その青い口紅が移るのを見ていた。
 にこにこと言うよりはへらへらと言うべきなのか、隣に座る男の目元と唇には常に貼り付けたような笑みが浮かべられている。或いは、貼り付けられたような。対して鏡に映る自分──完ぺきな自分は、今日も何物にも興味が持てないと言うようなまなざしに眠たげな表情を浮かべ、こちらをむっつりと見つめ返していた。四日間眠っていないためにくまがひどい。瞳も充血しきっているが、それでもやはり、この自分が今日も完ぺきな造形をしていることに変わりはなかった。
 こみ上げて止まないあくびを噛み殺す。目尻に涙が溜まるのを感じながら、テーブルの上に置かれたカゴの中身をがさがさと漁った。そこから引っぱり出す化粧下地は、いつも甘ったるいバニラビーンズの香りがした。
「バニティ、お茶飲むー?」
「あ?……うん」
「なんかねー、色々あるよ。この前のアリスちゃん、紅茶好きだったんだねえ」
 さくさくとクッキーを頬張りながら、長い指先が足元の鞄を探る。見慣れないそれから出てきたやはり見慣れないティーセットに少しだけ目を眇め、ああ、と思う。前のアリスの私物か。もう顔も思い出せないけれど。
「バニティ、今日もアリスちゃんのとこ行く?」
「まあ、そうだな、一応。たぶん今回のはそう長くは持たなそうだけど。刃物もろくに触れないくらいだし」
「でもすっごくカワイイ子! だよね?」
「おれの方がカワイイけどな」
 言えば、男は目元と口元は弧を描いたままにその眉尻を下げる。うん、バニティもカワイイよ、とどこか言葉端がしぼむような肯定の声に、その椅子の脚を蹴ってやろうかと思って、やめた。
「──その趣味の悪いヤツがいいな。イチゴの」
「えっ? あ! これかあ」
 男が鞄から出した紅茶缶は、いつの間にかテーブルの上でタワー状に積み上げられていた。その中の一つをアイライナーを持ったままの指先で示せば、男はタワーの中からそれ一つだけを器用に取り上げる。高々とテーブルにそびえるティー・エッフェルタワーはぐらりどころかぴくりとも動かない。
「なあ、エッフェルってなんだっけ」
「何それ! ワッフルの親戚?」
「ふーん……そうだっけね」
 視線を鏡に戻す。蓋を開けたアイライナーは少しだけチョコレートの香りがした。
「バニティ! このイチゴの紅茶、モーニングティー? ってやつ、らしいよー」
「モーニングティー? ああ、朝飲めってことか」
「うんうん、バニティの目も覚めるかもね!」
「へえ。じゃあ、尚のことそれだな。おれの睡魔は相当手強いと思うけど」
 睫毛と睫毛の間を埋めながらキツくアイラインを差していく。隣の男はふんふんと鼻歌を歌いながら、ティーポットに直接火をかけて湯を沸かしていた。いくつかの溶けかけた蝋燭と壊れかけたアルコールランプが、じりじりとポットの底を焦がしている。
「バニティ、眠い?」
「いつも眠いよ。それ取って」
「はいはーい。どうぞ!」
 鏡とにらめっこをしたままそう言えば、男は卓上のカゴをがさりと漁って、そこからパウダーと口紅とチークを取り出す。火へ当てるために片手で持っていたポットをわざわざ一度下ろして、男は両手でそれらをこちらに差し出した。
 自分はその化粧道具を片手で受け取りながら、けれど内心ほくそ笑む。パール・ホワイトにブラウン・レッド、それからローズ・ダストの組み合わせ。言わばそれは、粉砂糖と焦げたリンゴの皮と絵に描いた桃みたいなものだ。相変わらずデキるヤツ。うちのマネージャーだったらこうはいかない。マネージャー。向こうの世界の言葉だ。未だ自分が覚えているものの一つ。ここで言う女王のジャックみたいなヤツのこと。だったはず。
 くるくると頬骨の上に絵に描いた桃の色を乗せながら、ちらりと隣の席を見る。こうも広いテーブルといくつもの空席を前にして、何故お互い隣同士で座っているのか、その意味が分からなかった。ただ、決まった席があるわけでもない。向かい合わせに座る日もあれば、意味もなく端と端に座る日もある。まあ、気分なのだろう、どちらかの。どちらともの。
 男は、ティーポットを火の上に掲げている。時々それを傾けすぎて、中から湯がぽたりとテーブルクロスの上に落ちていた。視線に気が付いたのか、男の顔がこちらを向く。それから困ったように肩をすくめて笑った。
「まだまだだよー。バニティったらせっかちさん!」
「何も言ってないだろ。せっかちなのはどっちだっつーの……」
「ええっ? じゃあ何なにっ?」
 身を乗り出してそう聞いてきた男から視線を外して、空いた席に引っかけていたリボンへと手を伸ばす。黒い生地に白いレース。選ばれた者にしか身に着けることが許されない装飾品。それを頭に飾って、鏡を遠ざけて己を見た。今日の衣装にもばっちり合っている。完ぺきな自分に必要なのは完ぺきな化粧と衣装、小道具、それから完ぺきな脚本と演技だ。この国に落とされてから、新しいアリスがやってくるたびに自分が欠かさずやっていること。この国に落とされる前から、向こうの世界でも役者として毎日欠かさずやっていたこと。
