わたしを端から四季にしていく


 マルバが怪我をした。いつも通りの、なんてことない晴れた日のことだった。
「いやあ、ウドさんの料理はほんとうになんでも美味しいなあ」
 とは、怪我を負った張本人の言である。利き手から腕にかけて薬傷を受けたマルバの怪我は、軽傷と呼べるほど生易しい代物では決してなかったが、彼自身がウドに指示して行った正しい応急処置と、そんなマルバに甲斐甲斐しく世話を焼いた彼女の看病の結果、いま現在ではこうして怪我人生活を謳歌できるまでに快復していた。ただ、包帯でがっちりと巻かれた腕はまだ満足に動かすことができなかったため、彼の生活にはウドの助けが必要不可欠となっている。ゆえに、今日も今日とてウドはマルバのために水を汲み、湯を沸かし、身体を拭き、着替えを助け、料理を作り、食事の手伝いをし──と、ほとんど相手に付きっきりで世話をしていた。
「先生、ごはんを食べ終えたら包帯を取り替えましょうね」ウドは匙で掬ったブブールをふうふうと冷ますと、それをマルバの口元へと差し出した。「先生の調子が良さそうでよかった。きっともうじき、腕の方も元通りに動かせるようになりますね」
「うん、僕もそう思います」マルバは大きく開けた口で粥を頬張ってはもぐもぐとやる。「何せ、こんなに毎日ウドさんに尽くしてもらっているんだからね」
「いえ、そんな! 当たり前のことです。元々の原因はワタシにあるんですから」彼女がかぶりを振って視線を下げると、自分のすぐそばでもう器の中身を空にしたチコリータと目が合った。「あれ、チコさん。もうおかわり? あんまり急いで食べたらだめだよ」
 しかしながら、チコリータに悪びれる様子はない。そんな彼女にウドは仕方なさげに微笑むと、テンマク内に持ち込んだ土鍋からブブールを一掬いして、チコリータの器に盛ってやる。すると、その隣で食事をしていたマルバのバウッツェルも便乗して、自身の鼻先で器をウドの方へ差し出した。そうしておかわりを得た二体はそれをまたがつがつとやり始めたので、「その気持ちはよく分かるなあ」とマルバも苦笑を洩らしていた。彼もまた相当な量を食していたのだが。
 ややあって、そんなおかわり合戦に終止符が打たれると、食器類を片付け終わったウドが、
「そうしたら、ワタシ、お薬を作りますね」
 と言う。
 ウドは荷物の中からクスリソウをはじめとするいくつかの薬草やきのみを取り出して、乳鉢で入念にすり潰しはじめる。そして、それらが完全に粉状になると、今度はそこにグレッグルの毒を薄めたものとチラチーノの油を投入し、練り物状になるまで混ぜ続けた。辺りには鼻腔をつんと冷たく刺激する、あの薬独特の粉っぽくて白々とした香りが充満している。チコリータは真剣な表情のウドを応援するように、近くで彼女の手元をじいっと見やっていた。
「しかし、ウドさんはほんとうに手際が良いですね」マルバが不意に、しみじみとそんなことを言った。「ウドさんのような人が助手にいてくれたら、医者は随分楽だろうなあ」
「そっ、そうでしょうか?」手を止めたウドは一瞬マルバの方を見たが、すぐに照れくさそうに俯いて、再び乳鉢の中身に取り組みはじめる。「……モリビトの方も、お父様も、怪我をすることが少なくなかったですから。薬の調合には少しだけ慣れているんです」
 そうしてしばらくのあいだ彼女は軟膏作りに励んでいたが、それがすっかり完成してしまうと、何か言いたげに唇を震わせ、おずおずとその顔を上げた。
「……あ、あのう、先生?」
「うん?」
「ワタシ──」ウドははくりと息を呑んだ。「い、いえ、やっぱりなんでもありません」
 瞬間、マルバと目が合う。こちらを覗き込むその瞳が、まるで日差しを浴びたおまもりすいしょうのように穏やかな光を湛えていたので、ウドは一度閉じた口を再びそっと開いた。
