夜はまだ明けない。
もう、どれほど時間が経っただろう。とにかく頭がぼうっとして、瞼が重い。ひどく眠たかった。足音が立たないように脱いだブーツをどこに置いたかも思い出せない。ひたり。裸足の肌に、廊下の床を低く浮かんでいる夜の空気が触れる。それが寒いとは特段感じなかったが、けれども自分の肌はざわざわと粟立っているようだった。腕を擦る。行き場はない。ような気がした。
ただ当てもなく、明かりの灯らない廊下を歩く。
机とベッド、ドレッサーに脱ぎ散らかした服ばかりが転がる寝室を抜け出て、そうしてはじめに向かったのは、女王やこの国の住人たちにあれやこれやと贈られた舞台衣装が並ぶ衣装部屋だった。赤を筆頭として様々な色に染められている衣装はどれを見てもひどく鮮やかなものだったが、しかしそのどれもが自分のための引き立て役に過ぎない。この程度の色彩に自分が埋もれることはないのだ。決して。それからなんとなく目に付いた衣装を身に纏って、なんとなく思い浮かんだ脚本の一節を口ずさむ。そしてしばらく衣装部屋を舞台に戯曲を演じて、ふと或るところから先の台詞や展開が思い出せないことに気が付いて、やめた。
そうしてつと、姿見に映る自分の顔を見て、気が付いたように呼吸をする。
化粧を施していない自分の顔は当然のように完ぺきな造形を保ってはいたが、それでもそこに乗る色味だけ見れば、機嫌サイアクな役者をいつでもどこでも演じられるほど酷い色に染まっていた。さもウサギのように赤く充血しきった瞳、その下に押されるくまは眠れない夜の烙印、青白い肌はきっとユーレイにも負けないだろう。待てよ、ユーレイってなんだっけ? いや、どうでもいい。おそらくは。
かさついて毒の色に染まっている唇を舌先でちろと舐め、心の中だけで呻く。ああ。何かを忘れてしまったという感触より、自分は確かに何かを憶えていたのだという感触が内側に残り続けるのが気色悪かった。いっそ、憶えていたということすら忘れて、忘れたということも分からないようにしてくれれば楽であったというのに。ああ、もう。髪を掻き毟ろうと片手を上げ、それから舌を打つ。髪へ手をやる代わりに衣装を乱暴に脱ぎ捨てて、先ほどまで身に纏っていた寝間着に再び着替える。雑にドアノブを捻り、けれどもそれが思ったよりも大きな音を立てたことにはたとして、手に込めた力を緩めた。
ゆっくりとドアを開き、するりとそこを抜け出ては再び冷えた廊下へと足先を付ける。後ろ手にドアを閉めて、両の指先を擦り合わせた。息を吐く。それが白くなるほどではない。合わせていた指同士を絡めて胸の下で握った。マニキュアを落としたその指先を見つめる。
それは傍から見れば、まるで祈るような姿だろう。自分は常日頃、カミサマになど祈りはしないが。必要がない。掴めもしないものに縋るのは、つまらない、ただのニンゲンがやることだ。生まれながらにして完ぺきで最高な役者がすることではない。そもそも、今の自分はヒトですらないのではないか。眉根を寄せる。こうして無駄なことばかり考えているから、嫌なことを思い出してしまった。
だが、無駄なことをひたすらに、狂おしいほどに考え続けていなければ、たちまち自分は眠ってしまう。けれど、ああ、眠りたい。眠るな。眠らない。スポットライトが消えるかもしれない恐怖に頭を支配されるより、実際に消えゆくスポットライトを目の当たりにする方が余程怖いはずだった。だから、眠れない。指に込める力を強めた。皮膚に爪が食い込む。顔を上げ、先ほど歩いてきた方角へと歩を進めた。
衣装部屋のすぐ隣にある自分の寝室を足早に通り過ぎて、しばらく歩く。明かりを灯さなければ、月の光もろくに入り込まないほどのひどい暗やみだった。静かな夜だ。静かすぎるほど。そのようにこの家を整えさせたのは、紛れもなく自分なのだが。虫の羽音一つ、ネズミの足音一つ、喋る花の花粉一つ、何物も何者も何一つ寄せ付けず、近付けないように。
