そうして少年は、その物語を閉じた。
「――バニティさあ、なんでその舞台の主演、断ったの?」
「うん?」
 向かいに座る青年が、どこかぼうっとした仕草でパンフレットを捲る少年へとそのように問う。目の前でバニラシェイクを、ず、と鳴らす青年に、少年は組んでいた脚を反対に組み替えた。そんな少年の履いている高いヒールが、床に擦れてコツ、と響く。青年の問いかけに、少年は喉の奥だけで唸った。トレイの上に散らばるフライドポテトを、青年が一本口にする。少年は、今しがた閉じたパンフレットの表紙へ再び視線をやった。
「それ、もう何度も読んでるし。台本まで貰って、練習もしてなかったっけ?」
「まあ、ね……」
 少年はファストフード店の大して座り心地も好くない椅子の背もたれに身体を預けて、自分の片手を支えにしながら頬杖をついた。窓の方を見てみれば、平日の昼間だからか、街の人通りもまばらだった。店内にもほとんど春休み直前で早帰りの学生しか見当たらない。ファストフード店の中に流れる音楽は、少年と青年、どちらの好みでもなさそうだった。
「そうだな。確かに、これのストーリー自体は嫌いじゃないんだよ」
「へええ。そういえば、どういう話なの?」
「……アリス・イン・ワンダーランドって、たぶんおまえも読んだことあるよな?」
「不思議の国のアリス? あるよ、小さい頃だけど」
 青年の返事を聞きながら、少年はトレイの上に載っている自分のストロベリーシェイクを取り上げた。しかしそのストローに口を付けたところで、中々シェイクが上までのぼってこないことに少しだけ眉根を寄せ、唇を離す。ストローでぐるぐると中身をかき混ぜながら、少年は青年の方へとその赤い瞳を向けた。
「それのオマージュ。主人公はアリスじゃなくて二匹のウサギで……ま、いわば愛ある悲劇だな」
「そっかあ、かなしい話なんだ……。でも、ストーリーは好きなんでしょ。だったら尚更、どうして?」
「……イチゴって、変な夢をよく見たりする?」
「夢? ううん、あんまり……?」
「そ」
 イチゴと呼ばれた青年は、唐突にも聞こえる少年の問いかけに首を傾げるようにしてそう答えを返した。少年は再びシェイクに口を付け、それをようやく喉の奥へと流し込みながら、もぐもぐと小さく唇を動かす。ほんとうにストロベリーフレーバーなのか疑わしいその味の薄さに、むしろこれはピンク色をしたバニラシェイクなのでは、と思いながらも、何故だろう、特に悪い気分にはならなかった。少し睫毛を伏せる。少年は、言葉を探していた。
「……おれのための作品だと思った。おれが演るべきだとも」
 少年は手にしていたシェイクをトレイへと戻し、少し濡れた指先でパンフレットの題字をなぞる。はあ、と宙に吐いた息がひやりと冷たい。薄い唇を淡く歪めて、少年はそっと笑ったようだった。普段さまざまな色に染まっているその口元が、けれども今日ばかりは何色にも染まっていなかった。
「同時に……おれはこの話を知りすぎている、と思った」
「知りすぎている?」
「よく、分からないだろ? おれも分からないんだ」
 顔を上げて、少年は青年の方へと向かってどこか曖昧に笑んでみせる。
「ただ……」
 そして少年は言葉を継ごうとして、しかし何かを発する前にその唇を結んだ。それは、その言葉の続きを、どうしてか青年には知られたくなかったから。
 ただ。そう、ただ、夢を見る。不思議な夢。目が覚めたら忘れてしまう程度の、だけれど夢を見たという感覚だけが胸の内で爪痕を残していくような、不思議な。それは、まるで浮かびながら落ちるような、ひとりで目が覚めたことが身体中裂けるほどに酷いことであるかのような、モーニングティ―に添えられたジャーマンクッキーを目にすると耳鳴りがしてくるような、名を呼ぼうとして、ああ、誰の名を呼ぼうとしたか分からず息だけを吐くような、肺が詰まって仕方なくて、呻きながら嗚咽する自分の声変わりしかけのそれを聞いて、訳も分からず少しだけ安堵するような、ドレッサーに置きっぱなしにしていた青色の口紅を力任せに折って、折ってしまったことをすぐに後悔するような、そんな。
 そして、そういう夢を見た日は、ただ上手く演ることしかできない。
 すべて置いてけぼりにされたようで、置いてけぼりにしてきたようで、いま目の前に在るものが何もかも幻想のように思えてしまうのだ。身体でしか演ることができない。カビの生えたような演技。そんな自分に、監督も脚本家も、演出も衣装もメイクも、名前も覚えていないマネージャーも、同じ舞台に立つ役者も、真っ向からこちらの命を浴びる観客さえも気が付かない。スポットライトを浴びていて、こんなに虚しいことはなかった。だから、何度も役者を辞めようと思った。舞台から降りてしまおうと。けれども、未だこうして光を浴びているのは、幕を下ろさないでいるのは、きっと。