「ワタシでも……頑張れば、先生の助手になれるでしょうか?」
 その思い切った言葉を聞いたマルバの瞳が、ガラス玉のごとくつるりと丸くなり、更におまもりすいしょうの輪郭に近付く。
「ウドさん──」それから、マルバはその目尻を柔らかいかたちに緩めて頷いた。「ええ、必ずなれますよ! ウドさんはバハギアの自然のこともよく理解していますしね」
「ほ、ほんとうっ?」
「もちろん、ほんとうです。ウドさんが助手だなんて、こんなに頼もしいことはありませんよ」
 そう微笑むマルバの顔に、こちらへの信頼に満ちた色が広がっている。そのさまがあまりにも綺麗に見えたので、ウドはなんだが耳朶をワタッコの柔らかい綿でくすぐられているような気持ちになって、ただ小さく、ありがとうございます、と呟くことしかできなかった。
「……それにしても、まさか先生がお医者様だとは思いませんでした」ウドは出来上がった軟膏をマルバの傷口に塗り、包帯をぐるぐると巻き直しながら言った。「あのときは考えている余裕がなかったから……なんだか、今になってびっくりです」
「ハハ、すみません。隠していたわけではないんですが……」マルバが無傷な方の手で頭の後ろを掻く。「どうも、考古学者と名乗る方が好きみたいで」
 マルバが医者だと判明したのは、やはり、彼がその腕に怪我を負った事件の際だった。今になって思えば、ウドが彼と出会ったときも、マルバはおそるべき手際の良さで彼女の手当てをしたものだと、腑に落ちるところもあった。
 事の起こった日は、青々とした晴天の、いつもと変わりないように思える昼下がりだった。
 彼らは終雪の大山を見上げる峡谷に位置する祈りの家を目指しつつ、近隣のムラ──クヌガムラでの奉仕活動に励んでいた。何を成し遂げ、どこまでゆけば自らの罪過を償うことができるのかは分からない。それでもウドは、自らの旅は好調なものなのだと、マルバと過ごす内にそう思うようになっていた。ウドの犯した過ちを知る人々や、それによる被害で怪我を負った者たちから辛く当たられることも決して少なくはなかったが、そんな彼らとも奉仕活動を通して最終的には分かり合えることができていたし、少なくとも、その別れ際、チコリータに石を投げられることはなかった。これからもないと、心のどこかで思ってさえいた。浅慮だった。石は投げられた。チコリータに向かって迷いなく、一直線に。
「──チコさん!」
 それは、クヌガムラを出てしばらく行ったときだった。石の存在に気が付いたウドが反射的にそう叫ぶと、旅の中で鍛えられたチコリータもまたその声に応え、風を切って飛んでくる石から身をかわした。チコリータは身を低くした臨戦態勢を取ると、大気のうねりのような低い唸り声を上げ、石を投げてきた犯人のことを睨む。
 体躯の大きな、長髪の男だった。面識はない。年の頃はマルバと同じか、少し年上に見える。髪の色は白く、それは大山に降り積もる雪と言うよりは、燃え果てて疲れた火山灰のそれに似ていた。よく見ると頬はこけ、目元にも酷い隈がある。足元だけではなく、全身にどろんと濃い影が落ちた、陰鬱な雰囲気の男だった。
 男は、自らの放った石が的を外したことになんの反応も示さなかった。舌打ちさえしなかった。そんな相手にウドが、一体なんのつもりか、と問い質すより早く、男の指先が何かを掴んだのを彼女は見た。昼間の陽光にちかりと光るそれは、どうやらガラス──コルクで栓がされている、ガラス瓶らしかった。中には何か、液体、向こう側まではっきり見えるほどに透明な液体が入っている。水? いや、どうしても水には思えなかった。ウドは息を吸い込み、チコリータにそっと後ろに下がるよう言った。
「お前の」男の声は、まるでその影の下から発されたかのように低くくぐもっていた。「お前のせいだ」
