不思議な夢を見た。
 雪が降っていた。夜はこれから深まり、より暗く、より大きくなろうとしていた。けれども街は、それよりも遥かに速く、急速に光を灯し、鈴の音が鳴る音楽と共に暗やみを追い払っていた。ジングルベル、ジングルベル。寒く、透き通った夜だった。明るく、冷たい夜だった。その日は、クリスマスの夜だった。
 自分の前には、明かりがある。後ろには、夜の青。どこかに腰掛けて、何かを見ている。どこにいるのかは、はっきりとはしなかった。ただあまり驚きはなかった。それは、唐突にどこかへ落とされ──或いは、飛ばされ──目の前が全く知らないものでいっぱいになる経験を、以前にもしたことがあるような気がしたからだった。いつだったか、そういう夢を見たのかもしれない。
 それにしても、ここは一体どこだというのだろう。舞台でも、家でも、ホテルでもない場所。そう疑問に思うのと同時に、緞帳が開かれるように、カーテンが開かれるように、曖昧だった目の前の景色が一瞬の光の後に鮮明になる。
 そして、頭痛にも似た目眩が一つ。こめかみの辺りでちかちかする光を片手で押さえながら顔を上げれば、そこには箱があった。いや、箱ではない。ならば、舞台装置? おそらく、それも違うだろう。部屋。そう、これは部屋だ。キッチン、ダイニングテーブル、椅子は三脚。その椅子の一つに、まだ幼く見える少年がちょこんと座っていた。
 目を見開く。指先にぴりりとした電流が走る。自分は、彼を知っていた。あの少年に会ったことはない。けれども、知っている。自分は彼を知っている。彼は──
「いち、」
 思わず唇の端から微かに言葉が洩れる。椅子の上でホールのショートケーキを目の前にしていた少年の瞳が、はっとこちらの方を見た。
 瞬間、すっかり姿を潜めていた風が突如として鳴り、雪を引き連れて部屋の中へと入り込む。驚きによってまんまるになってしまった少年の目は、全くその場を動けないといった様子で固まっている。冷えきった風と雪片をもろに受けた首の後ろが冷たい。ゆっくりと瞬きを一つした。それと一緒に、自分がいま少年の住むマンションの窓縁に腰掛けていることと、これが夢であることを理解し、自分自身に多少辟易する。
「──きっ、君はだれ!?」
 少年は椅子から飛び降りると、その背に隠れてそう叫ぶ。が、実際は叫ぶというほどではなく、少年特有のあの丸く高い声が叫び声に感じさせただけだろうと思えた。当たり前のことだが、彼は怯えているようだった。当然だ。誰だって、クリスマスの夜に知らない人間がいつの間にか家の中に入り込んでいたら怯えるに決まっている。聖夜にひとりぼっちな上、怖い思いをさせられてかわいそうな夢の中の少年。こんな夢を見るなんて、自分はなんて仕様がないやつなのだろう。
 とにかく、少年の質問に答えるほか道はない。彼の目を見るに少年にとって自分は今、不審者半分、魔法使い半分といったところらしい。その天秤をどちらかに傾かせるのは、自分にとっては容易なこと。ならば、警察沙汰になるよりは、絵本の中の住人になる方がよほどましだった。それに、せっかく今しがた魔法のように現れてみせたところなのだ。今夜はクリスマス。サンタクロースはよい子の子どもたちのために世界中を周っており、そして、目の前の少年は間違いなくよい子≠ネのだから。
 少年はじっとこちらを見ている。そっと微笑んでみせれば、彼は身体をびく、と震わせた後、それでもその身をすっかり椅子の後ろに引っ込めてしまうことはなく、視線をうろうろと彷徨わせた。そうして、こちらの頭の辺りや足回りを困ったふうに行ったり来たりしていた視線は、やがて再び瞳の方へと戻ってくる。目が合った。彼は逸らさなかった。怯えと好奇心が入り混じったまなざしで息を潜めている。瞳さえも、君は誰、と問うていた。
「リバー」
「リ、リバー……?」
「リバー・ムーン。今日は素敵な夜だね、イチヒコ」
「えっ!」
