オズワルドの唯一無二


 光が諸手を伸ばし、こちらを包み込む。
 少年はその光の一切合切を受けて、舞台の上、自身の存在をより確かに輝くものとして昇華させた。太陽の振りまくそれよりも激しく身体を刺す白色は、けれども決してその身を焦がすことはない。殺されるのは、いつでも舞台の向こう側、観客席に座る人々だった。少年ではなく。
 壊すのだ、観客たちの彼らが今まで保ち、信じてきたつまらない価値観を。殺すのだ、今日の舞台を知らずに歩んできた、昨日までの彼らとその世界観を。
 今、最後の一瞬を描く少年の指先が、最もたましいに近いものになる。
 おのれのすべてをすっかり舞台に捧げるこの瞬間が、何よりも激しく、何よりも愛しいものだと、少年は今までの自身の生をすべて賭し、そう信じてやまなかった。少年はその睫毛の微かな動きにすら心を宿して、降りる幕の繊維が床につき、向こうとこちらが完全に分断されるまで、完ぺきにこの演目が終わりを迎えるまで、自分ではない、たった一人の誰かを演じることを止めない。もしくは、止められなかった。幕が上がっている間、少年が演じる舞台の上にはいつでも、ただ単に役者と舞台装置ではなく、ここではないどこかで、いつかの時代の誰かが命を与えられ、心をもち、息をして、生きているのだ。確かに。
 そんな少年がやっと演じることを止められる、或いは、演じる役からたましいを引き剥がし、役者としての自分の方へと入れ換えることができるのは、幕の向こう側から割れんばかりの拍手の音が鳴り響き、自分へのカーテンコールを求められたときが初めてであった。
 そうして、厚い布を隔てているのにもかかわらず、鼓膜を破る勢いで打ち鳴らされる音音音に、少年はようやく、ここがロンドンのハー・マジェスティーズ・シアターの舞台上であることを思い出した。瞬きを一つ、呼吸を半分。彼は今しがたまで身に宿していた自分ではない誰かの人格を、まるで早着替えでもするようにするりと脱ぎ捨てると、自分が役者としていっとう美しく見える笑みを無意識にも近い感覚で顔に浮かべ、観客たちの拍手に応えるべく、舞台の真ん中に立つ。ライトの色が先ほどの白から淡い橙へと変わるのを感じて、少年は浮かべた笑顔の色をもう少し柔らかく見えるものへと整えた。
 それから、あの独特な音を立てて、幕は上がる。あちらとこちらの境界線が曖昧になり、また世界は一つになろうとしている。再び開くために瞼を閉じれば、演じきったことに対する甘美な達成感と高揚感が自分の足元をふわりと軽くして、なんだかどこかへ落ちてしまうような心地がした。
 観客と対面しようというのに、これではいけない。少年は目を開け、笑んだまま上がりつつある幕の音を聞いた。ああ、けれども。けれども、確かに今日は、自分が今まで演ってきたどんな演目よりも至上の出来栄えだったのだ。十四、数えで十五となる、まだ幼いと言っても過言ではないこの少年が、そんな自分だけのために唸りを上げる大喝采と自分だけを照らすライトの色に多少酔いしれるのは仕方のないことかもしれなかった。
 光が満ちる。幕は上がりきった。
 そして、そのとき、少年は今日初めての瞬きをした気がした。
 ──どこだ、ここは?
 すべての観客が立ち上がり、独り舞台を見事演じきった少年へと轟音の拍手喝采を送っている。それは彼が完ぺきにその役を演じたからではなく、彼の演技が観客たちの世界を壊し、昨日までの彼らを殺し、その心の在り方をまた一つ変えたためであった。けれども、そんな光景自体は、この少年役者にとっては日常茶飯事で、当たり前で、彼が自らを役者と名乗り舞台に立つ以上、そう在らねばならないものなのだ。それが、役者として少年が胸に掲げる揺るぎのないほのおのような矜持だった。そう、観客がこちらへ送る巨大な波さながらの拍手や、暗やみでも分かるほどに興奮ぎみに上気した頬やそこを伝ってこぼれ落ちる涙、そういった類の観客の反応自体は、彼にとってあえて今さら特筆すべきことでもなかった。
 少年にとって問題なのは、それ以外のすべてである。
 手を打ち鳴らし続ける観客たちにそうとは悟られないよう、少年は客席の隅から隅までを視線でなぞり、辺りの様子を窺った。
 誰だ、こいつらは。いや。
 なんだ、こいつらは?
