ルビーの靴

 思えば、わたしはこの人の手が好きだった。
 いつから好きだったのかは、もう想い出せない。それは名の分からない病に蝕まれた、虚弱な海馬のためではなく。ただ、時間が経ったからだった。その手に心を預けていなかった頃を想い出せないほど、時が過ぎたためであった。
 彼の手は大きく、あたたかく、そして美しかった。
 不思議なものだ。それは、それだけは、どうしてか彼の手に触れる前から分かっていたような気さえする。人々──盲いたこの国の住人ではなく──はかつて、自分の手にはたびたび呼吸が、命が吹き込まれていると称えたものであったが、けれど、果たして。そう、自分のこれには、完ぺきな役者であった頃の指先には、確かに命が宿っていたことだろう。そんなのは、至極当然のことだ。役者として一つの命を演じているのだから、そこにはやはり一つの命がかたちづくられていなければならない。そしてそれは、頭から描き出された誰かの心の元からつくられたものだ。しかし、彼の手には、この人の手には。
 彼の手は、いつもやさしかった。まだ崩れ落ちていない自分の歌を聴き終え、その手を鳴らすとき、すごいねと微笑んで柔らかく頭を撫でてくれるとき、眠らないと意固地になった自分の背をそうっと叩くとき、ホットミルクに少し辛い──名前が思い出せない──すり下ろしを入れて、自分のためにマドラーでかき混ぜてくれるとき、バスタブに満たされた湯の温度を確かめるとき、素足を労るように洗ってくれるとき、新しい靴を履かせてくれるとき、タマゴを割るときでさえ、虫食いになった自分の歌を聴くときでさえ、こちらが死んだふりを決め込んだときでさえ、彼の手はやさしかった。やさしすぎた。それは自分にとって、ぬるい絶望にも似ていた。
 彼の手は、いつもやさしい。哀しくなるほどに。自分には彼の手こそ、命同然のものだと思えた。別の言葉に言い換えるならばきっと、それは彼の心そのものだった。描かれたものでも、つくられたものでもなく、生まれたままの彼の心。ひどくやさしく、あたたかく、美しいものだ。おのれのことしか頭にない自分とはかけ離れた存在。異なる命。繋いでいるのに、掴めない手のひら。
「──バニティ?」
 名を呼ばれて、睫毛を上げる。彼の声がゆっくりと身体に染み渡って、それと同時に柔らかい水の音がした。ピアノチェアの上に座る自分の前に膝を突いている彼の瞳の青と目が合う。彼は不思議そうに首を傾げて、こちらを見ていた。
「どうしたのう、バニティ。眠たい?」
「ううん……」
 清潔な白いタオルが、自分の濡れた足をやさしく包んでいく。銀色の桶に満たされたぬるま湯が、照明の光を受けて橙に揺らめいていた。水の色は、青ではない。柔らかい手つきでこちらの足の指の間までをタオルで拭っている、彼の目をもう一度見る。彼の瞳の色は、きっと特別だった。ここではない、別の場所に在る空の色。或いは、名前の想い出せない、あの美しく広大な、湖にも似た──
「バニティの足は、白くて綺麗だねえ」
 彼の声に、思考が途切れる。その声は水の波紋さながらに心の中に広がっていく。視線を下げて、自分の足を見た。白く小さな、傷のない足。それでさえ、まるで自分のものではないような気がする。舞台稽古で擦り切れ、痣だらけの、爪の欠けた自分の美しくはないあのつま先はどこへ消えたのだろう。ほろほろと崩れる記憶と引き替えるふうに綺麗なままのつま先。ちょっとの傷なら、次の日には跡形もなくなっている足。
 瞬きを一つする。記憶さえ、思い通りにはできないのだ。ならば、身体だって同じこと。何もかも、自分のものではない。無限の人生を舞台の上で描いた代償に、自分の人生を歩めなくなった。そう思えば、少しは救われる。違う。そう思わなければ、息ができなくなるのだ。呼吸を潜める。彼が息を吸う音が聞こえた。
「あのね。俺、バニティに似合いそうな靴を見付けたんだあ」