 突然、知りもしない相手に名前を呼ばれて、少年はびく、とその肩を震わせた。彼は椅子の背を命綱と言わんばかりに片手で掴みながら、恐る恐るこちらの方へと一歩だけ近付く。
「おっ、俺の名前だ……! 君は、俺のことを知ってるの? どこから来たの? 君はだれなの……」
 窓の外には雪の対価に分厚い雲が星空を覆い、月の姿どころかその光も朧だった。だから、代わりに自分の目をするりと細めてみる。人の瞳も、扱いようによっては三日月くらいには見えるのだ。自分は未だ窓の縁に座ったまま、少しだけ背後を振り返って夜の寒空を見上げる。はらはらと、真っ白な雪が暗やみに舞っていた。星が降るみたいにも見えるそれが視界に映った途端、言うべき言葉がすぐに分かった。だって、これはまさしく。
「──リバーだよ。サンタクロースの知り合いで、ピーター・パンの友だち。ピーター・パン、イチヒコは知ってるかな」
「し、知ってる! ネバーランドの……」
「そう、おまえは賢いね。さあ、最も幸せなもののことを思い浮かべてごらん。それは翼を持つことと同じことなんだ=v
 窓の外で、世界の秘密に気が付かない街に向かって妖精の粉が降り注いでいる。台詞を口ずさむと共に窓の向こうへと片手を伸ばしてみれば、指先に冷たい空気と触れた途端に見えなくなってしまう雪の感触があった。ピーター・パンならば、この小さな少年をふわりと浮かせて、空中散歩と洒落込むことだろう。少年にその気があるのなら、リバー・ムーンは彼を月面旅行に連れていくことも厭わないけれど。
 そんな発想は特にないらしい少年は、おずおずとこちらに近付き、目が合うとぴたりと動きを止めた後、気恥ずかしそうに口元をもにゅもにゅと動かしてはちょっとだけ俯いた。
「え、えへ……かしこい……そんなこと、初めて言われたよう」
「そう? だけど、おまえは本も映画も音楽も好きだろ。それって、大事なことだからな。世界は詩とリズムとチョコレートでできてる。それですべては表現できるんだ」
「信念と信頼と妖精の粉じゃなくて?」
「それはピーターの意見! ま、それも悪くないけどな」
 ふんと鼻を鳴らして言ってのければ、少年は戸惑いながらもくすりと笑った。彼は自分の命綱からそうっと手を離すと、こちらが窓の向こうに手を伸ばしたのが気になったのか、狭い歩幅で自分の目の前までやってくる。そうして、窓に腰掛けるこちらの隣で、夜をちらちらと白く染める雪を眺めた。
 ああ、もう、彼は紛れもなくイチゴだった。他人の空似でもなく、同名の別人でもなく、本物のイチゴ。イチヒコ。会ったこともない、出会えるはずのない幼少期のイチゴと、大人──普段より手足が短い気がするから、或いは見目は彼より幾つか年上なだけの子どもなのかもしれないが──の自分。これは夢だ。数度目の自覚をする。自分は夢に見たのだ。見ている。出会った頃から現在までの彼だけでは最早飽き足らず、幼い頃の彼さえも、その思い出や心や輪郭さえこの自分自身で上書きして、奪ってしまいたいとは心底醜い感情だ。そんなもの、言ったところで今さらだろうが。
 少年──イチゴは、両手を窓の縁に置いて、少しだけぼんやりとした様子だった。今よりも一本一本の髪が細く、更に柔らかそうな赤毛の癖毛が時折入り込む夜の風に揺れている。まだ幼い口元から流暢に紡がれる日本語と、赤みがかった白い肌、青い瞳は子どもの特権でどきりとするほど澄みきっていた。彼の視線を追う。眼下には建物の明かりと街灯に照らされる道路、少し向こうにはイルミネーションでぴかぴかと彩られた繁華街の光が見える。道を行く家族連れや恋人たちの足音は、ここまでは届かない。少年の長い睫毛が、その丸い頬に影を落としている。イチゴは舞う雪の向こう側にあるまばゆい光を見つめていた。
 一人きりの部屋。子どもには大きすぎるホールケーキ。言葉も音もチョコレートも存在しないクリスマス。こんな夜に、街の光を通して自分の孤独を眺める子どもがいるなんて! 