 ウドは全身の肌が粟立つのを感じた。男の憎しみは底なし沼のごとく深く、真昼の太陽によって作り出された影のように濃く、吹き付けるふぶきめいた鋭い冷たさをもち、それでいて燃え盛る溶岩にも似た熱さだった。そのすべてが、迷うことなく真っ直ぐにこちらへと向かってきていた。
「お前が起こしたあの大地震、あれから妻はずっと臥せっている」蛇蝎のごとき瞳だった。「一日のほとんどを眠って過ごすようになったんだ。何も食べずに眠っている日もある。大好きなブブールでさえ受け付けない。どんな薬も効果がない……」
「失礼。それはつまり、君の奥様がご病気、ということかな?」ウドが何かを言うより早く、マルバが割って入った。
「……なんだ、あんたは」
「僕は彼女に同行している者です」マルバは男から絶えず目を離さずに言った。「少しお話を聞かせていただけませんか」
「……その女を庇うのか……?」
「ええ、そうですね。そうとも言えるかもしれません」
「何故」
「何故?」男の問いに、マルバは静かに息を吐いた。まるで相手には分かるだろうと言わんばかりだった。
「せ、先生……」ウドはようやく乾ききった舌を動かせた。「先生、いいんです。ワタシが、話しますから」
「いいや、よくないね。ここは僕に任せて」
 マルバの毅然とした態度に、ウドはそれを上回る言葉を探し出せなかった。ただ、男の指がコルク栓にかかっているのばかりが視界に入っていた。瓶の中身は定かではないが、けれどもおそらく毒の一種だろう。マルバは隣にいるが、自分よりも少し前にいる。男はおそらくこちらを狙ってくるだろうが、それでもこんなに近くにいてはマルバまで危ういかもしれない。彼を傷付けるわけにはいかない。わたしの罪を、彼にまで被せるわけにはいかない。ウドはマルバへと注いでいた視線を外して、真正面から相手の男のまなざしを受けた。
「……お前のせいだ」再び、刻み付けるように男が呟く。
「ワタシの……」
 心臓が、ずっと嫌な音に脈打っていた。右のこめかみで、赤い色が絶えず点滅している。死ぬかもしれない。戦って、抗うべきだ。左のこめかみでは更に大きな赤が点滅する。戦うべきじゃない。戦えない。ウドは男の、昏い闇を抱えた瞳を見た。だってこの人、こんなに悲しそうな顔をしている……
「……こんなことをしても何にもなりませんよ」
 おそらく、マルバが発したその言葉がとどめだった。
 ついに瓶の蓋が外され、その中身がウドに向かってぶちまけられた。彼女は飛んでくる透明な水飛沫の一粒ひとつぶがゆっくりに見え、それが眼前にやってきたところでやっと、あ、と思った。先生を遠くに突き飛ばさないと。でも、身体が動かない。それから、じゅっ、という、肉を焼くような音がした……しかし、おかしい。痛みが追い付いてこない。ウドは不思議に思っておそるおそる瞼を開け、そしてはっとした。
「せ──先生!」
 そこには、ウドを庇って立ちはだかるマルバの姿があった。その周りから、何かもうもうと湯気のようなものが立ち昇っている。熱い。ウドは煙に近付くと、わずかに歪む彼の顔を見た後、そんなマルバの苦痛の正体を目にして息を呑んだ。火傷! 片腕の袖が溶けただけではなく、皮膚までも真っ赤に爛れさせるほどの! 火にくべられた薪の方がまだましに見えるそれに、ウドは気が動転して倒れそうになったが、マルバが安心させるように少し微笑んだので、どうにか持ち堪えることができた。
「深呼吸をして」額に脂汗をかきながら、マルバがどうにか言葉を絞り出す。「そして今からはお互いにすべきことをしましょう。僕は医者です。他の地方から来ました。君の力になれるかもしれない」
 しかしながら、男にマルバの必死の声は届いていなかった。彼は自らがしでかした事の大きさに狼狽したらしく、持っていたガラス瓶を取り落とし、ウドとマルバを交互に見やったと思えば、心の乱れた様子でその場から走り去ったのだった。