 その言葉に、心臓が膨らんでどきりと鳴った。それからにこにこと笑んでいる彼の顔を見て、ほんとう、と目を細める。背後に隠していた靴の化粧箱をそろそろと取り出し、蓋を開け、中身を取り出そうとしている彼の手はまるで、ガラスの靴を触るようだった。彼はやさしい。手も、声も、目も、まなざしも、呼吸も、すべて。やさしいという言葉に輪郭を持たせたならば、おそらく彼のかたちを描くだろうと思えるほど。
 自分の視線に気が付いたのか、蓋を取り外す途中で彼はこちらを見、顔を綻ばせる。家族の名前を忘れてしまった薄情な自分にこんなことを思う資格はないのかもしれないが、言わば彼は家族みたいな人だった。家族みたいに、自分に接する人。兄みたいな人。出会った頃からあれこれと世話を焼き、ことあるごとに頭を撫で、恐ろしい夜には同じベッドで眠ってくれる少し過保護な兄。だから、妹のふりをしている。ちょっぴりわがままな妹の役。腐っても世界最高と謳われ、自負していた役者だ。その役を演るのはひどく容易なことだった。同時に、今まで演じてきたどんな役よりも痛かった。身体が傷付かない代わりに、心臓を握り潰さなければならないから。
 明かりに照る彼の目は、ぬるま湯の水面よりずっと綺麗だ。こちらを見て笑んでいる彼に微笑み返して、ピアノチェアの上で素足をぶらぶらと揺らした。
「トロベリー。わたしね、じつは、どこにでも行ける魔法を知ってるかもしれない。想い出したんだ」
「えっ?」
「靴。靴を一足、使う魔法なの」
 知っていたことを唐突に想い出したような感覚だった。そこに引き出しがあったことを、ずっと気付かずに忘れていたような感覚。突如としてその取っ手の存在に気が付いたのはきっと、今日口にしたアリスのクッキーのためだろう。いつからだろう、誰かの命を引き替えに自分の記憶を取り戻すことに罪悪感を覚えなくなったのは。暗い喜びがそれよりも勝るようになったのは。彼が開けかけた化粧箱の蓋から指先を少し離した。
「バニティ。それは、どんな靴を使う魔法?」
「赤だよ」
 こちらを見て、そう問いかけた彼に答えを返す。そうしてみれば、彼の目尻がほっとしたふうに下がって、そのさまがかわいらしくて、自分は気付かれないようにちょっとだけ笑みを零した。どうしてか、彼の選んできたであろう靴の色が今日はありありと分かる。
「赤い靴」
 けれど、言ってしまってから、銀の靴だったかもしれない、と思う。いや、きっと赤だ。赤だったはず。彼はこちらの言葉を聞くと、安堵を通り越してちょっぴり悪戯っぽい笑みを口元に浮かべ、今度こそ化粧箱の蓋を取り払った。
 そこでは真っ赤な靴が一足、照明の色にも染まることなくつやつやと輝いていた。彼はクッションに包まれたそのパンプスを丁寧に中から取り出すと、それを手のひらの上に乗せて、目を細めて嬉しげにこちらへと差し出してみせる。エナメル質のパンプスの中心に飾られたリボンだけが唯一スパンコールで形づくられ、常にぴかぴかと光を反射していた。
 彼の手からその赤い靴を受け取り、靴底を眺め、傷一つない表面を撫でる。かわいいね。素敵だね。ありがとう。そんなかしましい心臓を蹴飛ばして自分から吐き出された言葉はたった一つ、履かせてみせて、という甘えた言葉だけ。彼は笑った。それから文句も言わず、嬉しそうに赤い靴を自分の両足に履かせてくれる。ガラスの靴を、履かせるみたいに。
「トロベリー。さっきの、試してみるから」
「うん?」
「手を繋いでいて。ほんとに帰れちゃったら大変だから。おまえもわたしと一緒がいいでしょ」
 言って、彼に向かって片手を差し出した。彼のそれと比べて一回りも二回りも小さく見える自分の手を、彼は柔く笑んで掴み取る。何物も傷付けたくはない彼の手が、こちらの手のひらの中で緩く熱をもっていた。振りほどこうとすればいつでも払えるような手の繋ぎ方。だから、せめてとそこに力を込めた。