 かつての自分がもっていたヒトの耳、その代わりに生えてきた長いウサギの耳は偶然なのか必然なのが、自分の地毛と同じような色をしている。黒に近い焦げ茶。チョコレートの色。その耳がまるで髪の毛に見えるよう、前髪の横に垂らしてリボンで固定した。そうして、後ろ髪は頭のてっぺんで結う。芸術的な役者である少年は、鏡の前で少し笑った。今日の役は、もうちょっとで完成する。
「……おまえさあ、赤は塗らないの」
「えー?」
 口紅の蓋を取る。底をゆるゆると回してやれば、深めの赤色が顔を覗かせた。この唇のために柔く尖っているそれを男の方に向けながら、同時に自分は何を言っているんだ、と思う。何故そんな問いがこの口から発されたのかが分からないまま、抱いた困惑を奥歯の辺りで噛み潰した。
「でも、バニティの方が似合うでしょ?」
 男は今日も青い口紅を引いている。常に弧を描いている唇の上から、その三日月を更に強調させるかのようにべったりと。男の片手がテーブルの上で重なる桃色のマカロンに伸びる。そうして男はそれを口に運ぶ。マカロンに口紅が移る。青く。青いだけ。その青は、マカロンの色とは混ざらなかった。
 ああ、なんて言うんだっけこういうの。忘れてしまった。口紅を置いて、マカロンを一つひったくった。口に含む。噛み砕く。飲み下す。思い出せない。こんなマカロン一つくらいでは、何も。向こうの記憶を持っているアリスの菓子でなければ、何も。ああなんだっけ。覚えていない。或いは、そもそも。
「あれっ。バニティ、口紅塗らないの?」
 そんな男の問いを鼻で笑って、持っていた手鏡を伏せる。頬杖をついて、もう一つマカロンへと手を伸ばした。
「茶を淹れてくれんでしょ? 待っててやってんの」
「なーんだ、そっかあ! でもいいのかな〜? アリスちゃん、どっか行っちゃうんじゃない?」
「あら……ご存じないかしら。イイオンナっていうのは、いつも少し遅れて行くものなのよ」
「へええ、なーるほど! さっすがバニティ!」
 こちらの言葉に、男はニコニコと笑ってその身体を揺らす。それと共に男の少し青みがかったストロベリー色の髪と、そのてっぺんから生える、ところどころが欠けた黒いウサギの耳が踊った。マカロンをかじる。ひたすらに甘いそれは、まるでベッドの上でずっと寝転がっていることを許されるような、或いは永遠に声変わりが訪れないような、そういう悪夢みたいに素敵でサイアクな味がする。口の渇きを覚えたのと同時に、自分の目の前でかたりという音が鳴った。
「はい、バニティ! どうぞ召し上がれ!」
「これはこれは……ご丁寧にどーも」
 視線を落とせば、そこには小綺麗なソーサーに小綺麗なティーカップがきちんと乗って、白い湯気を立てていた。透明感を追求したカラメルのようなその水面を少し眺めて、ソーサーごとそれを持ち上げる。熱いから気を付けてねえ、と言う男の間延びした声が白い水蒸気に埋もれて聞こえた。
「ふうん、べつにイチゴの香りはしないんだな」
「なーんだ。これ、カンカンの柄だけみたいだねー。イチゴの紅茶、あるならウマそ〜だけど!」
「悪趣味だろうなあ、そいつは」
「ええーっ? イチゴ、カワイイよ?」
「カワイイから悪趣味なんだっての」
 少し笑って、紅茶を口に運ぶ。見た目よりも苦みの強いそれは、つまりぜんぜんカワイくなかった。この程度で目が覚めるのならば苦労もしないが、飲まないよりはましだろう。それに何より、あの素敵でサイアクな甘ったるい最高で最低な菓子の味を、こいつはいとも簡単に流しされるから。マネージャーではこうはいかない。もう顔も名前すら思い出せないマネージャーでは。息を吐いて、少し睫毛を伏せる。そうして中身を飲み干した。
「……ん、ごちそーさま」
「ありゃりゃ。速いなあ、バニティ。どう、ウマかった?」
「フツー」
「えーっ? フフフ……」
「は? 何笑ってんの」
「俺はいつも笑ってるよう」
「あっそう……」
 男はニコニコとニヤニヤの間くらいの笑みを浮かべてこちらを見ている。その表情に妙にいたたまれなくなって、溜め息を吐きながら席を立った。服の裾を払い、伏せていた手鏡をもう一度手にして前髪を整える。
「おかわりあるよ、バニティ」
「おまえが飲んで。おれはもう行くし」
「もー行くの? ちぇっ、つまんねーやあ!」
「まあ……おまえもおまえでなんかしなよ。向こうに帰るためにさ」
 言いながら、鏡の中の自分に向かって片目を細める。勝気なチョコレート・アイラインとプラム・アイシャドウは相変わらずの黄金比だ。そんな鏡の中の端っこで、男がウキウキと頷くのが視界に映る。
「うん! バニティ、早く帰らなくちゃだもんね」