「すみません、ウドさん。応急処置をお願いできますか」
 男がいなくなったからと言って、二人もぼうっとはしていられなかった。ウドはマルバの言葉に大慌てで荷物の中から薬箱を取り出すと、彼の指示に従ってその薬傷を負った腕の手当てをしていく。胆力のあるマルバが、このような非常事態にあっても取り乱さなかったことが功を成し、ウドもほとんど冷静な状態──彼女は自らの判断で、チコリータにいやしのはどうを使わせていた──で彼の処置を行うことができた。
「ああ、気が動転してしまったなあ」一段落し、ウドと共にテンマクに戻ったマルバがそう困り果てながら呟いた。「伝えるべき言葉の順序を間違えてしまいました。僕の言動は、きっと彼を傷付けてしまったね」
 この言葉に、ウドはちょっとばかり驚いた。「先生にもそんなことがあるのね……」
「もちろんです。君とチコリータさんが危ないと思った途端、どうにも」
 彼は眉尻を更に下げると、くしゃりと弱った表情を見せて笑ってみせる。ウドはそんな彼の苦い色をした瞳と、肌に浮かぶ玉の汗を目に映すと、清潔な布を相手の額を拭き、それからその睫毛を少しばかり伏せて問う。
「……あの人も言っていましたけれど、先生、どうしてワタシを庇ったのですか……」
「どうして」マルバは一瞬虚を突かれた目をしたのち、彼女の質問をオウムがえしする。「どうして、か。どうしてでしょう。何せ、身体が勝手に動いたものですから」
「勝手に?」
「僕がウドさんを庇ったことはそんなに意外でしたか?」彼は微笑んでいたが、しかし先ほどより腕の鈍痛が増しているようだった。「それは、少しショックだなあ。てっきり僕たちは、それくらいの間柄かと思っていたのですが」
「で、でも。先生、こんなに酷い怪我をして」ウドは包帯でがんじがらめになったマルバの痛々しい腕を見て、ぎゅっと自身の胸を押さえた。「ワタシ、せ、先生がいなくなったらって、そう思うと……」
「それは……うん、そうですね。君には怖い思いをさせました、すみません」
「違うの、違う。先生、謝らないで」かぶりを振って、彼女はマルバの膝にそっと触れる。「守ってくれて、ありがとう。……ワタシ、あの人と話さないと」
「待って、ウドさん」しかし、立ち上がろうとしたウドの腕を、マルバのもう片方の手がぐっと掴んだ。「行かないで。そばにいてください」
「えっ? だ、だけど、あの人、またやってくるかもしれない……」
「お願いします。どうか、ここに」
 痛みを堪える、苦しげな声だった。いや、それはむしろ、痛みを堪えていることを隠さない、秘密のない声にもウドには聞こえた。縋るような声だった。なのに、諸手を広げるような声でもあった。彼の声には何か、不思議な強い力があった。ウドは、自分の腕に絹みたいに柔らかな、それでいて決して千切れない糸のようなものが巻き付く感じを覚えて、マルバの瞳を見た。揺るぎない。彼は、こちらが首を縦に振るまで決して目を逸らさないつもりらしかった。
「……あの人」ついにウドは、その場に留まることに決めた。けれども代わりに、胸の内に浮かんだ思いを膝の上に零さずにはいられなかった。「母を喪った父に似た目をしていました。昏く沈んだ瞳だった。こちらを見ているのにもかかわらず、何も映していないような……」
 そう、それは思い出すだけで底冷えする瞳の昏さだった。夜明け前の深い暗やみなんて易しいものではない、一点の光点も認めることのできない絶望の闇がそこにはあった。その闇がどうやって生まれるのか、ウドには覚えがあった。それはいつだって、誰にぶつけても収まることのない怒りの赤と後悔の青、そして身を焼く衝動の黄が混ざり合って生まれる。網膜をすっかり塗り潰す、深い、深い絶望の黒だ。そして、その黒は、ついこの間まで自分自身の瞳の中にあった色でもあった。