 彼の手をぎゅうと握り締めたまま、ピアノチェアから立ち上がる。履かせてもらった赤いパンプスのヒールが、床の上でコツ、と小気味よい音を立て、スパンコールのリボンは天井の明かりに忙しなく煌めいた。視線を感じて隣を見やれば、同じく立ち上がった彼はこちらをじっと見つめており、目が合うとその青を細めてこくりと頷いてみせる。そのさまに口角を上げて応えたのち、そっと息を吸う。舞台に立つ前と、おんなじやり方をした。
 それから、かかとを三回鳴らす。
「──やっぱり、お家がいちばん=v
 トントントン。鳴らしたかかとの音が耳の中で残響となって、侘しくくり返されている。まあ、こんなものだ。いつもと同じだ。そう、さして期待もしていなかったはずなのに、普段よりも落胆が大きいのは、彼からもらったこの靴があんまりかわいらしくて、今にも魔法にかけられそうなものだったからだろうか。無音の空間で、彼の顔色を窺った。困ったような笑みを浮かべてこちらを見ている。そんな彼の表情に、口の中だけでごめんなさい、と呟いた。そうして、同じ唇から溜め息を吐き出す。
「……なんてね。これ、好きな映画のワンシーンなの」
 ひらりと片手を振り、再び椅子の上に座って両脚を投げ出した。口の形をへの字に曲げている自分の顔を見て、彼は困り顔のまま、こちらにそうっと片手を伸ばす。いつも通りに頭を撫でてくれるその大きな手に身を預けながら、少しだけ俯いた。失望を溶かすやさしい手と、耳鳴りみたいな鼓動の音に唇がわななくのを感じる。膝の上で片手を握り締めて溜め息を演じれば、彼は呼吸するように静かに笑った。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。いつかバニティだけの、お家に帰れる魔法が見付かるよう」
「見付からなかったら?」
 視線を上げて、呟く。ゆっくりとこちらの頭を撫でながら紡がれる、彼のやさしい言葉たちの前で吐き出された自分の言葉は、それでもひどく意地の悪い音をしていた。彼の手が止まる。自分の方を見ている青色の瞳が、ぱち、と瞬きをしていた。
「もし、見付からなかったら?」
 喉の奥が、そう意地悪をくり返す。上げた視線をまた落として、彼と繋いだままの手をじっと見つめた。答えなんて出せるわけがない。それはつまり、ただ、帰れないだけなのだから。やさしい人。彼はこちらの傷付くであろう言葉を発することはできない。それから少しの間、自分の手を握っている細くて美しい指先を眺めた。彼が今、どんな表情をしているのかは見なかった。そして、ようやく睫毛を上げる。
「そ、そしたら……」
 彼の顔を見て、冗談だよ、と笑いかけようとした自分の声より早く、彼は自身の口を動かした。
「そしたら、歩いて帰ろ……!」
「え?」
 そんな予想もしていなかった彼の言葉に、思わず呆けた返事にもならない返事をして、瞬きをした。視線で首を傾げる。歩いて帰る? そんなことが可能なのだろうか。それからふと、繋いだ手に力を込められた。彼は、眉尻を下げてこちらを見ている。少しだけ手が熱かった。
「バニティの家まで、一緒に歩いて帰ろう……?」
「……一緒に、歩いて?」
「うん。俺、はぐれないように、ずっとバニティと手を繋いでるよ。だから……」
 発された言葉をおうむ返しすれば、彼はこくこくと頷いて、なんとなく必死な様子で繋いでいない方の手のひらを開いて閉じるをくり返す。そのさまに、喉に熱いものがせり上がってきて、それは鼻腔を通って目尻の方までやってきた。一緒に歩いて帰ろう。馬鹿の一つ覚えさながらに耳の中で言葉がくり返される。くり返す。歩いて帰るだなんて、そんなことができるはずもないのに、彼が言うとなんだかほんとうにできるような気がするから可笑しいのだ。喉を鳴らす。可笑しいということにしなければ、目尻に溜まった涙を拭う理由が作れないから。
「ふ、ふふ……」
「だ、だめ?」
 指先で目尻を拭って、不安げにこちらを見ている彼に向かってゆるゆるとかぶりを振った。椅子の上で片膝を抱えて、彼の瞳を見る。光が浮かんで、足元のスパンコールよりきらきらと輝いていた。綺麗だった。