 目の前に広がる光景に、少年は背筋を虫が這い、頭の中の糸が幾つか切れるのを感じる。卒倒しそうになるのをなんとか堪え、引き攣るどころかぎゃあと叫び声を上げようとしている唇を無理やりに、賛美を一心に受けるための笑みの形で保った。少年は自分の赤い血が混乱と動揺で青く染まって逆流するさまを思い、それでも目の前の観客たちへと向かって大きく両手を上げ、スポットライトよりも激しく押し寄せる熱賛を甘んじて浴びてみせる。
 彼は舞台の端から端へと歩を進め、狂おしいほどに賛美の音を生み出し続ける人々へと、どこか子ウサギを連想させる動きでファンサービスを返しながら、とにかく自分の視界から情報を得ようとした。
 少年の視界に映る景色の有り様は、とてもこの世のものとは思えなかった。
 まず、どう見てもここは、ハー・マジェスティーズ・シアターではない。大きさがまるで違うのだ。規模が小さい。この自分が立つ舞台の在る劇場に、三階席どころか二階席もないとは! そんなもの、天地がひっくり返ったとて有り得ない話だ。一体全体、誰を捕まえて演らせていると思っている? あの美しい黄金色の壁と真紅の客席はどこへ消えた? 見渡す限りは分厚く塗りたくられた白の壁に、陰気な黒の客席のみ。狭い劇場に、色の使い方も分かっていないような美術、思えばこのスポットライトもいつの間にか橙にはほど遠い桃色に変わっていた。桃色と形容するのさえ腹立たしい。マッド・ピンクだ、こんなものは!
 靴を踏み鳴らし、混乱も困惑も動揺も怒りもすべてないまぜにした叫び声を上げ、すべてを投げ出し失神でもしてやりたい気持ちを抑え──と言うより、気を抜くとほんとうに気を失ってしまいそうだった──自我を強く保ち、少年はまた目を走らせる。何回見ても、結果は変わらない。他のどれよりもおかしいものは一つで、複数だった。
 観客。
 それがなにしろ酷い。おかしいという言葉以外に、現状を当てはめることが今の少年にはできなかった。
 たとえば、今いちばん力強くこちらへ拍手を送っている観客の一人は、さながらペロー童話に出てくる青髭のイメージを具現化して、そのまま現実に放り出したような姿をしている。そして今泣きすぎて客席の前に頽れた観客の一人は、細身すぎる身体に青ざめた肌をして、それは昔読んだ絵本の表紙に描かれるアンデルセンの雪の女王によく似ていた。では、いま上に掲げた両手を独特のリズム感で鳴らしている観客の一人は、その逸脱した不気味な雰囲気から、反射的にメフィストフェレスを連想させる。他にも、やたら四角い服を着たトランプみたいな客。全席終日禁煙のはずが、あろうことか水煙草を持ち込んでいる芋虫。ふてぶてしい猫。割れかけた卵。白いウサギ。悪趣味な帽子。エトセトラ。
 とにもかくにも、挙げていけばきりがない。どの席を見やっても、その前に立つ誰も彼もがぎりぎり人の型にどうにか嵌まっている、といった具合の見目をしているのだ。観客がいきなり全員特殊メイクをするはずもないが、そうとしか思えない光景だった。もしくは、ファンタジー映画のコンピューター・グラフィックスが自分の視界に埋め込まれたか。我ながら馬鹿げた発想だが、そちらの方がまだマシに思える状況だった。
 再び幕が上がり、何かどころかすべてがおかしいと気が付いてから、少年の頭は秩序が乱れて熱く沸騰したのちに、しかし自分の演技だけは──他の何が狂おうとも、ただそれだけは普段通り最高で完ぺきなことをこの拍手喝采で知らされると、今度は思考が急速に冷やされ、混乱したままに彼らしい静けさを取り戻した。それは酷い吐き気を催しながら、けれど悪態をついて舌打ちをするようなものである。
 ああ、有り得ない。悪い夢だ。ナンセンス。そうでなければ説明がつかない。ただ──そうだとしたら、どこから夢だった? 今日の演目、至高の出来栄えだった自分の舞台。それを演じきった事実すら、本物ではなく、この現実から離れた場所での空想なのだろうか。まさか、そんなわけはない。だって、先ほどまで自分は確かにハー・マジェスティーズ・シアターの舞台に在ったのだから。役者ならば誰でも知っているだろうロンドンの歴史的劇場。そもそも、ここはロンドンですらないのではないか。いいや、それよりも、これが真実夢であるならば、自分はこの場の不可解さになんの疑問ももたず、目が覚めるまで壊れたままの拍手喝采を享受するのではないだろうか。そんな思考とは裏腹に、意識も感覚も鮮明に身体の中にある。その中でも嫌悪感や恐怖、そういった嫌なものばかりが妙にはっきりとしているように思えた。
 少年は思う。今まで生きてきた中で、演劇と共に在ったわが人生の中で、こんなにもカーテンコールの終わりを望んだことはない、と。聞かないようにしていた心臓の音が、次第に存在を増し、自分の皮膚を内側から殴っている。人間味のない観客へ、送りたくもないファンサービスを訳も分からないまま送り続けるこれが更に長引けば、もうほんとうにどうにかなってしまいそうだった。呼吸の仕方を忘れかけて、一瞬だけ振り返す手が固まる。背中に嫌な汗が伝うのを感じた。なんでもいい。とにかく早く明かりを点けてくれ。早く!