「あの人の前にいるとき、ワタシ、怖かった。とても……」ウドは両手を祈りのかたちにして、静かに睫毛を伏せる。「ワタシ。きっと、……タマキにも同じ思いをさせたんですね」
 それから数日後、ウドの予想通り、男は再び姿を現した。あろうことか、男は二人の滞在するテンマクに直接訪ねてきたのである。当然ウドはそんな相手に警戒の姿勢を取ったが、彼がどうやら手ぶららしいことと、身に纏う影が以前のそれとは異なる色合いを見せていることに気が付くと、わずかに困惑して相手のことを見た。「あの男に会いたい」──男が開口一番に発したのはこのような言葉で、ウドはますます困惑した。聞いているだけで心がちくちく痛むような、苦い声音。どういうことだろう。これではまるで、後悔でもしているみたいだ……
「でも、彼は怪我をしているんです」
 混乱する心を押し隠して彼女は毅然とそう言ったが、
「いいよ、ウドさん。僕が話してみますから」と、すぐそばで見守っていたマルバが言い、「ちょうど僕も、彼と話をしたかったところでね」
 そんなふうに笑ってみせるので、ウドはおそるおそる男の真正面をマルバに譲ることにした。
「ウドさん、心配だと思うけれど、ここは僕を信じて一旦外で待っていてくれないかな」
「えっ──」もちろんウドは、まさかそんなことができるはずがない、という顔でマルバを見やったが、こちらを見つめ返す相手の瞳が、ウドのそれよりも揺るぎない意志で固められていたために、彼女は彼の言葉を尊重せざるを得なかった。もっとも、テンマクの外でマルバを待つウドの心境ときたら、一分が一時間に感じられるほどに気が急き立ち、ざわざわする産毛のすべてが聞こえるくらいに落ち着かないものであったが。
「──彼の奥方の診察に行きましょう」
 それからしばらくののち、男と共にテンマクから顔を出したマルバがそう言ったので、ウドは驚きのあまり飛び上がりそうになった。彼女は大慌てで薬箱を背負い、草むらで遊んでいるチコリータを呼び寄せると、やはり転びそうになるほどに慌てながら、マルバと男の後を追いかけていったのだった。
 クヌガムラの外れにある男の家は、彼らの生活が垣間見える、慎ましくも暖かみのある場所のように見えた。男に導かれた二人が寝室の扉をくぐると、薬草っぽいにおいが鼻を突く。そこには、青白い顔をした女性が、ぐったりと寝台に横たわっていた。眠っていてもそうだと分かるほど、美しい人だった。長い髪は艶やかで、頬もふっくらとしており、肌の青白さと息苦しそうな寝顔がなければ、きっと病人だとは分からなかっただろう。ウドは男の顔を見た。道中、彼は至って落ち着いた様子だったが、暗澹としたその表情が晴れることは、たとえ一時でも存在しなかった。
 男の気配にか、それとも見知らぬ客が来た違和感のためか、女がうっすらと目を開ける。マルバは早速、診察に取り掛かろうとしていた。正直なところ、ウドに出来ることはないように思えた。マルバが鞄の中から小難しそうな医療器具を取り出し診察を行うさまを、男と固唾を呑んで見守ることしか、今の彼女にはできそうになかった。男は苦しげな女の顔を見て、心を痛めている様子だった。女の表情は、怪我の痛みを堪えるマルバのそれともどこか似ているふうに思え──ならば、もしかしたら? はたとして、ウドはチコリータを見た。
「ウドさん、チコリータさんをここへ。いやしのはどうを彼女にしてあげてください」そんな彼女の心を読んだかのようにマルバがそう発し、それから女に優しく声をかける。「大丈夫──気分が好くなりますよ。きっと、食欲も少し湧いてくると思います……」
 ウドはチコリータを見やり、彼女にいやしのはどうをお願いした。チコリータを男の方を見てちょっと嫌そうな目をしてみせたが、渋々と女の隣へと歩いてゆき、その青っぽい顔を見た途端、心配そうな表情になって相手にいやしのはどうを放ちはじめる。