あの日、数日前──女王陛下お気に入りのアリスを食べてしまった日、自分は女王の好きそうな男の役で、女王の好きそうな脚本の演劇をたった一人で完ぺきに演じてみせた。そうして、これ以上ないほどに女王のご機嫌を取った上で、首を刎ねよと仰られたものと同じ口で褒美を取らせると仰った彼女に、或るささやかなお願い≠したのだ。
──静かな家が欲しい、と。
完ぺきな光を浴び続ける役者には、常に完ぺきな闇が必要であるのだと。呼ばれればいつでも演劇をやる代わりに、完全な静寂と不干渉を約束させた。気分が乗ると寛大になるたちなのか、それとも女王なりに色を付けたのかその辺りはどうでもいいが、家の裏には小型の劇場も用意されていた。自分の演技が女王に通用しなければ、文字通り危うく首が飛ぶところだったが、かのバニティバラッドを捕まえておいて、これほどする必要のない心配もなかった。
そう、だからこそ、静かだった。
辺りは、約束された静けさで包まれている。自分という存在が強く感じられると共に、それが日々薄れていくことに対する恐怖の輪郭がこれでもかと言うほどに浮き彫りになる闇夜だった。不可欠なもの。自分が自分で在るために、恐怖は必要なはずなのだから。それはいつも頭の片隅に置いて、忘れない方がいい。自分は子どもだ。少なくとも、身体は。子どもは夜、安らいだり、気を緩めたりすると眠ってしまう生き物なのだ。背筋を伸ばす。眠ってしまう。ピアノ線のように、張り詰めていなければ。夜は怖い。特に、静かすぎる夜は。だから、眠れない。それでいい。望んだことだ。自分が望んだことだった。それでよかった。はず。だった。
なのに。
だとしたら、どうして、自分はこの部屋の前に立っているのだろう。
まったく嫌気が差す。浅く息を吐いて、睫毛を伏せた。眼下に映るドアノブばかりが鈍く微かに光を反射させている。絡めていた指先同士を離して、その片方をノブの方へと伸ばした。爪の先が触れたそこはつるりと冷ややかで、きっと自分が立つこの床のそれと大差はない。ノブの輪郭を淡く撫でて、音を立てないように息を再びそうっと吐き出す。少し目を閉じて、指先をそこから離した。このドアをノックする気もなければ、ノブを回す気もない。そうだ、もとより開くつもりもなかった。だから。ここに。
ここに立っている、理由もない。
一歩下がる。そうしてぼんやりとどこを見るでもなく目の前のドアを眺めて、踵を返そうとした。けれども、はたとして動きを止める。微かな物音がしたからだ。自分ではない。それは扉の向こうから聞こえてきた。視線はドアの方から外せないままに、ここから離れようとした自身の足が迷う。瞬きすることすら許されないような気がして、今まさに回ろうとしているそのノブを半ば呆然と見つめた。
「……んん……バニティ〜……? もう起きたの……?」
小さく音を立てて開いたドアの向こうから、ゆら、と暗闇に未だ呑まれずに淡く輪郭を保っている人影──自分と同じようにウサギの耳付き──が姿を現した。部屋の主であるこの男がそこから出てくるであろうことくらい、物音が聞こえたときから分かっていたはずなのに、どうしてか少なからず肺の片方を絞られるような心地がして、発そうとした言葉は意味をもたない母音にしかならなかった。そもそも何を言おうとしたのかも分からないが。
「まだ朝じゃないよう……?」
「……ああ……」
「うーん……? うん……ほら、こっち……」
そう口の中だけで呟くようにもぐもぐ言葉を発しながら、ふらりと部屋の中から一歩踏み出して自分の方へと近付いた男は、その開いているのか開いていないのか分からない目を指先でこすって、何を思ったのかこちらの腕をはしと掴む。
「え」
そして男はあろうことか掴んだ腕をぐいと引っ張って、こちらの身体ごと自身の部屋の中へと引き入れた。
「え?」