「……ねえ、イチゴ。ポテトちょうだい」
 きっと、そうなのだろう。
 少年の言葉に、青年はまったくもうと仕方がなさそうに笑って、目の前に散らばるフライドポテトの一本を少年の口の前へと差し出した。少年は小さい口を開いてポテトにぱくりと噛み付くと、満足げに咀嚼しながらそれを飲み下す。それから、薄味のストロベリーシェイクを口にして、どこか安心したように息を吐いた。青年と出会ってからというもの、少年が不思議な夢を見る回数は格段に少なくなっていた。
「あのバニティバラッドに、俺がポテトを食べさせる日がくるなんて。世の中って変だよなあ」
「それに、おまえ、文句も言わずおれに持ってくるし」
「うん……なんでかな……」
「……フフ。おまえってさあ……」
 青年がぬるい温度で発したぼやきに、少年は意地悪げにその口角を歪めた。口の端から少しからかうような笑みが洩れている少年に、青年がちょっとだけ首を傾げてみせる。目が合う。青年の目は、この国では珍しい少しばかり灰みがかった水色をしていた。
「……変わってる?」
「おれがそんなナンセンスなことを言うと思うか?」
 くつりと喉の奥だけでそう笑った少年は、テーブルに頬杖をついて、空いている方の手を青年へと伸ばした。
「――おまえはね。トクベツなんだよ、イチヒコ」
 青年の少し長い前髪を指先で弄って、少年はその赤い目を三日月状に細めた。そうして薄く微笑んだまま、青年の赤髪をなんだか上機嫌にくるくると触る少年に、それでも青年はやはり文句の一つも言わず困ったようなくすぐったいような顔で笑むばかりだった。それからややあって、少年は思い出したように青年の前に置いてある彼のシェイクへと視線をやる。
「イチゴ。それ、何味だっけ?」
「うん? バニラだよ〜」
「そっちも飲みたい」
 そのように口から横暴を発して、少年はいじくっていた青年の毛先から指を離した。青年はやはりちょっとだけ眉を下げて、困ったように笑う。その表情に、少年はまた脚を組み替えた。彼のそういう笑い方を見るたびに、心臓がざわつく心地がした。それでいて息は少ししやすくなるのだから、我ながら可笑しなものだった。痛みはほんの少しだけある。悪くはない。ああ、こういうの、なんて言うんだっけな。いや。なんて言うんだろう、だろうか。
 差し出されたストローに口を付けて、軽く吸う。シェイクはいとも簡単に上ってきた。まだ冷たいそれを含んで、少年はまた口の中でもぐもぐやった。
「……バニティ。どう、ウマい?」
「フツー。ってか、こっちのとほぼおんなじ味がする」
「えっ、そう? バニラと苺ってけっこう違う気がするけど……」
「や、ホント。ほら」
 バニラシェイクから口を離して、少年は青年の口元に向けて自分のシェイクを差し出した。そうしてみれば青年は少し驚いたように唇を動かした後、じ、と自身の方へと差し出されるストローを眺める。そのさまに少年はなんとなくもどかしくなって、青年の前でシェイクを軽く振った。目の前で揺れたシェイクに、青年ははたとした風に少年の方を見る。少年は頬杖をついたまま、視線だけ首を傾げた。早く飲めって。
「……やっぱ違う味、だと思う……」
 それから明らかにストローとは別の方向を見ながらシェイクに口を付けた青年は、すぐにそれを飲み下してなんだか曖昧に感想を言った。少年は自分の元へとシェイクを戻して、また少し飲んでみる。視線をやれば、青年は眉根を寄せるようにして、ちょっとだけ唇を噛んでいた。目は柔く笑んでいる。どういう顔? 口の中を冷やして、少年は唇から離したバニラシェイクを自分の前でゆらゆらさせた。
「そ? イチゴの舌は繊細だな。ま、あんなにウマい料理を作るんだし、トーゼンっちゃトーゼンか」
「あ、ありがと。俺なんか、べつにフツーだと思うけど……でも、バニティはけっこう大味だよねえ……」
「そーね、今まであんま気にしたことなかったし。でも、おまえと出会って世界観は変わったかも。あの、あれ……ナスのミソシル? だよな?……あれ、美味しかったなあ」
「あはは、ほんと? また作ってあげるよ」
「絶対な」
 青年は、どこか照れくさそうに頷いた。そんな相手を視界に映しながら、いよいよ相手のフライドポテトを無言で食べ始めるという暴挙に出た少年に、けれども青年は、あ、と何かに気が付いたように声を上げるばかりだった。
「そういえば、バニティ。君さ、前よりよく食べるようになったよね」
