ここが宇宙であるうちに


 その日は、太陽よりも早く目が覚めた。
 ウドにとってそれは、日の出の光を浴びているわけでもないのに、不思議とあたたかな朝だった。彼女が深い眠りののちに、うっすらとその瞼を開けるとまず、夜明け前の青い暗やみの中に、柔く曲線を描いた輪郭と大きな葉っぱの影が見えた。チコリータがいる。彼女は横たわったまま安堵の息を吐き、自身のやたらに重い瞼を少し擦った。そうしていると、或る種靄がかかるかのようにぼんやりと、昨夜の記憶が蘇る。視線を下にやれば、そこではマルバの逞しい両腕が、しかしその見目とは裏腹にひどく優しい強さで身体に巻き付いていた。あたたかい。ほんとうに、あたたかかった。今まで浴びた、どんな日差しよりもずっと。
 人に抱き締められることなど、幼少ぶりだったかもしれない。名残惜しくないと言えば嘘になるが、それでもウドはそうっとマルバの両腕を自身から離し、極力物音を立てないようにして寝床を後にした。振り返りざま、眠るマルバに全く毛布が掛かってないことに気が付いて、慌ててその身体に毛布を着せた以外は。
 そうして彼女はテンマクを抜け出すと、近くの川べりで顔を洗い、さっと身支度を整えた。今、バハギアは、夜の中でも最も暗い時間帯にあった。夜の闇を月光ごと吸い込んだ水面には、自分の姿はおろか、他のどのようなものも映っておらず、辺りはあまりに静かで、まるで時が止まったかのようにどんなものの気配もない。空を仰げば、目眩のしそうなほど高く、暗く、深い漆黒の中を、無数の星光が一つの水流のように波打っていた。そのさまはまるで、横たわるエニシデシアの長躯にも見え、ウドは神々も眠るこの夜の静寂さに微か瞼を閉じずにはいられなかった。息を吸う。息を吐く。夜明け前の空気はしっとりと、それでいて喉を凍らせるほどに冷たく感じられた。
 ややあって、ウドはついでに持ってきていた桶に川の水を汲んで、テンマクのある方へと戻る。たぷたぷとする水を零さないよう気を付けて歩いてゆけば、テンマクのそばに思いもよらないものを見付けて彼女は目を見張った。赤色が燃えている。火だ。
「おはよう、ウドさん。早いね」そして、そんなたき火の前にはすでに目覚めて支度を整えたらしいマルバが腰を下ろしていた。「水も汲んできてくれたんですね。ありがとう、重かったでしょう」
「い、いえ……! これくらい、なんとも……」
「でも、手が赤くなってしまっているよ。湯を沸かしますから、少し温まっていってください」
 そう言いながらマルバは、今まで自分の膝に掛けていたブランケットをウドの肩に掛ける。そんな相手に促されるまま、ウドはたき火の前に腰を下ろし、赤々とした炎の前に手を伸ばした。指先が、ちりちりとした熱を持っていくのを感じられる。深い暗やみの中に燃える火の色は、どこか不思議なものだった。まるで、世界中でここだけが生きているみたいだ、とウドは思った。彼女はマルバの焚く火を見て、そう確かに安堵していたのだった。
「先生、あの」ウドはお話したいことがあります≠ニ続けるべきだったが、心が上手く言葉を繋ぐことができなかった。「その、起こしてしまってすみません」
「いやいや、ウドさんのせいじゃありませんよ。僕もなんとなく目が覚めただけで──日の出が見られるかも、と思ったんです」
「日の出?」
「そう、日の出。バハギアの太陽は美しいですから」
「……イッシュとは違う?」
「ううん……」マルバは唸った。「……うん、少しね。違うかな」
 そう言う彼の声は森の深いところにある泉のような静けさを保っていたが、それと同時に何か、ウドの琴線に触れる、祈りめいたものが彼の声の中に宿っていたのも確かだった。彼女は鼓膜を揺らすマルバの声に思わず遠い空を眺めたが、そこに在るのは太陽のための分厚い黒の毛布だけであった。
「僕も中々、バハギア流のお茶を淹れるのが上手くなってきたと思いませんか、ウドさん?」いろり鍋の中で沸騰した湯を、以前彼が露天商から買った素焼きのポットに注ぎながら、ふとマルバがそう笑う。「でも、ちょっと不思議な飲み方だよね、このポチティーは。どうしてかき混ぜちゃいけないんでしょう?」
 熱い湯と混じり合うことによって、ポットの中の茶葉がチャハヤの花の華やかな香りを立ち上らせている。マルバの言う通り、バハギアを原産とするこのポチティーは他の地方では見られない一風変わった飲み方をするものだった。カップの中に茶を注ぎ、そこに甘味料として、チャハヤの実──通称きらざとう≠入れる。けれども、茶をかき混ぜてはならない。まずは苦い状態の茶を飲み進め、最後にきらざとうの溶けて甘くなった状態の茶を楽しむ。これが、バハギアでは言わずとも知れたポチティーの嗜み方であった。
「人生は苦いものだが、辛抱強く我慢すれば、ゆっくりと人生の甘さを得ることができる」ウドがカップの中に注がれる茶を眺めながら静かに言った。「ポチティーの飲み方には、そういう意味が込められているそうです」
「そうか……なるほど。お茶の飲み方にも人生を見出すとは、バハギアらしい、奥深い考え方だね。或いは繊細さと言ってもいいかもしれないけれど」
「とつくにには、こういうお茶はないんですか?」