 瞬間、劇場が少年の懇願に応えるように、客席の点灯を始めた。後ろから順にぽつぽつと灯っていく明かりに、彼は心底ほっとして、早く逃げろという鼓動の声を一度黙らせると、とびきりの笑みをその顔に浮かべ、客席全体に向けて両手を振った。これだけのアプローズ・オーケストラだ。とにかく嬉しくて、楽しくて堪らないといった表情をしていればいい。そうして少年は片手を指揮者さながらに上へやると、ふわりと腰を折って、上げた手で弧を描いて観客たちへとお辞儀をした。それからぴょんと顔を上げて、ピースサインをした右手の二本指を少し折り曲げてウサギを模し、ぱちりと悪戯っぽく片目を瞑ってどこか跳ね踊るように舞台袖へと去っていくのが、彼式のはけ方であった。
 拍手が未だ鳴り止まないまま、けれどそれよりも大きな音で響いている自身の心臓を抱えて、少年はその日の公演を終わらせた。精神的には、舞台の上から逃げ出した、と表現しても差し支えはない。少年の決して長いとは言えないが、しかし物心ついた頃から演劇の世界へとおのれのすべてを捧げていた人生において、こんなことは初めてであった。
 それこそ、悪い夢だ。
 彼自身、ありようもないと思っていた。


 そして、そんな少年は今、ぐねぐねと蛇行している白黒のタイル道の端で、半ば呆然と立ち尽くしている。
 目に映る景色は、たとえるならばそう、まるで白黒映画に無理やり色を付けたようだった。しかもそれは、自然な色彩ではない。彼が今どうにか立っている道の後ろに生える木々は、その枝葉がどんな季節でも見られないほどに鮮やかな緑をしていた上、そこにぶら下がるリンゴらしき木の実も、蜜でコーティングでもされているかのようにつやつやと輝き、色はといえば宝石のごとく真っ赤であった。絵の具をぶちまけたみたいに一色なのだ。そこに赤以外の色はない。
 ふらふらと歩いてきたこの舗装路ですら、途中で階段が見えたから近付いて中を覗き込んでみれば、それは出来のよすぎる騙し絵であったし、途中に設置されていた案内看板らしきものなどはもう、上書きに上書きに上書きが重ねられていて、ただ黒いだけの板と化していた。
 辺りは物が散らかっているわけでも、罵詈雑言を吐く者がいるわけでも、悪臭がするわけでもなく、一見するときちんと整えられて上品にすら思えたが、しかしその輪郭の内側には鮮烈すぎる色彩が塗りたくられて、そのはっきりとした白黒に対して激しすぎる差し色が、わざわざ景観の品位を落としているように見えた。言わば、ここはどうにもアンダーグラウンド的なのだ。少年はずきずきしてきた頭に強めの瞬きをして、息を吐く。好奇心は猫を殺すということを彼は知っていた。少年は悪戯に歩を進める選択はせず──その気力もない──目眩のために霞む視界を凝らして、周りの様子を窺った。
 最早どのようにして劇場から出てきたのかすら思い出せないが、馬鹿げたことに、とにかくこの場所がロンドンでもなく、イギリスでもないことだけは分かった。重力はあるようだが、地球であるかさえも怪しい。彼は、ぞろぞろと劇場の出入り口から帰っていく先ほどの観客たちを眺めて、ぶるりと震える身体をひた隠すために腕組みをした。今しがた自分がいた劇場すら、天地がひっくり返った外観をしている。
 道の端に立つ自分の前を、観客たちが過ぎ去っていく。誰も自分が先ほどまであの拍手喝采を受けていた役者本人であることには気が付かないまま、それぞれの靴音を鳴らして遠ざかっていった。
 そして、そのさまに、少年は微かに胸を撫で下ろす。世界的名優と名高い彼は、しかし、その演技力を以って民衆に扮するのがひどく得意であった。故郷のロンドンでも、それ以外の公演に訪れた街や国でも、あの役者だから、という理由で声をかけられたことはない。それは、背後に自身の姿が大きく取り上げられている公演のポスターが貼られていようが、モデルの仕事をした際の広告看板が建っていようが同じことだった。役者である自分を演るのを止めているのか、それとも、一般人を演じているのか少年自身もう分からないが、それでも彼は気付かれない=B生まれてから、一度も。それはこのおかしな場所であっても、変わることのない事実のようだった。
 ──だと、思っていた。
「ねえ、ねえ!」
 声が響く。人の波が落ち着いた頃、唐突にそう聞こえてきた誰かの呼びかけに、けれど自分宛ではないだろうと思いながらも、少年は顔をそちらの方へと向けた。
「──キミの演技、すごいねえ!」
 そして、そう発した声の主と、驚くべきことに少年は目が合った。
「え?」
「俺ね、ホント、最後の方しか観られなかったんだけどねえ? それでも、キミの演技がきらきら……ぴかぴか? とにかくすげーってのは分かったよう! あっ、それでさ〜! キミって、どこから来たの?」
