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Anti Coquettic

アンチ・コケティック






だから、悪は死なない



 オリーブ・オーカーが二年次の冬公演にて主演を務めた作品。


 彼ないし彼女に名前はない。或いは、彼ないし彼女には、人の心の数だけ名前がある。
 人の数ではない。人の心の、その感情の数だけ、彼ないし彼女には名前があった。彼ないし彼女は、いつでもその呼び名に相応しい行いだけをする。
 たとえば、ある男は彼ないし彼女をこう呼んだ──空腹≠ニ。誰かが空腹を感じると、彼ないし彼女はこの世の何物よりも真っ黒な暗やみからひょっこりと顔を出して、にっこりと微笑み、ぐるぐると鳴る誰かさんのかわいそうな腹を一撫でする。空腹≠ヘ男と手を取り合って踊り、男はそれに引き摺られるように共にステップを踏むが、次第にその表情は苛立ちに変わり、そしていつしか空腹≠ヘ飢餓≠ノ変わる。飢餓≠ヘほとんど歩けもしなくなった男の顔を楽しそうに覗き込んでは、つと、前方から歩いてくる優雅で美しい、生涯で空腹を感じたことなど一度もなさそうな女の方を指差した。飢餓≠ヘ男の背を蹴り上げ、男はその衝撃に驚いて女の元まで走り出す。飢餓≠ヘ衝動≠ノなった。衝動≠ヘ女の張りのある身体と苦悩を知らないままに輝く瞳を前にした瞬間、どうしようもない、暴力的な食欲≠ノ変わる。男は女の首元にがぶりと噛み付くと──それから、女の背後にいた彼女の護衛に拳銃で撃たれて射殺される。
 男が死ぬのと共に、食欲≠烽ワた地面にぱったりと倒れ込むが、首元の焼けるような痛みに男が死んだことも気付かない女がその横をずるずると這った瞬間、それ≠ヘ逆再生のごとく再び起き上がり、女の首元にぎゅっと抱きついて笑った。女は初め、その感情のことを恐怖≠セと思った。おそろしい男に襲われ、文字通り喰われそうになった女は、首元に噛み付かれたときの恐怖が忘れられず、自身の屋敷の一室に籠りきりになった。食事もろくに喉を通らず痩せ細ってはやつれ、一生消えないとされた首の噛み跡が原因で婚約破棄に遭い、彼女は暗い部屋で絶望≠オていた。絶望≠ヘそんな女の周りを漂うように踊り、彼女が希望を求めて部屋の扉や窓のカーテンに手を伸ばそうとすれば、ひどく冷たいまなざしで彼女の手を叩き、自分の元に引き寄せて共に踊った。時折、窓の外を見せてやることもあったが、そこから見えるのはいつも、彼女の父親が死んだ母親のことも忘れ、愛人と仲睦まじく、堂々と庭園で逢引をしている場面ばかりだった。女の絶望≠ヘいつしか憤怒≠ノ変わる。憤怒≠ヘ女の横で足を踏み鳴らし、部屋の扉を蹴破っては、女の手を引いて彼女の父親が眠る部屋へと駆けて行く。女はベッドサイドの引き出しから父親の拳銃を取り出すと、憤怒≠ェ足を踏み鳴らしたのを合図に、まずは一発父親に撃ち込んだ。憤怒≠ェステップを踏みたびに、女は父親に向かって発砲した。そのたび、憤怒≠ェ舞うたび、女の中で命が軽くなる。彼女は部屋にあった父親のアイスピックを手にし、屋敷内にいる男の使用人だけを刺し殺してまわった。女の顔に笑みが浮かぶ。しかし瞬間、彼女は背後からキッチンナイフで刺されて床に倒れる。女が死ぬと共に、やはり憤怒≠燗|れた。
 女を刺したのは、この屋敷の見習い料理人の男だった。震える手からナイフが落ちるのと同時に、人を殺してしまった、という罪悪感≠ェ芽生える。死に絶えて横たわる女の横に、罪悪感≠ェしゃがみ込み、心底憐れそうに女を眺めた後、責めるような表情をして男のことを睨んだ。男は必死でかぶりを振った。自分のせいじゃない。自分のせいでは。彼の罪悪感≠ヘすぐに焦燥≠ノ変わり、焦燥≠ヘそんな彼の手を取って屋敷の中を走り出す。辺りに転がる死体を飛び越え、飛び越えるついでに楽しげに回転し、焦燥≠ヘ跳ねるように踊りながら屋敷の外を目指す。けれどもそんな男に、恐怖に怯えた使用人の女たちがまとわりつく。助けてほしいと懇願する女たちに、男は焦燥≠フ方を見た。そこに焦燥≠フ姿はなかった。代わりに、他の女と同じように自分にまとわりつく酩酊≠ェそこにいた。血の匂いと、辺りに満ちる凍るような冷気。ぬくもりと言えば目の前の女たちだけだった。人を殺したことでたかが外れてしまった男は女たちを手近な部屋へと連れ込み、腐敗していく屋敷の中で毎晩色欲≠ノ溺れた。色欲≠ヘ、男が女の一人に絞め殺されるまで、延々とベッドの上で跳ね踊っていた。男の首が絞まり、呼吸を剥奪されるほど、色欲≠烽ワたベッドの上でもがき苦しみ、最後には動かなくなった。