「少なくともイッシュにはないね」マルバは唇の端っこをちょっぴり吊り上げて笑った。「最初っから、苦いか甘いかのどちらかさ。しかも、もの凄くね!」
「もの凄く……」
「そう。たとえばこのくらい」
 頷いて、マルバは茶を注いだウドのカップに通常の三倍──いや五倍のきらざとうを入れ、それを迷いなくぐるぐるとかき混ぜる。そして、彼は困惑するウドに、マドラーごとカップを手渡して再度こくりとしてみせた。カップの薄い琥珀色をした水面を覗き込むと、溶けきらず浮かんでいるきらざとうがまるで美しい宝石のように煌めいている。ウドはマルバのことをそっと盗み見つつ、カップの縁に口を付けた。
「あ、あまっ……」
 と、思わず彼女がそう零せば、マルバはアハハと声を上げて笑い、彼は彼で茶葉を五倍ほど追加した苦々しげなポチティーをぐいと飲み干していた。それから渋面で「にがっ」と呟くものだから、ウドはくすくす笑いを洩らさずにはいられなかった。
「……ワタシ、こっちの方が好きです」
「本当?」マルバが微笑む。
「はい。とても甘くて──なんだか、嬉しい感じがします」
 ウドは相手の真似をしてこの非常に甘ったるい、最早茶と呼ぶよりは砂糖水に近しい飲み物を一息に飲み干してみせる。信じられないくらい甘い。喉がわずかに熱を持つほどに。そうして彼女はカップの底に残ったきらざとうまで口に含むと、ほろほろと崩れ去るそれを飲み込んで、
「先生」
 そう、舌に残る甘さとは裏腹な思いで呼びかける。
「うん?」
「先生に、お話したいことがあるんです。……聞いていただけますか?」
「ああ──そうか、うん」マルバはわずかに自らの手を見た後、ふっと顔を上げてウドの瞳を目に映す。「うん、聞くよ。もちろん」
 二人は飲み終えた茶器と火の始末を行い、どちらからともなくテンマクの中へと場所を移した。チコリータも、マルバのバウッツェルもまだ夢の中にいるようだった。マルバがまだ片付けていない自身の寝具の上に腰を下ろしたので、ウドもそれに倣い、彼と向き合って座った。心臓は昏く脈打ち、自分の行う動作のどれにも現実味を覚えることができなかったが、それでも彼女の喉元には現実そのものがせり上がってきていた。
「先生は、きっと気付いていますよね」ウドは三角にした膝の前で両手を組み合わせた。「数か月前、バハギアに突如として巻き起こった天変地異の原因がなんなのか──誰≠ネのか、を」
 ウドの問いかけにマルバは何も言わず彼女のことを見つめていたが、それはほとんど肯定に等しかった。これだけの期間を共に旅し、訪れた村里の人々の話やまずはじめにこちらへと向けられるまなざしの色──忌避のそれに触れてきたのだ。気が付かない方が不自然であった。
「……プレシーというポケモンをご存知ですか?」
「プレシー? いや……」
「この地方のどこかに生息すると云われている、幻のポケモンです」ウドは自身の白い睫毛を伏せた。「別名は、いのりポケモン」
「いのりポケモン……」マルバがオウムがえしする。
「プレシーは、自らが認めた者に力を分け与えるとされるポケモン。でも、プレシーの与える力はその者にとって祝福であることもあれば、時に呪いであることもある……そう、伝承には残されています」語る彼女の声に恐れはなく、そこには嘆息めいた呼吸があるだけだった。「だけど、ワタシ、プレシーを探していました。ずっと。十年間」
「それは……どうして?」
「どうしても、蘇らせたいポケモンがいたの」ウドは灰色の目を見開き、底光りする白の瞳孔でマルバを見た。「他の何を犠牲にしても」
 彼女の発する声の中には、どこか、一種の狂気さえはらんだように感じられる揺るぎのない意志が宿っていた。そしてそれを彼女の半身は自覚していたが、もう片方は自覚しておらず、ウドは今、なんとも不可思議な均衡を以てマルバに言葉を発していた。
「だから、プレシーに会った──だけど、失敗した。どれだけ祈っても、ワタシのところにチコさんは戻ってこなかった。必死に祈ったのに。血が出るほど!」
 ウドはぐっと片手を握り込み、その戦慄く拳をダン、と自分の膝に叩き付ける。そこで一つたがが外れたのだろう、今度は自身のこめかみに爪を立ててがりがりやりはじめたので、マルバが柔らかい声で制しながら手を重ねれば、ウドははっとした様子で顔を上げて「すみません」と腕を引っ込めた。
「……チコさんが帰ってこないと分かったとき、ワタシ、目の前が真っ暗になりました。そうしたら、ワタシの中で何かが……」そして彼女は引っ込めた手を自らの心臓の上に置き、それをぎゅっと握り締める。目を瞑ると、ガラス玉の砕ける音が遠くで響いていた。「ワタシ、祈ったんです。願った。全部──全部壊れろ、って。そのとき確かに思ったんです。こんな世界、存在する意味がないって。意味があるなら、それさえ燃やして、チコさんと同じところに行こうって」
 瞼を開けたウドは、マルバの瞳を見ていた。けれども、目は合わなかった。マルバはウドのことを真っ直ぐにまなざしていたが、彼女自身は、彼の辰砂を、その鮮やかな赤を通して、憎悪と絶望に昏く燃え上がる自分の心を見つめていた。
「ワタシはその愚かな祈りによって、祝福か……或いは呪いをプレシーから受け取りました。そして、その直後から各地で異常気象や天変地異が起こり、モリビトの守護するエニシデシア様の子孫たちが次々に暴走しはじめた。災害が多発し、怪我人が何人も出たのを知って……ワタシはそのとき初めて、なんて馬鹿なことを願ったんだろうと思いました」
