世界でいちばんかわいい王さまへ



Strawberry Vanilla Gelato
@Love_over_Love




 深夜の海は月明かりだけを淡く受け、青い闇に塗れている。
 ざん、と規則性を以て砂を洗うその音を聞きながら、息を吸うところにちょうど溜まる、じっとりと蒸した夏の空気を吸い込んだ。いつでも少し雨のにおいがする、夏の夜。日本の、夏。
 自分が歩く、この海沿いの歩道隣にある道路には相も変わらず車の気配がない。いつ来てもここはひどく自由で、ひどく穏やかで、それからひどく静かだった。明らかに数が足りない街灯はぽつぽつと頼りなく道を照らし、そのためにまるで底抜けの暗やみを歩いているような心地になる。或いは宇宙か、うなぞこに放り出されたような。
 少し立ち止まって、じいっと微かに音を鳴らす街灯を眺めた。目を閉じる。波の音。瞼の裏で明滅する光。目を開ける。明かり。それから夜。ぼんやりとした輪郭を帯びて光る視界は、観客席から照明のチェックをしている舞台を眺めているあの瞬間に少し似ていた。静かにうねる夜の海を見る。目の中に、まだ街灯の光が残っていた。生まれる前というのは、もしかするとこんな感じだったのかもしれないと、わけもなくそう思った。
 息を吸う。暗やみを歩く恐怖のためではない。ポケットからスマートフォンを取り出して、今日のために日本時間に設定したロック画面を眺めた。七月十七日、二十三時五十分。公演の前とも似ているふうでまた違う、不思議な緊張感が心臓の向こうで響いている。それからつと、バイブレーションと共にワン、ワン、という犬の鳴き声がスマートフォンから鳴った。どうやら、やり取り途中だったメッセージの返信が返ってきたらしい。特別に設定した彼専用の通知音だが、本人に聞かれたら叱られてしまいそうな代物だと我ながら思う。
 五十一分。メッセージアプリを起動し、相手からの返信を確認した。リバティ、いいことでもあった? というにこにこ顔のメッセージを眺めて、歩を拾うのを再開する。聞こえてくるのは、自分のヒールがコツ、と鳴る音。静けさを際立てる波音。かさり。それから、歩くたびに鳴る左手の紙袋の音ばかり。いいことでもあった? これからあるんだよ、ばあか。スマートフォンの液晶は青白く光っている。意味もなく鼻歌を口ずさみながら、メッセージアプリの通話発信ボタンを軽く押した。五十三分。
『──もしもし、リバティ?』
 ワンコール。耳に押し当てたスピーカーから聞こえてくる、あの柔らかな声は電子機器越しでも変わらずやさしいままだった。
「ああ、イチゴ。ふふふ……」
『んん? どうしたのさ、リバティ。なんか楽しそうだねえ』
「そうかな。はは、そうかもな」
 相手の声を聞いて思わず洩れ出した笑みに、つられて向こうもくすくすと笑い出した声が聞こえる。足取りは軽く、ヒールの音が踊った。今しがた鳴っていた緊張が何か柔らかいものに包まれて、夏の夜の生ぬるさとも、昼間のうだるような暑さとも違うあたたかさが手足に巡る。それを言葉にするなら。言葉にするならば、そう。
「駄菓子屋で買ったミルクアイスバー。あれの当たりが食べる前から約束されている。たとえばそんな気分なんだ、今は」
『え〜? ふふ……』
 くつ、と電話越しの喉が鳴る音が聞こえる。喩えが少し子どもっぽかったかもしれない。潮風が肌を撫でるついでに、左手の紙袋をかさかさ鳴らした。そのさまが聞こえると共にふわりと立ち上るのは、海から漂ってくるものとは打って変わって甘やかな、それでいてアイスクリームとはまた違う或る香り。スマートフォンは今のところ、まだにおいまでは相手に届けない。距離があるということも、時には役に立つものだ。こんな夜にだったら。こんな夜には。
『あはは。リバティ、そんなに気に入ったの、あのアイス? それならまた、一緒に買いに行こっか』
「だって、当たりだぞ。ラッキー・ユー・ウィンだ。幸運なのは嬉しいだろ?」
『うん、そうだねえ。リバティにいいことがあるのは俺も嬉しいよう』
「あら。それは素敵なことね」
 赤いピンヒールがよく似合う女の声色でそう返せば、彼はやはり可笑しそうに笑みを零していた。目を閉じなくても、暗がりの道はとうに、ベッドの上であぐらを掻いている彼の姿に上塗りされている。液晶画面の代わりに、左手首の腕時計をちらりと見た。五十五分。少し足を進める速度を上げる。そうして、一呼吸の沈黙があった。
『……リバティ、もしかしてさ、いま外にいるのう?』