 そうしてしばらくすると、女の顔色に少し赤みが戻り、息苦しそうな表情もわずかに和らぎだした。マルバの落ち着いた様子からも察せるように、診察もほとんど終了しているらしい。彼は振り返り、男のことを見た。
「奥様はブブールがお好きだと言っていたね? 材料はありますか?」
「え? あ、ああ……」
「では、用意していただけますか? ノメルのみをたっぷり絞ったものがいいですね」
「ノメルのみ……」男がオウムがえしする。
「分からなければ、ウドさんに作り方を教えてもらってください。ウドさんも、それで構わないかな?」
「は──はい。ちょうど、ノメルのみも持っていますから」
 こういったときのマルバが発する声には、その柔らかな耳当たりの奥に、どうにも迫力のある、揺るぎない力が宿されていた。おそらく、医者として様々な患者と向き合ってきた彼の経験が、無意識にそうさせるのであろう。それを感じたウドは自らの身体が勝手に水汲み場へと動くのを感じていたが、どうやら男の方も同じだったらしい。彼女らは共に井戸で新鮮な水を汲み上げ、湯を沸かし火を熾し、米を炊いて、それをたっぷりの水でじっくり煮込んだ。男の調理の仕方は少々荒っぽかったので、ウドは見本を彼に見せつつ、適切な食材の量と投入する時機、そしてノメルのみの絞り方を男に教えた。
 出来上がりまでの煮込み時間は、ウドが火を見張った。男はマルバに呼ばれて、女の病状を聞かされることとなった。隣室から、女のものだろう、細くも清廉とした声がうっすらと聞こえてくる。ウドは完成したブブールを病人が食べられる程度にまで冷まして、器を彼らの話している部屋まで運んでいった。
 しかし、部屋に入って一歩目のところでウドは違和感に気が付く。それも、良い方の違和感だった。先ほどよりも部屋が暖かい──彼女はそんなふうに感じた。小さなランプにぽっと火が灯り、それが部屋一面を穏やかに照らし出しているような、不思議な優しさと安堵が辺りに満ちている。見れば、微笑む女の隣で男は泣いていた。膝を突き、女の手を大きな両手で包み込んで、そこに額をくっつけて泣いていた。ずっとついて回っていた暗い影は男の顔から消え去り、その涙の下には女と似た頬の赤みが戻っている。そんな男の姿はまるで、ばらばらになっていた心と身体がようやく一つに戻れたようだった。
「……帰りましょうか、ウドさん」
「えっ? でも……いいんですか?」ウドはブブールを抱えたまま、困惑してマルバを見る。
「ええ。もう、心配いりませんから」
「そう……」
 ウドはブブールの器を寝台の近くにそっと置いた。チコリータは女の枕元におり、こちらに気が付くと寝台から降りては駆け寄ってきて、ぴょんとウドの両腕の中に収まった。女がはたとして、顔を上げた。ウドはその瞳が手招いているように見えて、男の隣に膝を突く。
「今回のこと、ごめんなさい。この人が馬鹿なことをして……」女は眉を下げ、ちらりとマルバの方を見た。「あの方の怪我だけでなく、あなたにも怖い思いをさせました。ほんとうに申し訳なく思います」
「いえ……ワタシには謝らないでください。元はと言えば、ワタシが悪いのですから」
「そんなふうに仰らないで。人は誰しも間違えるもの──間違えれば、償わなくてはならない。償っていけるものなのですよ。だから、そのために、あなたは頑張っているんでしょう? 大丈夫、あなたは正しいことをしていますよ」
「奥様……」
「私はもう大丈夫。この人も」女はそう微笑み、男の瞼を濡らす涙を拭った。そして、それと似た優しさでウドの腕の中にあるチコリータのことを撫でる。「ふふ……かわいい。この子、あなたのことを愛しているのね」
「愛?」胸に湯を注がれるような響きだった。