 それから不意にウドは顔を上げ、テンマクの天井を見た。そんな彼女のまなざしが天井ではなく外の空、その更に遥か遠くを眺めているのは誰の目にも明らかであった。
「そんなとき、未来の世界からやってきたというときわたりの旅人がワタシの前に現れた。名前はタマキ」
 マルバが自らの顎に手をやる。「タマキ……聞き覚えがありますね」
「彼女はこのバハギアを救い、人とポケモンの関係までも変えつつある。知らない人の方が少ない……今じゃあ、どこに行っても名前を聞きます」ウドは視線を戻し、睫毛を伏せて微笑んだようだった。「彼女、不思議な人でした。ポケモンのことを恐れず──いえ、ポケモンのために自らが傷付くことを恐れず、分かり合えると、そう信じきっているみたいだった」
 言葉にしてみると、腑に落ちる事実だった。彼女は自分とはまるきり違った。これまでも、今も、これからも。タマキは自分がどれほど傷付こうとも、荒ぶるエニシデシアの御子を、ポケモンを救うことを諦めなかった。彼女は一体たりとてポケモンを見捨てることはしなかったし、努力を怠らず、それを成し得るだけの実力を確実につけていった。そして、そんな彼女のことを、人も、ポケモンも、モリビトも、ガイア団も……誰もが、父すら、わたしすら、信頼した。皆、最後は彼女ひとりに、たった一人の少女にこの地方の命運を託していた。
「ワタシ、彼女を助けるふりをして……彼女の強さを利用しました。行き倒れていたタマキを介抱し、父に紹介した。父は……外から来た人をあまり好みません。けれど、困った人間を放置できるほど非情でもない。父は、ポケモン調査に長けている新興組織のガイア団に力を借りるよう彼女を誘導した。父なら、そうすると思っていた。ガイア団の長の方は慈悲深く信頼できる人物である上、タマキがポケモンに対して他の人とは異なる視点を持っているのは、触れ合い方を見ていれば誰でも分かったから……。ワタシの予想通り、ガイア団と父は彼女の実力を見込んで、彼女にあれこれと仕事を頼むようになった。ガイア団はポケモン図鑑なるものを完成させるため、各地の調査とそこに生息するポケモンの捕獲をすることを。父は、暴走──ワタシたちは、ケガレのすがたと呼びました──する八体のエニシデシア様の御子をモリビトと共に静めることを……」ウドは膝の上で両手を組み合わせ、そのわずかな隙間をじっと見下ろした。「ワタシも、次期村長としてモリビトとのお仕事はお手伝いしていて──長を継ぐ者として、むやみやたらにポケモンに近付くことは父に禁じられていましたから、勝負以外のことで、ですが──とにかく、タマキは尋常ではない強さでした。彼女は鮮やかに八体の御子を鎮めて……その功績を称えられ、照れくさそうに笑っていた」
 ウドは目を瞑った。少しだけ、かつて友人だったかもしれない少女の顔を思い出そうとしていた。相変わらず、鮮明には思い出せそうもない。はにかんで笑うその表情だけが、暗い夜道の中、ずっと遠くで光る灯りのように頭の中で明滅していた。
「ワタシは……笑えなかった。少しも」記憶の中の灯火に手を伸ばして、ウドは低く呟いた。「笑ってた……チコさんがいないのに、みんな、笑ってて……タマキは、ワタシの欲しかったものをみんな手に入れて……ワタシは、何一つ……ほんとうに望んだ一つすら、手の中になくて……」
 組み合わせていた十指を解く。手の上には、ぬるい暗やみだけが穴のように乗っている。指先ばかりがうっすらと、マルバの灯したろうそくの明かりで滲んでいる。ウドは見た。光とは逆の方向を。そして、その暗がりに向かって歩き出していた。
「ワタシ、湖に行きました。いのりの湖──バハギアの孤島。プレシーと出会った場所に……」彼女は立ち止まり、足元を見た。そこには黒という黒だけを一心に吸い込んだような湖が、大穴が、闇が、口を開けてこちらを見つめていた。「……そこでワタシ、最悪な逃げ方をしようとしていたの。でも、あの子、追いかけてきて」
 ウドは振り返り、光を見た。
「追いかけてきたから」
 そうすることに、迷いは抱かなかった。彼女は拙い手製のボールを掲げて、網膜を焼き切りそうなほどのまばゆさに対峙した。埋まらない一体分の大穴は、彼女の祈りが──プレシーが補った。けれども、それでも怯えない少女の瞳が、ウドの前には在った。
「彼女の前に立って、ワタシ、初めて分かったの。この子はエニシデシア様の導きでここにやってきたんだって」そうしてウドは、自分の手の中から次々にボールが落ちていくさまを眺めていた。「……ワタシを、倒すために」
 一つ、二つ、三つ、ガラス玉の割れる音がする。手の上には、再び暗やみばかりが居座っている。祈りは遠ざかり、何処かへと去っていた。夜明けが近い。辺りは最も昏い。鋭く刺す風の音がして、ウドは足元を見た。吸い込まれるような色の湖。沼。穴。黒。闇。
「……もちろん、あの子はワタシに勝った。そしてこんなふうに言って笑ったんです。ポケモン強いね≠チて」
 足首をくっと掴まれて、闇の中に引きずり込まれる。溺れる、と思った。がぼ、と喉から泡が出ていくのを感じる。息。息ができない!
