糸を引けば、幕は上がる。
「わあっ、すごいねー! バニティ!」
 その見開かれた瞳がきらりと輝くのを見て、思わず口角を上げた。がらんどうの劇場には、こじんまりとした舞台と少しの客席が並んでいる。焦らすように幕が上がるあの独特な音を耳の奥で聞きながら、それを急かそうとじりじりする心を抑えるために、手の甲に思いきり爪を立てた。
「フフフ。バニティ、嬉しそうだね!」
 男のその言葉に口を開こうとして、やめた。ゆるゆると上がりかける口角をせき止めるために唇を噛み、爪を立てていた肌を今度は指先で抓む。ゆっくりと幕が上がる舞台に瞼を瞑ってやろうかとも思ったが、今はそれも惜しい気がして目を細めるだけに留めた。眉間に皺が寄るのを感じる。両腕を組む。もうどうにもならなくて、口の端からぬるい溜め息を吐いた。
「それでさ、バニティ? これ、どーしたの?」
「……まあ、女王サマの気まぐれだよ」
「気まぐれ?」
 腕を組んだまま片手で頬杖をついて、隣の男へと目を向けた。延々瞳孔が開きっぱなしの水色がこちらを向いて、相も変わらず弧を描いている。そこから視線を外して、再び舞台の姿を目に映した。
「この前食べたアリス。あー、……男の? あれがどうも、女王のお気に入りだったみたいでさあ。首を刎ねられるその瞬間に、じゃあ最期にワタクシの演技を観てください、って女王の前で言って演ったっていう話はしただろ。これは、その褒美に頼んだ屋敷のおまけ」
 女王の興味の対象が件のアリスから自分へと移り変わった瞬間の目の色を思い出して、喉元にくつくつと可笑しみがこみ上げるのを隠しきれないまま、ひらりと片手を振ってそう発する。そんな女王の有り難い表情すら、今に忘れるだろうが。おそらく、起きていても忘れる。さして興味がないから。
「与えてくだすった劇場は見ての通りちゃちなモンだが、それでも女王はそれなりに気に入ってくれたみたいだぜ、おれの演技?」
 言いながら客席の一番前に立てば、幕が上がり、そこから光が洩れていくのが直に見える。見慣れているはずで、けれども古い友人に再会したような気分にさせるそれは、赤い幕に金糸の刺繍、青白いスポットライト、その照明が反射して輝くつやつやの木製床でできていた。ありきたりで、古くさい趣味。そう、それは確かにちっぽけでなんの面白みもない、子どもが絵に描いたような舞台だった。
 だが、それでも、舞台だった。
 それはこの世で唯一、自分が在るべき場所。この世で最も、自分が美しく在れる場所だった。
「──ねえっ、バニティ? 俺もバニティの演技、観てみたいな〜!」
 隣からかけられた言葉にはっとして光から視線を外す。隣の男は舞台の照明からは早々に目を逸らしていたらしく、頭の後ろで両手を組みながらこちらを見てニコニコと笑っていた。口を結ぶ。ああ、少し息苦しい。呼吸が足りない。悪くはない。これをまだ、自分は憶えていた。この熱を、自分は。悪くない。全く。唇の端と端を親指と人差し指で軽く挟んで、口の中だけで深呼吸をした。する、ふりをした。そう演じた。自分に。男は笑っている。
「……いつも、見せてる気がするけど」
「そうじゃあなくって、こういう舞台で演るやつだよ! 俺、そういうバニティは、あの日以来あんまり見たことないからさあ」
「演劇って言うんだよ。でもおれ、今日は見せる気分じゃないから」
「ええーっ? ザンネンだなあ。じゃあ今度……」
「演らないとは言ってないだろ」
 そう発した自分の声は自分が思っているよりもぶっきらぼうで、それでいてあまり余裕を感じられる代物ではなかった。それが組んでいた腕を解いたからなのか、唇を噛み締めるのを、肌を抓るのを、眉間に皺を寄せるのをやめたからなのか、また、無理に呼吸をするのを諦めたからなのかは分からない。或いは。
「え、えっ? バニティ、俺はできないよ?」
「できる」
 或いは、その手を引っ掴んで、舞台に上がろうとしたからかもしれない。我ながら可笑しなことに、声色と裏腹に自分の口角はそれはもう分かり易く弧を描いているらしかった。前を歩いていれば顔を見られずに済むと、そう誰が保証してくれるわけでもないというのに。
「おれが教えてやるんだから、できる」
 舞台の中央まで男を引っ張り上げて、そこで初めて表情を繕う。男は困ったように眉尻だけを下げて、それでもやはり笑みを絶やさなかった。絶やせないのだから、当たり前だが。