「そう。そして、あなたもこの子のことを愛している」彼女の笑みが深く、穏やかなものになった。「私たち、大事にしなければなりませんね。自分の愛する者たちを……」
 女の声は衣擦れと同じほど密やかで、それはたぶん、ウドの耳にしか届かないものだった。そんな相手の囁きに、ウドは腕の中のチコリータを見た。宝石みたいな大きな瞳が、純真な光を湛えてこちらを見つめている。彼女は思わず、耳をチコリータの葉っぱに押し当て、瑞々しくもあたたかいそこから感じる、命が脈打ちながら流れる音を聴いた。そんなウドの胸に沸き立ち広がるものの名は、今まさに女が与えたものだった。
「ねえ、あなた」夫婦の元を発つ直前、女がウドに呼びかけて笑った。「ポケモンって、素敵ね」
 それからというもの、ウドとマルバ、夫婦の四人は完全に和解したと言って差し支えなかった。男──医者ではないが、彼はクヌガムラの薬師だった──は何度も彼女らのテンマクに訪れると、そのたびにウドに特製軟膏の作り方を指南し、今ではすっかりその作り方を習得した彼女である。ウドもまた、男にノメルのみ入りのブブールの作り方を根気強く教えた。ウドのブブールを出してからというもの、妻の食欲も元通りになったらしく、それを話す男は嬉しそうに笑っていた。そういうわけで、残りはもう、マルバの怪我の完治を待つばかりであった。
「それで、結局。奥様はどんな病気だったんでしょう? 本人は大丈夫と言っていましたが……」ウドは慌ただしい日々の中で、ずっと聞けずにいたことをマルバに問いかける。
「ああ、そういえばウドさんには話していなかったね」たった今それに気が付いたかみたいに、マルバはにっこりしてみせた。「おめでたです。おそらく十五週目くらいかな」
「おめでた?」
「子どもができたということさ」
「赤ちゃんが!」
 ウドが驚いて立ち上がると、膝の上に乗っていたチコリータが転げ落ちた。彼女はよくあるこの暴挙に対し不満げなまなざしを向けていたが、ウドが随分と嬉しげな表情をしていたので、大きな溜め息のみで許すことにしたらしい。ウドはしきりに「わあ」「まあ」「きゃあ」辺りの声を発しまくっている。彼女は生まれたての赤子というものを見たことがなかったが、その存在が非常に尊く、神秘的なものであることだけは理解していた。
 ややあって、どうにか興奮から冷めたウドが、
「──それにしても、先生は凄いなあ」
 と、そう呟いた。
「僕が?」
「うん。だって、先生にはなんでも解決できるみたい。人のことも、ポケモンのことも、ワタシのことだって……」
「……どうだろう?」マルバはちょっと複雑な笑みを浮かべてみせる。「きっとね、僕は君の思ってるほど、素晴らしい人間じゃあありませんよ」
 自嘲ぎみな相手の台詞に、ウドはまさか、という顔で瞬きをした。そんな表情の相手にマルバは微笑みつつかぶりを振って、それからそっと睫毛を伏せる。
「じつはあの夜、君が僕にすべてを話してくれた日の夜、……正直、僕は少しだけ、……チコリータさんが羨ましい、と思ったんです」
「羨ましい……?」それは、ウドにとって信じがたい響きに聞こえた。
「すべてを滅ぼしてやりたい>氛氓サう思うほどの愛を受けたことは、僕にはないですから。それってなんだか……ロマンチックだな、と思って」
 マルバの下を向いた睫毛の間から、彼の瞳の赤色が秘密めいた色合いで覗いている。それはどこか、彼の抱えるちくちくとした罪悪感が、茨のごとくその心を刺しているかのようだった。「ロマンチック……」ウドは口の中だけでくり返す。その言葉の意味をウドは知らない。しかし、彼女は空の神話を見上げるふうにして思考を止め、想像してみた。もしも、マルバが自分と同じことをしたらどうだろう。自分は、そんな彼の行動を、それほどの彼の愛を受けた者を、やはり彼と同じように羨むのではないだろうか……