 にこにこと形容するよりはへらへらといった具合の笑みを浮かべ、のんびりとした口調でそう話す声の持ち主は、明らかにその言葉を少年の方へと向けて発していた。そんな様子に彼はいよいよ困惑し、返事もできないままに相手の方をじっと見つめる。
 それは、一人の青年だった。
 人生で初めて、民衆に紛れるこの少年のことを真実役者であると見抜いたのは、たった一人の青年だったのだ。彼もまた見た目にしてみれば十六から十七歳といったところであるから、未だ少年と表現する者もいるかもしれないが、しかし役者少年からしてみれば、目の前の彼はすらりと背が高く、青年と形容すべき見目をしていた。
 少年にとって、先ほどから当たり前を覆され、二転三転をくり返している自分を取り巻く状況の中で恐怖を覚えなかったのは、果たしてこれが初めてであった。彼は組んでいた両腕を解き、眼前に在るミントブルーの瞳を見やる。青年はそんな少年のまなざしを受けると、問いかけに対して無言を貫いている相手を前に、少しだけ困ったような失敗を自覚したような笑みを浮かべて、その視線をゆるゆると斜め上の方へと向けた。それを目にした少年ははっとして、
「ろ、ロンドン」
 と、だけ反射的に呟く。青年のまなざしが一瞬だけ喜色を帯び、少年の方へと戻ってきた。
「ロンドン……? それって、もしかして……」
 ぱちぱちと瞬きをして首を傾げる青年に、少年は緊張でどきどき言う心臓をなんとか黙らせるために両の手を組み合わせた。そう、ロンドンだ。分かるだろう。
「──俺の知らないトランプの名前?」
「は……?」
 多少乞うような瞳で、相手の言葉が継がれるのを待っていた少年は、青年の口から発せられた見当違いな返答に思わず眉根を寄せた。そうして組んでいた両手をほどき、片手を支えにして彼は頬杖をつく。ロンドンがトランプの名前ではないことはまず間違いないが、目の前の青年はロンドンのことをトランプの名前だと認識しているようだった。ということはきっと、この場所にロンドンは存在しない上、それならばイギリスもトランプの名前にされてしまうのだろう。
 少年は指先で唇を触ると、少し唸り、睫毛を上げて相手の方を見た。
「おかしなことを訊くかもしれないが、その……ここは一体どこなんだ?」
「えっ、ここ? アハハ、ここはジョーカーの国だよう!」
「ジョーカー、の国?」
 そう単刀直入に問えば、青年の口から聞いたこともない国の名前が飛び出てくる。その言葉をおうむ返しするのと同時に、頭の中でも反芻した。ジョーカー。道化師の意。トランプのババ。或いは切り札。アメリカン・コミックの有名な悪役の名前。まずい、また目眩がしてきた。結局のところ、名前が付いただけで、ここがどこかは分からないのだ。いずれにしても、自分の理解の範疇を超えている。
「ウン。って、あれ? さっきキミが出てきた劇場も、ホラ、女王さまのヤツだよねえ? この国の女王さま! 分かる?」
 そんな彼の心境など知る由もない青年は、にっこりと頷いた後、しかしそう言って首を傾げた。その問いかけに物を言う気力も失せかけている少年は、ゆるりとかぶりを振ることによって青年へと答えを返す。少年の返事に、青年は自身の首を今度は反対側へと傾けた。
「ええ? じゃあキミって、アリスちゃんなのう?」
「アリス……? いや、おれはそんな名前じゃないけど」
「んん〜? じゃあ、キミは誰?」
 ジョーカーの次はアリスか。少年は唐突に投げかけられたアリス、という人名に心の中で疑問符を浮かべる。アリスと言えば、アリス・イン・ワンダーランドだろう。何故そんな名前がいま青年の口から出てきたのかは分からないが、役者としての自分の名前にも本名にも、アリスという単語は少しも掠らない。悪い夢に翻弄されている、という点では当たらずといえども遠からずかもしれないが。
 ただ、自分以外を指す名で自分のことを呼ばれるのは多少不愉快である。少年は青年の方を見上げ、背筋を伸ばしてはきちんと礼のかたちを取った。
「──おれはバニティバラッド。舞台役者だ。世界最高にして、唯一完ぺきの、な」
 最後の言葉は心の中に留めておくつもりだったが、おかしなことに口を突いて外へと出てしまった。これではとんだナルシストだ。実際のところ、それが本音であるのだが。
 そこまで考えて、少年はそうか、と思う。そういえば、今は何者も演じていないのだった。言わば自分は今、ただのリバティ・バロックである。バニティバラッドという名前で役者をしている、ただのリバティ。だとしたら、本名を名乗るべきだったかもしれない。いや、けれど、目の前の彼は自分のことをバニティバラッドだと認識して話しかけてきたのだから、役者としての名前を名乗るので正しいのか。少年は胸の内で首を振る。また混乱してきた。リバティと呼ばれることなどもうほとんどないのだから、これでいい、きっと。