「えっと……リバーは、どうしてここに?」
 そして、気が付けば自分の指先は彼の頭へと向かい、その柔らかい髪の毛をゆっくりと撫でていた。イチゴはしばらくされるがままに撫でられていたが、しばらくするとはっとした様子でこちらを見、もじもじと自身の指先同士を突っつき合わせながら首を傾げ、そう問うた。
「ああ、サンタクロースに頼まれたからさ。ひとりぼっちでつまらないクリスマスを送っている子どものところへ行って、一緒に遊んでおやりなさいって」
「それで、俺のとこに……」
「ハックルベリー・フレンド。おまえはラッキーだぞ、イチヒコ。今から誰よりも楽しいクリスマスを送ることになるんだから」
 言いながら、窓縁から降りてダイニングの床へと両足を着ける。ついでにこれ見よがしなイルミネーションたちのパーティーが見える窓を閉めて、少年の頬を指先でなぞった。それが冷たかったのだろう、イチゴは片目を少し細めると、頬に触れているこちらの指をぎゅっと握って、電気や火の光とはまた違う、透き色の光をきらりと目の中に宿して笑った。
「すごい。俺のとこにはサンタさんじゃなくて、ピーター・パンが来たんだ……!」
「……の、友だち、な」
「ようこそ、ピーター・パンの友だちのリバー! ねえっ、ねえ? リバー、何して遊ぶ? そこは寒いよう、こっちに来て!」
「こら、そんな慌てなくたって逃げやしないっての」
 ぴょんと小さく跳ねて、イチゴはぐいぐいとこちらの腕を引っ張った。思ったより力が強い。不思議な出来事やおとぎ話を厭うことなく受け入れられる純真さ、感受性の豊かさはこの頃から健在のようだった。長所であるその性質は、ただ、こちらからすると多少心配なところもあるため、幾つか警告をしておくべきなのかもしれない。おとぎ話の住人は、決まって読み手に教訓を残すものであるのだし。たとえば、知らない人にはついていくべきではない。家に上げるべきではない。もしも上がられるようなことがあったら、その場合は一目散に逃げ出すこと。それから、トラック事故には気を付けて。
 そんなことを考えていれば、ふと視界の隅に大きくて白い、甘やかな物体が映り込む。ああ、そういえば。ぱたぱたと自分をどこかの部屋へと連れていこうとするイチゴの腕をとんとんと叩いて、彼の耳の後ろで片手の指をパチパチと鳴らした。
「……イチヒコ、ケーキは?」
「え?」
「食べようとしてたとこだったろ。食べないのか?」
「あっ、そ、そか……」
 こちらの言葉に、少年はケーキの存在をたった今思い出したという様子で、困ったふうな照れたふうな表情で痒くもなさそうな頬をぽり、と掻いた。彼は急遽目的地を変更すると、とことことダイニングテーブルの方へと向かい、その上に乗っている甘くてかわいい巨大なクリスマスの怪物を見上げる。
「へえ。ホールケーキ、一人でいくのか。中々殊勝……ダイタンなことをするな」
「ちっ、違うよう! 一切れだけ! 一日一切れなら、食べていいって言われてるから……」
「なあんだ。せっかくのクリスマスにたった一切れ? 減量中のボクサーだって三切れは食べるのに」
「でも、ほら。すっごく立派なケーキでしょ? リバーも食べる?」
 少年のことを持ち上げて椅子の上へ座らせてやると、彼は小皿の上に乗っている一切れのケーキを持ち上げて、こちらに向かって差し出した。たっぷりと白いクリームでめかし込んだスポンジに、つやつやと輝く真っ赤なストロベリー。彼一人でも取り分けられるよう、あらかじめ几帳面な切れ込みを入れられているホールケーキは、きっとイチゴの母が用意したものなのだろう。少年の魅力的な提案には緩くかぶりを振り、ケーキのてっぺんにいる赤い宝石は片手で摘まみ上げて、それから彼の口元に押し付けた。