突然のことに、唇からは力をもたない声ばかりが洩れるばかりだった。なんの役にも立たない自分の息を情けなく思いながら、いや、と思う。違う。問題ないはずだ。振りほどけばいいのだから。男はこちらの腕を軽く引いている程度で、そこに特段強い力を込められているわけでもないのだ、思いきり払えば振りほどけるだろう。それは分かる。分かっている。そう。分かっているのだから。
けれどもとうとうこの腕は、こちらを掴んでいるその手を振り払うことすらできないままだった。自分の足はずるずると相手の後ろをついていくばかりで、呼吸どころか身体すらも今は自分の役に立とうとしない。ああ、どうしてこうなってしまうんだ。こんなのは子どものされることだ。嫌だ。いつでも完ぺきに演らないと。どうして。バニティバラッドは眠らない。男でも女でもない。大人でも子どもでも。だから。戻らないと。この部屋から出ないと。けれど。
それでも、自分の歩は男の足どりを追っている。肺の少し下、胃の少し上辺りがざわめいた。想定外のことに困惑しながら視線だけをきょろりと動かせば、眠っていたのだから当たり前だが、男の部屋もまたすっかり明かりが落ちて暗かった。その辺りに充満する夜の色からなんとなく目を逸らし、視線を自分を引っ張ってゆるゆると歩を進める男の背へと向ける。そこで揺れる寝癖の付いたストロベリー色の髪が、少しだけ、ほんの少しだけ桃色の火に見えた。
「おい。ちょ、っと……クラウン、」
狭くはないが広くもない部屋だ、ベッドまでは数呼吸分の時間で着いた。その前で、くあ、と呑気と無防備をないまぜにしたようなあくびを噛み殺している男に声を投げかけてみるが、やはり中身のない相槌を打たれるばかりで掴まれた腕はそのままだった。そうして男はぼうっとした様子でこちらを向くと、
「は、?」
ひょいとこちらの身体を抱え上げて、自分の身体と一緒にベッドの上に放り出した。二人分の体重が同時に乗っかったベッドのばねがギシ、と鳴り、その余韻で微かに身体が揺れ動く。ゆら、ゆら。一人ではここまで揺れはしない。それに収まっていた頃の記憶など持ち合わせてはいないのに、これではなんだか揺りかごみたいだ、とばかみたいな考えが頭を掠めた。
それから数呼吸あって、男が思い出したようにもぞ、と動く。そうして自分の背の下から引っ張り出した毛布をこちらの身体に被せ、
「はい、おやすみバニティ……」
と呟くようにそう言って、自分の片手を枕にして早々に寝息を立てはじめた。腕を掴んでいた手のひらが離れる代わりに、けれども今度はこちらの身体を片方の腕で丸め込むようにして、男は何やらむにゃむにゃ聞き取れない寝言を口の中だけで発している。男の大きな手のひらが柔く肩に回って、思わず瞬きをしながら視線を上へと向けた。おやすみ? 今おやすみって言ったのか、こいつは?
「……おやすみって言われても……」
そう呟いた自分の声に、困惑はあれど嫌悪の色が見えなかったのが更に己の中で混乱を招く。おかしい。絶対におかしい。自分ほど、無遠慮に他人から触られるのを嫌う者もいないだろうと思っていたのに。なんなんだ、これは。分からない。自分はまた何か忘れてしまったのだろうか。
「なあ、クラウン、ほんとに寝たのか……?」
目を男の方に向けたままそう問いかけてみても、返事として耳に入るのはすやすやと心地よさそうな寝息ばかりだった。どうしたものかとそのまま男の顔を眺めていれば、彼の眠りを守る、髪と同じ色をしたその睫毛が光を受けては青みがかった輪郭を保っているのに気が付く。それを目にして初めて、そういえば月明かりがカーテン越しにベッドの上へと注がれていることに気が付いた。
男の腕の中でごろ、と身体の向きを変えて淡い光のやってくる方へと顔を向ける。
ベッドの後ろには、大きな窓があった。自分の部屋はないものだ。自分のところには明かり取りの小窓が天井近くに一つあるのみである。眠らないために、忘れないために、自分で在るために、眠気を誘いそうなものはできるだけ取り除きたかった。太陽を嫌って世界にヴェールをかける月光、ちかちかと夜を刻む星明かり、さらさらと子守歌を奏でる木々の葉擦れ、窓から感じられる眠りの気配そのすべてを。