「バニティくんかあ……いい名前だねえ」
 るんるんといった声色でそのように発する青年に、少年はぐるぐる回る思考を一度止め、相手の表情を見る。視線が合えば、青年は今しがた自然に細められていた水色の目を、もう少し分かり易い笑みに見えるよう弧を描かせて、口元なども更ににんまりと歪ませた。そんな、どこか顔の上からシールでも貼り付けたみたいに見える笑顔をなんとなく不自然に思いながらも、少年は片手をひらりと動かした。
「それで、おまえは?」
「えっ、俺……?」
「ああ。名乗られたら名乗り返すモンだろ、フツー?」
 まるでそんな質問が自分に向けられるとは想定していなかった、という色を目の中に浮かべる青年に、少年は心の中だけでなく首を傾げた。向こうから、誰、と訊いてきたのだから、名前を教え合うことに何か特殊な段階が必要なわけでもなさそうだったが、細かなことは分かるはずもない。そも、こちとらはじめから訳が分からないのだ。少年は青年の言葉の続きを待った。
「あ、ええっと……俺は、……俺は、笑えるクラウン、かな?」
「笑える、クラウン?」
「……そう、俺は笑えるクラウンだよう。アハハ!」
 宙に浮いたようにどこか自信なさげに、けれどもお調子者さながらのけらりとした笑い声を上げた青年に、少年は確かめるようにゆっくり瞬きをして、空気を吸い込みながら腕を組んだ。それは恐怖からではない。そうして彼は青年を見、その姿をはっきりと目に映した。
 そう何歳も変わらないだろうが、黒い軍服さながらの服装をしている、手足の長いすらっとした体型に大人びた顔つきの青年は、やはり自分よりも年上に見える。そんな彼と対面して恐怖を覚えなかったのは、劇場内にいた観客たちに比べると、その見た目がほとんど人間と変わりなかったからかもしれない。頭のてっぺんから黒いウサギの耳が生えている、ということを除けば。というより、もしかしたら彼は、そのウサギの耳があるために、実際の身長よりもずいぶん長身に映るのだろうか。少年はヒールの高いブーツを履いている自分の足元を見、心の中で溜め息を吐いた。まあ、自分よりも上背があることは確かなのだが。
 そして、そのような青年のもつの癖っぽい髪の色は少し不思議で、全体的に桃っぽい赤、ストロベリー色であるのに、毛先に向かうにつれて淡い紫、涼しげな青へと変色するグラデーションになっていた。瞳は毛先の青よりも鮮やかな水色で、少年は蛍光色にも見えるそれを前に、夜になったら暗やみで光りそうだな、などと感じるところもあった。手の色に比べて顔の色が不自然に白いのは、おそらく化粧をしているのだろう。そういえば、特徴的な黒子が右目の下に一つ、左目の下に二つ──こちらは縦に並んでいる──あるな、と思っていたが、だとしたら、これも描いたものなのだろうか。ただ、それよりも、ぺったり張り付いた笑みを更に強調させている、唇から大きくはみ出して弧を描いている真っ青な口紅の方が気にはなった。
 だから、つまり、この青年を不自然に彩る白塗りや口紅、そして不可解な笑みはなんのためにあるのかというと、それは。
「……じゃあ何、おまえ、曲がりなりにも役者ってワケ」
 少年は腕組みしたまま、片手の指先を腕の上でとんとんと叩く。唇を引き結んでは眉間に皺を寄せ、考えるように目を眇める少年は、どこか不機嫌そうにも映る表情をしていた。
「クラウン。それって、サーカスで道化を演じる役者だろ。でも……その割には、ずいぶん下手くそに笑うんだな。なんで?」
「え、あっ。ごめんねえ! 俺、なんかヘンだった? んん、おかしいなあ、女王さまはこれで満足してくれたハズなんだけど……」
「そうじゃなくて。なんでおまえ、好きでもないのに演ってんの?」
 それは、皮肉でも冗談でもなく、ただ純粋で、真剣な疑問だった。この役者少年にとっていま最も重要なのは、ここがどういった場所なのかよりも、自分が置かれた状況がどのようなものなのかよりも、青年の見目が明らかに人間であるのにもかかわらず、頭にウサギの耳が生えている理由は一体なんなのかということよりも、どうして青年が好きでもないのに役者をしているのか、その一点のみに絞られていた。
 そして、そんな少年の苦味も酸味もそのままに差し出される、打算のない透き色のまなざしに青年はぱちくりと瞬きをくり返す。それから互いに視線をかち合わせて、十秒の少し手前。青い口紅を引き連れて形だけの笑みを浮かべたまま固まっている青年に、少年はしびれを切らして相手の顔の前で片手の指先を軽く鳴らした。パチン。パチパチ。親指と人差し指の間から弾き出された小さな火花に、青年ははっとしたように顔を上げ、
「……ここの女王さまの命令で、俺はいつも笑ってんだあ。……あっ、」