「ううん……それがいいよ。じゃあ、約束ね、トロベリー」
 笑ったふりをしてそう言えば、彼は心底安堵した表情を浮かべ、ちょっぴり息を吐いて微笑んだ。それから、目の前に片手の小指が差し出される。その意味が分かるようで分からなくて、けれど、何故だかそこに自分の指を絡めるのが正しい気がしたから、きゅ、と小指同士を繋いだ。それから笑った彼の顔は、相変わらずやさしかった。この世界の何よりも。
「──バニティ!」
 名を呼ばれて、睫毛を上げる。
 割れた石畳を蹴るヒールが、忙しなく高い音を立てていた。強い力で腕を引かれながら、ただひたすらに駆ける。辺りに視線を走らせれば、あちこちに食べかけの菓子が落ちているのが見えた。キャンディ、チョコレート、クッキー。お茶会途中で倒されたガーデンチェア。粉々になったカップとソーサー。地面に落ちた造花が、踏み拉かれて枯れている。人影はない。普段ぺちゃくちゃとうるさい、あの喋る花たちも見当たらない。鳴り止まないパレードの音も今は絶え、サーカスのテントはぺちゃんこに潰れていた。けれど、あれほど嫌悪していたこの国が着々と崩壊していくさまを目に映しても、喜びは胸を満たさなかった。恐怖と焦燥。いま心臓を鳴らすのはただそれだけだった。
 彼はこちらの腕を掴んで、自分の前を走っている。
 突如としてこの小さな国に落ちてきた一人のアリスは、同じく突如として自ら刃物を持ち、それを思うままに振り回した。そうして目に付く他のアリスだけでなく、この国の住人までもをひたすら刺し、刺し刺し刺し、そうして刺した相手を菓子に変え、恐るべき速さでそれらを暴食してまわった。まわっている。目の前に瓦礫。彼の手を借りて、向こう側へと降りた。アリスの暴飲暴食によって、この国のほとんどは食い荒らされ、崩れ落ちてしまった。辺りに散らばるのは口に合わなかった菓子や、食べかすばかりである。今、どれほどの住人がこの国に五体満足で残っているだろう? 分からないが、数がごくごく僅かなのは自明だった。彼は瓦礫を乗り越え、再びこちらの腕を掴んで走り出す。自分たちは運良く未だ生き残っているが、それでも一体どこへ向かおうとしているのか。
 彼はぼろぼろの道を外れて、茂みの中に飛び込んだ。歪な木々が立ち並ぶ森の中、ぐねぐねと折れ曲がる獣道をそのまま肉食獣に追われる兎さながらに駆けていく。切った風と共に、前を走る彼の荒い息づかいが聞こえた。顔や服に引っ掛かる枝葉を無理やりに引き剥がしながら、彼が導くままにとにかく足を動かす。森は暗く、自分たちは子どもだった。履いているパンプスのスパンコールばかりが、足元で唯一光っていた。
 そうして転がるようにして、自分たちはようやく辿り着く。森の中で他に比べて少しばかり拓けたそこには、一面に白い花が咲いていた。風はない。ただ、ある種無彩色にも思えるその場所の中心で、何かがちかりと輝いた気がして、自分は無意識に足を進めようとする。けれど、それよりも早く、こちらの腕を掴んだままの彼が、ぐい、と腕を引いてその光の在り処へと向かった。
「手鏡……?」
 花を踏み拉き、向かった先には一つの小さな手鏡が、頼りない光を反射して地面に落ちていた。目に映ったものをそのまま問いかけとして口から発すれば、息を整えていた隣の彼が唾を飲み込んで、眉間に皺を寄せながらこくりと頷く。
「あのアリスの、落とし物……だと思う。今朝、白ウサギが一匹この中に入るのを見たから、もしかしてって思って……」
「こ、こんなもので……?」
「これで元々バニティがいた世界に戻れるかどうかは、分からない。でも、とにかく……今はここから離れないと、バニティ」