 その何の変哲もないように聞こえる男の返答に、しかし何故だろう、不思議な違和感を覚えた。たとえるならばそれは、喉よりもう少し下、けれども肺よりもう少し上の辺りに、小さな飴玉がつっかえたかのような気分だった。
「それは……」
 つまるところ、呼吸ができないほどではない。その飴玉を吐き出すか、飲み込むか。どちらかと考えあぐねて、結局言葉だけを吐き出した。
「……そりゃあそうだろ。うかうかしてると全部忘れちまうし」
「うんうん、だよねー。それにバニティがマジでずうっと起きなくなっちゃったら、俺泣くなー! あはは!」
「ハハ!」
 いつも通りに弧を描いてばかりの表情のまま、大げさに涙するポーズを取ってそのように男は言い放つ。そんな男のまるで矛盾だらけの言葉に思わず声を上げて笑えば、きょろりとした相手の瞳がこちらを見上げていた。テーブルの上の口紅を取る。それを指と指の間で回しながら、男の目をにやりと見返した。
「そんな間抜けは笑って演れよ、おまえは笑うクラウンなんだから」
 口紅の蓋を取る。底をゆるゆると回してやれば、深めの赤色が顔を覗かせた。この唇のために柔く尖っているそれを自分の方に向けながら、今度こそ己の口元に赤を引く。自分がいっとう完ぺきに映える厚さと範囲で、リンゴの皮のブラウン・レッドはバニティバラッド≠最高の役者に仕立て上げる。
 鏡に映る自分自身の出来栄えにいつものことながら口角を上げれば、ふと視界の端にティーカップへと口を付けようとしている男の姿が映って、思わず手鏡をテーブルの上に放った。
「おい、それ縁が割れて──」
 ぴ、と音もなく男の唇が切れるのが聞こえた。ありゃ、と言う男の声をどこか遠いところで聞きながら、その口元から一滴の血が口紅の青と混じって零れそうになるのが目に映る。それからざく、とブーツが地面を踏む音が聞こえてきた。それはたぶん、自分の立てた音だった。
「──いてててて! 何!? 何すんだよお、バニティ!?」
 気が付けば、男の口元を自分の手の甲で思いっきり拭っていた。ごしごしと勢いよく口の端を擦る自分に対して、男は椅子に座ったまま、のけ反るように身を引いている。男の声は、遅れてこちらの耳に届いた。はたとして、言葉の発されたその口元から手を離す。そうして、自分の手の甲を視界に映した。そこには、毒みたいな色の口紅がべったりと付着している。視線はそのままに、少し困ったから息を吐いた。
「ああ……こういうの、なんて言うんだっけ?」
 その青が移るのを見た。見ていた。そうしたら、だから。
「……俺、分かんねーやあ!」
 首を傾げてそう笑う男に、かぶりを振って肩をすくめた。大したことではないだろう。どうせ気分だ。いつも通りの。
「まあ、そうだよな」
 そうして発された自分の声には、男の回答にさほど落胆した様子も見られなかった。だが、ああ、そういえば少し目は覚めた気がする。こうして自分自身が、どこか遠くにいるように感じられるから。
 しかしそれはそれとして、手の甲に付いた口紅を拭うのも億劫がる自分は、片方の手が青く染まったままの状態でその上から手袋をはめる。これでは完ぺきではない。拭った方がいいと頭の片隅で自分のような何かが声を上げているが、もうそれを聞くのも面倒な時間だ。男の目を見る。そうして目元と口角に柔らかい弧を描かせて、吐き出す声色はマシュマロ程度の甘さに整えた。
「──じゃあアタシ、これからアリスちゃんとデートだから!」
 男から目を離す。踵を返せば、その背に行ってらっしゃーい、というやはりどこか間延びした声が投げかけられた。その声に歩き出した足を一度止め、背後を振り返る。
「トロベリー」
 そう名前を呼べば、男はゆるりと首を傾げる。三日月を象る目元はそのままに、丸い瞳がこちらを見ていた。
「んー?」
「……イイコト思い付いたんだ。もし向こうに帰れたら、そのときはさあ……」
 すべてを吐き出しかけて、けれども言葉を止める。唐突に訪れた無言に、男は首を先ほどとは反対の方向へと傾げた。自分はそこから視線を外して、再び前を向く。
「やっぱいいわ。今度言う」
「今度?」
「だって、デザートは後に残すもんだろ? フツーはさ」
 男の答えを待たずに、この足は向こう側へと歩き出す。視界の端に映る空は、狂ったみたいな紫色に染まっていた。ばかでやさしいその色に、地面を踏みしめて少し、ほんの少しだけ笑った。
 ──だから、おれのために死なないでよね。アタシのカワイイ、アリスちゃん。



 Strawberry Vanilla Ice cream
 20200122 執筆

 …special thanks
 トロベリー・クラウン @橋さん

たら、れば、もしも

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