 気が付くとウドはマルバに背をさすられ、名前を呼びかけられていた。喉がひゅうひゅうと鳴っている。溺れる──彼女は、息を吸い過ぎていた。頽れた身体を少し起こすと、周りに湖など存在しないことが分かった。ろうそくの明かりがマルバの輪郭を柔らかくなぞっている。目を焼く光も、ここには存在しない。
「……敵わないと思った……」喉を詰める息の狭間で、ウドはそう吐き出す。「だから、洗いざらい話したんです。チコさんを蘇らせたくてプレシーに会ったこと。それに失敗したから、腹いせにバハギアをめちゃくちゃにしようとしたことを。そうしたら、彼女、何か考えるような顔をして──しばらくした後、頷いてどこかへ走っていった」
 マルバは、そこでたっぷりとウドに時間を与えた。彼女は眉間に皺を寄せ、どうにか水中で息をしようとしていたが、柔らかく背を撫でるマルバの手のあたたかさにふと、日光に照らされる水上の存在を思い出した。そうして彼女はようやく水面から顔を出すと、正しい呼吸を取り戻すため、少しばかりマルバにしがみついた。
「それから」
 と、ウドは息を整えながら発する。
「それから数日後、タマキは不思議なことをワタシに言った。チコリータの居場所が分かったからついてきて、と。ワタシは彼女に手を引かれて、祈りの家へ……エニシデシア様が眠る、一番目の祈りの家へと向かった。そこで、彼女が身に着けているおまもりすいしょうとミサンガを掲げて祈りを捧げると、更に不思議な、信じられないことが起きました。目の前にエニシデシア様が座し、開眼されてタマキのことをご覧になった。それからワタシを。あれはまるで……そう、今まで見えていなかったエニシデシア様の実体が、タマキの強い祈りによって、一時取り戻されたかのように見えました。主は何も仰いはしませんでしたが、気が付くとワタシの足元にはチコさんがいて……エニシデシア様はすぐにまたワタシの目には見えなくなった」
 ウドは視線を下げ、隣ですやすやと眠っているチコリータの姿を目に映す。彼女がチコリータに手を伸ばしてそのからだを撫でてやれば、彼女の家族はのびのびと手足を動かし、目覚める様子もなくまた夢の世界へと帰っていった。
「タマキ曰く、チコさんは主の御膝元である杜の中を彷徨い、倒れ、力尽きたところにエニシデシア様からの慈悲を受けた、とのことでした。そうしてエニシデシア様の環の中で眠り、在るべきところに帰るその日を待っていた……そのようにエニシデシア様が仰っていた、と、彼女はそう話しました。その後、タマキは言った──この子をきみの元に帰すために、わたしはこの時代に呼ばれたのかも=vウドはチコリータを撫でる手を止めた。「ワタシ……信じられなくて。何もかも、信じられなくて。ありがとうって言うべきなのに、最初に出てきた言葉はなんで助けたの≠セった……そして、彼女は言ったの。きみに助けられたから≠チて……」
 焼け焦げた目の奥に残る少女の瞳には、いつだって嘘がなかった。彼女の目はいつでも真っ直ぐに真実を捉え、包み込むように優しく、そして何よりも揺るぎなかった。何もかもを害そうとした自分にすら軽やかな言葉をかけ、彼女は迷わず手を差し伸べてくれた。彼女はこちらの常識を軽々と飛び越えて、すべてを成した。彼女はまさしく新しい人だった。わずかにこがね色を宿して、白く発光する人。困惑した。恐怖さえしたかもしれない。けれども結局、そんな彼女の力と優しさに自分は甘えた。十年ぶりに触れるチコリータのぬくもりが、そこに存在していたから。
「……それからは、先生の知っている通りです。ワタシはムラを出て、この罪を贖うために人助けをしながら、各地の祈りの家を巡礼して回っています」
 そう話しながら、それすらも建前かもしれないな、とウドは思った。バハギアの天変地異の原因とその人物の動機を知ったヒノデムラの住民たちは、彼女の抱える狂気に対する恐怖や一種の同情のまなざしを彼女に向け、取り立ててウドを責め立てることはしなかったが、当然ながら住民たちとの距離は以前よりも遠ざかり、異端者、背信者として彼女を捉える者の目は更に多く、鋭くなっていった。或いは、父の目があったために事が荒立たなかっただけかもしれない。
 贖罪の旅というのは、おそらく、父が用意したたった一つの逃げ道だった。そしてやはり、自分はそれに甘えた。住民たちのあの目から逃れるために。遠くへ。遠くへ。まだ、逃げている。
 父……ムラのことを思い出すときは必ず、そこに父の姿があった。いつでも。今も。
 ウドは睫毛を伏せ、マルバの掛けてくれたブランケットを少し握る。「ワタシ、ポケモンが好きです」
