サンタマリアじゃ歌えない


 新しい月が生まれる、その前の夜のことだった。
 寝室を扉を開けたとき、彼は世界でいちばん甘い菓子の色をした黒髪を少しだけ揺らして、大きな窓から夜風を招き入れているところだった。今日の風はぬるく、部屋の中は空気を入れ換えても尚、ぼんやりと暑い。それは、ひどく静かな夜だった。そして、きっと何より、歌の必要な夜だった。
 窓の前に立つ、未だ少年にも青年にも見える黒髪の男の薄い胸は、静かに上下している。彼は、呼吸をしていた。だから、足を止めた。だから、それを目にした、かつて青年だったことがある赤髪の男は、部屋に足を踏み入れたまま動きを止め、言葉も発さずに相手のことを見つめたのだった。
 彼は、相手の喉からきっと、今も歌が紡がれると信じていたから。
 けれど、それでも、歌はなかった。
 黒髪は窓を閉め、そうしてゆっくりと寝台の上に腰掛ける。彼は未だ赤髪の姿には気が付いていないのか、その長い睫毛をそっと伏せ、自身の瞳を何か透明なもので輝かせていた。それは美しいが、痛みのあるものだった。音を立てずに割れた、硝子の破片にも似たものだった。
 そして、そんな黒髪の両手の上に、彼の肌よりも更に白い光が乗っている。それは美しい、痛みのないものだった。その正体が知りたくて赤髪が一歩を踏み出せば、黒髪ははっとして顔を上げ、それから相手の方を振り向いた。
「イチゴ……」
「リバティ、それは……」
 それは、真白のベールだった。
 二人の愛のために彼を包み、二人の幸福のためにその役目を終えた、誓いの日のベール。黒髪は、自分の姿とベールを交互に見やっている相手に向かってほんの少しだけ頷くと、
「結婚した日のこと、想い出してたんだ」
 傷だらけの声でそう言って、けれどもまるでこの世界には悲しいことなど一つもないといった様子でひどくやさしく微笑んでみせた。赤髪はそんな彼の笑み方にほんの少しだけ眉を下げ、それから黒髪の座っているそのすぐ隣に自身も腰掛け、そうして口角をそっと持ち上げる。
「……結婚した日の、どんなこと?」
「そりゃあ、忘れたくないことだよ」
「リバティ、結婚式のとき、ちょっと泣いてたねえ」
「それは。だって、嬉しかったからさ……」
 唇を尖らせ、なんとなく不服そうに発した黒髪の頭を、相手に比べて一回りも二回りも大きな赤髪の手のひらが柔らかく撫でる。そんな赤髪の体温がじんわりと伝って、心なしか安堵した表情を浮かべた黒髪は、手の中のベールをきゅうと握り、先のきらきらと光る睫毛を静かに伏せて微笑んだ。
「……今も、嬉しいんだ」
 そうして呟くように続けられた彼の言葉に、赤髪は自身の青い瞳を細め、そのあたたかい海を飼う目の中へただひとりの姿を映し、小さく頷いた。
「俺もだよう。俺も、嬉しい……」
 それは、ひどくやさしい顔だった。震えて灯るろうそくの火のようにあたたかく、そして、脆い、泣き出しそうな笑み。けれども、涙を落としやすい赤髪の硝子玉から水滴が零れることはなく、そのさまに黒髪は、どこか仕方なさげに笑っていた。
「安上がりだな、おれたちは」
「それでも嬉しいよ。ほんとに、嬉しい」
「うん、そうだね」
 黒髪はそれと分からないほどに淡く頷くと、澄みきったままに昏い水の中でもそこがいっとう気分が好いのだというふうに微笑み、少しだけ照れた顔で赤髪の方を見て眉尻を下げていた。
 赤髪の手が相手の頭を離れ、そうして黒髪の手の上に重なる。彼は黒髪の左薬指に輝く銀色を柔くなぞり、それから慈しむように手の甲を撫でた。その行為は、祈りの姿にも似ていた。黒髪の手は白く細く、そして小さく、少年時代と変わりがないように見え、けれども薄くなった皮の向こうには、骨の形が透けて見えている。冬の風に晒された肌と思えるほど冷たい彼の身体の内側には、赤髪の瞳よりも分かり易く、消え入りそうな火が灯っていた。だから、赤髪は体温を分け与えた。黒髪のほのおが一秒でも永く灯ることを信じて、信じることをやめられないまま、自身の体温を相手へと明け渡していた。