「あはは。イチゴがキラキラしてる」
 少年はストロベリーをちょっとだけ不服そうな顔でもぐもぐやりながら、口の中でリバーに食べてほしかったのに、と籠もった声で言っている。クリスマスの主役はいつだって子どもだ。その主役が何を言っているのやら。丸い頬を更にまあるくしてストロベリーを頬張る姿がかわいくて喉の奥でくつりと笑えば、彼はフォークでショートケーキの一角を崩し、その貴重な欠片を再びこちらに差し出した。わくわくとしたまなざしで自分の方を見つめる少年に根負けして、差し出されたケーキを一口食べる。自分は真っ赤な宝石にも弱いが、彼だけがもつ青色の宝石にもめっぽう弱かった。
「今日、家族は仕事か」
「うん。でも、ケーキもあるし、プレゼントもちょっと前にもらったし……リバーも来てくれたから、もうちっとも寂しくないよう」
「そりゃ何より。プレゼント、何貰ったんだ?」
 ややあって、何口分もこちらに差し出しながらケーキ一切れをぺろりと平らげたイチゴは、椅子からぴょんと飛び降りると、とたた、とどこかへ走っていき、それから彼の身の丈よりも大きな長方形の平たい物体を抱えて戻ってきた。
「これ!」
「お、電子ピアノ! いいね、クールだ」
 率直にそう言えば、イチゴはんふふと口元を緩ませて誇らしげに笑った。彼から渡された
電子ピアノを受け取ってテーブルの上に置く。よい子の少年はといえば、箱に戻したホールケーキを冷蔵庫へ仕舞いながら、食べ終わった後の小皿をキッチンのシンクへと入れていた。それを眺めながら、なんとはなしにドの音を鳴らす。決して安物ではない。間もなく一段落付いたらしいイチゴが自分の方へと戻ってきて、両手を伸ばしてやれば彼は当然のようにこちらの膝の上に収まって座った。
「イチヒコ、ドレミはどこだ?」
「あっ、俺分かるよ! 勉強したんだあ」
 自信満々といった表情で、少年は右手の人差し指をドの上に置いた。ドレミファソラシド。真剣そのもので音を一つ一つ確かめていく横顔を突っついてやりたくなる気持ちを抑えて、彼の独奏を静かに聴いた。
「うん、完ぺきだな。偉いぞ」
「え、へへ……これくらいフツーだよう……」
「買うだけ買って、素敵なインテリアにするヤツもいるからさ。……それじゃ、イイコト教えてやるよ」
 すこぶる触り心地の好い頭を片手で撫でると、イチゴはどうにも恥ずかしいらしくちょっとだけ俯いてしまう。けれども、イイコト、という魔法の言葉には流石に抗えないようで、その視線がぱっとこちらを向いた瞬間を狙って、彼の手のひらにころんと小さな塊を落としてみせる。
「さ、イチヒコ。これなあんだ」
「……チョコレート?」
「お見事。じゃあ、この真っ赤なハートのチョコはどの音だと思う?」
「音?」
「そ。ドレミファソラシドで」
 イチゴはその髪色よりも真っ赤な包みのチョコレートをじい、と眺めて、少しばかり首を傾げる。そして、それから数呼吸ほど沈黙があった。少年の頭、或いは心の中では今、真っ赤なハートのチョコレートとドレミの音が複雑に絡み合って、明滅をくり返していることだろう。しばらく考えを巡らせていた彼は或る瞬間、ふと気付きを得たようにちらりとこちらの目を覗き込んだ。
「ド?」
「ド、ね。じゃあこれは?」
 イチゴが選び取った鍵盤の上に、先ほどのチョコレートを置く。それから疑問を浮かべる時間を与えずに、続けて彼の手の上にチョコレートを落とした。次は銀紙に包まれた星形のチョコレート。その後は一口サイズの板チョコだ。包みにはフランス人アーティストの美しい絵画が描かれている。