だというのに。視線を窓から外して、男の方を見た。
だというのに何故、自分はこの男と同じ家で暮らしているのだろう。名前すら知らないこの男と。
男のふちどりは今、この国の冷ややかな月明かりを浴びて、暗やみの中で柔い白に浮かび上がっている。その光になんとなく触れたくなって手を伸ばしかけ、いや、どうして? やめた。
目の前の男は眠っているときですら、彼自身に笑えと嗤う魔法から解放されず、口角を上げたまま寝息をシーツの上に転がしている。相変わらず、悪趣味な魔法。ナンセンス。それでも、ああ、気持ちよさそうに眠るものだな、と思う。その安らいだ表情に眠気を誘われて、あくびを噛み殺すついでに唇を噛んだ。明らかに、この男が自分の近くにあるもので最も自分を眠たくさせるものだった。なのに、どうして、自分は。こんな。
訳も分からないまま、息を吸う。
「──名前には、何があるというの? 私たちがバラと呼ぶものは、他のどんな名前で呼んでも、同じように甘く香るわ=v
それは、向こうではそのタイトルを知らないものがいないほどに有名な悲劇、その台詞の一つ。囁くようにそう発し、眠る男の睫毛からゆるりと目を逸らした。ゆっくりと瞬きをする。身体が沈むベッドは自分を支え、その上から掛けられた毛布は柔らかく、規則的な男の寝息はまるで夜を数えるようで、身体に回るその片腕はあたたかった。目を閉じる。閉じてしまう。それからまた、少し目を開けた。
心臓の音が聞こえる。
ちょうど自分の耳が当たる場所に、男の左胸があった。そこから鼓動が聞こえてくる。とく、とく、とどこか寝息と似たようなリズムで音を取っているその心の臓に、この男が今まさに生きているのだというその証に、何故か自分の脈が少しだけずれたような感覚がした。はく、と口を動かす。けれどもそれが息を吐きたかったのか、或いは吸いたかったのかが分からなかった。あたたかい。聞きたくない。やさしい音。
「ッ、ふ、……」
視界が滲む。ばかみたいだ。これじゃあただの子どもと変わらない。夜が怖いと言って泣いて、微笑む大人に抱きしめられて眠る子ども。大人? 大人などではない、この男だって。むにゃむにゃ寝惚けて、すやすやと眠って、こんなにあどけなく寝顔を晒す大人がどこにいるのか。そうだ。どうせ子どもだ。自分たちは。いや。それではいけない。少なくとも自分は完ぺきに演らなければ。起きないと。帰り道が分からなくなる前に。
「……う、……」
肺が軋む。痛みに思わず目を瞑れば、そこからぼろ、と水滴が零れ落ちた。唇の内側を噛み締めて、その隙間からどうにか呼吸をする。音を立てないように。どうか起きないで眠っていてくれるように。
どうして。
どうして上手く演れないんだ。癇癪持ちの女王の前でだって、忙しない白ウサギ、紫煙の芋虫、姿の消える猫、トランプ模様の兵隊、この国の訳が分からない住人の前でだって、自分はあやまたず、完ぺきな、唯一無二の舞台役者バニティバラッドで在ることができるのに。何故ここでは。どうしてこの男の前では。おれは。
ぱた、とシーツに一粒染みができる。目の端から涙が一つ零れるたびに、自分の外側と内側からぱらぱらと何かが剥がれ落ちていくような心地がした。なんだ。なんなんだこれは。こんなものは知らない。こんなのは演じたことがない。分からない。おれのものだから分からない。おれのなのに。おれのだから。
「……は……」
息。
息の仕方が唐突に分からなくなって、喉を押さえる。苦しい。手を動かして、自分の左胸のシャツを握り締めた。吸えない。吐けない。痛い。苦しい。うるさい。生きていけない。眠りたくない。うるさい。息。眠りたい。うるさい。怖い。うるさい。うるさい。うるさい!