 そして、どちらからともなく目が合う。月明かりのない夜では、ベッドサイドの明かりだけが彼らを照らしている。黒髪のもつ赤い瞳と、赤髪のもつ青い瞳が闇の中で混ざり合い、彼らの目の中には紫色の光がうっすらと浮かび上がっていた。そのちょうど真下、黒髪の膝の上では白いベールが静かに光り輝き、それを目にした赤髪は、言葉もなくベールを両手で掬い上げる。黒髪は、切なげに首を振った。それでも赤髪はひどく丁寧な手つきで相手の頭にベールをかぶせると、
「──リバティ、綺麗だね」
 照れたふうにそう言って、いつかの青年のように微笑んだ。いま黒髪は、相手によってかけられた純白によってすべてから守られ、ベールの下で仕様がなさげに、それでいてまるで少女のように首を傾げて笑っている。
「はは。それが三十路過ぎた男に言う台詞か?」
「うん。……リバティは、いつも綺麗だ」
 真っ直ぐに返されたその言葉に、黒髪は眉を下げてくすりとした。木苺と小さな花を模した刺繍が施された薄い幕の向こうで、彼の赤い目がきらきらと光っている。赤髪はあの日みたいに少し緊張した指先で、けれども笑みを隠しきれないままベールを持ち上げ、相手の瞳をじっと見つめた。黒髪の視線が、戸惑いながら彷徨う。彼は迷った様子で寂しそうに口角を上げると、自身の口元を片手で覆って、またゆるりとかぶりを振った。
 そんな相手の表情に、赤髪はもう慣れたふうに困り顔で笑むと、その耳元で黒髪が最も安心する言葉を一つ吐く。彼は、それから口元を押さえている黒髪の片手をするりと取って、自分の片手で包み込んでしまった。そうしてしまえば、ゆらゆらと泳いでいた黒髪の視線が赤髪の目の方へと戻ってくる。ややあって、観念したように唇をきゅっと引き結んだ相手に、赤髪は息を吐いてそうっと微笑むと、目の前の小さな唇に温度だけの口づけを落とした。それは、周りの音がすべて消えるほどに優しいものだった。
 その行いに、黒髪の白かった肌に少しばかり生気が戻る。赤髪は、そんな彼の薄く開かれた唇の間から更に熱を送ろうかとも考えたが、今や自分の唾液すら毒だと思っている相手がわあと泣き出してしまうのが目に見えたので、もう一度だけ触れ合うだけの口づけを落とした後、ゆっくりと自身の顔を黒髪から離した。ぽたりと水滴が、二人の隙間に落ちる。どちらのものかは分からなかった。
 そして、それからしばらくの間、彼らの間に言葉はなかった。
 二人は隣り合って寝台に腰掛けたまま、ただ手を繋ぎ合っていた。彼らを不安にさせる時計の針はここにはなく、時を進めるのは二人の呼吸のみだった。黒髪の手には、力は入っていない。赤髪はもう、どこへでも行けるはずだった。けれど、彼はどこへも行こうとはせず、何かずうっと遠くを見つめたままの黒髪の手の甲を、自身の指先でこしょこしょと擽る。その感覚に黒髪はぱち、と瞬きをすると、ようやく赤髪の方を向いて小首を傾げた。
「……リバティ。寝てなくて平気?」
 口火を切るのは、やはりどうしても赤髪だった。そんな彼のゆったりとした問いかけに黒髪は、ああ、と小さく頷いて、その赤い目を音もなく細める。
「今日は、なんだか調子がいいんだ。どこも痛くなくってさ」
「そっかあ。よかった……」
「でも少し肌寒いから、横にだけなっておくよ」
「うん。それがいいよう」
 するりと繋がった手をほどいて、黒髪は白いシーツの上へ仰向けで沈んだ。赤髪は相手の頭に未だ飾られたままの純白を取り払おうとはせず、また黒髪も、相手にその純白を外してくれと頼むことはなかった。
 暗がりの中で、白い海にチョコレートブラックがはらりと流れ、赤髪は目の前の額に静かな口づけを与える。それはさながら、そこに未だ温度が存在することを確かめているようでもあった。沈黙は呼吸を妨げずに寝室の中を漂い、黒髪は自身の腹の上で両手を組み合わせる。赤髪は、相手の長い睫毛をそうっとなぞり、それからほとんど瞬きもせずに黒髪のことを見つめていた。
「……イチゴ?」
「ん……?」
「どうしたんだ、黙りこくって」
「ああ……あはは、なんでもないよう。少し、ぼうっとしてただけ」
