すべての透明に色が付いてしまう


 チコリータと共に建物の外に出ると、かっと眩しい日差しが瞳を刺す。昼間のバハギアを照らす太陽光は、白く冴え渡りながらも黄金色に光り輝き、その中を行き交う人々はまるで、白金のごとく煌めく大きな布の内側を歩いているかのようだった。
 ウドとマルバの旅は、今日で半年を迎えようとしている。彼女は通りを往来する人々の中から、見慣れた背格好を探すためにきょろきょろと視線を彷徨わせたが、しばらくしてそこにマルバの姿がないらしいことが分かると(彼は異邦人のため、人混みの中でもよく目立ち、ウドはどんなときでも彼のことならばすぐに見付けられた。ただ、ウドがマルバのことをすぐに見付けられるのは、彼が異邦の民だから、という理由だけには限らなかったかもしれないが)、目抜き通りの辺りを探すために数歩進み出たところで、
「ウドさん」
 と、背後から声がかかる。憶えのある声。ウドの鼓膜をいつでも柔らかく揺らす、あの穏やかな声だ。
「先生!」彼女はマルバのところへ駆け寄った。「てっきり目抜き通りの方へ行かれたのかと……」
「ウドさんと行こうと思ったからね」
「ワタシと?」
「うん。僕はこのムラの勝手が分からないし──それに、一緒の方が楽しいでしょう?」からりとそう笑って、マルバはウドの肩を軽く叩いた。「それで……ガイア団の長の方には会えましたか?」
「はっ──はい!」
 頷いて、ウドは今しがた自分が出てきた高床式の建物を振り返り、鞍型屋根が特徴的な、これまで見てきた建物に比べてやや新しい出で立ちのそれを目に映す。太陽にも月にも胸を張ってそびえるそこには、紫色の大旗がゆったりとたなびいており、その佇まいはまるでこの建物の持ち主──ガイア団という組織を象徴するかのごとくであった。
 ガイア団。それは近年バハギアにてその名前を轟かせつつある、新興組織である。ポケモンと人とが手を取り合う社会の実現≠理念に掲げるこの組織では、主にポケモン研究・保護及び人類史における民俗学の研究を専門とし、時には自ら捕獲したポケモンらの力を借りながら、日々調査に励んでいる。また、ウドの知る限りでも、ガイア団は調査の傍ら、孤児の保護や移民の受け入れも積極的に行っており──特に先代が退任し、近年団長に就任したヨラメはその傾向が顕著だった──最近ではここ、シンガンムラも巻き込んでの地域発展に取り組んでいるため、近隣の村里からの評判は高かった。ゆえに、シンガンムラはバハギアに存在する他の村々よりも多色的で柔軟性のある土地であり、更に他に比べて少しばかり、新しいものを取り入れることが好きだった。或る種それは、好奇心旺盛、とも言い換えることができる。
 そして、そんなムラでの居心地は、ウドにとっては不思議なものだった。父やモリビトが行う仕事の付き添いで何度かシンガンムラに訪れたことはあったが、彼女はそのたびにこのムラの人の多さと、行き交う人々のもつ考えの多様性に驚かされたものだった。少なくともここの環境は、ヒノデムラという狭くも厳かな場所で育ったウドにとって、新鮮極まりない土地であることは確かだった。
「あの……ヨラメさんも、皆さんも親切にしてくださって」ウドは旗に描かれた、ガイア団を象徴する紋章である、楕円形の図柄を眺めつつ言った。「ワタシのためにたくさん食糧を用意してくださったんですが、ただ頂くわけにはいかないと思って。そうしたら、ヨラメさんがお仕事を見繕ってくれて……」
「仕事? どんなものかな?」
「はい──目抜き通りの市場調査をしてほしいとのことでした。どんなものが、どんな人にどれだけ売れているかを、分かる限りでいいからと」
「なるほど、そうか」彼女の回答に、マルバはにっこりした。「なら、早速行きましょうか」
 そうして歩きながら、「このムラの建物、ちょっと変わった形をしているんだね。大きな屋根が帽子みたいだし、脚も生えている」と、マルバが呟いたので、ウドはこの辺りの土地は他に比べて湿気が多いことと、こういった形状の建物にすることで日陰と風の通り道が生まれるため、バハギアの強い日差しや湿気──そして、家の食糧を狙うねずみポケモン──から家を守ることができる旨を教えた。「そういうところがいいね、バハギアは。自然と共に生きていて」「自然と共に?」「うん。ほら、良い風が吹いていますよ」マルバが目を細めたので、ウドもそうした。足元のチコリータもこれには同意らしく、気持ちよさそうに頭の葉っぱをなびかせている。