「そのときから僕は一層、君の道行きを見守りたいと感じるようになりました」マルバが睫毛を上げ、ウドのことを見る。「君が、どんなふうに生きていくのか見守りたいと。そんなこと、今まさに贖罪のさなかにある君には、ゲンガーみたいに口が裂けても言えなかったけれど……だからこそ、そんなことを望む僕もまた、君と同じ罰を受けたいとも願いはじめていたように思います」
「……先生」ウドは、痕が残るかもしれない彼の薬傷を目に映した。
「つまり、僕の心もまた、ひとつではないということです」彼はいつものように微笑むと、無傷の方の手でウドの手の甲にそっと触れた。「なので、今回のことはこれで良かったんです。僕は大丈夫。必ず元気になります──ウドさんの介抱もあるしね」
 彼が真実満足げにそう笑ってみせるので、気が付くとウドは首元の指輪に手を伸ばしていた。チコリータに抱くものとは少しだけ彩度の異なる、しかし似たあたたかさで胸を満たすこれもまた、愛と呼べるものなのだろうか。尋ねられる相手はない。ただ、ウドの世界は、彼の表現する言葉によって、美しく色付きながら広がり続けていた。今も。
「……先生はほんとうに、エニシデシア様からの贈り物みたいね」
「そう思いますか? であれば、ほんとうにそうかもしれないね。僕にとって君がそうであるように」マルバは微笑んだ。
「先生は自分のことをああ言ったけど……それでもワタシ、先生のこと凄いって、素晴らしいって、変わらずそう思います」彼女は、自身の胸に手を当てて目を閉じた。「……ワタシ、いつか。先生みたいな人になりたい」
「僕みたいな?」
「人やポケモンの助けになりたいの。この旅は、罪滅ぼしの旅だけれど……それでも、誰かがワタシのしたことで喜んでくれる姿を見たら、嬉しいって、そう思うから。先生みたいに、人やポケモンの心に寄り添って、その助けになれる人になりたい」言いながら、彼女は自分の手にぎゅっと力を込めた。「祈るだけじゃあ、変わらないこともあるから」
 そうしてウドが祈りを解く速度で瞼を開ければ、真正面からこちらを見つめていたマルバと目が合う。陽光も生命も暗やみもすべて包み込んで流れる大河に似た、慈しみのまなざしだった。それでいて、自らがどこに流れ着き、何に溶け込んでいくのかを識っているような、奥深いまなざしでもあった。
「僕はね、ウドさん」
 彼の目を見て、はっとしている彼女に、マルバはそう語りかけた。
「ウドさんのような人が、これからの人とポケモンの在り方を変えていく存在になると信じているんです。確かにウドさんは少し間違えてしまったかもしれないけれど、すべてを否定してしまわないで」風が穂を揺らすみたいに、彼はウドの下瞼を親指の腹で撫でた。「ウドさんはもう大丈夫ですよ。自分を信じて。そして誰も恨まなくていいんです。君自身のことも」
 それは、まったくあたたかな声だった。そのまなざしと同じくらいに。
「僕はバハギアに来て、祈ることの強さを君から教わりました。だから……」そして、彼は不自由な手の代わりに、その唇からそっと祈りを紡いでみせた。「今度こそ、ウドさんのほんとうの願いが叶いますように」
 そんなマルバを目の前にして、ウドはなんだか、色鮮やかで神聖な、力を込めたら壊れてしまうガラス玉を胸に抱いているような気持ちになった。胸の辺りがあたたかいのは、彼の祈りが真っ直ぐ心に届いているからに違いなかった。この世には、これ以上美しいものはきっとないだろうと、彼女は迷いなく思った。
 ウドはそれを、割らないように両腕でぎゅっと抱き締める。そして、その姿もまた、祈りの姿によく似ていた。



20240406 執筆
Thank you @slhw0925 and follower


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