 言いながら彼は、何かを考えるふうに、或いは考えたことを言葉にするために、ほんの微かな時間だけ窓の向こうの空を見やった。珍しく雲の去った雨上がりの夜空は深い青に澄み、けれども星が美しく見えるほど地上の明かりは少なくない。そうして再び赤髪が視線を相手の方へと戻すと、軽く目を瞑っていた黒髪はそれが合図のように睫毛を上げ、赤髪へ向かって淡く微笑む。ベッドサイドの明かりに照らされて柔らかい色に輝いている黒髪の瞳に、人は死んだら星になるらしいという言い伝えを、赤髪はぼんやりと思い出していた。
「──リバティ」
「うん」
「七日だけ、待っててねえ」
「七日? うん」
 突然にも聞こえる相手の言葉に黒髪は反射的に頷き、しかしその七日という数字にはたとして、なんとなく諦めた様子で首を緩く振った。
「……ああ、でも、だめだ。おれ、きっとあと七日も生きられないよ。明日が来るかも分からないのに」
「明日は来るよ、リバティ」
「そう、かなあ」
「うん。だいじょうぶだよう、だいじょうぶ……」
 いつでも黒髪のことを安堵させる、相手のその魔法の呪文を聞きながら、彼は少し笑んで自身の目を細めた。それから赤髪の手のひらが、包み込むように黒髪の頭を撫でる。そうしてもらうのが、黒髪は毛布にくるまるよりも好きだった。そうしてもらうだけで、或るときには彼の中に在る言葉にできない重たい不安が、今では患った喉のために全身に広がる痛みが、ほろほろと甘いクッキーよりも柔らかく崩れていくのだった。黒髪の中でたったいま痛むのはただ、溢れそうなものを堪える目頭だけであった。
「イチゴ」
 そう相手の名を呼ぶ黒髪がもつ赤い瞳の表面が、薄く膜を張って輝いていた。
「うん」
「この前の公演、どうだった?」
「最高だったよ」
「今までいちばん?」
 枕に頭を預けたまま、黒髪は視線ばかりで首を傾げる。そのさまがまるで褒められるのを待つ子どものようで、赤髪は相手の頬にそっと手を伸ばし、呼吸と共に小さく笑んだ。
「いっつもそうだよう。君は世界一、格好良かった」
 化粧をせずとも未だ皺の目立たない白磁の肌に、しかし唯一それと分かる目尻の笑い皺。黒髪の両目の端に控えめに刻まれたそのしるしを、赤髪の指が柔らかく撫でる。目元を滑る感触に、黒髪はくすぐったそうに赤色を細めると、彼自身もまた片手を相手へと伸ばして、赤髪のふんわりとした癖毛を指先で遊んでいた。
「イチゴ。おれの舞台、楽しかった?」
「もちろん。宇宙でいちばん」
 相手のそんな真っ直ぐな即答と、見る方向が決して震えないまなざしに、黒髪は皺を撫でられるよりもくすぐったさを感じて、堪えきれずにくすりと笑った。
「うん。おれも楽しかった。ありがとう、イチゴ。おまえのおかげだよ」
「まさか。リバティが頑張ったからだよ」
「おれが頑張るのは当然だろ」
「だったら、俺が頑張るのもトーゼン」
 そう言って口角を上げる赤髪の青い瞳が、悪戯っぽい光にちかりと瞬いた。その笑い方がなんだか少し自分に似ている気がして、ああ、時間が経ったんだな、と黒髪は思った。枯れかけた喉の奥から音が出たがって、未だこんなに熱いなんて。
「ふ、ふふ……」
「リバティ?」
「可笑しいんだ、おれたち。今までずうっと、こんなやり取りばっかして」
 黒髪がくつくつと喉を鳴らして笑う様子は、さながら悪戯な少年そのものだった。
 一週間と数日前、引退ではなく最終と銘打って行われた公演の幕引きを終えた後、彼は老いるというよりは、むしろ子どもの頃に巻き戻ったような素振りをこうして時折見せた。或いはずっと、赤髪の前ではそうだったかもしれない。両の目尻に笑い皺を刻んだ、少年のようで少女のような、大人のようで子どものような、化粧も着飾ることも、演じることも踊ることもできなくなってしまった細い糸のような彼は、それでも赤髪にとって、永遠に美しい唯一の光であった。人であった。伴侶であった。
 そうして赤髪は自分の髪で遊んでいる指先を見、目の前で楽しげに笑っている唯一を視界に映すと、愛おしげな溜め息混じりにその目元を和らげた。
「……だってそれは、リバティが中々折れてくれないから」
「まさか。おまえのせいだろ」
「ええ? でも、リバティはさあ、ちょっと優しすぎるんだよ。いつも俺のことばっかり考えて、自分のことは後回しなんだもん」
「そっくりそのままお返しするよ」
 皮肉っぽく口角を上げて、黒髪は相手のこめかみを指先でほんのちょっとだけ押した。それから、彼の瞼が震える。瞬きは、相手に聞こえるだけの音を立てた。