「それに、こうも考えられないかな。ポケモンとも共に生きようとしている、と」
「この脚付き住居が?」ウドは、家の柱を登り切れずにひっくり返るねずみポケモンの姿を想像していた。
「この家は、ポケモンのことを知っている人が建てた住居だ──僕はそんなふうに感じます。少なくとも、この辺りに棲むポケモンの生息を知らなければ、こういった形にはならないはずだから」彼は柱に取り付けられたねずみ返しを見やり、それからウドとチコリータに微笑みかけた。「きっと、ただ差し出すだけが共存の形ではありませんからね。相手との適切な距離を保つこと……それもまた一つの共存関係なのではないかな。でもそれも、相手を知らなければできないことです。知ることで──知ろうとすることで、すべてが始まる。このムラの建物からは、そういった一つの愛情を感じますね」
 昼下がりの目抜き通りは、多くの人でがやがやと賑わっていた。通りの両端には露天商が立ち並んでおり、色とりどりの布で彩られた店構えや形の様々な商品らは皆一心に白昼の日差しを浴びて、それはまるで宝石めいた煌めきを放っている。にこにこと楽しげなマルバの傍らで、ウドは行き交う人々がどんな店で立ち止まり、どんな品物を買っているのかを手帳に書き付けていったが、或る露店の前でふと足を止めると、
「あ」
 そう呟く。彼女の視界には、商人と共に店番をしているポケモンの姿が映っていた。見たことのないポケモンだ。外国のポケモンだろうか。
「サボテンポケモンのマラカッチですね」そんなウドの視線にめざとく気が付いて、すかさずマルバは言った。「イッシュ地方によく見られるポケモンです。店主もイッシュ人のようですね」
「わあ、先生、見てください。マラカッチが左右に揺れるとしゃかしゃか──マラカスみたいな音がしますよ! なるほど、あの楽しげな動きと音でお客さんを呼び寄せてるんですね」
 ウドは、そんなマラカッチの立てる音に惹かれて店に駆け寄っていく子どもの姿を目にすると、目尻を柔らかくして微笑んだ。露店にはバハギア人だけでなく異国の者も多く、そのためだろうか、店先にポケモンが立っていたり、堂々とポケモンを連れる者が歩いていたりしても、それほど大げさな驚きを見せる人間はいなかった。或いは、バハギアの英雄、ときわたりの旅人・タマキが与えた影響も大きかったかもしれない。彼女の存在は、現在のバハギアにおける人とポケモンとの関係性に一石を投じ、ポケモンとポケモンがもつ不思議な力を過度に神聖視し、畏れるバハギア人の思考を一変──とはいかずとも、自分たちの考え方と再び向き合うきっかけを与えた。眼前のマラカッチのように、人と共に在るポケモンの姿を彼女が見たら喜ぶだろうなと、ウドは不意に思った。
「ウドさん?」
「あ、いえ、なんでも」マルバが覗き込んだので、ウドははっとして首を振った。「久しぶりに来たもので、少し……嬉しくて。このムラはこれから良い場所になるだろうなって、そう思ったんです」
 ガイア団に訪れたとき、彼女はタマキの現在について何かを問うことはしなかった。彼女は元の時代に帰ったのだろうか? それとも、今も尚、誰かのため何かのため、この広大な大地を奔走しているのだろうか。ポケモンと共に。気にならないわけではない。心配しないわけでもなかった。それでもウドは、何も言わなかった。マルバのことも。
「布は……この日差しですから、黒より白が売れているみたいですね。それに、鮮やかな色のものも。食べ物は、さっぱりしたブブールと熱い麺類がよく売れてる。花は人それぞれですけど、やっぱりチャハヤが人気ですね。この辺りじゅう、チャハヤの良い香りがします。あとは、ええと、果物……」ウドは手帳に書き留めつつ、顔を上げた。すると、一匹の小さなシピーが青果商の元に舞い降りて、そばに置かれたすり下ろしのマンゴーを啄みはじめた。常連客らしい。「シピーには、マンゴーが人気……っと」
