銀河系ではありふれている


 もうずいぶん長いこと、夜が苦手だった。
 満月の週、七年生のハロルト・エバーハートが八限目の授業を、ないしクィディッチの練習を終え夕食を食べ終わると、まるで何かに追われるようにそそくさと寮部屋にこもりきりになるのは、彼が四年生の頃から変わらぬ習慣であった。或いは、他の生徒にとっては習性・・であったかもしれないが。
 この時間になると、ハロルトは監督生に与えられた広くもないが狭くもない丸部屋の中で、月光を取り込む窓という窓のカーテンを閉め切り、布張りのカウチに腰掛けながら陰気な小瓶の中身を飲み干す。蓋を外すと微かに青っぽい煙の立つその薬は、およそこの世のものとは思えないほどに不味く、口に含んだそばから舌を洗い流したくなるほどの代物だった。実際、彼はそうした。吐き出すわけにはいかないので、多量の水で口内に氾濫を起こし、忌々しい劇薬風薬品をどうにかこうにか食道にまで流し去るのだった。
 傍から見て、ハロルトという生徒に欠点はなかった。まず彼は誰がどう見ても美しさが澄んで燃えるような金髪碧眼を有していたし、仏頂面であれば整いすぎていて鋭くも映っただろうその顔に、けれども彼は人好きのする笑みを絶やすことはなく、いつでも頼れる陽寮の監督生、そしてヘリオスフィア・クィディッチ・チームのキャプテンとして様々な生徒から羨望のまなざしを受けていた。「完ぺき」である、と称える者さえ少なくなかった。しかしながら、ハロルトはそんな賞賛を受けるたび、「いや、そんなことはないよ」と笑い飛ばすのだった。彼はこの褒め言葉が嫌いだった。と、いうのも、彼が築き上げた完ぺき≠ヘ、驚くほど簡単に崩れ去る脆い代物だったからである。彼がたびたび口にする、その青い薬のために。
 彼がこれまでの地位をすべて失いかねない問題に四六時中頭を悩ませ、吐き気を催す舌触りの薬で味覚を焼いていることを知っている人間は極々僅かだった。彼の家族、魔法学校の校長と一部の教師、そして──
「ハロルト?」
 ノックの後、返事を待たずにドアを開けた人物の声にハロルトは顔を上げた。
 少年と呼ぶには些か体格の良い男子生徒が、ドア枠に頭をぶつけないように背を丸めながら室内に入ってくる。長い黒鳶色の髪で琥珀の目の片方を隠すようにした彼は色白の肌をして、それが余計に右頬の火傷痕を目立たせていた。その輪郭はおよそ巨躯と表現すべき存在感を放っていたが不思議と威圧感はなく、ハロルトはそんな二学年年下の少年の姿を見ると、ほっと安堵めいた息を吐いた。それから、昔馴染みのノール・ポミエがにっこりと微笑みながら手元のバスケットを掲げるのを見て、
「まさか、百味ビーンズは入ってないだろうな。腐った卵味なら今しがた味わったところだよ」
 と、どこか悪戯っぽく笑う。
「さっきね、いっぱい作ってきたんだ!」ノールはお構いなしに部屋を進んで、ハロルトが座るカウチのすぐそばに設えられているベッドに腰掛けた。「もちろん、ぜんぶハロルトの好きなやつだよ」
「大鍋ケーキ?」ハロルトは聞いた。
「うん、あるよ」
「糖蜜ヌガー?」
「それもある!」
「ミンスパイ?」
「ぜえんぶあるよ!」
 心底嬉しそうにバスケットから三種の神器を取り出して笑うノールを見て、ハロルトは「ああ、よかった。命拾いしたよ!」と胸に手を当てる。ノールは菓子作りが得意──もちろん、魔法でという意味である──だったので、満月の前後にはいつもこうして夜な夜な自身が所属する月寮を目くらまし術で抜け出し、最低最悪の味をした薬に呻いているハロルトの元へ菓子を目いっぱい詰め込んだバスケットと共に訪ねてくるのだった(当然ながら、これは立派な規則違反である!)。ノールは同年代の他の生徒に比べて純粋無垢で人を疑うということを知らなかったが、それでも彼は、ハロルト・エバーハートが完ぺきな人間でないことを知っていた。彼が三年前、狼人間に噛まれてしまったせいで脱狼薬を飲んでいることも、比較的裕福な彼の生家がその薬の代金を賄うために家財を売っていることも、彼が狼人間であることを隠すため、寮の自室の合言葉──「クソッタレ狼の遠吠えヴァロ・ヴァロ・ヴァーロウ」──をノールを除いては誰にも教えていないことも知っていた。
「ハロルト、何から食べる?」彼はまるい声色で相手に呼びかけ、自分と同じくベッドに腰掛けるよう促した。
「大鍋ケーキかな、やっぱり」言いながら、ハロルトはすでに食べはじめていた。「うん、美味いよ! やっぱりノールのお菓子が一番だな」