「リバティ」
「うん」
「泣いてるの?」
「笑ってるんだよ」
「今、何を考えてるの?」
 黒髪が再び、ゆっくりと瞬きをした。シェードランプの明かりに、睫毛の先が光っている。きっと、明かりを消しても光っていただろう。彼は赤髪の問いかけに目を瞑り、自身の腹で両手を組み合わせると、
「イチゴがひとりぼっちになりませんように」
 ひっそりと息を吐きながら、ただそれだけを言った。その言葉に赤髪は微かな笑みを浮かべ、眉間にそれと同じくらいの皺を寄せる。
「……ほら、また」
「嘘だよ」
「え?」
「──イチゴとずっと、一緒にいられたらいいのになって、そう思ってた。おれはいつも、自分のことばっかだよ」
 そう言って黒髪は、秘密ごとを分け合うときの囁き声で笑いを洩らす。祈りの手はほどかれる。彼の両手が赤髪の方へと伸び、少しだけ震える手のひらが、相手の輪郭を密やかに確かめた。
 その指先が、赤髪の唇についた毒をそっと拭う。けれども赤髪はそんな手のひらを自分の手で握り込んでしまうと、黒髪の唇へと向かい、凍えてしまいそうなそこへとまた口づけをした。何度も。何度も。何度も。
「……俺だって、そうだよう」
 赤髪は睫毛同士がくっついてしまうほどの距離でそう呟き、それから困ったふうに眉尻を下げて口角を上げる、あのいつもの笑みを浮かべた。それを眺める黒髪の頬は濡れている。夜は未だ明けず、彼はきらきらと輝く睫毛を上げて、赤髪の瞼をやさしく撫でた。
「イチゴ」
「ん……」
「泣かないでね」
「リバティ。……リバティ」
「ここにいるよ」
 きし、と寝台のスプリングが鳴った。赤髪は相手の背中に片手を差し込んでは、彼のその丸い頭を撫で、薄い肩に額を押し当てる。声は滲んでいた。ほんとうはずっとそうだったのかもしれない。それがどうしても悲しくてやるせなく、黒髪はただ少し笑むと、赤髪の頭をそうっと撫で返していた。
「リバティ。ずっと、一緒だよ。俺たち、ずうっと……」
「……でも、おれはもうすぐ死ぬよ」
「関係ないよう、一緒だよ」
 赤髪が相手を抱く力がぎゅうと強くなり、けれどもそれはすぐに緩められる。黒髪の両目からぽたりと涙が零れ落ちて、赤髪の背中を少しばかり濡らした。黒髪の身体を、大きくあたたかい手が撫でる。自分の背が冷たい理由など、赤髪には見なくとも分かった。
 彼の身体が一切の食べ物を受け入れなくなって数日。遅々としてしか食べられないために、冷め切ってしまった料理を美味しいね、と言って笑った彼の掠れた声。それを自分の見えないところですべて戻していた彼の息づかいと、見られていたことに気が付いた彼の顔。奪われたではなく、まるで、いちばんたいせつにしていた宝物を自分自身で壊してしまったような目を一瞬して、こちらを見ながら、ごめんなさい、と力なく笑うあの顔。それからは来る日も来る日も白湯ばかりを口にして、未練が残らなくてちょうどいいや、なんて彼は笑って、また笑って、笑って。
「……おまえはさ、まだ若いし。おれに縛られる必要はないんだよ。イチゴは、世界一素敵な人だ。おれが永遠に保証してやる。だから、きっとまた愛せる人が──」
「もういいよ、リバティ」
 さながらずっと練習してきた台詞を諳んじるみたいに、薄い身体で淀みなく言葉を紡いで微笑む黒髪へ、しかし赤髪は静かにその首を振った。
「そんなの、もういいよう。いいの。リバティ、もう、俺に嘘吐くのやめてよ……」
 そう乞いながら唇を震わせて、赤髪は眉間にほんのちょっとだけ皺を刻んだ。それから困り顔で眉を下げ、相手を安心させるよう微笑む。黒髪の瞳の中で白い光が揺れ、彼は少し詰まった呼吸をすると、ゆるゆると視線を彷徨わせた後、観念したふうな瞬きを一つした。
「……ごめん」
「謝るのも、やだよう」
「おまえ、ワガママなヤツだな」
「まさか、知らなかったわけじゃないでしょ?」
「知らなかったよ」
「嘘だあ」
 そうして、彼らは笑った。二人の頬は明かりに照って輝いていた。それもなんだか可笑しくて、また笑う。だって、まだここには二人分の呼吸が残ったままなのに。彼らは似たような速度で息を吸って吐く。朝を追い払うみたいに、暗がりの中で互いの目の中に在る星だけを見る。鼓動の音だけが、命を繋ぐ力強さだけが、その二人の似すぎた心臓だけが、今、別々の音を打っていた。