 こちらがコツコツと地面を蹴る音が聞こえたのだろう、相手は問いかけと言うよりはほぼ確信めいた口調でそのように首を傾げた。見えないが、この声の発信源で彼が首を傾げたのは分かる。そんな相手の様子がありありと目の奥に浮かんでしまったから、仕方なく声を洩らして笑った。
「さて、どうかな。当ててみるか?」
『え? うーん……俺に分かるかなあ』
「そうそう。当てたらいいことあるかもよ」
 言って、スマートフォンを自分の耳より少し上へと掲げた。
 車は変わらず一台も通らない。なんのためにこの道路があるのかも分からないくらいだ。歩道を淡々と照らす街灯の音を、きっとマイクは拾わないだろう。歩く。彼の声が聞こえなくなると、途端に道は暗くなった。青い闇が近付いて、遠ざかる。こうして見ると、ここまでがすべて海の上のようだった。目を閉じる。スマートフォンに耳を押し当てて、こちらの景色をなんとか聞き取ろうとしている彼の姿が見えた。目を開ける。薄っぺらい形をした命綱に、自分も耳を押し当てた。
「何が聞こえる?」
『リバティの歩く音、かなあ。あ、それと……』
「何が聞こえた?」
『波の音? 海……』
 彼の答えに、視線を海原の方へと向ける。月光を受けたそれは、その表面にゆらゆらと揺れる白い花が浮かべていた。そんな波の花は砂浜に辿り着くたびに砕けて、また生まれてをくり返している。息を吸った。青い水の上に光る白が、暗やみの中で見る誰かの瞳に似ていた。
「──なあ、知ってた? 深夜の海って、青いんだ。月があれば、青いの」
 それから、少し間があった。ああ、考えてる。考えてるな。心の中で意地悪くほくそ笑みながら、相手に聞こえるように指先をパチ、と鳴らす。たぶん、彼は瞬きをしていた。
『……リバティは、海が好きだよねえ』
「さあ、そうなのかな。正直、どっちが先なのか想い出せないんだよ」
『どっちが?』
 彼の問いかけに、潮風の隙間で呼吸をした。海が手渡してくる風が、いま一瞬だけ止んでいた。静かだった。自分の心臓の音がうるさいほどに、この道は自由だった。
「海が好きだから、おまえの目が好きなのか。おまえの目が好きだから、海が好きなのか」
 夜と青い海、月の光、波の音。それは、不思議な時間だった。ここにあるすべての言葉が、寄せて返す波にも似た姿になって、喉の奥から独りでに出ていくみたいで。息を呑む。或いは彼も呑んでいたかもしれない。
『リバティ』
「うん」
『その……』
「そうだ、イチゴ」
 時計は、五十八分を指している。鼓動が急かされて、それにつられた足が歩をもっと早く進めようとしていた。青信号の車道を横切って、向かいの歩道へ移動する。それから角を曲がって、見頃を終えたアジサイの植え込みを尻目に足を進めた。少し先に見えるアパートの周りに生えている木々、あれのどれかがソメイヨシノだったなと想い出しながら、甘くなってきた舌の上で言葉を転がした。
「さっきのさあ、ミルクアイスバーの話。あれ、おれの話じゃないよ」
『え?』
「当たりだぞ。ラッキー・ストロベリー・ウィンだ。幸運なのは嬉しいだろ?」
 指を鳴らして、足を止める。アパートの一室で、カーテン越しに光が洩れていた。海沿いの街灯なんかよりもずっと、こちらの呼吸を軽くするもの。同時に、心臓にばかみたいな音を上げさせるもの。耳を液晶に押し当てる。相手の鼓動までは聞き取れないけれど、でも。
「イチゴ。十五秒で歌い終わる有名な歌が何か、おまえ、知ってる?」
『十五秒? え、ええっと……なんだろ、分かんないや……』
 そのどこか動揺した、詰まった声の発し方に、自分の目が否応なく弧を描くのを感じた。深夜二十三時。五十八分、四十秒。眠りの準備を始めたこの狭い住宅街で、声を上げて笑う。電話越しに、向こうのカーテン越しに、ベッドの上で彼の肩が揺れるのを感じたから、足よりも先に言葉が踊り出した。
「ねえ、これから、何が起きたら嬉しい? 何が起こると思う?」
 スピーカーから、相手の息を吸う音がはっきりと聞こえる。それから何かを発そうとしたその唇に人差し指を当てる代わりに、パチパチ、と指先を鳴らした。
「──十五秒! 歌が終わるまでに、答えを用意しておけよ」
 五十九分、四十三秒。マイクに向かってそう叫んで、眼前のアパートへと向かって走り出す。そうして息を吸おうとして、けれども吸う途中で先走った喉から歌が溢れ出した。
