔に襲われる、といったものだったのだが、それをこのような結末に改めたダリアの中に一体どういった心境の変化があったのは不明である。ただ、彼の演じる獣の王の身が削られるほどに深い絶望感や、そこから滲み出る寂しさや渇望は常に何かどうしようもなく真実味があり、観る者たちの心を憐れみでも満たすというよりは、弦のごとくにぴんと張り詰めさせた。それこそ、王の前に立つように。
 初めのうちはそれこそ、うら若く天真爛漫な少女に陰気な王が振り回される、どこか喜劇のような雰囲気を漂わせる物語だが、場が切り替わるにつれて朝が昼に、昼が夕に、夕が夜にと移ろうように、舞台はもの悲しさを纏った愛の物語へと変貌していく。マリアンヌの突然の引退宣言の影響か、それとも完全に獣の王と化していたためなのか、ダリア演じる獣の王は、焼けたウサギを抱いたシーンと、娘とそのウサギを食べる最後の食事シーンで涙する。それは演出家の指示でもなければ、ゲネプロからそうであったわけでもなく、獣の王は本番中でのみ娘の前で心から涙を零した。そして、それにつられるように、マリアンヌ演じる娘も涙を流したのだ。
 なんの変哲もない愛の物語を昔話めいた色合いで包んだこの物語は、美しい童話としてこれから先も劇団ロワゾで語り継がれていくことだろう。『ビースト・ユア・ビューティー』はいつでも、命の中には出会いと別れが存在し、朝がいずれ夜になること、そして、夜がいつかは明けることを思い出させてくれるのだ。




劇中歌 / 一部抜粋


埃をたてがみにロバ娘が歌う
LIFE
Beast you’re Beauty


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