「イチゴ」
「うん、なあに……? 言ってみて。なんでもしてあげるから」
 つと、そう相手の名前を呼んだ黒髪は、赤髪のその返事の仕方に大げさだな、と目を三日月の形にして笑んだ。はあ、と息を吐く。そんな彼の呼吸の輪郭が少し震えていた。
「今日、寒いね」
「……うん、そうだねえ。きっと、窓を開けてたから余計だよう。毛布、足りない? もっと持ってくる?」
「ダイジョブ。でも、……手を、握っててほしい」
「なあんだ」
 相手の腕をさすりながら、赤髪はふっと微笑んだ。彼は黒髪の胸元にある毛布を、その肩がすっぽり隠れるようにかけ直して、
「そんなこと、いくらでも」
 ひどくやさしい色の目でそう言った。まるで、子どものかわいらしい悪癖を指摘する、仕方のなさそうな柔らかい瞳で。
「……あったかいなあ、おまえの手……」
 片手を握ってもらえた黒髪は心地よさげに目を細め、それだからきっと思わず、自分の頬で赤髪の手の甲をすり、と撫でた。赤髪は余った方の指先で相手の瞼から額をなぞり、目にかかってしまいそうな前髪を除けてやった。その黒髪からは微かなチョコレートの香りと、彼本来の体温のにおいがする。
「リバティの手も、あったかいよう」
 言って、赤髪は繋いでいる手に少しだけ力を込めた。黒髪の唇が薄く呼吸をし、その目は部屋の隅っこに溜まる暗やみを視界に映していた。
「死んだら、どうなるんだろう。怖いとこに行くのは嫌だな」
「だいじょうぶ。絶対、行かないよ」
「昔見てた、夢みたいな……」
「怖い夢はもう見ないよう、リバティ。俺がずっと、そばにいるんだから」
 確かめさせるようそう囁いて、赤髪は相手の塩辛い目尻へ口づけを落とす。そうしてみれば、黒髪の赤い瞳の表面に今いっぱいの安心と苦悩が浮かび上がり、それらはみるみる内に溢れ出して、彼のこめかみを冷たく濡らしだした。
「……おまえのこと、憶えてたいなあ」
「うん」
「みんな、全部、憶えてたい。忘れるのは、もう、やだよ……」
「うん、だいじょうぶ。だいじょうぶだよう、リバティ」
 譫言めいていた黒髪の視線がゆっくりと赤髪の方へと戻り、それよりも遅い瞬きがそのたびに黒髪自身の睫毛を、頬を、こめかみを、枕を濡らしていた。水だけが流れる涙に音はなく、声のない部屋は痛いほどに静かだった。夜の闇は、呼吸さえも溶かしていた。だから、二人はきっと、互いが同じものを同時に欲したのだった。
「イチゴ」
「うん」
「歌、うたいたい、な」
「うん。歌って」
「でも、声。もうこんなだし」
 黒髪の歌いたいという言葉を、いつ、どんなときだって赤髪は肯定し続ける。今日も、今も、それは変わらない相手に、黒髪は小さく息を洩らして笑った。会話を交わしたために、より掠れて嗄れた声で黒髪は笑ったのだった。さながら冗談を言うときの表情を浮かべていた彼は、頷いた赤髪に視線だけでかぶりを振り、困ったふうに自分の喉を触る。
 しかし、それでも尚、赤髪は黒髪へと向かって頷き、その親指で相手の頬を淡く撫でていた。
「リバティは、リバティだよう」
「……そうかな」
「そうだよ」
「そっか」
「うん」
 赤髪の言葉に、それから黒髪は、舞台に上がるときの呼吸を行おうとし、けれどもそれがどうしても苦しくて、繋いでいる片手にぎゅうと力を込めた。楽な息を一つ吸う。楽な息を一つ吐く。彼にとってその呼吸は、赤髪の前でだけ行える、最も身軽で、最も特別なものだった。無数の細い糸のようなしがらみの一切合切を脱ぎ捨てることができる、唯一の。
 そして彼は、その呼吸のまま、喉から歌を吐き出した。絞り出すのではなく、歌は勝手に黒髪の喉から洩れ出し、溢れ出して、赤髪の耳へと細く、微かに、けれども確かに向かっていった。掠れた声は決して綺麗なものではなく、嗄れた息にはかつての神秘性は宿っていない。それでも歌は彼の喉から未だ生まれ、ただ一人、聴かせたい人の元へと続いていく。黒髪が紡ぎ出したのは、星の名を問う歌だった。愛しい子をやさしい夢に誘う、誰もが知っている子守唄だった。そしてそれは、黒髪が緊張や不安を感じているとき、舞台袖で自分の心を和らげるためにいつもうたう歌。二人が恋人同士になった夜にも、彼が口ずさんでいた歌だった。