「うーんと、……ミ!」
「オーケー。板チョコの方は?」
「ソ……?」
「意外な発想だ。次はこいつ」
 そうして少年の手のひらへ次々にチョコレートを乗せていっては音を選び取らせ、銀紙の宝石たちで鍵盤のドレミファソラシドがいっぱいになった頃、イチゴはこれから何が起こるのかを期待してこちらを見やった。なんてことはない。これで空が飛べるようになるわけでも、ネバーランドへ行けるようになるわけでもなかった。ただ、そのために大事なことだ。空を飛ぶために、ネバーランドへ行くために、いつでも必要なこと。妖精の粉を使わずに、地面に足を着けたまま翼を得る方法。
 鍵盤に指を置く。イチゴがチョコレートから閃いた音を、選んだ順に弾いていく。不思議な音。くり返し、くり返し奏でる。その内に音はいつしか音楽となり、変わった組み合わせの音たちは驚くほど柔らかい輪郭を描きはじめた。片手は鍵盤を叩きながら、じいっとそのさまを見つめている少年の顔を覗き込む。彼の瞳がちか、と輝いてこちらを見た。
「ほら、曲ができた。これが言葉──詩とリズムとチョコレート、世界の簡単な秘密だよ」
 イチゴの片手を取り、自然と指差しの形になったそれを鍵盤の上に置く。まずはド。次はミ、それからソ……
 その後、イチゴ自身が自分の曲を覚えきると共に、彼の片手はひとりでに鍵盤の上を歩き出し、踊り出す。やさしいクリスマスの夜にぴったりな伴奏が耳に心地好く、それに引っ張られるようにこちらの手のひらも鍵盤の上に再び躍り出た。誰もが知っているクリスマスソングのボーカルラインを指先が自然と描き、それがイチゴの弾くチョコレートの歌と違和感も覚えないほど混じり合ったとき、自分の唇は無意識に開き、そこから歌が洩れ出して、それはすぐに溢れて止まなくなった。
 ジングルベル、ジングルベル。そうしてどれだけ歌っただろう。未だ音楽は鳴り止まず、詩は終わらず、チョコレートは甘い。自分のものよりも一回りも二回りも小さな指先が、忙しなく鍵盤の上を行き来している。イチゴは顔を上気させ、ほんの少しだけ息を切らしながら、それでもにこにことこちらを見上げて楽しげだった。窓から街並みを眺めていたときに落としていた影の気配は今ではすっかり消え失せて、そこに残っているのは世界でいちばん輝くぴかぴかの光だけ。
 そんな彼と目が合うのと同時に、浮上していた意識が身体の重さを思い出して降りてくる。歌はゆっくりと、最も美しい形で収束した。
「リバー」
「うん?」
「歌ってるときのリバー、きれいだねえ」
 そして、少年が演奏を終えて開口一番に発した言葉はこれだった。あまり予想をしていなかった言葉にぱち、と瞬きをするも、現在のイチゴの良くも悪くも正直でかわいらしい部分の源泉が見えて、少しだけ笑いが洩れた。そんなこちらの態度が本気にしてないように見えたのだろう。彼はちょっぴりむっとした表情をすると、ほんとだよう、とまだ小さな唇を尖らせていた。
「分かってるよ。……というか、おれはいつでも綺麗だろ?」
「そ、それはそうだけど……でも、目がすっごくきらきらしてるよう」
「目?」
「うん。えっとねえ、俺、リバーの目に似てるもの知ってるよ。……宝石! 名前は……ルビー……だったかなあ」
 そう言うと、イチゴはいつの間にか鍵盤の上から転がり落ちてしまったチョコレートたちの中から、真っ赤なハートのものを見つけ出して、得意げにこちらへと差し出す。その頭を撫でてやりながら、包みを剥がして中身を彼の口へと押し付けると、イチゴはケーキのときと同じく、リバーのなのに、ともごもご言い出した。ただ、次の瞬間にはもう、美味しい! とその目を輝かせていたけれど。