 と、発してから、目を見開いて再び幾つかの瞬きをした。しまった、というように口元に手を当てていたが、やはりその唇は弧を描いている。
「言っちゃった……アハハ!」
「は……別に、口外したりなんかしない」
 ほとんど楽観的にも聞こえる声色でそう発する青年の言葉に、少年はきわめて平坦な口調でそう返した。実際、第三者に話す気もなければ、話す相手すらここにはいない。彼は少しだけ呆れたように緩くかぶりを振った。
「……命令、ね。つまりそれって仕事で笑ってるってことだろ。でも、今のおまえ、どう見ても仕事中には見えないけど。仕事とプライベートは分けるべきだろ、おれの言えた義理でもないけどさあ。そういうのって、ああ、海外ではブラック企業、って言うらしいぞ。好きじゃないなら、別の職場探せば?」
「んー……ブラックきぎょう。それって、変ってこと?」
「変っていうか……ナンセンスだろ、過剰労働は」
「ううん……」
 当然といえば当然だが、少年の頭や心は未だ混乱と動揺の糸で支配されており、それらは彼の中で多少支離滅裂なタペストリーを織り上げていた。口調や態度はひどく冷静に見えても、少年自身、青年に向けて何を言っているのかがよく分からない。ブラック企業など、今出すべき単語でもないはずだ。
 こちらの言葉を聞いて、青年は口元に人差し指を置き、考えるように視線を上へとやった。そんな相手の様子を見て、ほら通じるわけもない、と自分自身に溜め息を浴びせかけていれば、つと青年がそのまなざしを元に戻して、にっこり笑みながらふるふると首を左右に振る。
「でもでも、俺の決められた役割なんだあ、コレ! 女王さまは、笑うの大好きだからね!」
「はあ、笑うのが? ふうん……」
「うん! ほら、見て──」
 怪訝そうに眉根を寄せた少年に、青年はこくりと頷く。そうして彼の長い指先が何か遠くにあるものを指し示そうとし、
 ──けれどもそれは、タイルの道を叩く大きな靴音によって有耶無耶にさせられた。
 ずかずかとタイルを踏み割らんばかりの強さで歩を進めているのだろうその音に、二人はぴたりと動きを止め、ほぼ同時にその唇も引き結んだ。それは奇しくも、互いに笑みの形で。
 しかし、常に笑みを貼り付けているらしいこの青年はともかく、少年が自身の顔に微笑みを浮かべたのは、視界の隅に映った靴音の持ち主が、劇場内で大音声の拍手をこちらへと送っていた、あの青髭男だったためであった。それに気が付いた彼はすぐさま、目の前の青年と話していたときと比べて、半ば空気に溶けるような呼吸をし、当たり障りのない笑みをその表情に宿す。きっと、こちらへと歩いてくる青髭に自分はいたって平凡な、その辺りにいる住人と同じように映るだろう。先ほどの舞台役者とは気付かれないはずだ。見た目で人を判断するのも癪だが、今は人を見た目以外で判断できないのだから仕方がない。なるべくああいった見目の者とは関わり合いになりたくはなかった。
 そして、そんな彼の想定通り、青髭さながらの大男はこちらを気にも留めることなく通り過ぎていく。
 そう、少年のことは。
 そもそも、青髭の狙いはそちらにあったのかもしれない。音を立ててタイル道を闊歩していた大男は、はじめからそうするつもりだったのだろう、青年の横でぴたと足を止め、身体を傾けては相手の顔をずいと覗き込む。どうやら自身が男の眼中にないことを悟った少年は、青年と青髭男を交互に視線で見やり、息を潜めるようにした。
 螺旋を描く白黒の瞳孔をした青髭のぎょろ目が、青年を捉えて歪な三日月形になった。その太く大きな指の手のひらが、がつ、と青年のストロベリー色をした頭を掴んで、ぐしゃぐしゃと掻き回す。足元まで揺れるように重く、それでいてどこか粘っこい笑い声を立てて、男は青年の背をばしん、と叩いた。オウ、おまえ、トロッちいジャムかけバニーじゃねえか! 青年へとそのように発した男の言葉選びもだが、それよりも声色にねちゃねちゃと不快感を覚える。自分の投げ付けた悪意を悪意とも思えないような響きに、少年は耳を塞ぎたくなる気持ちを抑えて、青年の表情を盗み見た。不気味な大口からぶつけられる、笑えない冗談やからかいの幾つかを受けても、彼は未だ笑みを絶やさない。次いで、青髭を視界へと映す。見れば見るほど、恐怖で息が詰まりそうだった。少年は震えそうになる両脚をどうにか奮い立たせるため、組んだ両腕の片方に、ぎり、と爪を立てる。
 そして彼は息を吸った。舞台の上に立つときと、同じやり方で。
「──まあ、ジェントル! もしかしてアナタは、先ほどワタシの舞台でいちばんの拍手をくださった方では?」