 彼が歌ったのは、汚れたことのある者にしか歌えず、汚れたことのある者にしか聞こえない、小さなちいさな歌だった。
「……ああ……声、ぜんぜん出せないや」
「そんなことないよ。ちゃんと聴こえてる」
「そっか。……よかった」
 聴こえていると言った赤髪の声に、嘘はなかった。彼にとって黒髪の歌うそれだけが、他に世界中をひっくり返してもみつからない、たった一つの永遠に穢れない歌であり、しるべであり、恐ろしい夜を振り払うためのほのおであった。
 黒髪は、これまで舞台に命を賭していた。そして今はただ、歌に心を預けている。彼は笑った。まるで寝起きのような顔で。その目が赤髪の方を見ていた。夕暮れの赤に、青い夜の海が滲んでいた。
「リバティ」
「ん」
「手、あったかいねえ」
 きっと、その言葉にも嘘はなかった。そんな相手の言い様に、黒髪は繋がれている片手の方をちらと見てから、少しだけ呆れたみたいに口角を上げる。
「おまえの手のせいだよ」
 黒髪が笑んで、静かに瞬きをした。未だきらきらと光る相手の瞳に、赤髪は愛おしげに目を細めると、指を絡め合いながらその手に力を込めたり、また緩めたりをくり返す。そうしてみれば──それよりももっと弱い力だったが──黒髪も同じことをくり返して、赤髪の唇からそっと息が洩れ出した。
「リバティ。なんだか、小さかった頃みたいだね」
「あはは。まるで小さかったおれを知ってるみたいだな」
「ううん。……なんとなく」
「なにそれ。カワイイヤツだな……」
「ふふ、それはリバティだろ」
 今、世界中を見渡しても、こんなくだらない小競り合いをしているのは自分たちだけだろう。それが分かっていて尚、赤髪は空いている手で黒髪の頬を突っつき、黒髪は相手の前髪を指先でくるくると弄くった。そうしてまた、二人は笑った。それは呼吸をする速度で。二人きり、目を閉じずに眠るように。
「……ねえ、イチゴ」
「うん」
「七日あったらさあ、世界がつくれるな」
「リバティなら、簡単だよう」
 その言葉で、黒髪の目が三日月の形をとって、星の光にちかりと煌めいた。その輝きは、赤髪にだけ聞こえる合図だった。黒髪は、相手の輪郭を指でなぞる。赤髪は、いま目の前で光る、ちょっとした悪戯の計画を練る子どもの目を見るたびに、まるで彼と百年来の再会を果たしたような気分になるのだ。或いは、彼のことを百年見続けてきたような。
「どんな世界にする?」
 そう発した黒髪の声で、大きな紙が彼らだけに見える色で寝台の上に広がった。気が付けば、彼の手にはきらきらと光る硝子のペンが握られている。赤髪は相手の指からそのペンを受け取ると、二人の間に広がる真っ新な紙に一つの風景を描いてみせた。大劇場、洋服店、アクセサリーショップ、洋菓子店、ふかふかのベッド。それはきっと、ほんの少しだけ不格好な縁取りで。
「リバティ。君が世界一、楽しいって思える世界がいい」
「……愛があって素敵だけれど、それじゃあだめね」
「え?」
 くすりと笑ってからそう言って、彼は赤髪の手からするりと硝子のペンと抜き取った。それから赤髪が描いた世界にいくつかの彩り──楽器店、CDショップ、大きな家具屋、キッチン道具専門店、どこまでも自由に走ってゆける高速道路──を加えると、そうして最後に赤髪が描いたベッドの周りを壁で囲んで、一軒の小さな家を建てた。
「──おれと、イチゴが。世界一楽しいって思える世界じゃなきゃ」
 黒髪は悪戯っぽく目を細めたまま、パチ、と指先を鳴らす。それさえも、赤髪の前では言葉となった。
「……うん。うん、そうだね」
 赤髪は頷いて、相手のことを見つめながらに微笑んだ。そんな彼に黒髪は満足げに頷いて、赤髪の柔いストロベリー色の睫毛を撫で、その目尻をそっと拭う。
「イチゴ」
「うん」
「大好きだよ、愛してるよ。……あんまり、言わなくてごめん」
「だいじょうぶ、分かってるよう。俺も……俺も、リバティのこと、大好きだよ。愛してる……」