「おっと、ウドさん。これはなんだろう?」マルバが通りかかった菓子店で首を傾げた。
「ああ、ミツアメですね。ミツメリというポケモンが集めたミツにきらざとうを溶かして作るもので、とっても甘くて美味しいんですよ」
「ではいただいてみましょう。すみません、こちらを三つ」マルバは驚くべき決断の早さで、さっと料金の支払いを済ませた。「はい、ウドさん、チコリータさん。どうぞ」
「えっ、でも……」ウドは差し出されたミズアメの器とマルバの顔を交互に見やった。
「お仕事、頑張っていますから。僕からの差し入れです」
 そう笑いかける相手に、彼女はしばらく戸惑いの表情を見せたが、少しするとマルバの優しさに顔を綻ばせ、遠慮がちに「あ、ありがとうございます」とミツアメを受け取り、チコリータと食べるためにその場にしゃがみ込んだ。じつのところ、ウドはこれをほとんど食べたことがなかった。幼い頃、両親と共に一度口にし、そのあまりの甘味に感激した記憶だけがうっすらと残っている。器を覗き込むと、棒にくっついたミツアメが昼間の白光を存分に浴びて、そのさまはまるで時の止まった湖水のようだった。そして、彼女はそんな水の宝石をぱくりとやると、
「あ──甘い!」そう、目をぎゅっと瞑って笑った。同時にミツアメを舐めたチコリータも、およそ同じ表情をしている。「先生の淹れてくれるポチティーみたい!」
 でもそれは、喉に絡みつくほどの強さも刺激もない、しっとりとした穏やかな甘さだった。そっと舌に染み込んでくる、心の内側をほぐすような甘さ。ミツアメを飲み込み、睫毛を上げると、こちらを見つめるマルバの微笑みに出会った。たぶん、とウドはほどけた心のどこかで思う。たぶん、彼の笑顔に味があるなら、このような味になることだろう。優しくて穏やかな、こちらを安心させる味……
 そうしてミツアメを食べ終えた二人と一匹が露店の散策もとい調査を続けていると、前方から鮮やかな色合いの洋服を身に纏った、花盛りの女性数名が楽しそうに談笑しながら近付いてくる。その場にいるだけでぱっと雰囲気が華やかになる彼女らのまばゆさに、ウドは影に隠れる思いでそっと睫毛を伏せたが、マルバが通り過ぎていく女性たちを目で追ったのはなんとなく感じ取っていた。
「ああいった装いは流行りのスタイルなんですか?」相手方が見えなくなると、ウドの肩を少し抱きながらそんなふうにマルバは問うた。「ウドさんもムラではああいった格好をしていたのかな?」
 ウドは顔を上げ、慌ててかぶりを振る。そうすると、動きやすさを最重視した自らの服装が嫌でも目に映った。「い、いえ、ワタシは昔からこんな感じですから」
「そうなのかい? あんまり好きじゃない?」
「そんなことは、……えっと、どうでしょう、考えたこともありませんでした。縁遠くて」
「ハハ、そうですか。確かにウドさんは今のままで充分に魅力的ですね」そう目を細めるマルバの瞳は、先ほど食べたミツアメの水面のような不思議な輝きを宿していた。「けれど、ああいう装いも似合うだろうなあ。機会があれば、ぜひ見てみたいものです」
 彼の言葉に、ウドは瞬きもできないまま相手の目を見つめた。マルバの瞳に滲む光は、社交辞令のそれとは到底思えないほど明らかなものだったのだ。そんなことを他人に言われたのは生まれて初めてだった。今まで、自分の服装がどうかなんて考えたこともなかったのに。どきどきする心臓が苦しかったので、少し目を瞑った。「ウドさんはホワイトが似合いそうですね。グリーンもいいかな」なんて楽しげに言う、マルバの声が聞こえる。左肩に置かれた手をどうすべきか分からなくて、そのままにしておいた。気を抜くと、両腕と両脚が一緒に前に出てしまいそうだったけれど。たぶん、こんな自分に対してチコリータは呆れ顔をしていることだろう。
「おや、宝石なんかも置いているんですね」
 つと、マルバがそのような台詞を発したので、ウドはそこでようやく正しい瞬きの仕方を思い出した。どうやら宝飾店の主人に声をかけられたらしい。彼女は店主と会話しているマルバを横目に、チコリータを抱き上げつつ、店先に並ぶ数々の美しい宝石やアクセサリーたちを眺めた。