 言って、彼はこちらの背をとん、と軽く押した。その押し方に、そのやさしい手のひらに、はっとして目を見開く。思わず振り向き、彼の瞳を見やった。彼は不思議そうに首を傾げて、こちらを安心させるように笑んでいた。汗で額に張り付いたストロベリーとミントブルーの髪の毛の下で、青い目が輝いていた。綺麗だった。体内の血が逆流して、沸騰する。それからすぐに冷えきって、血が青ざめるのを感じた。彼が自分と一緒に帰る気がないのは明白だった。ゆっくりと瞬きをする。身体が熱い。それでいて寒い。燃え尽きて、灰にでもなった気分だ。彼はそのやさしさのために、自分と一緒には帰ることができない。ならば。
「──手を繋いでいて、トロベリー」
「え?」
「約束。一緒に帰るんでしょ? せーので同時に飛び込もう」
 それから、彼に向かって片手を差し出した。そうしてみれば、彼は普段と同じ困り顔の笑みでその手のひらとこちらの顔を交互に見やり、ゆるゆると視線を彷徨わせたのちに曖昧に頷く。
「うん。もちろん……」
 そう発した彼はこちらの手を掴もうと、片手をそっと自分の方へと伸ばした。きっと手を繋いだところで、同時に一歩を踏み出す気もないだろうに。ああ、綺麗な手。思えばずっと、彼の手が好きだった。この人のことが好きだった。いつからそうだったのかも想い出せないほど、ずっと、好きだった。大きく、あたたかく、そして美しい彼の心。それは、わたしの命同然だった。未練が残るから、彼の目は見なかった。けれど、こちらへ向かう指先のことは、瞬きをせずに見つめていた。何もかもがゆっくりに見えた。そんな手から逃れるために、一歩身を引く。
 それから、彼の唇が疑問符を呟くよりもずっと早く、彼の背を思いきり蹴飛ばした。
 その衝撃を全く予想もしていなかったのだろう、彼は声も発せないままに一歩前によろめいた。鏡の上へと、足を踏み出したのだ。そうして瞬く間もなく、彼の姿が夢幻さながらに霧散した。まるで、今までのすべてが幻想だというように、呆気なく。
 息を吐く。吐いて、吸った。辺りはしん、と静まりかえっている。
 狂おしいほどの静けさの前に落ちている手鏡を、上からぼうっと眺めた。鏡は何物も映さずに、無言を貫いている。頭が空っぽになるのを感じながら、けれどもう何もないことだけは分かった。もうこの国のどこにも彼はいない。一切の価値がなくなった世界。どうでもいい。この自分ごと、好きに壊れればいい。
 彼はこんな国に残って、何を成すつもりだったのだろう。その答えは簡単だ。自分のような他の住人やアリスがいたらそれを助けようとしたのだろうし、その挙げ句に自分が命を失うことになっても構わなかったのだろう。彼はそういう人だ。そして彼は賢い人だ。或いは、こう思ったのではないだろうか。この手鏡の中に、あのアリス≠ェ入ってきたらどうなるのだろう、と。彼とわたし、二人で手鏡に飛び込んだ後に、あのアリスが同じく鏡の中に飛び込んだら?
 喉の奥から笑い声が洩れた。彼はこのわたしを騙し果せると思ったのだろうか。彼のことばかりを見ていたこのわたしを? なんてかわいい人。やさしい人! 笑わなければならない魔法をかけられ、孤独だった彼が、けらけらと笑っていた理由が今ならほんの少しだけ分かる気がした。だってもう、笑うしかないじゃあないか。つまるところ、わたしは彼が一歩を踏み出す理由になることができなかったのだから! 彼はわたしのトクベツで、けれどわたしは彼のなんだろう? 最早知るすべもない。知りたくもなかった。
 彼のくれた赤い靴を脱ぐ。魔法の靴。彼がくれたものはすべて、彼がくれたというだけで総じて魔法の品だった。脱いだ靴を手のひらに乗せ、こびり付いた泥をブラウスの袖で拭えば、つるりとした美しいエナメルの赤が蘇る。手鏡の朧な光より、リボンのスパンコールが放つ光の方がよっぽど魔法らしかった。まばゆさに目を細める。それから、靴から手を離した。赤い靴は、鏡の表面にコツ、と当たると思われる前に、跡形もなく消え去った。