 二人は見つめ合い、同時に瞬きをし、またまなざしを溶け合わせる。胸の裏側から切なく湧き上がる感覚に、思わず黒髪は寝台から身を起こす。起こそうとした。力が入らなくて、起こせなかった。だから、彼はまだかろうじて動く腕をゆるゆると動かして赤髪の頬を撫でると、それから不意に相手の襟元を掴んで、自分の方へとぐい、と引き寄せた。二人の唇がぶつかり合い、互いの歯がかち、と音を立てる。
 離れてしまってから、どうせなら唇が切れれば良かったのに、と黒髪は思う。
 きっと彼は、自分の口から垂れる血を舐めてくれるから。ほんとうはこの毒を飲んでほしかった。ずっと。そんなこと、一生言えないけれど。たぶん、その一生ももう終わるけれど。言えない。言えないから、息を吸った。綺麗な言葉も、もうきっと吐けないのに。自分の言葉を聞いたら、彼は必ず泣き出しそうな顔で笑うのに。なのに。
「おれ、ひとりでも我慢できるよ」
「……しなくていいよう」
「でもきっと、寂しくて泣いちゃうな」
「うん。絶対そうだよう。リバティは泣き虫さんだもん」
 そうして、予想通りに困った表情で眉を下げて笑う相手に、黒髪は自分自身の目尻こそ熱いものが溜まってしまうのだということに今さら気が付いて、息を吐きながら唇を微かに震わせた。ああ。ああ、ああ。黒髪の視界の中で、赤髪の姿が水に溶けたみたいに滲む。それなのに、彼の姿が光って見えるものだから、朝になってしまったのだと、もうじき自分には彼の姿が見えなくなるのだと、その悲しみに黒髪はその睫毛を何度も瞬かせた。
 けれど、ふと、あたたかな指先が目尻を拭い、頭を撫でる。繋いでいる手に力が込められた。黒髪は目を開ける。今度ははっきりと赤髪の姿が見えた。そのやさしい青色も。自分はまだ、ここにいられるのだ。黒髪は安堵の息を吐き、頬を濡らしたまま微笑んだ。ここにいられるのに。
「おまえがおれ以外の人のこと、好きになったらどうしよう」
「ならないよ、絶対」
「どうかな。人の心は移ろいますからね」
「……怒るよう?」
 眉間に皺を寄せ、らしくもない言葉でそう首を傾げる相手に、あはは、と黒髪はちょっとだけ声を上げて笑った。そうして枕に頭を沈めたまま、甘えるふうに彼は頷く。
「うん。時々叱って」
「それがいちばん、難しいんだよう……」
「ふふ、ばかだなあ、イチゴは」
「……好きなくせに」
「ああ、好きだよ。大好きだ」
 薄い自分の呼吸よりもたいせつそうに、黒髪はそう歌った。歌みたいな声だった。心そのものみたいな言葉だった。
「泣かないでよう、リバティ」
「笑ってるんだってば」
「寒くない?」
「うん、あったかいよ」
「よかった」
 冷たさも寒さも、黒髪の前にはもうなかった。ただ彼にとっては繋がれている手のひらが、凍える冬の暖炉よりもあたたかくて心地好く、目の前のやさしい輪郭だけがこの世界のすべてだった。
「サボテン、もうすぐ花が咲きそうだね」
「きっと、明日には咲くよ」
「イチゴに大事に育ててもらったんだ。立派な花が咲くだろうな」
「一緒に見ようねえ」
「うん」
 花は何色だっけ、と黒髪が言えば、赤だよ、と赤髪は答え、その言葉に彼はそうだっけね、と呟いた。青じゃあなかったかな。彼の目みたいないっとう美しい青。少しだけ目を瞑る。サボテンの小さな鉢を抱えて微笑む相手の姿が瞼の裏に浮かんで、ああ、きっと花の色は白だよ、と唇が勝手に紡ぎ出した。おまえにいちばん似合う色。相手の喉が鳴る音が聞こえる。きっと、笑っているのだろう。笑っていてほしいな。
「……あ、イチゴ」
「ん?」
「見て。月がまんまるで、綺麗だよ」
 そして、ふと、黒髪の小さな唇が嬉しそうに弧を描いた。彼は窓辺の方を動かない片手で指差して、赤髪に向かって微笑む。黒髪は、言葉を待っていた。赤髪には、何を言うべきかが分かっていた。悲しいほど、分かっていた。だから。
「……何色?」
「黄色。おまえのオムライスの色」
 記憶をそっと抱いて、黒髪はそう笑った。目を閉じたまま、彼は月の方を見ていた。
「ああ、……ほんとだあ。美味しそう、だねえ」
「パンケーキかな。いや、でもやっぱりオムライスだ」
「それじゃあ、明日の朝ごはんはオムライスにしよっか」
「うん。……楽しみだなあ」