 失望≠フ気持ちのままに男を殺した女は、人が死ぬことに対してあまり恐怖も関心も抱かないようだった。よく寝たというふうにベッドから身を起こした失望≠ヘ、労るように彼女の肩を抱き、動かなくなった男のことを足先で蹴飛ばした。ため息を吐いた女は腐った屋敷内を歩き回り、ここから出て生きていくために目についた金目の物を手に取ろうとする。女の生存欲≠ェ、この屋敷の令嬢がかつて暮らしていた部屋へと彼女を導き、そこにある緑の宝石の美しい首飾りを指差した。それを月明かりに翳して、女はうっそり微笑んだ。それから生存欲≠フ方を見てにっこりとした。生存欲≠烽ワた笑みを返した。女と生存欲≠ヘ手を繋いで踊りながら、持てるだけの金品を持って、屋敷から出る。その頃には、女の生存欲≠ヘすでに強欲≠ニなっていた。女は金品を売り払って一資産築くと、一生遊んで暮らすことのできるそれだけでは飽き足らず、人を雇い、人の弱みを握り、肥えた人々からだけではなく、飢えた人々からも財産を絞れるだけ搾り取った。上質なソファに腰掛け、下界を見下ろす彼女の前で、強欲≠ヘ地面に頭を擦り付ける人々の背をステージに踊った。その祭りは、女が人々に報復を受け、処刑される日まで続いた。
 死刑執行人の男は、女が処刑される前に浮かべたあの猟奇的な笑みを忘れることができず、毎晩嫌悪感≠ノうなされた。嫌悪感≠ヘ眠ろうとする男の顔を覗き込んでは、何度も何度も、処刑前の女が浮かべたあの笑顔を浮かべてみせる。そのたびに男は跳ね起き、冷や汗を流してがたがたと震える。男はどこかで分かっていた。自分の嫌悪感≠ヘ、同族嫌悪≠フそれであると。自分の中にも、あの女と同じような猟奇的なものが存在している。同族嫌悪≠ェ嬉々として、くるりくるりと回転しながら、仕事道具である斧を男に渡してこようとした。けれども、男は理性的だった。彼は斧を受け取らず、毛布を被って同族嫌悪≠ゥら逃避≠オて再び眠りに落ちる。逃避≠ヘ少し拗ねたような表情をして、斧をその場に放り、男が眠るベッドに腰掛けた。そして翌日、男は身体中が鉛のごとく重たいことに気付いて、毛布から顔を出す。けれども、ぼやけた視界が鮮明になる前に、毛布を再び元の位置に戻されて、彼はまた眠りに落ちる。彼はもう仕事に行きたくない、と思った。誰も殺したくない。どこにも行きたくない。次の日も。その次の日も。逃避≠烽ワた、彼の隣で眠るが、すこぶる寝相の悪い逃避≠ノよって、男はベッドの外へと蹴り落とされる。そしてついに、彼は眠ったまま息絶えてしまった。その自分自身の怠惰≠フために。
 怠惰≠ノよって死した男は、元はといえば誠実で真っ直ぐな、死刑執行人という立場でありながらもたくさんの人々に愛されていた人間だった。そんな彼の葬儀にはたくさんの人間が参列したが、彼のことを慕っていた娘たちは影で彼の数少ない遺品の取り合いをしていた。愚かにも映る娘たちを悲しげに眺めていた女は、死刑執行人の男から贈られた一輪の花を押し花にして大切にしているような女だった。自分には一輪の花という男との思い出があるから、あの娘たちみたいに無理やりに思い出を作らなくてもいい。そう思い、女は男の葬儀を見届けたが、あるとき図書館でその心に不安≠ェよぎる。葬儀で遺品の取り合いをしていた娘の一人が、押し花で作られた栞を使っているのを目にしたのだ。いつの間にか隣の席に座っていた不安≠ヘ、我が物顔で栞を取り上げると、それを女の顔の前で振った。不安≠ヘ疑念≠ノ変わり、彼女は図書館を飛び出して花屋へと向かった。花屋で疑念≠ェ花びらをむしって辺りにばら撒き、その中で踊るごと、女の表情は翳っていく。死刑執行人の男は、この花屋でいつも花を買い、自分に挨拶をしてくれた者たちに花を一輪贈っていたのだ。誰にでも。どんな者にでも。女は疑念≠見た。疑念≠フ緑の瞳と目が合うと、彼女は無表情なままに家へと戻り、その夜、死刑執行人の墓を鈍器で打ち砕いた。それから、彼女は目の前でほのおのように揺らめいている嫉妬≠ゥら火を受け取ると、まずは花屋を燃やし、それから娘たちの家をすべて燃やしてまわった。嫉妬≠ニ共に火を纏いながら踊って、踊って、踊って、煙を吸いすぎた女はいつしか地面に頽れ、燃え広がる火の手に包まれた。
 倒れ、燃え尽きたように見えたそれ≠ヘ、しかし、また誰かの感情を糧に起き上がる。
 けれども、辺りに人の姿はなく、舞台の上はひたすらに無音、ひたすらに虚無であった。彼ないし彼女の足が動く。彼ないし彼女はゆっくりと、しかし迷いなく目的地へと向かっていく。そして、彼ないし彼女は銀橋を渡り、観客との距離が最も近くなるところで足を止めたのだった。彼ないし彼女は、息を呑んでいる観客たちをぐるりと見渡して、それから嘲りと恍惚の笑みを浮かべるのだ。その表情には、こんな言葉がありありと描かれている。まさか、自分たちには関係のないことだと思った? なんて傲慢≠ネこと!
 彼ないし彼女が楽しげに舞台を後にして、物語の幕は降りる。観客たちは思わず、自分の周りに彼ないし彼女がいるのではないか、と視線を走らせてしまう。それはもちろん、恐怖≠フために。
 だから、悪は死なない。