両耳を塞ぐ。苛立ちに歯を擦り合わせれば、そこから呻き声が洩れ出た。有り得ない。ケモノみたいな声。まさか自分の喉からそんなサイアクの音が溢れるなんて。演技でもないのに。自分から聞こえる、どくどくと嫌な音を立てて鳴る鼓動が近い。耳を塞いだからだ。なんでこんなに違う。何がこんなに違う。うるさい。おれの音はうるさい。目眩がする。吐きそうだ。瞼を閉じる。余計心臓がうるさかった。明け透けの音。両耳に爪を立てて、うずくまるように身体を丸めた。
「──だよ、バニティ……」
けれどもつと、自分の鼓動を通り越し、上から声が聞こえた気がして思わず両耳から手を離した。目を開け、声のした方へと顔を向ける。
「……? え……」
「ふふ……」
「ク、ラウン? 起きて──」
そう言いかけて最後まで発せなかったのは、男の片腕が先ほどよりもう少し強く自分のことを抱き締めてきたからだった。顔を動かす。目の前に男の腕が見えた。何。呆然と自分の背の方まで回っている腕を見つめて、ゆっくり息を吐き出す。あ。それから息を吸った。呼吸ができる。思い出せた。よかった。
「……だいじょうぶだよ……」
そうして確かめるように呼吸をくり返していれば、再び頭上から声が降ってきてはたとする。視線を上げた。淡く弧を描く唇の隙間からむにゃむにゃと言葉を洩らしてはいたが、それでもやはり男の睫毛は眠りのための影を彼に与えている。だいじょうぶだよ。随分はっきりしているように思えるが、それでも明らかに寝言だった。次いで、男の手がこちらの背をとん、と柔く叩き出す。とん、とん。どこか男の心音にも似たリズムでくり返されるそれに、ほんの少しだけ睫毛を伏せた。とく、とく。鼓動の音も未だ耳元にあった。
「だいじょうぶだよ、バニティ……だいじょうぶ、だいじょうぶ……」
それからややあって、男がふにゃふにゃと笑うその声がぬるい温度で降りてくる。とんとんと背中を叩いていた手のひらが、今度はそうっとこちらの頭を撫ではじめた。見上げれば、男の睫毛が微かに震える。おそらく笑ったのだろう、眠ったままで。その穏やかな寝顔になんだか無性に腹が立って、せっかくだから頬でも抓ってやろうかと自分の手を男の方へと伸ばし、けれども指先が相手の顔へと届く前に止めた。息を吐く。溜め息を。
「……だいじょうぶ、って……」
「ん〜……? ふふ……」
「……おまえ、さあ……」
呆れ返るようにそう呟けば、男はまた聞き取りにくい寝言と共に少し笑っていた。月光を受ける男のストロベリー色の髪や睫毛は今、夜の色よりもやさしい青の輪郭を保っている。不思議な色。狭間の色だ。たとえば夕暮れ前や、夜明け前のような。ああいう空の色、向こうではよく見たな。懐かしい。芝居の稽古に明け暮れて、気が付いたら夜が明けようとしていて。そういうときの空の色。まるでもう随分昔のことみたいだ。こっちではそういう空の色、見たことがないけれど。見れるのかな。見られたら、いいなあ。いつの間にか、指先は男の髪に届いていた。少し触れれば、くすぐったいのか男は小さく笑みを零す。
「はは、無責任なヤツ……」
そんな男の様子に思わず少しだけ笑い声を上げて、なんとなく、ほんとうになんとなく自身の耳を相手の心臓の位置に押し当てた。とくり。心音が聞こえる。ばかみたいにやさしい音。息を吸う。息を吐く。ああ、なんだか少し柔らかくなった。呼吸も。暗やみも。恐怖も。自分の中で騒ぎ立てるものたちも。
目を閉じる。そうしてゆっくり、そろそろと右手を男の背中へ回そうとした。どうしてだろう。分からない。でも、今日はいい。もう、それでいいような気がした。男の手がこちらの背を撫でる。目は、開けなかった。自分の手のひらは緩く握ったままで、男の背に触れる。そこはやっぱり、あたたかかった。
「おやすみい、バニティ……」
「……うん……おやすみ、」
男の寝言に返事をしかけて、薄く目を開いた。知りたいことがある。今できた。呼びたかった。
「──ねえ。おまえ、名前はなんて言うの」