 赤髪は唇を少し震わせながら、それでも笑って──前にも、こんなことがあったような気がするなあと呟きながら、笑って、ベールをつけたままの黒髪の頭を撫でていた。
「ケチャップで絵を描いてあげるねえ。ほら、あれ。リバティの好きなやつ」
「……キャンディの絵?」
「チョウチョだよう」
「そうだっけ?」
「あれ、そう言われると逆な気もしてきたなあ」
 そう赤髪が言葉ごと首を傾げれば、黒髪はようやく薄目を開け、それからまた瞼を閉じてくすくすと笑ってみせる。ややあって、パチ、とその指先が鳴らされた。動きもないままに、それは赤髪にだけ聞こえる音で鳴ったのだった。
「なら、どっちもってことにしよう」
「うん。それがいいよう」
「ああ、楽しみにしてる」
 ほんの微かに頷いて、黒髪は自身の睫毛を震わせる。そうして薄く唇が開き、そこから柔らかく、安心しきった呼吸の音が洩れ出した。柔く上下する黒髪の胸を、その静かな動きを見やりながら、赤髪は相手の頭を、髪を、眉を瞼を目尻を、頬を、小さな顔を、確かめるようにそっとなぞっていた。
「……リバティ、眠たいの?」
「うん。あったかくて……」
「やっぱり、そうだと思ったよう」
「ねえ……イチゴは、痛くない?」
「え?」
 気が付けば、いま黒髪ははっきりと両目を開いて、ただ真っ直ぐに赤髪の方を見つめていた。そのさまに思わず赤髪は片手で目を擦る。指先が濡れた。黒髪は、そんな相手の様子を見やって、心配そうなまなざしと共に問いかける。
「どこも、痛くない? 夜は……怖くない?」
「……痛くないよ。怖くない。だって、リバティが一緒だから」
 そうでしょ、と赤髪が微笑んでみせれば、彼はほっとしたふうに息を吐いて、 
「おれも、ずっとそうだった。おまえがいたから……」
 彼は笑った。ただ、愛する人を目の前にして、赤髪以外彼を彼だと分からない、誰でもない平凡な笑顔で、彼はただ笑ってみせたのだった。取るに足らない、ただの人として。いま。
「……イチゴも、もう寝る? おまえも眠たいんだろ」
「あは、バレてた? うん、寝るよ。リバティが眠ったらね」
「おまえはいつもそうだな」
「いつも、そうしたいんだよう。分かるでしょ?」
 黒髪は目を瞑った。その目元には隈もなく、唇は弧を描いている。彼は細く息を吸って、吐いていた。夜はまだ明けないから、彼が寒がらないようにと、赤髪は再び黒髪の頭をそうっと撫でる。その笑顔よりやさしい手つきで、何度も。
「リバティ、きっと明日も晴れるよ。サボテンも咲く」
「うん……」
「楽しい、一日になるよ」
「うん」
「だから、だいじょうぶだよう」
「ん……」
 きっと、この部屋の中で朝を待っているのは、窓辺のサボテンだけだった。
「……おやすみ、リバティ」
「おやすみなさい、イチゴ……」
「また、明日ね」
「──うん。また、明日」
 二人は笑い合い、それから眠った。夜を越えるために手を繋いでいることを、彼らの国では眠りと呼んでいた。
 翌日、目を開けたまま眠った赤髪は、窓から差す朝陽に、約束通り晴れた空と咲いたサボテンに、いつも通りに黒髪の名前を呼んだ。返事はなかった。そうして彼は席を立ち、二人分の朝食を作り、そのケチャップで絵を描いたオムライスをベッドサイドに置いて、また名前を呼んだ。返事はなかった。少し離れていた間に、陶器のようになってしまった黒髪とまた手を繋いで、ぬくもりを与えて、名前を呼んだ。返事はなかった。髪に触れた。微かなチョコレートの香りと、相手のにおいがした。名前を呼んだ。返事はなかった。空は晴れていた。サボテンも咲いた。オムライスは温かかった。
 彼は眠る花嫁に、そっと口づけを落とした。
 それでも、その睫毛は震えなかった。だから、彼は名前を呼んだ。返事はなかった。
 返事は、なかった。
 ぱたり、と水滴が一粒落ちる。
 けれど今日も、誰かが歌をうたうだろう。舞台の上、広場の階段、明かりが灯る家の、その向こうで。
 誰がなくとも、彼がなくとも、歌は永遠に、続いていくのだから。



 Strawberry Vanilla
 20200917 執筆

 …special thanks
 王城一彦 @橋さん




- ナノ -