 舞台袖に設置されている台の上から、紐で括られているだけの無愛想な紙束を持ってくる。一枚ごとに紙の大きさも質も違うそれは、もはや本とも手帳とも呼ぶのが憚られるような出来だが、それでも男は興味津々と言った様子でこちらの手に乗るその紙の束を指差した。
「バニティ、これ何? なんかいっぱい書いてあんね〜!」
「……まあ、台本」
「ダイホン?」
「ヒトが演技をするのに必要なやつだよ」
 へええ、と男は両手をぱちんと合わせて関心したように頷いた。そんな男の反応に少し笑って、手にした紙束──もとい、台本へと目を落とす。一ページ目、すなわち表紙にはここに綴られている物語の題名が書かれていた。そうだ、今も確かに書かれている。けれども、読めない。その文字の、向こうの文字の読み方が、もう思い出せない。少しだけ目を瞑る。その題名が喉元までせり上がってきている気がするのに、それをどうしても自分は言葉にすることが叶わないようだった。
「これは……おれが、いちばん得意な……いや、売れた? そうだな、とにかく、気に入っている話で……」
 この物語を頭の中から紙へと書き写したのは、確か二番目だった。自分が眠るたびに向こうのことを忘れていく、という事実に気が付いてから、二番目に書き留めたもの。一つ目は、自分の芸名だ。バニティバラッドという、自分がいっとう輝ける名前。そして二つ目にこの台本を書いた。もし記憶から抜け落ちてしまっても、紙に記しておけば再び思い出せると思っていたから。まさか、どんどんと向こうの文字の書き方も読み方も忘れていくとは思わなかったが。もう向こうの文字がほとんど読めも書けもしないことは、男には言っていない。
「……ただ、タイトルだけが心底ナンセンスでな。口にも出したくないね。生クリームの載った毒キノコを、ナイフとフォークで丁寧に切り分けて食べるみたいなレベルのモンだ。お行儀が良すぎるだろ?」
 ページを捲る。括弧の意味だけは未だ憶えているが、それ以外は意味の分からない記号の羅列が、びっしりと紙の上に行列を織り成しているようにしか見えなかった。眺めていると目眩すらしてくる。分からないということへの苛立ちと、そんな自分への漠然とした嫌悪感。もうこんな紙束には意味がない。読めない文字から言葉の表情を汲み取れるわけもないのだ。目の前の常に笑顔を貼り付けた男の方がまだ分かる。溜め息に近い呼吸をして、男の手に台本を押し付けた。
「まあ、おれは全部頭に入ってるからそれは必要ないけど。一応、形だけだよ」
 呟いて、着込んでいたケープマントを脱ぐ。そうしてそれを客席の方へと投げてしまうと、少しだけ身体が軽くなった気がした。軽く腕を伸ばす。服の丈は短すぎず、長すぎずの位置を保っていた。この国に迷い込んでから、ずっと。
 ふと、立った詰め襟の金ボタンを一つ開け、手首の袖で白く揺れるフリルを照明に透かし見た。そういえば、この物語の主人公は第一ボタンを開けているのだった。頭が忘れかけたら今度は身体から役に成りにいくのだから、自分も中々狂った役者だ。この物語を自分はまだ演れる。少し気分がいい。目を細めて、顎先で男の持つ台本を示した。
「じつはさ、この服、その話の衣装なんだ」
「えーっ、そうなんだ? 初めて聞いたよ!」
「いま初めて言ったからな。ガクラン、って言う。向こうではガクセイが着る服で、これはまあ、多少脚色があるだろうけど」
「ガクラン? ガクセイ? 何それ! 花の名前?」
「いや、ガクランは服の名前で……ガクセイは──確か、ヒトの名前? 今から演る話にも出てくるし……うん?」
 言いながら、少し違和感を覚えて口元に手を当てながら眉根を寄せた。そうしてしばらく押し黙っていれば、男は首を傾げてこちらの顔を覗き込む。
「バニティ、だいじょうぶ?」
「ああ……うん、べつに、ちょっと。この話には主人公が二人いるんだが、それが両方ともガクセイだったな、と思ってさ……」
「わあ、それって面白え〜! 同じ名前の二人が出会うってこと?」
 楽しげに笑う男に違うともそうだとも言えず、なんとなくで曖昧に頷いた。頭上から降り注ぐ青白い光を見上げて、起きろ、と胸の内だけで自分の脳みそを揺さぶる。起きたまま眠るな。こんなでは、憶えていることまで忘れてしまう。緩くかぶりを振って、記憶を覆う霧をどうにかこうにか払おうとした。まだ演れる。忘れるな。憶えていろ。自分の好きな、物語くらい。今、くらい。