「……うん」マルバは呼吸の穏やかさで頷いた。
「父のことは、どれくらい先生に話していましたか」
「お父上は、ヒノデムラの村長をしていて、事情があってあまり体調が芳しくない。そうだったね?」
 優しくそう確かめるマルバに対して頷いて、「その事情をお話しします」とウドは告げ、更に言葉を継いだ。
「父の様子が以前とはまるきり異なるようになったのは、母を亡くしてから間もなくです。ワタシが五つの頃でした。あの頃の父は母の影響かポケモンに寛大で、よく三人で野生のポケモンとも遊んでいました。自分で言っていて、信じられませんけれど……」彼女はそこで一度言葉を切り、息を吸い過ぎないよう何度かつばを飲み込んだ。そうしてしばらくのあいだ、話しにくそうに眉を顰めていたウドは、ふと、覚悟が決まったような顔をしてマルバのことを見る。「……或る日のことです。母は、凶暴なポケモンに襲われて──襲われたワタシや他のポケモンを庇って、命を落としました。それを知った父はワタシのことを抱き締めてくれましたが……母の葬儀が終わると、その晩に姿を消して、翌朝からはまるで人が変わったみたいになりました。戻った父の手が赤かったのを、まだ憶えています。父は、あの夜、たぶん……」
 そのときのことを思い出すたび、こめかみの辺りがずきずきと赤く痛むのを感じた。目の前で倒れた母の身体が赤いこと、襲ったポケモンのあの真っ赤に光る瞳、終わりを告げる真紅の夕焼け、エニシデシアを模した赤と白の柩……わたしは白い喪服を着て、朝焼けを浴びながら、柩を運ぶ人々を墓地まで先導した。手に持った香炉からはチャハヤの花の香りがしていた。母を埋葬するために墓地に空けられた黒い穴は、湿ったにおいがしていた。香炉から白く細い煙が立っていた。それが母のたましいだとは思わなかったが、空へ空へと吸い込まれていくその煙を眺めていた。父の顔は見ていなかった。見るべきだったかもしれない。この日も夕焼けは変わらず赤かった。父はそのあと姿を消した。夜明け前。戻ってきた父の手が赤かった。何も言えなかった。言うべきだったかもしれない。でも、言えなかった。父の目も、真っ赤だった。そう見えた。そして。
「父はその日を境に、とても……特にポケモンに対して、とても厳しい人間になりました。一種のポケモンのもつ、死をもたらすほどの凶暴さはこの地にとっての祟りだ、穢れだとして、父はポケモンを決してムラには近付けまいとし、ポケモンを所有する者を厳しく罰し、時にはムラから追放することさえあった。ワタシには特に厳しくて、もちろんポケモンに近付くことは御法度でしたし、外を歩くときは必ずモリビトの方を護衛につけるようきつく言われていました。父は、モリビトの皆さんを深く信頼していましたから」
 瞼を閉じると、自分のそばでモリビトの一人がポケモンをくり出し、野生のポケモンと戦う姿が思い出された。危険だからと言われ、安全な位置からそれを眺めていた自分のことも。 
「でも」ウドは微笑もうとしたが、できなかった。「それでも、ワタシ、ポケモンが好きでした」
 そうして両手を懺悔のかたちに組み合わせた彼女は、互いの手の甲にぐっと爪を立てながら俯いた。
「父の言いつけは、ほとんど守りませんでした。チコさん──チコリータと出会ったのは母が亡くなった日で、母とワタシと彼女で一緒に遊んでいたんです。そこを別のポケモンに襲われて、ワタシとチコさんを庇って、母は……」ウドが浅くかぶりを振る。「五歳の頃から三年間、ワタシは父に隠れて、ムラのそばの草むらでチコさんと遊んでいました。でも、或るとき、野生のポケモンにチコさんが襲われているのを見付けて、気が付いたら身体が動いていて──」
 皆まで言わず、ウドは自らの顔に深く走っている傷痕を触った。
「こんなふうに痕の残る傷です。血もたくさん出て、父が気付かないわけがなくて」彼女は、鋭く振りかぶられる攻撃を目にした瞬間、ぱっと目の前に鮮血が飛び散ったさまをまだ憶えていた。「父は、すぐにワタシを手当てして寝かせてくれました。落ち着いていて、チコさんとも一緒にいさせてくれた。チコさんが外にいるとムラの人は嫌がって石を投げたりもしたけど……村長である父の目もあったし、家の中にいれば嫌がらせを受けることもなかったから安心だった。だけど……」
 ウドは少し喉元を押さえ、呻くように言った。
「次の日、目が覚めると、どこにもチコさんがいなかった」
 この後の話は、生まれてこの方誰にも話したことのない、秘密の話だった。ウドは傷痕の上を何度も指先で触ったが、彼女が実際触っていたのは胸のずっと奥底に存在する、未だ癒えない生傷であった。あの日は、そう、雷が鳴っていた……