 これがあれば見付けてくれるかな。そう思った次の瞬間に、自分の脳みその溶け具合にまた可笑しみがこみ上げてきた。自分はここで死ぬというのに、彼には永遠に会えないというのに、見付けてくれるかなだなんて! きっとあの赤い靴は階段の上に転がり落ち、それを拾った彼は自分を助けてくれたわたしではない誰かを探し、海辺で美しい人と出会い、靴はその人の足にぴったりで、十二時を迎えても魔法は永遠に溶けず、悲しみは生まれず、誰も泡にはならず、毒林檎も食べず、焼けた鉄板の上で踊ることもない。恐ろしい夜はもう二度と来ない。だいじょうぶだよ。彼の口癖を舌の上で転がして、手鏡を地面の上から拾い上げた。おまえの悪夢は全部、わたしがここで壊してあげるから。
「あは……ッ」
 きっと、ここに残ったなら彼もこうしただろう。掴んだ手鏡を、近くの木の幹へと力任せに叩き、叩き叩き叩き、叩き付けた。ガラスの破片が飛び散って、指先や頬が切れる感触がする。鏡よ鏡よ鏡さん。世界でいちばん美しい人はどこにもいないから、もうあなたも要らないね。唇がでたらめな歌を紡ぎ、笑い声なのか嗚咽なのかも判別が付かない醜い声が喉の奥から溢れ出ていく。
 ややあって、ばきり、と枝が折れるような音を立てて、手鏡の柄が折れる。そこでようやく鏡が鏡とも呼ばないほどにひしゃげていたのに気が付いて、幹に叩き付けるのを止めた。片手からぼたぼたと垂れる血が、女王の庭のバラみたいに花を赤く染め上げていた。鏡を鏡としていたガラスたちは、すべて割れて花畑の上に散らばっている。試しにその破片の一つに触れ、手鏡の方にも触れてみたが、何も起きなかった。それを自覚すると共に荒かった息が鎮まり、今度こそ世界からすっかり色が消えたふうに思えた。木の葉の色ももうよく分からない。そもそも、ここは一体どこだっけ?
 けれど、結果、これで良かったのだ。
 彼は一つも悪くないのだから。ここに残るべきは自分の方なのだから。
 他者の命と引き替えに記憶を取り戻していたのはわたしだ。そのために人を騙し続けていたのはわたしだ。わたしはとっくに役者などではなく、ただの詐欺師に落ちていた。気が付かないふりをしていただけで、わたしはずっとそうだったのだ。彼は一つも悪くない。彼はただ、やさしかっただけだ。そのやさしさのために、わたしのことを見放せなかっただけだ。彼に罪はない。彼は幸せになるべき人だ。かわいい人。やさしい人。あたたかい人。美しい人。神さまみたいな人だった。わたしのために人であってほしかった。わたしは、彼のことが好きだった。わたしは嘘つきで、隠しごとの多い、つまらない人殺しだった。ブラウスの内ポケットから、バニラエッセンスの小瓶を取り出す。けれど、これでやっと、いちばん殺してやりたかったやつを殺すことができる。蓋を開け、中身を呷った。不味い。
 それから不意にかさり、と草を踏む音がして、背後を振り返る。
 そこには美しいブロンドをもった少女が、ジャムだか蜂蜜だかでべたべたになったナイフを片手にして立っていた。チョコチップクッキーをさくさくと口に含みながら、彼女は何かを探して辺りにきょろきょろとその視線を走らせていた。中身を飲み干した小瓶を放って、柄の折れた手鏡を眺める。耳の奥がもうわんわんと鳴り出していたが、それもどうでもよくて木の陰から少女の方へ向かって躍り出た。
「きみ、きみ! お腹空いてるのう? この国はみーんな食べ尽くしちゃった?」
 手鏡を後ろ手に隠して、少女に向かってそう笑いかけた。少女はちらとこちらを一瞥するばかりで、さして興味を示す様子もなかった。つまらないやつ。いや、わたしがつまらないやつなのか。どちらでもいい。後ろに隠していた少女のお目当てを顔の横にぱっと取り出して、ぐらぐらする頭でにっこりと笑ってみせた。
「でもごめんねえ。これ、間違えて壊しちゃった!」
 からからと笑いながら発すれば、少女は自分の方へとすたすたと無遠慮に近付き、かつ無表情にこちらの手からひしゃげた、先ほどまで手鏡だったものを取り上げた。そうしてそれをじっと眺めると、やがて関心を失ったように手鏡を花々の上へぽいと放り、用済みと言わんばかりにくるりと踵を返す。その背に待ってと声をかけ、ぴた、と足を止めた相手に思案する素振りを見せた。