「イチヒコの目も宝石に似てる。サファイア」
「サファイア?」
「そう。ルビーの兄弟だよ」
「ほ、ほんと? そしたら俺、それがいいなあ」
 サファイアよりもよほど煌めく瞳が、より一層の輝きをきわめて自分の方を見上げた。そんな彼の瞼を撫でると、イチゴは鼻先をこちらの胸元に寄せて、その小さな両の手のひらをおずおずと背中に回してはブラウスをぎゅうと握り締める。自分はそんな少年の髪を指先で梳いた後、とんとん、と彼の薄い背中を叩く。
「……ねえ、リバー」
 イチゴは胸元から鼻先を離すと、少しばかり不安げな表情でこちらを見る。まなざしだけで返事をすれば、彼はチョコレートの入っていない口元をもぐもぐと動かして、
「来年も、俺のとこに来てくれる?」
 そう、小さな声で問いかけた。どうしようもないものが喉の奥からこみ上げてきて、唇が緩むのを感じた。なんだかずっと、ほんとうにずうっと都合の良い夢だった。
「はは、どうかな」
「な、なんだよう……」
「サンタの気が変わらないままで、おまえがまた寂しいクリスマスを過ごしてるなら来てやりたいけどね。でも、おれも大人になるかもしれないしなあ」
「え? でも、ネバーランドの住人は大人にはならないんじゃ……」
 首を傾げるイチゴへ、微かにかぶりを振る。なんとなく窓の方へ視線を向ければ、雪は未だ暗やみの中に舞い、その妖精の粉はまるでこの世界の時をいちばん楽しい夜で止めてしまっているようだった。
「おれも大人になるのを受け入れようと思ったんだ。ウェンディみたいにさ」
 ぎゅうっと更に強い力で服を掴まれたのを感じる。幼い少年は、何を悟ったのか瞳に水の膜を張ってこちらを見つめていた。瞬きをしたところからこぼれ落ちてしまいそうなそれを指先で拭ってやりながら、頭を撫でる。少し笑ってみせれば、イチゴも無理してちょっとだけ笑った。
「また会えるよ。おまえにはおれが見えるんだから」
「他の人には、リバーが見えないの? 子どもだから、俺には君が見えるの? だったら、俺……」
「それはだめ」
「え?」
 最後まで言葉が紡がれる前に、イチゴの唇へ指先を当てる。彼のまあるい目は瞬きもなく驚きに見開かれ、半ば呆然としていた。
「だめだよ、イチゴ」
 言って、自分は彼の唇にくっつけていた指を滑らせて、その額をとん、と押した。少年の身体が多少傾いて背後のテーブルに当たる。そこに散らばっていたたくさんのチョコレートの幾つかが床に落ちて、耳に入らないほど軽い音を立てていた。
「ちゃあんと、子ども部屋を出ておれを見付けてくれなくちゃ。おまえには秘密を教えたんだから」
「……見付けられるかな?」
「ダイジョブ。迷子になったら、妖精の粉を使って月に集合。チョコレート工場前ね」
「大人になっても空を飛べるの?」
 その問いかけに指を鳴らす。自然に細めた視界は、ただ目の前の少年だけを捉えていた。
「いいや。そのときは子どもに戻るのさ」
「子どもに?」
「何にでもなれるんだよ。世界の秘密を知っていればな」
「リバーはどこにいるの?」
 少年は困ったふうに首を傾げた。そんなこと、きっと訊かなくても彼は自分を見付けるだろう。けれど、こんな夜だ。ジングルベル、ジングルベル。寒く、透き通った夜だ。明るく、冷たい夜だ。今日は、クリスマスの夜だった。その夜に、おれはリバー・ムーンだった。サンタクロースの知り合いで、ピーター・パンの友だち。おとぎ話の住人。そして、おとぎ話の住人は、決まって読み手に道しるべを示すもの。もちろん、クリスマスなのだからプレゼントも添えて! 