 胸に片手を当て、残った方を青髭の方へと差し出す。そう言った少年は呼吸の仕方を少し変え、それから口角の角度、睫毛の高さ、まなざし、所作、彼を構成するものの在り方をほんの少しずつ変化させた。ただの一般市民であった彼は今、先ほど舞台の上で拍手喝采を浴びていた役者へと、宙を満たす空気すらも気が付かないほど自然に着替えてみせたのだ。
 唐突に眼下から声をかけられた大男の視線がぎょろりと動き、少年の方を見る。目が合って、だから彼は微笑んだ。甘やかに、それでいて華やかに。こうして目の前に在っても、決して手の届く存在ではないということを、漂う香水の気配に匂わせるように。
 こちらを見る男の顔がみるみる赤みを帯び、螺旋の瞳孔が驚きに見開かれる。その額から汗が噴き出し、動揺を隠すこともできないのだろう、忙しない瞬きがくり返された。男はかの少年役者へと何かを発そうと大きな口をぱくぱくと動かしたが、想定外のことが起こると言葉に詰まる性質なのか、結局そこから何か言葉が生み出されることはなかった。
 焦ったように服の裾で手のひらを拭った青髭の挙動に、少年は男が何を望んでいるのかを察すると、自身の両手を差し出して相手の大きすぎる片手をぎゅ、と握る。大きな拍手をありがとう。楽しんで頂けたなら本望です。そう笑いかければ、青髭はその顔を喜色に一面満たして、ぶんぶんと頷く。そうして少年の手が離れた瞬間、男は恥ずかしそうに慌てて走り去っていった。
 そんな青髭男の後ろ姿を見送り、相手の姿が完全に見えなくなったところで、少年の肌が一斉に先ほどは押し殺していた恐怖で粟立つ。彼は、ぶる、と震えた指先を背に隠して、呆れに見せかけた安堵の溜め息を地面へと落とし、そうして青年の方へと自身の顔を向けた。
 青年は、大男が去っていった方角を何故か自分よりも呆然と見つめ、相変わらず口元に笑みを浮かべたままだが、それでも驚いたように硬直している。そんな相手の姿を目に映して、良い意味で少しだけ気の抜けた少年は、再び青年の顔の前でパチンと指を鳴らした。
「……で、何を見ろって?」
「え? あ! あー……えっと、今のはもうよかったの? かなあ?」
「今の? だって、ファンサービスは済んだだろ。そもそも、話の途中に大声で入り込んでくるヤツとか、程度が知れてるし……」
 はあ、と胸を撫で下ろしているのを悟られないよう、少年は腕を組んだまま平然と手のひらをひらりと振る。そんな彼の心はいま先ほどの男から生み出された恐怖と動揺と焦燥によって及び腰であったから、近付いてこようとしているもう一つの、さっきよりも大きな影の存在に気が付かない。
 そして、少年がその存在に気が付いたのは、それが彩度の高い光を辺りに撒き散らし、一聴して陽気に思えるが、しかしどこか不安定で心の均衡を崩すような音楽を垂れ流しては、ぐらぐらと地面を揺らしながら自分の前を過ぎ去っていった後が初めてだった。どこぞのテーマパークの光と楽の音で彩られる夜のパレードを模したようなそれは、けれどもこの蛇行する道と反道徳的色彩に相応しく、どこか病的かつ唯美的である。音楽の姿を真似てはいるが何かを一つ二つ踏み外してしまっているその轟音は、未だうら若い少年にとっては酷いノイズ音にしか聞こえない。彼は遠ざかっていくそれに思わず顔をしかめると、
「何、うるさいな……」
 と呟いて、耳を塞ぐ力もなく、唇の間から疲弊の色が滲む吐息を思わず洩らした。
 そんな彼の前で、青年は思い出したようにぱちん、と自身の両手を合わせて頷く。そうして今しがた子供心をすり減らさせたパレードが消えていく方角を指差すと、少年へと向け、半ば弾むような声色で笑ってみせた。
「あっ……そうそう! 俺が言いかけたのはあれだよう、バニティくん! この国にはねえ、ホラ、どこにでもサーカスがあるし、いっつもパレードをやってんだあ。今みたいに!」
「……毎日?」
「毎日!」
「ああ……ハハ……胸焼けするな」
 発した言葉とは裏腹に、自身のこめかみをとんとんと叩いて、少年はまったく困り果てたという様子で宙を眺めた。青年が自分の目の前に立つ相手がなんとなくぼんやりし始めたのに気が付いたかどうかは分からない。けれども彼は、そんな少年の発した淡泊でいて、それでも冷たい響きをもたない感想に再びぱちぱちと瞬きをすると、不思議そうに首を傾げてまた笑った。
「アハハ! 確かに、ちょっと変かもね!」
 それから、しばらくの沈黙。
 様々なことが怒涛の勢いで押し寄せ、そして過ぎ去っていく衝撃を浴びて、少年の感性はそろそろその受容力の限界を迎えようとしていた。彼は自分の精神を保つために眼前に続く道を見るともなく見ては、自身の肺を膨らませ、また萎ませるをくり返す。そうして心の中だけで、自分の緊張をほぐすときに歌う、なんてことはない星の子守唄をなぞると、少年はほんのちょっとだけ心の安定を取り戻した。
「……ところでおまえさあ、なんでおれのこと、アリスだなんて思ったんだ?」