 その中で特にウドの目を惹いたのは、やはり指輪であった。エニシデシア──輪の主を崇めるバハギアの民にとって指輪というものは、他の物よりも深い意味をもつ装飾品だった。尊い繋がりの形が割れたり変形したりしないよう、高価な素材で頑丈に作られているものがほとんどだったし、熟練の職人たちによる装飾や美しい宝石で彩られていることが多く、だからこそ、こうして店先に並んでいるとひときわの輝きを放つ代物なのだった。
 彼女は、無意識のうちに、或る一つの指輪へと手を伸ばしていた。しかし、指輪に触れる直前、もう一方から伸びてきた手に指先同士が触れてしまったので、慌てて引っ込めて顔をそちらへと向けた。引っ込める速度があまりに強烈だったので、腕に抱かれていたチコリータさえも驚き、地面に飛び降りる。触れたのは、マルバの手だった。
「ウドさんもこれが気になる?」目が合うと、マルバはぱっと顔を輝かせた。「奇遇ですね。ちょうど僕も、これがいちばん君に似合うかなと思っていました」
「花の……」
「うん?」
「その花の──チャハヤの花の彫刻が綺麗だな、と」おずおずとウドが呟いた。「バハギアの国花というのもありますが、ワタシにとっても思い出深い花で……楽しかったことも、悲しかったことも、この花にはたくさん詰まっているんです」
 いつの間に店主から許可を取ったのか、ウドが気が付いたときにはもう、彼女の手の上にその指輪が置かれるところだった。そして、それが放つ魅力に抗えず、彼女はじっと指輪を見つめた。ぐるりと全体にチャハヤの花の意匠が凝らされた、月光のごとく繊細な輝きを発する指輪で、花びらのような爪の部分には、おまもりすいしょうを模しているのだろうか、小振りの丸いクリスタルが──いや、よく見るとそうではなかった。クリスタルにしては不透明で、けれども真珠にしては透明な宝石。それは、見る角度によって様々な色彩を揺らめかせる、見たこともない神秘的な石だった。これは?……
「──オパール」
 と、マルバが答えを差し出したので、
「オパール……」
 そう、ウドもくり返した。
 指先でつまみ上げると、オパールはおまもりすいしょうの白からチャハヤの花の青へと、虹の瞬きを見せる。ウドは思わず溜め息を吐いた。夜明けと共に輝き出すバハギアの地平線みたいに、虹を抱いた、美しい銀色の指輪だった。自分とは最も遠い位置に在る、素晴らしい銀色……
「ウドさんの色ですね」
 しかし、不意を突いてマルバがこんな思いも寄らない言葉を発したので、ウドは驚きに声も出せず彼のことを見た。
「よく似ている。光を浴びて、白く煌めいて──」マルバは微笑み、ウドの髪の一房にそっと触れた。「瞳も、このオパールみたいにいろんな色になって」
 摩訶不思議な表現だった。何せ、ウドの瞳は生まれてこのかた鈍い灰色で、彼の言う虹の色に変化したことなど一度もないからである。むしろ、もっている色の鮮やかさであったらマルバの方が虹に近しいようにウドには思えた。ただ、そんな考えも、マルバが店主に向けて発した、
「こちら、頂きます」
 という言葉によって散り散りになってしまったが。
「……えっ?」
「さあ、ウドさん」マルバが手招く。
「え、……えっ?」
 ウドは言われるままに相手へと近付いたが、マルバが指輪を取り、それを彼女の左手薬指へと嵌めようとすると、慌てふためきながらその手を引っ込めて言った。
「い、いけません!」彼女ははっとし、申し訳なさそうにかぶりを振った。「あの、先生の国ではきっと違うのだと思います。ですが、バハギアで指輪を贈る行為は、その、求婚と同じことですので──と、特に、左手の薬指に贈る指輪はその意味合いが強いんです。左の薬指と心臓は、同じ血管で繋がっていますから……」
 そう言う彼女がマルバの顔を見ることができなかったのは、ただ良心の呵責のためだけではなかった。
「それに……ご存知の通り、ワタシは贖罪の旅をする身ですから。この身に余るほど高価なものはお受け取りできません──お気持ちはほんとうに、嬉しいのですけれど……」