 耳にくっつけていなくても、彼が転がるようにベッドから降りるがたがたという音が聞こえてくる。もう一度声を上げて笑いたかったが、歌の途中ではそれも叶わない。近所迷惑も忘れたふりをして、歌いながらカンカンと半分錆びている階段を上った。十五秒で終わる歌。今、この身体から溢れ出して止まない歌。それはもちろん、誰もが知っているあの世界一有名なバースデーソングだった。
 そうして、歌が終わると同時に目の前の扉は開かれた。
「──ふふ、正解だ。さすが、イチゴはデキるヤツだな。誕生日おめ、」
 しかし、それと同時に伸びてきた両腕にぎゅうと強く抱き締められる。バースデーソングの締め括りに相応しいあの言葉が、圧迫感に途切れた。
 随分慌てたのだろう、息を上げている相手の身体に閉じ込められながら、それでもどうにか片手の紙袋を死守せんと、そちらの手で彼の背中をとんとんと叩く。離れない。溜め息混じりの笑いを吐いて、もう一度叩いた。その感覚にようやくはたとしたらしい相手の両腕が、ゆるゆると身体から離れる。その途中、自分の腕時計を盗み見れば、針は十八日の零時一分を指していた。あーあ、まったく。これだから、なんとなくいつも完ぺきになれないんだ。いや、でも、まあいいか。思わず、自分と相手への呆れを乗せて、かぶりを振った。
「……おまえ、せめて最後まで言わせろよな」
「あ、ごっ、ごめんねえ、リバティ! その、びっくりして、すげー嬉しくて、つい……」
「フライングだ。やり直し」
 照れながら焦るみたいに頭を片手で掻いた彼に、そう言ってこほんと咳払いをする。時計はもう見ないことにした。
「──誕生日おめでとう、イチヒコ。はい、どうぞ」
 背後の扉を締める。それから、相手に向かって両腕を広げた。そうすれば、間髪入れずに彼の腕が両脇に差し込まれて、再びぎゅうっと抱き締められる。通知音を犬の鳴き声にしている自分の正しさを再確認しながら、こちらの頭や背中を忙しなく撫でている目の前の青年を視界に映して、そのさまにくすくすと勝手に喉が鳴った。相手の上気している頬を眺めて、目の前でふわふわとしている赤髪を指先で少し触る。彼は、ついに自分を持ち上げてその場でくるくると回りはじめた。
「あ……ありがとう、リバティ……! わあ、ほんとに本物のリバティだ。あははっ!」
「そりゃそうだろ。そんな何人もおれがいてたまるかっての」
「ふ、ふふ……!」
 せり上がってくる笑みを抑えて、仕方なさそうに言った自分を床に下ろしながら、彼はまたこちらを両腕に閉じ込める。そうして紙袋からやってくるものよりも甘く感じるにおいを吸い込んで、すっかり安堵してしまった本物の仕方ないヤツ≠ナある自分は、結局この額を相手の肩へと擦り寄せるのであった。
「会えて嬉しいよ、イチゴ」
「……うん、俺もだよう、リバティ」
「キスしてもいいけど」
「うん……」
 彼へと向けてそう首を傾げてみれば、両腕の力とは反してひどくやさしい口づけが唇に降ってきた。そのこそばゆいような、それでいて心地好い感触に目を細めれば、すぐそこにある水の色が、海よりもずっと柔らかい色を宿してそっと光っている。
 月も星も、綺麗な夜だ。晴れてよかった。紙袋の中には、チョコレートの大きなパイ。その上には、紙の王冠が載っかっている。まあるいパイはすでに四等分に切り分けられているが、どのパイの中にも幸運のフェーヴが隠れている。春のウサギ。やさしい王さま。美しい女王。神さまの子ども。どれを選んでも当たりだ。約束された、当たりくじ。彼の一年は総じて幸運で、幸福なのだ。せめて、今日くらいは、今日くらいはそれを歌うのだ。それだけを。
 今日はおまえの生まれた、幸運で幸福な、美しい日だ。窓を開ければきっと、夏の夜に桜が咲き、アジサイは虹色に輝いて、海はバースデーソングを歌うだろう。七月十八日! それは間違いなく、世界でいちばん素敵な日だ。だからつま先を伸ばし、目の前の無防備な唇に口づけをこちらからしてみせた。さざめくような笑い声が洩れ出す。そして、どちらからともなく、もう一度口づけをした。
「──ありがとう」
 囁いた言葉は、すでに混じり合って溶け合っていた。それがどちらの発したものだったのかを思い出すすべは二人にはなく、またそれを知る者もここにはいなかった。
 そう、紙袋の中の、甘いあまいチョコレートパイを除いては!




Happy Birthday Tamaki Ichihiko @Hashi






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