 照明から視線を外して、自分の着ているガクランを軽く触った。
「……もうあまり憶えてないけど、これ着たままこの国に来たってことは、その日も舞台の上にいたんだろうな、おれは」
 そうひとりごちれば、目の前の男はなんだか不思議な笑い声を洩らした。それが気に留まって少しだけ顔を上げれば、舞台照明をもろに受けている男の輪郭が白く保たれ、そのさまがどうしてか、今にも。
「バニティったら、ほんとにエンゲキ! が好きなんだねえ。バニティだったら一人で二役できちゃうと、俺思うけどな〜?」
「トロベリー」
「うん?」
「おまえが大きい方のガクセイだ。この物語は、そのガクセイがもう一人の……小さい方のガクセイに声をかけるところから始まる」
 言いながら、男に向かって一歩近付く。男が未だ両の手のひらに乗せている台本の表紙をちらと視界に映して、そこに書かれている読めない題字を指先でなぞった。少しだけ瞼を瞑る。そうして目にした記憶にはまだほんの少しだけ色彩の気配が残っていた。男の方を見る。その鮮やかなストロベリー色の癖毛の先を、人差し指と中指で挟んで眺めた。
「そう……ちょうどおまえみたいな見た目だったはずだ、大きい方のガクセイは。おまえの服も、それなりにガクランっぽいし。髪もまあ、許容範囲か。明るすぎる気がしなくもないけどな……」
 男は何も発することなく、ただいつも通りに笑みを浮かべたまま、毛先をいじくるこちらの指先を見ているようだった。髪から手を離す。そうしてその手のひらを緩く握り、また開いた。自分の輪郭もまた、スポットライトを浴びて青白い。光とは演出。自分は光に埋もれない。光を纏う。舞台の上ではすべてがおれのための演出だ。そしてまた、このおれすらも。
「……トロベリー。おれはな、いつもおれのためにしか演らない」
「バニティのため?」
「そう。だから、どうしたっておまえが必要だろ、クラウン?」
 少し笑う。一歩下がって、客席の方へと視線を向けた。うっすらと橙色の照明の灯っているそこには、もちろん観客の姿は一つもない。ただ、自分の放ったケープマントだけが赤い客席たちの中で唯一、こちらに影の色を教えてくれていた。
「……分かんねーけど、分かったよ、バニティ!」
 その言葉に顔を男の方へと戻せば、ニッコリとした笑みが自分のことを出迎える。そんな男のいつも通りの表情に、安堵でも落胆でも焦燥でもない何かを感じながら、自分すらも欺けるようにそうっと息を吸った。男はこちらを見ている。だから、自分も男の方を見た。
「よし、じゃあ準備はいいな。まずこの物語はおまえが演じるガクセイが、おれの演じるガクセイへと投げかけるこんな言葉から始まる……」
 糸を引けば、幕は上がる。
 上がっている。幕はいつから上がっていただろう。男は笑っている。自分もまた、少し笑った。誰かのイノチを菓子にして、溶けた砂糖の上で踊る。踊っている。踊っていた。手足が蜜に絡んでも、頭が甘味に溶け出しても、美味しかったからまだ踊れた。ああ、ずっと、何もかもを忘れず、いや忘れてしまって? ここでこうして、踊り続けられたならば。ならば、なんだろう。ああ。
 台詞を吐くために、今度は大きく息を吸う。いつからかずっと、嫌な予感だけはしていた。
「──ねえ、ねえっ! 待って! 舞台、見たんだ。キミの演技、すごいね……!=v
 目を開ける。
 劇場の裏口が開いて、靴裏が床を叩く音が聞こえた。それを合図に、瞼の裏に描いていた記憶の背景はするりと薄れていった。その気配に仕方なく耳を澄ましてみれば、不躾な咀嚼音と同時に、ぱらぱらと菓子の食べかすがこぼれ落ちるさまが音から見える。
 スポットライトはまだ、この自分だけを美しく照らしていた。
 目を、細める。舞台の上に腰掛けたまま、台詞を吐くために大きく息を吸った。
「劇場内でのご飲食、サツエイ、またはロクオンは固くお断りしております」
 足音は止まらない。劇場の床を踏む靴は、かつかつと無遠慮に高らかなる調べを奏でていた。それに混じって、クッキーだかビスケットだか、何かしらの菓子の欠片が落ちる音が、この静かすぎる劇場へと無表情に反響する。