その問いかけに返事はない。男は今度こそ完ぺきに眠りに就いたようで、ひどく安心したような寝息を立てていた。
「……ま、いいや」
唇が弧を描く。変な気分。その名前は分からない。分からないが、認めれば悪くはないものだった。認めてしまえば、ちっとも悪くはない。だって自分は笑っているのだ。不安と苛立ちと恐怖が男の心音に柔くかき混ぜられて、部屋の隅の方で溶け出した。また少し笑みを洩らす。ぎゅうと抱き締められて息苦しい。でも、呼吸は易かった。軋む肺も、詰まる喉も、やかましい心臓も、痛む涙も、今はもうすべて忘れていた。ああ、知りたいな。おまえ、なんて名前なの。どんな声で呼んでやろう。どんな声で呼べるかな。バラはその名でなくても甘く香るが、バラの名は呼ぶものの声によって、その響きの甘さを増すことも削ぐこともできるだろう。ねえ。
「明日、目が覚めたら訊くから……」
心臓の音が、聞こえる。
うっすらと瞼を上げて、ああ、また自分は少し眠っていたのか、と思う。それから身を起こそうとして、けれどもその身体がぴくりとも動かないことに気が付いた。まず腕が。それに脚も。視線を動かし、それを自分の手の方へと向けて、また、ああ、と思う。
今日はなんだか、昔のことばかり想い出すなあ。
いま自分の身体は、爪の先からぱりぱりと音を立てては、そこにパティシエがいるわけでもないのに、さながらつやつやのべっこうのごとくコーティングを施されはじめていた。これはなんだろう。見たところ、飴だろうか。なるほど。自分は飴になるわけだ。いや、繊細な飴細工かな。どうせなら美しいものにしてもらわなければ困る。バニティバラッドがただの飴玉になるなんて、カミサマが許しても世界は許さないだろうから。ナンセンス。ブーイングの嵐。けれどもきっと、その世界は終わるけれど。もうすぐ。彼女≠フ手によって。
彼女。
かろうじて未だ動く顔だけを、なんとか人の気配のする方へと向けてみれば、そこでは彼女が客席のいちばん前に腰掛けて、こちらを見ることもせずにその刃物にへばり付いている赤い液体を舐め取っていた。
菓子狂いの彼女が口にしているのだから血ではないだろうが、それにしても随分赤いな。あれは一体、と思ったところで、胃の辺りから何かがこみ上げてきて、堪えきれずにそれを口から舞台の上へとぶちまけた。ああ。何これ。顔の下に吐いたから窒息しそうだ。視線を動かす。それはひどく赤い──彼女がこちらのことをめった刺しにしたナイフから、今まさに滴っているあの液体とまったく同じ色をしていた。それもそうだろう。もう頭はだめだな。反吐でも血でもないものを吐き出した唇を舌で舐める。甘い。それはまさしく、じっくりと煮詰められたストロベリー・ジャムの味がした。
へえ。
おれの中にこれがいたのか。笑いがこみ上げてくる。痛みは酷いが、それでも不満はない。そう。おれの中にこれが。はは。声を上げられればよかったのに。よくも晒してくれたな。こんなおれの中身をよくも。ああ、
──見てよ。これ見て、おまえ、笑ってくれよ。
ああ。
ねえ。
笑わないで。
笑わないでくれ。泣いてくれ。おれのために、泣いてくれよ。どうせおまえは逃げないんだから、もうそんなこと最初から分かってたんだから、今、おれのところまで来て泣いてくれよ。自分の中からおまえをぶちまけたおれを見て泣いて。看取って。泣きながらおれのことを食べて。それで、おれたちまたひとつになって、一緒にいこうよ。ちゃんと落ちてきて。おれは常日頃カミサマになんて祈らないが、こんなときくらい、さいごくらいは祈ってやってもいい。
おまえの魔法が解けるといいなあ。おれを想って泣くために、おまえの魔法が解けるといいなあ。あんなつまらない笑い顔を貼り付けさせる魔法を、カミサマ、解いてくれないかなあ。おれは見たいよ。おまえのほんとうの顔を見たい。見たかったなあ。ねえ、カミサマ、聞こえてる?
息を吸う。言葉を吐くために開いた唇から、再びがぼりとジャムが溢れた。言わせて。お願いだから。さいごに呼ぶのはおまえの名前がいい。
名前。
そう。
名前、?