「ほんとごめんね。……ううん、そうだなあ。ねえ、お詫びにわたしのこと食べる? わたしもねえ、きみほどじゃあないけど、何人かのアリスは食べてるし。きっと美味しいと思うよ。どう?」
 猫撫で声でそう問うて、最もかわいらしく見える角度で首を傾げた。少女はこちらを振り返らず、辺りにはただクッキーの咀嚼音だけが響いている。ああ、頭が割れそうだ。視界が揺らぐ。指先の感覚はもうほとんどなかった。
「……なあ、聞いてる?」
 いつまで経ってもなんの返答もない相手に苛立って、その肩を掴んで笑顔で問いかける。それでも一瞬向けられた少女の視線はまるで色がなく、こちらを見るそれは無機物を眺めるような目をしていた。死人みたいなやつは、そもそも殺す価値すらないってことか。ぐつぐつと腹の底から笑いがこみ上げる。口からは零れなかった。その代わり、目の前の首を絞める勢いで、少女の胸ぐらを掴み上げた。
「──いいから、早く殺せって言ってるんだよ!」
 それから、胃の少し下辺りに衝撃を感じて、口角を上げて胸ぐらを掴んでいた手を離す。
「そ、うそう……それでいいん、だって……ちゃんと、食べろよ……」
 幸運だ。花畑の上に倒れ込みながら思う。毒を呑んだわたしはわたしを殺すことができる上、そんなわたしを食べたこの少女さえもわたしは殺すことができるのだから。どくどくと血が流れ出ていく感覚だけはあったが、顔を動かすことがもう叶わないために自分の身体がどうなっているのかは分からなかった。刺されたわけでもないのに、ぽっかり穴の空いた心臓はまだ鳴っているらしい。目を閉じる。その穴の向こうに彼がいる気がして覗き込んでみたが、輪郭が滲んでよく見えなかった。
「ト、トロベリー……」
 名を呼んだ。姿が見えない。彼はどこにもいない。彼はここではないどこかへ帰った。きっと、やさしい彼の在るべき場所へと帰った。家へと。美しい水色の空と、春に吹く桃色の風。あの広大な湖の前、白い砂の上、柔らかな色彩と共に美しい人ときっと彼は出会うのだ。わたし以外の。わたし以外の。わたし以外の。ああ、吐きそうだ。実際に吐いた。想像のせいか毒のせいか刺されたせいか、なんのために戻したのかは最早分からないが、うっすらと目を開ければ、眼下に広がる血は黒かった。口の中は苦い。苦い、苦い苦い苦い。不味い、チョコレートの味がした。血の色すらもう赤くはない。お似合いだ。これは世界でいちばん醜い化け物の血の色だ。わたしはここで死ぬ。白と黒。地面は暗くて冷たかった。彼はわたしのことを永久に忘れ、わたしではない誰かと永遠に幸せになる。それでいい。それでいいのに。ああ。彼の幸せだけを純粋に願えたならよかった。彼みたいに。わたしはどこで間違えたのだろう。舞台と彼。その両方を望んだからこんなことになったのだろうか。森は暗くて、わたしは子どもだ。彼はいつか大人になる。土を掻いた。指先に触れた花の茎は温度がなかった。それにしても、思ったよりずっと。ずっと。ずっと。
「……い、痛い。痛いよお、トロベリー……たす、助けて……」
 止め処なく黒い血が溢れる口の中に、何か塩辛い液体が入り込んでくるのを感じる。ここはどこだろう。舞台の上ではない。あの柔らかい、彼のいるベッドでも。目から生温かいものが延々と伝っている。血だろうか。身体中が痛い。とにかくもう、帰って休みたかった。家に帰ったらきっと、彼が抱き締めて、頭を撫でてくれるから。家族みたいに。兄みたいに。神さまみたいに。もしかしたら、恋人みたいに。
 動かないかかとを、靴もないままに三回鳴らす。音は鳴らなかった。
「──やっぱり、お家がいちばん=c…」
 ずっと、彼のことが好きだった。
 だから、魔法が使えたなら、帰りたい。今までみたいに。
 彼の元に。
 帰れ。たら。


 Strawberry Vanilla
 20200813 執筆

 …special thanks
 トロベリー・クラウン @橋さん
- ナノ -