「それは……」マルバは虚を突かれたような表情を浮かべていた。「……失礼、配慮が足りていませんでしたね」
「い、いえ! そんな、先生のせいじゃありませんから」
「いやはや、ウドさんの志はほんとうに素晴らしいですね!」彼はそう極めて明るく笑ったが、それでもその後ほんの少しばかり肩を落としたらしかった。「……僕とは大違いだ」
「先生?」
「それではウドさん」わずかに自嘲的な微笑みを浮かべて、マルバが手の中の指輪をウドに差し出す。「ここは一つ、慈善活動だと思って受け取ってはもらえないかな。僕の心を救うと思って」
「救う? でも……」彼女は戸惑いつつ、マルバの顔を窺い見た。そして、そこに在る彼の瞳に、悲しみか憐れみか──とにかくウドには計り知れないほど無数の色が水煙のごとく広がって、彼の辰砂を沈ませていくのを目にすると、どうしてもウドにはこの男が差し出そうとしているものを断りきることができなかった。「あ、あの──分かり、ました。お受け取り……してもいいんでしょうか? でも、その、ワタシ……指輪は……」
 しどろもどろにそう言うウドに、マルバは頷いて店主から細身のチェーンを一つ買い上げると、そこに指輪を通して、
「これならどうでしょう?」
 と小さく笑ってみせた。詭弁と思う。詭弁とは思うが、指輪を通した首飾りをこちらに向かって差し出すマルバの瞳に、赤々とした明るい光が戻ったのを見ると、やはりウドには彼の言葉を否定することなどできないのだった。
「こんなに綺麗なもの、生まれて初めて身に着けました」マルバの手によってネックレスを留められながら、ウドはすぐそこで煌めく宝石の美しさに思わず溜め息を洩らした。「先生、ありがとう……」
 よし、と呟いたマルバがウドの正面に戻ってきて笑った。「これで在るべき場所に収まりましたね」
「在るべき場所?」
「ええ。ウドさんに似合いそうな指輪ですから、ウドさんの元が在るべき場所です」
 そう自信ありげに言うマルバに、ウドはどんな言葉を返すべきか分からず、ただ少し睫毛を伏せ、首元の遊色する指輪にそっと手を触れた。
「……先生」
「うん?」
「先生のくださるチャハヤは、いつでも甘いですね。ポチティーも、ミツアメも、この指輪も……」目を上げたウドの瞳は、太陽のためではない光で滲んでいた。「ワタシ、ずっと大事にします。この先もずっと、ずっと……」
 それから彼女らは目抜き通りを何往復かし、報告してもあらかた問題ないと思えるところまで調査を済ませてしまうと、休憩のために露店街からは少し離れた場所の丸太椅子に腰を下ろしていた。今、マルバは飲み物を買いに行くため、席を外しており、チコリータはウドの膝枕で昼寝を満喫している。
 ウドは相手の帰りを待つ間、何度も何度も、ほんとうに何度も首元の指輪を目に映していた。傷付けないようにそっと指先で触れると、うっすらと冷たい金属の温度が皮膚に伝わって、そこだけ夜明け前の風に吹かれているみたいだった。不思議だ。ずっと、不思議なことばかりだ。マルバといると、不思議なことに出会ってばかり。ややあって、マルバがしばらく戻らないことを悟ると、彼女は緊張ぎみに息を吸った。そして、閑散としているのにもかかわらず、きょろきょろと辺りを見回し、自身のうなじへと手を伸ばす。
 ウドは、ネックレスを首から外して、自分の手のひらの上へと載せた。そこで光る指輪の美しさは何度見ても変わらず、どれほど長いあいだ見つめていても飽きないほどで、彼女は思わず今日何度目かの溜め息を吐いた。陽光に照らされてきんと輝く輪郭は当然ながら、鈍く光る内側でさえ美しさが地平線からやってくるようだった。その煌めきに惚れ惚れとしながら彼女は今一度息を吸い、それから再び辺りを見回して、おそるおそる指輪を自分の指に──左手の薬指は余りにも恐れ多かったので、そこ以外──嵌めてみようとして、
「──えっ?」
 けれども目の前をもの凄い勢いで横切った何者かに、驚いて声を洩らした。黒くて、そらをとぶ何か。ウドはほとんど呆気に取られながらも、それが飛び去っていった方向を見た。尖った帽子を被ったような、その後ろ姿が見える。ヤミカラスだ。ヤミカラス?