 どちらかと言えば足早に、迫る影の姿は鮮明になっていった。組んでいた脚を解いて、膝の上で頬杖をつく。こちらの眼下で立ち止まった相手が、床に散らばる菓子よりも無感情に視線を上げた。
「……招待も歓迎もしてないけど、一応この台詞は言っとくよ。当劇場へようこそ、アリスちゃん=v
 歓迎の気持ちを満たした声色でそう発したつもりだったが、しかし相手の表情はぴくりとも動かない。その様子に心の中で舌を打てば、相手は咀嚼していた菓子を飲み込んだようだった。役者としても観客としてもつまらないヤツ。これならマジパン人形か、ジョーカーの女王のフラミンゴ、いつか客席へ放ったこのケープマントに向かって演じる方がまだましだった。
 けれども未だ、自分の表情には笑みを描く。スポットライトは自分を照らし、そこから零れる細い光ばかりが相手の姿を照らしていたから。
「それとも、こう呼んだ方がいいのかな。血の女王サマ?」
 相手の表情は動かない。それでも首を傾げてそう問うた自分の顔は、きっとこの世で最も愛らしい宝物に違いなかった。光るようで光らない、けれどもどこか刺すように眩しいその目でこちらをじっと眺めながら、相手は口の端に付いていたクリームを指で拭って舐める。そのさまに、わざとらしく肩をすくめてかぶりを振った。
「ああ……随分ハラが減ってるんだな。服も手も、口の周りもそんなに菓子のかすだらけにして。もう、なんでもかんでも食べないとキミは満足できない?……でもザンネンだね。ここにはもう、菓子にして食えそうなのはおれしかいないよ」
 菓子、と聞いた相手は、ゆっくりと瞬きをしたのちに片手にしていた刃物を持ち上げる。こちらに切っ先が向いたそれは、元々銀色に輝いていたのだろう。けれども今はその面影もなく、ケーキを切るナイフらしきそれは、生クリームやら焼き菓子のかすやらでべたべたに甘く照っていた。
「……じゃあ……」
 呟いて、ふわりと一回転しながら舞台の中心へと躍り出る。そうしてみれば相手もまた、律儀に舞台の上へとやって来た。べたべたの手をついたから、つるつるに整えていた舞台床には油っぽい相手の手形が残ってしまった。それをちらと目にしてから、相手へと向かって微笑む。
「始めようか? 脚本も衣装も音楽も舞台装置もろくに用意してないから、ほとんどアドリブだけの演劇になると思うけど」
 先にそう断ってから、自分は見えないスカートの裾をそっと持ち上げ、相手へ向かって膝を折るばかりのお辞儀をする。
 それから、さあ、と思えば、スポットライトが相手の姿をも照らした。さあ、コイツはもはや役者でも観客でもない、ただのはた迷惑な乱入者だ。だけれどおれは、コイツにもスポットライトをくれてやる。おれは完ぺきな役者、最高の演者だ。乱入者の対処だって、きっと美しく仕上げて観せる。客席には誰もいない。ハハ! 口から洩れた笑いが乾いていたのが本心なのか演技なのか、もうそろそろ分からなくなってきた。
「女王サマ、容赦はしてくれよ? 誰かのために演るなんて、おれは初めてなんだからさ」
 あーあ、と思う。あーあ、だから逃げてくれないかな、アイツ。おれがこうしている間に、こんなぐちゃぐちゃで最低の演劇を上演している間に、どっか遠くの方まで。
 逃げないだろうなあ。ばかだから、逃げないんだろうなあ。ばかだからな、おれみたいに。ばかで、だから、おれは。なら。
 今、ここで。
 たとえ、二度と、おれが。
 そうだ。おれは今、ここで、このおれたちみたいなバケモノを。それでいい。どうせ、この世でいちばん出来の悪い演劇をこれから演ってやるのだから。舞台に上がり、スポットライトを浴びる資格を擲つような、選ばれた者だけが演じることができる、選ばれなかった者の演劇を。おれは今から、演ってやるのだから。ああ。
 ああ。あーあ! ああ!
 ホント、最低でサイアクで、悪夢みたいに最高の気分だよ。
「まあ、でも……」
 糸を引いたから、幕は上がった。
 誰かが。誰が。
 誰の、ために?
「──クラウンはきっと、笑ってくれるだろうよ」







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 2020125 執筆

 …special thanks
 トロベリー・クラウン @橋さん


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