「うん? あー……そう? いや、そうかも。最近すっごい腹が減るんだよな。身体もあちこち痛いし」
「成長期かあ。今どれくらい?」
「百六十……二? 医者には無理な運動してるからあんま伸びないって言われてっけど」
「えー? いやいや、バニティならたぶん伸びるよ」
「イチゴに言われるとなんか腹立つな……おまえ、会うたびに伸びてる気がする」
 そうかなあ、と青年はのんびり笑った。その様子に少年は溜め息混じりに小さく笑い声を洩らして、青年が手にしているポテトをひったくっては自分の口内へと放り込む。そんな少年にもう、と呆れるように目を細めた青年が、ふとぱちりと瞬きを一つした。そうして何かを探すかのように天井を見上げ、そのまま店内をぐるりと眺めては、或る一点に視線を留める。そこには、業務用のスピーカーが吊るされていた。
「……この曲、バニティがこの前やってた公演の主題歌だよね」
「ああ、うん。流行ってるみたいだな、この曲。おれが演ったんだし、当たり前デスケド」
「すごいなあ。……それにしても、ほんとに誰も気付かないんだね。ここにいるのが、あのバニティバラッドだって……」
「アハハ! おれを誰だと思ってんだよ。一般人ごとき完ぺきに演れなくて、どうして役者なんてものができる?」
「でもなあ……俺にはどこからどう見ても、バニティがどんな格好や演技をしていてもさ、目の前にいるのはいつもあのバニティバラッドにしか見えないんだけど……」
 その呟きに、少年は両手で自身の頬を包むようにして頬杖のかたちを変えた。そうしていっとう妖しく唇を歪めてみせると、
「フフ。だからおまえはトクベツなんだよ、イチゴ」
 と、少し掠れるような声でそう発した。それは、声変わりをしかけているせいではない。砂糖菓子をわざと焦がして悪戯っぽく笑ってみせるような声だった。少年はトレイの上からフライドポテトを一本摘み上げると、それを向かいの青年の口元へと押し当てる。
「おれ、ホントに驚いたんだぜ、おまえが道端で声をかけてきたときは? 一般人を演じてて、バニティバラッドだと気付かれたことは今まで一度もなかったからな」
 その行動になんとなく困惑しながらポテトを口にした青年に、少年は笑みの形に赤色を細めて、吐息だけで笑んだようだった。少年もまたフライドポテトを自分のためにトレイから取り上げて、口に含んでは小刻みな咀嚼をくり返す。細い喉が鳴り、手が伸びた。けれども少年は目の前のストロベリーシェイクを手にするわけでもなく、ただなんとはなしに指先で触っただけだった。
「――イチゴ、雑踏の中でおれを見付けられるのはおまえだけだよ。だからさあ、光栄に思って、胸張って生きろよな?」
 少年ははっきりとそう言いきって、心底楽しそうな笑みを浮かべる。そうしてシェイクの側面に垂れている水滴を掬いながら、少年はフライドポテトの塩が付いている自身の指先をちろと舐めた。見ると、青年はなんだかちょっと変な顔をしている。それから彼はとん、と軽く自身の眉間を叩いて、少年の方を見ながら曖昧な苦笑いをした。
「……ねえ、バニティ。君、なんていうかさ、普段もこういうカンジなの……?」
「は?」
「その、俺……心配なんだけど――いや、ごめん、変なこと言ったかも……なんて言えばいいのかなあ……これ」
 口の中だけで発するように、青年はぶつぶつと言葉をトレイの上へと落とした。青年は少しだけ唇をへの字に曲げて、喉の奥で唸りながら手元のシェイクを口にする。そんな相手を怪訝に思いながら、少年は青年の言葉と一緒にフライドポテトを一つ摘み上げ、それをぽいと舌の上に転がした。
「普段って……今が普段だろ。で、普段はいつもこうだろ? イチゴが何言ってんのかよく分かんねーけど……なんかだめなの?」
「だめじゃないけど……うん、だめじゃないけど……」
「じゃあいいじゃん。ダイジョブか?」
 少年は首を傾げながら可笑しそうにそう言って、ストローでシェイクの中身をぐるぐるとやった。青年は料理を焦がしてしまったときのような空笑いをしながら、小さく溜め息を吐いている。そうしてゆらゆらと視線を彷徨わせた後、少年の手元近くに未だ置かれている演劇のパンフレットをじっと見つめた。
「……俺もその公演、観にいこっかなあ」
 それは、なんてことはない呟きだった。けれども青年の言葉に少年はシェイクをかき混ぜていたその手をぴたりと止めると、分かりやすく眉間に皺を寄せて苦々しい表情で相手の方を見る。
「あ? 絶対ヤダ。やめてくんない?」
「え、……ええ? なんで?」