「えっ!」嫌な予感に手の中を見たウドが、悲痛な大声を上げて立ち上がる。「う、嘘……っ! チ、チコさん!」
 膝の上から転がり落ちたチコリータが、こんらん状態でウドのことを見上げた。けれどもそこにある彼女の顔があまりにも真っ青だったので、チコリータは気合いと呼ぶしかない力で自らのこんらんを解き、ウドと共に飛ぶカイデン落とす勢いで走り出した。
 無我夢中だった。「待って」と呼びかける余裕もないまま、ウドは凄まじい速さで飛んでいく、今や黒っぽい線にしか見えないヤミカラスを追いかけていった。とにかく見失わなければ希望はある、そんなふうに考えて必死で追い縋ったが、けれどもヤミカラスとは賢いポケモンである。彼は人で混み合う目抜き通りの方に飛んでいくと、その小さなからだと飛行技術を生かして、あっという間にウドの視界から消え去ってしまった。チコリータも相手を見失ったらしく、困ったようにウドを見上げ──それから彼女の身に着けているボールの一つをつるのムチでぺしりとやった。ドラパルトのボールだ。はっとして彼女はボールからドラパルトを出し、ヤミカラスを探してほしいという、半ば懇願にも近い指示を送った。
「……ウドさん?」
 そうドラパルトを見送ったところで、ふと、マルバの声が背後から聞こえて、ウドはびくりと両肩を揺らした。
「ウドさん」彼は再度名前を呼んで、ウドの顔を覗き込んだ。「……どうしたの? 顔が真っ青ですよ」
「せ、んせい……」
「体調が優れませんか? どこか気持ち悪い? ほら、ここは人通りが多くて危ないですから、向こうへ行きましょう」
「ち──違うの、違うんです、先生……」
 ウドはそう言いつつも、こちらの肩を抱いて移動するマルバについていったが、こうなっては最早先ほどのような高揚感はおろか、自らの心臓の音さえ聞こえてこなかった。そうして彼女は人通りの少ない道端へと場所を移し終えると、
「先生、じつは──」
 と、今しがた自分の身に起こったことを洗いざらい話したのだった。マルバのいない内に、こっそりと指輪を嵌めようとしたことさえも話した。彼女自身もこんらん状態を極めていたので、自分が何を話しているのかあまりよく分かっていない様子だったが。
「ごっ、ごめんなさい!」ウドは音が鳴りそうなほどの勢いで頭を下げた。「それで今、ドラパルトにヤミカラスを探してもらっているところで……」
 けれどもそんな彼女の頭上から降ってきたのは、こんな思いがけない言葉であった。「ありがとう、ウドさん。よく話してくれましたね」
「えっ?」
「大丈夫。まだ明るいですから、きっと見付かりますよ。もちろん、僕も探すのを手伝います」言って、マルバはウドに露店で買ったのだろう飲み物を差し出した。「でも、何事も焦りは禁物! ひとまず今は、君のポケモンを信じて待つとしましょう」
 ウドはマルバの隣で、祈りにほとんど近い姿でドラパルトの帰りを待った。それからしばらくして、目の前に焦った様子のドラパルトが姿を現すと、彼女も同じような表情をして飛び上がり、チコリータとマルバを引き連れては彼の後を大急ぎで追いかけていった。
「ここ?」ムラを抜けて、丘を越え、林まで駆ける。辿り着いた林地の中でドラパルトが進みを止めたのを目に映すと、上がった息を整えながらウドは問うた。「ヤミカラスは、この辺りでいなくなったのね?」
 彼女の質問に、ドラパルトは申し訳なさそうな表情をしてこくりと頷く。そんな彼にウドは小さくかぶりを振ると、「いいのよ、ありがとう。疲れたでしょう、よく休んでね」と笑ってドラパルトをボールへと戻した。辺りを見回す。シンガンムラを眼前に望む林地は、確かにヤミカラスたちにとって良い棲み処かもしれない。
 ウドとマルバは二手に分かれ、林の中の捜索を開始した。ウドは持ち前の身のこなしでちょっとした木なら登ることができたので、木という木に片っ端から登り、目的のヤミカラスを探し続けた。とても登り切れない大樹にも、チコリータのつるのムチを借りて登ってみたが、そこでは夜に備えて眠りにつくドンカラスが、威厳たっぷりに巣を守っていたので、さすがのウドもぎょっとせざるを得なかった。巣にはヤミカラスからの貢ぎ物がたくさん放り込まれていたが、見る限り、銀色の指輪は存在しない。ボスにも献上したくないほど、あのヤミカラスにとってお気に入りの指輪になってしまったのだろうか。ウドの心に不安が募る。枝葉が陰となって、視界が悪い……
「ウドさん」ふと、ずっと足元の方からマルバの声が聞こえた気がして、ウドはそちらを向いた。「ゆっくりで大丈夫なので、気を付けて降りてきてください」