「チコさんをどこにやったのと父に聞くと、野生に帰したの一点張りだった。最初は信じました。だから、いつもチコさんがいる草むらに行ったけど、いくら呼んでもチコさんは飛び出してこなくて。それで、別のところを当たろうとムラに帰ったとき、ワタシ、聞いてしまったんです。父が、あのチコリータはエニシデシア様の供物となった≠ニ村人に語っているのを」
 曇り空の朝。雷が鳴っている。怯えて息を潜めるかのように静かな、誰の気配もしない草むら。徐々に強くなる風と、暗雲の立ちこめる空。雨粒が一つ、二つ、地面に落ちて割れる音。辺りはすぐに土砂降りとなり、何も見えなくなる。雷の音。瞬間、脳裏に浮かんだのは、暗やみの中で光る父の赤い手。あの赤色だった!
「ワタシ。だから、ワタシ──父が、チコさんを、殺した、んだと思った……!」
 それからのことはあまり憶えていない。とにかくひどく取り乱して、ほとんど狂乱状態になっていたような気がする。部屋に籠もりきりになり、嘆いて暮らしたが、数日もすると願いを叶える幻のポケモン>氛氓キなわちプレシーの伝説のことを思い出して、チコリータを蘇らせるため、部屋から出た。父はそんな自分の姿を見て、娘が立ち直ったと勘違いしたようだったが。
「……父はそれから、ムラに近付くポケモンのことは容赦なくエニシデシア様の捧げ物、、、にしました。ワタシはそのたびに父の後をつけ、弱った状態で杜に捨てられたポケモンたちのことを、どうにか生き延びてほしくて手当てしてきました。今度こそ、父に見付からないよう慎重に。その中でワタシのことを信頼して、仲間になってくれたのが今のてもちのポケモンたちです」
 ウドは枕元に置かれている六つのボールを見、それからまだ穏やかな寝息を立てたままのチコリータを目に映して呟いた。
「それが、ワタシのすべて……」
 そうして彼女は自身の両手を見やったが、どうしてだろう、自分の罪をすべて話した後では両手を祈りのかたちにすることさえ憚れるようだった。
 ウドが話すのを終えると、潮が引いたような静寂がテンマクの中に訪れた。静けさは音という音をすべて持ち去ったらしく、近くのせせらぎすらも聞こえない。ウドは視線を上げ、どうにかマルバのことを見ようとした。彼は、自分の話を聞いて一体どう思ったのだろう──彼女は、その答えを知りたかった。知らなければならなかった。覚悟はしている。していた。喉はやたらと熱をもっているのに、雨に打たれたみたいな寒さを全身に感じる。頭のてっぺんと指先は特に酷く、凍っているようだった。
 けれども、そんなウドの震える心に対してマルバが最初に発したのは、
「……ありがとう」
 という、予想外の感謝の言葉だった。
 ウドは驚いてはっと顔を上げたが、そこにあるのはいつも通りの、穏やかで優しいマルバの微笑みだけだった。
「今までにこのことを誰かに話したことは?」
「あ」彼女は上手く言葉が出なかった。「あの、タマキに……少しだけ」
「……と、いうことはまだ最近の話かな? それ以外には?」
「いいえ……」首さえ振らず、ウドは呟いた。「いいえ、誰にも」
「そうですか……君が五つのときならもう十年以上は前か」マルバが自身の顎先を触り、微かに唸る。「その間、君はそれだけの強い感情を誰にも話せなかったわけだ。それは随分と……辛かったですね、ウドさん」
「辛い……?」ウドは単語の上澄みだけをくり返すように言った。「どうなんでしょう。ワタシ、無我夢中で……よく分かりません」
「そうか……そうだね」
 マルバはウドの言葉を否定せず、どこか悲しそうな笑みを浮かべて頷いた。いつもはマルバの微笑みにつられて笑うウドも、このときばかりはそうすることができず、心が痛む様子の相手にただ眉を下げるばかりであった。
「人の心はじつに多面的です」しかし、そんなウドの憂いにそっと触れるような声音で、マルバはそう発してみせた。「おまもりすいしょうが見る角度によって違う輝きを見せるように、心がひとつの在り方に纏まっている人間なんてそうそういない……少し整理してみようか」
 そして彼は、ろうそくの明かりのみが照らす薄暗いテンマクの中で徐に紙の束を取り出し、ペンを片手に何かを次々に書き付けていく。ウドも覗き込んだが、外国の言葉だったので、彼が何を書いているのかは分からなかった。ただ、その中に不貞腐れたチコリータの似顔絵があったので、ウドが思わずくすりとすると、マルバもいたずらっぽく笑ってみせた。そうやって書き物をしながら、マルバはウドにいくつかの問いかけをした。五歳の記憶のこと──母親──父親──プレシーへの願い──タマキ──ウドは答えた。話しながら、そのすべての事柄に、柔らかな感情と同時に別の熾烈な感情が存在していることをウドは悟った。変な話だ。喜びながら悲しんでいるだなんて。諦めながら欲しているだなんて。愛しながら憎んでいるだなんて。しかし、マルバは決してウドのこの支離滅裂に見える情感を否定することはなかった。