「ほんと?」へへ、とノールがはにかむ。「ボクね、こうやって何かを作るの好きなんだ。ハロルトが喜んでくれるもの」
「お前はすごいやつだよ、ノール」ハロルトはベッドの上であぐらをかき、普段からは考えられない行儀の悪さで菓子類を貪りながら、空いている方の手で友人の肩を叩いた。「薬草学も魔法薬学も順調だって噂だぞ。それに、お前の年で動物もどきを習得した魔法使いは歴史上でもそういないよ。ノール、将来はどんな魔法使いになりたい? 薬草学の知識を生かして、偉い学者様? お前ほどの魔法薬作りの腕があれば、ニコラス・フラメルのような錬金術師にもなれるかも? もちろん、上級大魔法使いも夢じゃないさ──きっと、シュド義兄さんもお前のことを誇りに思うよ」
 けれどもそういった輝かしい未来の話を向けるたび、ノールは少しばかり視線を彷徨わせ、何か照れくさそうな表情で曖昧に笑うのだった。それについて、ハロルトも深く追求することはなかった。彼は常にノールの透き通った湖に近しいその心を尊重したかったし、もしかしたら、自分がそれを知ることは永久にないのかもしれないとも感じていたからである。
 狼人間に首筋を噛まれた瞬間から、彼はこの世の輝きにしか触れたことのないと言いきるような青い瞳の奥に、深海と呼ぶには濁りすぎた沼を飼っていた。かつて、彼は多くの人々を導く善良な魔法使いを志していた。ゆえに、この世の清濁を学んだ。だからこそ、彼は知っていた。狼人間という存在が如何なるものかを。どれほど暴虐で、どれほど不幸な存在かを。どのような末路を辿るものなのか、またそれを恐れるがあまり、自ら命を絶った者がどれほど存在したかを。彼は知っていた。目の前で見ていた。狼人間がどのような顔で、どんな方法で、いとも容易く人を殺すのかを。そして、そんな狼人間というラベルはハロルトという薬瓶にとって、その容器を粉々にかち割るほど衝撃的で、更にそこから溢れた中身をすっかり蒸発させるほど苛烈なものだった。つまり、彼に将来はなかった。想像できないものを実現できる道理がないというのは、入学前の子どもでも理解できる魔法の常であるからして。
 しかし、そんなハロルトの心をノールは知らなかった。彼はカーテンの閉め切られた部屋の中で空を仰ぎ、瞳は天井に描かれた美しいフレスコ画を貫いて、もうじき完全な球体となる月を見ていた。
「もうすぐ満月だね」と、ノールが言う。
「……そうだな」
「きっと、今度の月もきれいだね」彼はバスケットの中のミンスパイを取り、それを目の上に掲げては黄色の月に見立ててにっこりした。「この国の空は世界でいちばんきれいだから」
「そうだな」ハロルトは再度呟き、それから自嘲ぎみにちょっと笑った。「狼になるたび、ほんとにそう思うよ」
「そうなの? じゃあ、楽しみだなあ」
「うん?」
「だって、今回はボクも狼になるもの。ハロルトと一緒に」
 そう言って、ノールは手にしている焦げ目のついた満月をハロルトの口に押し付ける。まだまだ食べ足りなかった彼は押し付けられたそれを素直にもぐもぐとやることにしたので、「動物もどきのお前は狼じゃなくてバーニーズ・マウンテンドッグだろう」という指摘はついに口に出来ないままだった。そしてたぶん、これからも言うことはないと思えた。そんなふうに無理やり飲み込んだミンスパイのせいか、それとも胃に下した言葉の可笑しみのせいか、彼は喉の詰まりと目頭の熱さを同時に感じた。瞬間、紅茶、それもミルクのたっぷり入ったものを全身が欲しているのを自覚して、彼は杖を一振りし、二人分の紅茶をベッドの上に用意する。暖炉の中で沸々と温められていた湯が濃い紅茶を作り出し、それが白いティーカップに注がれていくのを眺めながら、彼はふっと、或いは人が月を仰ぐときのように隣のノールを見上げた。
 ノールもまた、こちらを見ていた。天上の夜空よりも澄み、手元の紅茶よりも深い琥珀の色をした瞳が、三日月に等しいかたちで弧を描く。その月光を前に、ハロルトはぎゅっと目を瞑ることはしなかった。おそろしくなかったから。
「……だから、早く満月が来ないかな」それから、大きな犬がそうするように、ノールはハロルトの肩に自身の頭を預けて言った。「一緒に山を走ろうね、ハロルト」
 彼はそんなノールの言葉に何も言わなかったが、頷きによく似た角度で睫毛を伏せ、ただ身を預ける相手の呼吸に耳を澄ませていた。そしてこの夜、淹れた紅茶を彼が口にすることはなかった。



20231119 執筆
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