 そう言うマルバの声がひどく優しかったので、ウドは一縷の望みを抱いて大樹の下まで降りていく。しかし、次にマルバが発したのは、そんなウドの希望とは正反対に位置する言葉であった。
「すみません、僕の方でも見付けられなくて」そう言う彼の表情は、先ほどウドのドラパルトが見せたそれにどこか似ていた。「ですが……日も暮れてしまいましたし、これ以上捜索を続けるのは危険です。夜になると活発になるポケモンもいる上、何より視界が悪くて危ない。……宿を取ってあるんです。帰りましょう、ウドさん」
「だ、駄目……っ!」ウドは食い下がった。「だって、先生が。せっかく先生が買ってくれたのに、ワタシ、ずっと大事にするって決めたのに! ワタシ……ワタシ、もう少し探してみます。先生は先に戻ってて──」
「ううん。一緒に帰ろう、ウドさん」これに関してはマルバも退かなかった。「君に何かあってからじゃ遅いんだ。どんなものでも、君の命よりたいせつなものなんてないよ」
「でも、……でも!」
「ウドさん。僕はね、君があの指輪を、それほどまでに気に入ってくれていたと知れただけでも嬉しいんだ。ありがとう」マルバはウドの髪に絡んだ葉の一枚を取り、そうして彼女の肩を優しく擦った。「指輪なら、また買えばいいさ。ね? だから、今日はもう休みましょう」
 ウドを諭す彼の声はどこまでも柔らかいものであったが、それと同時に、絶対に曲げられない強靱な意思が宿されているものでもあった。この半年間の旅で、ウドはマルバが一度こうなると梃子でも動かないことを学んでいたため、根負けして頷き帰路に就いたが、そんな彼の優しさによって彼女の気が晴れたとは到底言えなかった。
 その夜、マルバは少しでもウドに安心感を与えるためか、彼女のことを抱き締めるようにして眠ってくれたが、それでもウドは一睡もすることができなかった。罪悪感と無力感が落胆の中でないまぜになり、それはほとんど絶望に近い色になって、一晩中彼女の瞳を濁らせ続けた。
 ウドは意を決した。そうしなければ、一生後悔する気がしていた。彼女はいつかみたいにマルバの腕の中をするりと抜け出すと、夜の明けきらない内に寝台を、部屋を、宿を、ムラを飛び出して昨日の林地へと向かって駆け出した。
 脇目も振らず辿り着いた林には夜の帳が降り、辺りは時が止まったかのごとく静まり返っていたが、それと比例するように視界はすこぶる悪かった。すべてが木々の作り出す陰に埋もれて、ほとんど何も見えない。ウドは靴裏に伝わる土の感触と、手に感じる木の幹を命綱代わりに林の中を進んだ。そして、水中に潜るときみたいに大きく息を吸い込むと、彼女は昨日と同じ方法で指輪の捜索を始めたのだった。
 一度始めてしまうと、後はもう一心不乱だった。木を登り、巣がないか確かめ、目的のものがなければ地面に降りる。何回も、何回も。何回も。彼女は何十回もその動きをくり返した果てに、ようやく眼前に鈍く輝くものを見付け、
「あっ……た……」
 と、掠れた声で呟いた。
 あった。夜明け前みたいな銀色の、揺らめく虹のオパールとチャハヤの装飾で彩られた、美しい指輪。マルバから贈られた、たいせつな宝物。
 ウドは脱力して溜め息を吐きそうなところをぐっと堪え、むしろ呼吸を止め、気配を潜めた。そうしてそっと、眠るヤミカラスを起こさないよう少しずつ、巣に向かって手を伸ばしていく。そう、音は立てていない。立てていないはずなのに。
 野生の勘というものなのだろうか、今の今までぐっすり眠っていたように映ったヤミカラスの目がかっと開かれ、ウドのことを見た。そうして彼はもの凄い形相でギャッという怒声にも悲鳴にも聞こえるなきごえを上げると、半狂乱になってウドを巣から追い出しにかかる。
「ごめん、ごめんね……っ」彼女は手の甲やら額やらを手酷く突かれながら、それでも腕を引っ込めることはしなかった。「ごめんね、とても大事なものなの、返して、お願い……」
 そして、そんな激しい攻防の末、なんとかウドは巣の中から指輪のネックレスを掴み取ることに成功する。それを目にしたヤミカラスは更になきごえを高くして、休んでいた仲間たちを呼び寄せた。硬い物に爪を立てたときのような、鋭くも鈍いなきごえの波が辺りに響き渡り、それらはウドの心臓を嫌な音に鳴らした。早く地上に降りて逃げなければ、と思うのに、足が焦って枝を見付けられない。そうしている内に何羽ものヤミカラスが集まって、全員でウドの身体を小突きはじめた。それでも、絶対に指輪は離さない。だけれど、ここからどうすればいいのかも分からない。視界が暗いのが闇のせいなのか、それとも大群の濡羽のせいなのかも分からなかった。ウドは指輪の入っている方の手をぎゅっと握り締め、振り落とされないよう木の枝にしがみついた。