 彼の前にばらばらと無数のチョコレートが降り注ぐ。窓の外の妖精の粉に負けないほど多く、負けないほど煌めき、負けないほど甘く。それから彼へと笑い声を洩らす代わりに、目の前の鍵盤を叩いた。いずれ世界中だけでなく、月でのクリスマスでも流れるだろう、チョコレート・クリスマスソングを。
「もちろん。世界でいちばん詩とリズムとチョコレートが集まるところさ」



「あ、リバティ」
 うっすらと瞼を上げたのは、朝を知らせるなんとも穏やかな香りが鼻先の方まで漂ってきたからだった。甘く焦げたみたいな香り。これはイチゴが淹れるコーヒーの香りだ。目の前にあるふかふかとした毛布をぎゅっと握って、暖かなシーツをちょっとだけ蹴る。視界が滲んでいてよく見えないが、ベッドにイチゴが腰掛けているのは分かった。どうせ朝一番からあの薫り高い真っ黒なインクを口にしているのだろう。欠伸を噛み殺す。彼の大きな手のひらが、こちらの頭をゆっくり撫でていた。
「リバティ。……起きた?」
「ん、……ん……?」
「朝ごはんできてるよう。ハムエッグトースト」
「いいね……二人で天空の城にでも行くか……」
 むにゃむにゃと口の中だけでそう言えば、彼はこちらの頬をつん、とつつきながら、でもあの城崩れるよう、などと言って仕方なさそうに笑っていた。そんなイチゴに、崩れても空が飛べるからダイジョブ、と反射的に返すと、彼はいつものように眉をちょっとだけ下げて、寝惚けてるなあ、と肩をすくめる。
「リバティ、寝ながら笑ってたよう。良い夢見た?」
「良い夢?」
 言われて、少しばかり身体を起こす。未だ離れがたい毛布は身体に巻き付けたまま、彼の言葉にぼんやりと思考を巡らすが、正直何か夢を見ていたこともたった今言われるまで忘れていたくらいだ。なんだっけ。良い夢? イチゴに言われたからかもしれないが、たぶん、そうだった気がする。自分にとって、寝ながら笑いが洩れるほど素敵な夢?
「あー……なんかチョコレート、食べてたような……」
「ええ? 夢の中でもチョコレート? ふふっ、それはちょっと食べ過ぎ!」
「なんだよ。おまえだって朝からチョコ食べて──」
「これは特別だよう。俺のお気に入りなんだから……」
 はた、とする。ベッドサイドの小皿に置かれているチョコレートは、イチゴが好きでよく食べているメーカーのものだ。包みが真っ赤なハート型をしたもの。銀紙の星形チョコレート。小さな板チョコは、包装紙にフランス人画家の美しい絵が描かれている。他にもたくさんの小さなチョコレートたち。自分は一体、何に気が付いたというのだろう? これまで何度も見てきた光景だ。そして、これからも何度だって見ていく光景だ。頭の中で、聴いたこともない音がけれども懐かしく響き、クリスマスでもないのに、何故だかクリスマスソングが歌いたくなった。彼はマグカップからコーヒーを一口啜り、チョコレートの赤い包みを剥ぐ。
「ほら、リバティ?」
 彼の宝石みたいな青い目がこちらを見、口元にチョコレートが押し付けられる。それを誘われるままに含みながら、けれど、頭の中ではピーター・パンでのこんな台詞が何度も響いていた。ウェンディたちの父親が、空飛ぶ船に向かって発したあの言葉が。
 不思議だ、前に見たことがある! ずっと昔、小さい頃に=c…



 Strawberry Vanilla Sherbet
 20210103 執筆

 …special thanks
 王城一彦 @橋さん

- ナノ -