「なんかヤダ。すっごい嫌。おれも観に行かないし……そうだ、今度の公演の関係者席をやるよ。そっちにして」
 そう捲し立てるように発して、少年はテーブルに載っているパンフレットを自分の膝元に引っ込めた。そのさまに青年はぱちぱちと瞬きをし、なんとなく困惑しながらも少年に気圧されて小さくこくりと頷く。
「ま、まあ、そこまで言うなら……」
「うん。素直でよろしい」
「変なバニティ……」
 首元を掻きながらそう呟けば、少年ははあ、と疲れたように息を吐いた。そうして彼自身もどこか困ったように自分の爪を見つめて、ゆっくりと瞬きをする。うん、と、ああ、の間くらいの言葉が少年の喉が洩れ出て、そっと呼吸をしている音が聞こえた。それから少年は顔を上げて、青年の方を見る。その赤い目は、なんだか少し恥ずかしそうな温度を持って水色を映していた。
「あ――あっ、そういえば……バニティ、結局、なんでそれの主演断ったんだっけ……?」
「ああ……」
 多少くぐもった声でそのように問いかけてきた青年に、少年はなんとなく宙を眺めて、自身の髪先をくるくると指先に巻き付けた。そうして青年の方に向かって皮肉っぽく口角を上げると、
「――相手がサイアク!」
 と歌うようにそう言い放った。
 相手がサイアク。少年が酷い言葉を、けれども随分楽しげに発するものだから、青年は言葉の意味を取るのにほんの少しだけ時間がかかった。トレイの上に散らばっていたフライドポテトは、いつの間にかもうなくなっている。少年はもう空になっているシェイクの容器を二人分持つと、カツ、とヒールを鳴らして席を立った。それに気が付いた青年もトレイを持って立ち上がり、くず入れの方へと向かう。少年もその後を追い、分別をしている青年の横でそのまま燃える方へとシェイクを捨てようとすれば、しかし相手から、こら、と柔い制止を受けた。
「……なら、たとえばさ。どんな相手とだったら演りたかった?」
「ハハ、そんなの……」
 どこか声を潜めるように、会話は続く。青年の言う通りにシェイクのストローと蓋、容器を別々に分けてくず入れに放る少年は、そんな相手の問いかけに可笑しそうに目を細めた。そうしてちょいちょいと手の先で青年のことを招くと、興味深そうに身を屈めてきた彼に対して、
「ヒミツだよ、ばあか」
 と耳元で囁いてから、その額を軽く人差し指でとん、と押した。へ、と小さく声を洩らした青年に、少年はからかいの滲む声で面白そうにくすくすと笑う。そうして動きを止めたまま両手を持て余している青年の片手を、少年は何か思い付いたように指先で柔らかく叩いた。
「……あ。そうだ、イチゴ」
「う。うん……?」
 言いながら少年は、それとは分からないように、手にしていた演劇のパンフレットをくず入れの中へと捨てた。
 いつになるかなど少年の知ったことではないが、それは近い内に火にくべられ、高らかに煙を上げては灰になるのだろう。この物語に、世界は熱狂しない。ああ、おまえは確かに美しく、もの哀しい、愛しい名作だった。おれのために書かれた物語。けれど、おれが演らない物語。おまえに触れると、あの不思議な夢を見た後と同じ気分になる。この世でいちばん出来の悪い演劇。最低でサイアクで、悪夢みたいに最高な物語。愛していると言っても過言ではない。憎んでいると言っても過言ではない。だけれど、おれはこの物語を演じない。だって、きっとこれは、おれのためだけに書かれたものではないから。こんな話。こんな酷い、狂おしくて、愛おしい話。こんな話を演るなら、きっと。一緒に演るなら。
 きっと。
 ああ、そうだ。そうだった。ずっと言いたかったことがあるんだ。今、想い出した。想い出した? 何をだろう。思い付いた、ではなく? でも、よかった。やっと言える。やっと? 少年は自分自身に困惑しながら、そっと息を吸った。けれどもそれは思考を整理するためのものではなく、ただ、言葉を発するための呼吸だった。まあ、いいか。言っちまおう。いま浮かんだ言葉、すべて。名前ごと。
 青年はどこかで見たような色の瞳でこちらを見ている。少年はその目に、少し笑った。
「――今度こそ、おまえをマネージャーにしてやるよ。トロベリー?」
 その演劇の表題は、
 ああ、もう、どうでもいいか。




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 Strawberry Vanilla Gelato
 20200203 執筆

 …special thanks
 王城一彦 @橋さん

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