「僕が思うに、ウドさんの中ではまだこのことはほとんど解決していないんじゃないかな」ペンの尻軸で顎を叩きながら、マルバは言った。「君のたいせつな存在は、君の価値観は、君の信心は、軽んじられ、裏切られた。その相手はお父上かもしれないし、エニシデシア様かもしれない。……今、タマキさんの活動によって一応自体は収まっているが──収まってしまった≠ニも言えるかな。けれど、それは君の心のかたちとは本質的に関係のない出来事だ」
「ワタシの心のかたち……」
 マルバが頷く。「君のプレシーへの祈りは悪手だったのでしょう。そのことはきっと、ウドさんが一番痛感していますね。人道的に、という意味ではなく、処置として間違っていたという意味でね。君は他人を傷付けることで幸せになれるタイプの人間ではないから、きっとなんの気休めにもならなかったんじゃないかな」
 もう何度くり返したか分からないが、ウドは再び自分の両手を目に映した。怒りに身を任せて破壊を祈った後、各地で自然災害が起こり、エニシデシアの御子らまでも荒ぶった。それらを目の当たりにしたとき、どんな感情よりもまず恐怖と、それから罪悪感が先に立った。壊れていくのが怖かった。それが世界のことなのか、自分の心なのかは分からない。勝手な話だ。自分はただ、身勝手なだけではないのだろうか?
「ハハ、世の中にはいるんですよ、他人を傷付けることで心を慰め溜飲を下げることができる人間というのも」ウドの心を読んだかのように、マルバはそう言った。「……でも、君はそうじゃなかった。少しはスカッとしたかもしれないけれど、結局救われはしなかった。君はそういう人間なんです」
 マルバの言葉に、ウドは自分のすぐそばで大口を開けている穴から視線を上げ、彼のことを見た。彼の瞳を。ウドはこのとき初めて、マルバの目を真正面から見たような気がした。これまで見てきたどのような赤よりも深い、心臓の色をした瞳。鼓動めいた微笑みと、意志の宿った熱をもつ、マルバの赤。
「ウドさんは今も怒りを抱えたままのように見えます」そう言う彼は、まだこちらを見つめていた。「それは自分への不甲斐なさであったり、他者への失望であったりもするのかもしれない。無理もないでしょう。長年傷付いた君の心への適切な処置というのは、じつのところまだなされていない」
 そうして彼は、今しがた自分が書き付けた言葉の中のいくつかに丸を付ける。人と話しながらそんなふうにする者を今まで見たことがなかったので、ウドはなんだか不思議な気持ちでその光景を目に映していた。
「ウドさん」つと、マルバが紙上から顔を上げる。「これは僕の考えだけど、チコリータさんが帰ってきたこともまた、君の怒りの慰めにならなくてもおかしいことではないです。どんな事情であれ、君からすれば奪われたものを返されただけのことだからね」
 ウドは思わずチコリータのことを見た。その様子を見たマルバもまた、彼女に対してこくりと頷く。
「けれど、今ここに彼女がいる。それは徐々に君の心を癒やしていくはずでもあります。まだまだ時間がかかるだろうけど、十年来の傷なのですから、それ以上かかってもおかしくはない」そして彼は、微笑みのかたちにその目を細めた。「チコリータさんもきっと理解してくれるはずですよ。だから今もこうしてそばにいるのでしょう。ポケモンは心豊かな生き物ですから」
 マルバの言葉に少し笑んだウドは、手を伸ばしてそうっとチコリータのからだを撫で、そこから感じられる、くさタイプ特有の水分をたっぷり含んで少しひやっこい、それでいて触れていると段々とあたたかくなっていく体温を享受した。そうしている内に、ウドは自分の瞼に何か熱いものがせり上がってくる感じを覚えて、何度も目を瞬かせる。その中の一つ、二つがチコリータに落ちて彼女のからだを湿らせたが、ガラス玉の割れる音はしなかった。
「……僕はウドさんが祈っているときの姿が好きです」彼女の睫毛を濡らす涙を拭って、マルバが呟いた。「きっと、僕の知らない君の一面はまだまだたくさんあるのでしょう。でも、だからといってあの姿が君の本質から程遠いものだとも、僕は思わない」
「ワタシの……祈る姿?」
「そう。君の」