 『アンチ・コケティック』は、レイヴンともスワンとも受け取れるピーコックのナイチンゲール≠主役に据えた悪役主体の物語であり、学生が演じる限界を学園が通せる極限まで攻めた、暴力的かつ背徳的で淫靡な作品である。
 また、この舞台は声楽どころか台詞すら存在しない、完全非言語のノンバーバル舞台だ。歪な空間表現に無声の舞台。身体表現のクラス、クーデールの名に相応しい役者たちのダンスおよび身体動作による豊かな感情描写、キッチュでありながらどこか底知れぬ不気味さのある音楽と、目眩がした瞬間で止められたような舞台美術のみで徐々に伝播する闇と狂気と歓喜を見事に演出したこの舞台は、観劇した者たちを放心させ、それから震撼させた上、劇場から音を消し去った。ゆえに、公演後、夢見が悪くなった観客も決して少なくなかったらしい。この知らせに、脚本の原案者であるガーネットは大いに喜んだ。
 表題作は空間を用いた舞台の説得力や声での表現をまったく無視しており、更に言うなればそのタイトルからしても明らかにアトモスクラスの担任アンチック≠ニココリコ<Nラスの担任マドンナに喧嘩を売っている作品のため、冬公演のクラス優勝発表後、見事優勝を収めたクーデール担任のガーネットは怒り狂ったマドンナとココリコクラスの生徒ヴィオレッタに学園中を追いかけ回されたが、彼は舞台衣装のままのオリーブまで巻き込んで逃走を図り、学園内にはそんな彼の高笑いがこだまのように響き渡っていたという。生徒は大いに困惑した。
 尚、『アンチ・コケティック』とのタイトルを名付けたのは、「行くとこまで行っちゃおう!」と上機嫌でこの作品の脚本の執筆をしていたダリア・ダックブルーである。




劇中曲 / 一部抜粋


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Zombaby
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