目を見開く。名前。おまえの名前。名前が口にできない。出てこない。言葉にならない。思い出せない。一文字も。思い出せない。どうして。なんで。強く押し付けられるような衝撃があって、舞台の上に伏せた。開いたままの口から、身体に空いた穴の数々から、もう止め処なく真っ赤なジャムが溢れ出した。このジャムの名前も思い出せない。これが身体から出ていくたびに、流れ出した分だけ、何もかもが薄れていく。顔の輪郭。目の光。髪の色。手の大きさ。笑み方。唇。ああ。分からない。嫌だ。ねえ。思い出せない。おまえのこと、思い出せない。忘れたくない。ひとりではいけない。おれはひとりではいけないのに。どうして。食べたから? ころしたから? なあ。でも。だったらおれたちは共犯だ。おれたちはひとつだ。ひとつのいのちだ。だから。ねえ。返せよ。返せ。返せ! 返して!
がぼ、とジャムの海が広がる。海。その言葉から鮮明に水平線の輝きが蘇った。ブランカスター・ビーチ。ノーフォーク。イギリス。おれの生まれた国の名前。スポットライトは未だ自分を照らしている。ああ。ハー・マジェスティーズ・シアター。拍手喝采。あの公演は大成功だった。ママとパパからの賛辞も鳴り止まない。あの二人は自分のことを褒めすぎるのだ、いつも。まあ、悪くはないけれど。だって実際のところ、それが事実なのだから。おれは生まれながらにして完ぺきで最高の天才役者、バニティバラッドだ。演劇のバケモノ。舞台の上でしか生きられない。そのための努力なら惜しむところを知らない。あのスポットライトを浴び続けるため、観客の世界を変え続けるため、その方法を忘れないため、おれがおれで在るため、こうしてずっと踊り、歌い、演じ続けてきた。おれのいっとう好きな舞台の台詞が蘇る。ああ、失くしてからずっと気が狂いそうだったよ。家族の名前も喉から歌い出せる。自分の本名も。ママ、パパ。ほら見て、リバティ・バロックは今日もバニティバラッドを演じきったよ。バニティバラッドは最高だ! 声が聞こえる。大衆がおれを讃える声が。おかえり、バニーちゃん。ママの笑う声も聞こえる。コーヒーの香り。エスプレッソ。パパの好みだ。こちらを振り返って、やさしく笑う。おかえり、リバティ。ありがとう。でも。
ごめんなさい。全部いらない。
全部いらないよ。ほんとうに。だから返して。おれのいちばんたいせつなものを返して。おれのおまえを返して。おまえを返して。お願いだから。バニティバラッド! 観客の声。リバティ! 両親の声。うるさい。いらない。うるさい! 動かないはずの手を動かして、ただもがく。幕が下りるあの独特な音がする。嫌だ。やめろ。やめてくれ! 置いていけない。ひとりではいけない。置いていきたくない。手を伸ばす。スポットライトが消えた。お願いだ。なあ。
ああ。
そうか。
今、分かった。
分かった。今さら分かったよ。そうだ。そうなんだ。ずっとそうだった。聞いて。ねえ。聞こえる? 聞いていて。おれはさあ。おれは。
おれは、おまえのことが何より、世界でいちばん、
「──だいじょうぶだよ、バニティ」
けれど、ふと、懐かしい声が聞こえた気がして、少し笑った。ばかみたいに、やさしい声。何も見えないまま、それでも目を細める。
ああ、そうだよ、おまえがいるなら。おまえがいるから、おれは。なあ、聞こえる? 憶えてる? おれのこと、憶えてる? おれは憶えているよ。おまえの名前を忘れても、顔を目を髪を手を声を、その心音を忘れても、おまえのことを憶えているよ。ねえ、だからちゃんとここまで来て。ここに来て、おれのために泣いて。
生きて。
いや、来て。
聞こえてる?
何もかももう動かない。でも、なんだかもうすぐおまえが会いに来てくれるような気がして、だから。眠るためにそっと、この目を閉じた。
憶えていて。
──明日、起きたら名前を訊くから。
おやすみ、神さま
Strawberry Vanilla Ice cream
2020221 執筆
…special thanks
トロベリー・クラウン @橋さん