 そこからややあって、ゆるゆると組んでいた両腕を解いて青年の方へと視線を向けた彼は、思い付いたようにまなざしだけで首を傾げた。そんな少年の問いかけに、青年は相手とは逆の方へと自身の首を傾けてみせる。
「え? え〜っとねえ、みんなが言ってんだあ。外から来たニンゲンは、アリスちゃんなんだって! でもよく見たら、バニティくんは違うねえ」
 そうして青年の口から飛び出してきた言葉は、また少年の心臓を先ほどとは別のかたちで飛び跳ねさせた。
「──ウサギだもん。俺とおんなじ!」
「……は?」
 その言葉に少年はほとんど反射的に自分の頭へと両手を持っていく。何もない。いつも通り、さらりと指通りの良い自分の髪の毛があるばかりだった。冗談か。驚かせるなよ。ほとほと疲れ果てて怒る気も失せている少年は、けれど多少恨めしげな視線を青年へと向ける。それから頭へとやっていた両の手のひらをするりと下ろそうとして、
「え」
 しかし、その手が何か柔らかいものに触れて、止まる。顔のすぐ両脇にあるらしいそれは、自身の髪よりもふわふわとしており、まるで何か厚い布のような手触りだった。指は通らず、手で梳くことはできない。思わずはしとその物体を掴んで目の前に連れてきてみれば、少年にとっては心底幻覚か気のせいであってほしいが、たとえるならウサギの耳に見えた。垂れ耳の。
「は……?」
 彼はその、自分の頭──てっぺんではなく、前髪の境目辺り──から生えているウサギの耳らしきものを呆然と見つめると、それを掴んでいる指先を微かに震わせて、今にも気絶してしまいそうな顔色で青年の方をふらりとした視線で見やる。
「……おまえ、鏡。鏡を持ってないか」
「鏡? えと、一応、ウチにはあるよう?」
「ウチ……家か。ああ、……悪いけど、邪魔させてくれ。他に何か変わってるとこがあるかもしれない。この顔の造形が少しでも崩れていたらどうすればいいんだ? 頭痛がしてきた。なあ、おい、おれはどっかおかしいか?」
「え、ええ〜……? だいじょぶ、だと、思うけどなあ? タブン……」
 ぱっとウサギの耳から手を離し、少年はぺたぺたと確かめるように自分の顔を両手で触った。落ち着きながら混乱を極めているといった彼の様子に、青年は少しだけ困ったような笑みを浮かべて、きっと痒くもないだろうその頬を掻く。
 そうして何かを考えるように視線を斜め上の方へとやっていた青年は、ふと不安げに眉間に皺を寄せている少年の顔を覗き込むと、自身の口元を片手でちょっと隠し、さながら秘密ごとをこっそり教えるように、小声でそうっと呟いた。
「……あのね、アリスちゃんって、男の子も女の子もみんなとってもカワイイんだって」
「ああ、うん? そう」
「だから俺ねえ、ホントにキミがアリスちゃんなんだと思ったんだよう! だって……」
 言葉を継ぐ彼の水色が優しげな、けれども少しだけ悪戯っぽい月の形に細められる。
「──すっごく、カワイイでしょ?」
 そんな青年の言葉に、今度は少年が目の前で指を鳴らされた心地だった。
 少年は自分の心臓が正しい鼓動を取り戻すのを感じ、くつくつとした笑みを携えながら、自身の小さな唇を指先でなぞる。そうしてそこから得意げな吐息を零すと、
「……フフ、当たり前だろ。おれはバニティバラッドなんだから」
 と言って、その瞳にきんと閃く光を宿してみせる。自信過剰もいいところに聞こえる少年の言葉に青年がまた笑い声を上げれば、つられて彼も小さく喉の奥から笑いを発した。子ども同士が遊びの中でくだらない契りを交わす、あのどうしようもない声色で。
 果たてのはじまりで出会った彼らは、そうしてふたり歩き出したのだった。
「──あ、そうだ……気が動転してて忘れてたな」
「んん?」
「挨拶。当たり前だけど、大事なことだろ? ほら──」
 青年の家へと向かっている途中で、つと思い出したといった様子で視線を向けた少年は、ぱちり、と瞬きをした相手へと向かって、握手をするためにその片手を差し出した。
「これからよろしく、クラウン」
 何気のない仕草だった。当たり前で、大事なこと。ほんとうに、そうだった。青年の前に差し出されたのは、その言葉を体現しただけの手のひらだった。
「……う、」
「う?」
「うん……!」
 そして、そこには、笑みがあった。
「──よろしく、バニティ!」
 きっと、それは青年が少年に対して最初に見せた、本物の笑顔だった。
 手を握り返す。
 そのとき、彼≠ヘ、今日初めて呼吸をした気がした。




 Strawberry Vanilla Ice cream
 20200331 執筆

 …special thanks
 トロベリー・クラウン @橋さん


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