「先生……」
 気が付くと、彼女はそう呼んでいた。そして、その瞬間、
「──ウドさん!」
 というマルバの声が響き渡り、ウドは驚いて声を上げることもできなかった。ただ、突如として訪れた安堵感に力が抜け、枝からずるりと腕が落ちる感覚がした。
「あっ」
 落ちる! ウドはそう思って目を瞑ったが、同時に何かあたたかいものに抱き留められた心地がして、うっすらと瞼を開けた。そこには、マルバの赤い瞳があった。驚きにだろうか、その目を見開いてこちらを見つめている。安堵の表情でウドが彼の瞳を見つめ返していると、それもつかの間、彼女らの背後からわらわらとヤミカラスの大群が押し寄せてきた。マルバは林全体に広がる漆黒の翼を目に移すと、ウドをしっかりと抱きかかえて笑った。
「さあ、逃げますよ。掴まっていてください!」
 それからは刹那であった。マルバは驚くべき身のこなしとにげあしの速さを用いて、早々にヤミカラス軍から逃げ切った。そうして彼はウドを抱いたまま、颯爽とシンガンムラの入り口まで辿り着くと、そこで一度足を止め、物言いたげなウドの顔を見やる。
「──せ、先生、指輪っ、指輪、ありました!」すると、待ってましたといわんばかりに、ウドが手の中の指輪を掲げた。「……先生?」
 けれどもマルバは何も言わず、ただウドのことをじっと見つめるばかりだったので、喜色満面だった彼女の表情は次第に曇りはじめる。マルバは、怒っているのだろうか? それとも呆れている? 無鉄砲で、自分本位な行動をしたから、もう愛想を尽くしてしまったのだろうか? しかし、その心が暗雲で完全に埋め尽くされるより前に、マルバが彼女のことを抱きかかえたまま、覆い被さるようにしてウドを抱き締めた。
「君が無事でよかった……」
 それは、聞いたこともない彼の声だった。細くて儚い、朝霧のように溶け消える声。それでいて、肩を優しくこちらに預けているような、温かい湯程度の重たさのある声だった。そんなマルバの声を聞いて、ウドはどうしてか涙が出そうになった。だって、胸を通して、彼の早い心音を感じていた。汗のにおいが、少ししていた。この人は走ったのだ。走ってきた。わたしのために……
「だ、大丈夫ですよ、これくらいの高さ。ワタシ、けっこう丈夫ですから! それに、今回のことで、ガイア団のお仕事に追加で報告もできそうです。宝飾店はヤミカラスにご注意、って!」抱き締められた状態で、ウドは片手を振って健康体を訴えた。「それと……あの、自分で歩けるので……」
「ダメダメ!」マルバはきっぱりと断り、彼女を抱きかかえ直して再び歩き出した。「ちゃんと連れて帰って、きちんと手当てをしなくちゃね」
「でも……重くないですか? さすがに、というか……ワタシ、先生より身長も高いですし……」
「重くない、重くない」それは、鼻歌めいた声音だった。「さあ、帰りましょう。チコリータさんも、他のみんなも、君のことを待っていますよ」
 ウドが頷けば、マルバの足取りは更に軽く、羽のように進んでいった。彼女はそんな彼の大きな腕に抱かれながら、片手の拳をゆっくりと開き、その中にある美しい指輪をそっと眺めた。特にそこで光る、虹色の宝石を。この色がわたしに似ていると、マルバは言った。だけれど──
「先生」
「うん?」
「助けてくれて、ありがとう」
「……ハハ、うん。どういたしまして」
 だけれど、それはマルバの方だと、わたしは思う。彼に出会って、様々な不思議が心を満たした。不思議はいつだって、いろんな色をしている。虹色だ。だから、彼にとってわたしの瞳が虹の色に見えるなら、それは彼の色なのだ。その色のすべてが、彼がわたしに与えたものなのだから。
「──この指輪、綺麗ですねえ」ウドはそれを、祈りの両手でぎゅっと抱き締めた。
「似合いますよ、とても」
「在るべきところに収まった?」
「ふふ」腕の中のウドがいたずらっぽい顔をしているのを見て、マルバは心底楽しげに笑ってみせた。「僕も今、そう言おうと思っていたところです」
 二人は顔を見合わせ、微笑み合った。そういえば、夜はもう明けていた。すぐそこに、朝と太陽があった。手の中には、すべての透明に色を付けたような虹が、一つ。



20240323 執筆
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