 ウドは睫毛を伏せ、おずおずと両手同士を組み合わせた。瞼を閉じると、自分の呼吸だけが聞こえる。閉じた視界の中には、丸い球体が白い光を宿しながら、ゆっくりと左右に揺れ動いていた。祈り。それはこれまでの人生の中で唯一、ただ自分自身として在ることのできる時間だった。こうしている間は、わずかに自由だった。けれども、微かに孤独でもあった。だから、手を繋げたらどれほど良いだろうと思った。祈りの中だけではなく、ただ自分自身として、愛する隣人と──チコリータと──ポケモンと手を繋げたら、どれほど。
「ウドさん、僕に時間をくれないかな」
 祈りが明けると、不意にマルバがそんなことを言った。
「時間?」思いも寄らない言葉に、ウドは驚いた。
「たとえば……昔の話をしたり、当時の感情を言葉にすることで、これから少しずつ、ひとつずつ、君の心にアプローチしていけるといいと思ったんだけど」
「先生は……ワタシのほんとうを知ってもまだ、ワタシと一緒にいてくれるんですか」
「もちろん。はじめからそのつもりですよ」
「あ、……ありがとう、ございます……」マルバの返答の迷いのなさに、ウドは言葉がつっかえて上手く声にならなかった。「でも。……その、先生はどうしてそこまでワタシを気にかけてくださるんですか?」
「それは……」その質問に、マルバはちょっと言葉に迷ったらしかった。「えっと、そうだな。僕が君を気に入っているから、かな」
「気に入ってる?」
「それに、ほら、考えても見てください」彼はペンを置き、片手の人差し指をぴっと立ててみせる。「エニシデシア様は慈悲深い神様のようですから、この地に彼女──タマキさんが遣わされたように、君には僕が遣わされたのかもしれませんよ」
「先生が、エニシデシア様から……」ウドは相手の言葉をゆっくりと反芻した。
「ね。もしそうなら、とても運命的だと思いませんか?」
 マルバはそう言って少しばかり茶目っ気混じりに笑ってみせたが、その瞳の赤は、まるで運命に取り組むような真剣な色を滲ませていた。
「ウドさん」そして彼は、すっとウドの両手を取って呼びかける。「これから先、心が壊れそうになったとき、その予兆を感じたとき、悲しみや虚しさが押し寄せてきたとき、或いは自分で自分が信じられなくなったときは……独りで耐えたり、行動を起こすのではなく、まず僕に相談してほしい。君が間違えそうなときは必ず僕が止めますから」
「……先生……」彼女はこちらの両手をぎゅっと包み込むマルバの、自分より一回り大きい手の甲をじっと見つめ、やがて顔を上げると困ったみたいに微笑んでみせる。「ワタシに、できるでしょうか……」
「少しずつでいいんだ。全部、ゆっくりで」
 その風のない海原よりもずっと穏やかな声音に、目に見えるか見えないかくらいの動きでウドは小さく頷く。けれども、そんな拙い返事でもマルバにとっては申し分ない出来だったらしく、笑みを深めてウドの手をしきりに撫でてやっていた。
「よし。それじゃあ、もう少し眠るとしましょう」それから突然、マルバはこう提案した。
「え? でも、もうすぐ朝……」
「いいから、いいから。ウドさんもたくさん話して疲れたでしょう? こういうときは休むに限りますよ」
「だ、だけど……」
「大丈夫。チコリータさんも僕のバウッツェルも、まだまだ寝坊するつもりみたいですからね」
 そう言うと、彼は或る種の温和な強引さを以て、ウドを寝床の上に横たわらせると、そこに分厚い毛布を掛けては眠るよう促した。彼の言葉通り、チコリータもバウッツェルも起きる気配はなく、ウドはそんな彼らの寝息と、毛布の上からこちらの腹をあやすみたいに叩くマルバの手のぬくもりに触れている内、段々と自分の視界が辺りのすべてと溶け込んでいくような感じを覚えた。そして、今にもくっついてしまいそうな瞼の隙間から見えるマルバの優しい赤に、彼女はふと、
「日の出……」
 と、微睡みの狭間で呟いた。
「うん?」
「先生、日の出が見たいって、さっき……」
「ああ……」マルバは納得した様子だった。「ううん、いいんです」
「いいの?」
「はい。ここから、見ていますから」
 ウドはその言葉を聞くと、安堵の溜め息を吐いてすっかりと瞼を閉じた。鼓動の速度で響くマルバの手のあたたかさに、彼女はもう意識を保っていることはできなかった。
 しかし、ウドは眠りに落ちるその最後の瞬間まで気が付かなかったのだ。ここには窓がないこと。そして、マルバの赤い瞳はずっと、彼女のことだけを見つめていたことに。



20240303 執筆
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